第2話 屋台開き:出すのは「火」と「出汁」です
朝の市場は、腹を殴るような匂いで満ちていた。
焼きたてパンの香りが右から、炙り魚の香りが左から、香辛料の刺激が正面からぶつかってきて、胃袋がまだ朝礼もしていないのにフル稼働を始める。
『……やばいな。鼻だけで腹が減るって、これ拷問じゃないか?』
「いいでしょ、この通り。屋台をやるならこういう場所が一番稼げるの」
俺の背中――いや、正確には背羽の後ろで、フィオが軽い足取りで屋台を押している。
昨日まで俺は油の上で死にかけていた。今日からは商売の一線に立つらしい。
『おいおい……昨日は「揚げごろ残り4秒」とか出てたんだぞ? その翌日に「初日売上のため頑張ろう」とか、展開が早すぎて編集さんでも直すわ』
「早い方がいいの。コウ、期限は七日。今日が初日。ここで数字を稼げなきゃ、伯爵に「柔らかく」されちゃうよ」
『その"柔らかく"って言い方やめてくれない? 何かをオブラートに包んで、でも包んだまま鍋に突っ込むみたいな感じがして嫌なんだけど』
「まあ、要するに……」
『うん』
「唐揚げ」
『直球すぎて逆に心がえぐれる!』
俺の心のダメージゲージがじわっと赤く染まった気がする。くちばしの先から、意識せずに弱火がぽっ……と灯った。
「はい着いた。さ、開店準備!」
◇◇◇
フィオが屋台の覆い布をぱさっと外す。
昨日のごちゃっとした屋台とは違い、今朝は妙に整っていた。調理台は磨かれ、鍋はぴかぴか、スパイス瓶はラベルがそろって並び、妙にやる気を感じさせる。
ただし――台の上の木箱だけは、俺の羽根を逆立たせた。
中には、骨。骨、骨、骨。ぎっしり詰まった鶏ガラ。
『……あの、フィオさん』
「なに?」
『これ、俺の親戚じゃないよな?』
「大丈夫、七面鳥の骨だよ」
『"七面鳥"って単語が全然安心材料にならないんだよ! 親戚の範囲広すぎだろ!』
「でも美味しい出汁が出るの。コウの火力なら、プロ並みの仕上がりになるはず」
フィオは気にせず鍋に水を張り、鶏ガラを投入。俺はその隣で、おそるおそるくちばしを近づけ――「弱火」点火。
ぼふっと柔らかい橙色の炎が、鍋底にそっと寄り添う。
《火力:弱火/鍋底温度:上昇中/灰汁発生予測:3分後》
『おお……昨日は揚げカゴの上で生命の危機だったけど、今日はこうして火加減を支配する側……悪くないな』
「いいでしょ? ガス代ゼロ。エコだし、コウの火なら温度調整が完璧。普通のコンロじゃこんなに微調整できない」
『でも俺が疲れたらアウトだぞ? ブラック屋台の兆しがする』
「大丈夫。ブラック"屋台"にはしない。ちゃんと労基……じゃなくて鳥基法守るから」
『そんな法律あるの!?』
「今作った」
『即興かよ!』
◇◇◇
弱火でじっくり煮込むと、鶏ガラから黄金色の脂がゆっくりと浮いてくる。
湯気は透明で、鶏と野菜の甘い香りが鼻の奥にするっと入ってくる。昨日の油煙とは雲泥の差だ。いや、あれは雲じゃなくて脂煙だったけど。
「そろそろ灰汁取りのタイミング。コウ、火力を78℃キープで」
『78℃って細かすぎない!? 俺の体温計どこにあるんだよ』
《現在火力:適正範囲/灰汁浮上:良好》
『あ、UI板が教えてくれた。便利だけど、俺の感覚がデジタル化されてるのが怖い』
フィオが穴あきスプーンで丁寧に灰汁をすくい取る。泡と一緒に雑味も消えて、透明度が一段上がった。
「これに、ビアンカの硬パンを合わせるよ」
『硬パン?』
「うん。石窯パンの職人さん。もうすぐ来るはず」
そう言った瞬間、通りの向こうから長身の女性が現れた。黒髪をひとまとめにし、前掛けに粉の跡をつけ、手押し車に……レンガ? いや、パンだ。たぶん。
「おはよう、フィオ。約束の硬パンだよ。……それが噂のしゃべる鶏?」
『新入り兼、火力担当のコウです。よろしく……ていうか、そのパン硬そうだな!?』
「三日経っても武器になるよ」
『物騒すぎる説明やめて!?』
ビアンカは笑ってパンをざくざくと切り分ける。切り口からは香ばしい小麦の香りがふわっと広がった。このまま食べたら歯が欠けそうだが、スープに浸せば――間違いなく旨い。
「このパン、実は仕込みが特殊でね。小麦の芯まで火を通すから、スープを吸うとモチモチになるの」
『へぇ、計算されてるんだ』
「商売は準備が八割。フィオから聞いたよ、七日で査察通すんでしょ? 応援するから」
『……ありがとう』
心が少し温かくなった。UI板にも変化が現れる。
《勇気:+5/仲間指数:+10》
◇◇◇
鍋はすでにふつふつと優しい音を立てている。
俺は時々くちばしの火を強めたり弱めたりしながら、温度をキープする。フィオが生姜と長ねぎの白い部分を追加投入。香りが一段深くなった。
《湯温:91℃/香り指数:+25/満腹予感:じわじわ→むくむく》
『香り指数って何だよ……でも確かに、嗅ぐだけで腹が鳴るな』
その匂いに釣られて、一人の客が足を止めた。革鎧の冒険者風。鼻をひくひくさせながら鍋を覗き込む。
「……なんだ、このいい匂い」
「今日の特製! 「チキンブロス硬パンスープ」です!」
フィオがすかさず声を張る。
「熱々のスープに硬パンをひたして召し上がれ! 噛めば噛むほど甘いパン、鶏と野菜の旨味がしみて……」
「じゃあ、一杯」
『よし、初客だ!』
俺は緊張で羽根を逆立てながら、火力を微調整。フィオが慣れた手つきで器にスープを注ぎ、パンを沈める。
湯気がふわっと立ち上り、香りが辺りを包み込む。
「鶏の出汁って、こんなに澄んでるもんか?」
『俺の……じゃなくて、七面鶏の仲間の骨を丁寧に煮込んだからね』
「しゃべった!」
客が驚く。周囲の注目も一気に集まった。
『あ、えーっと……どうも、火力担当です』
「すげぇ、本当にしゃべる鶏だ!」
野次馬がどんどん集まってくる。フィオが営業スマイルで応戦。
「コウは料理専門です。食材じゃありません!」
『そこ強調!』
◇◇◇
初客は恐る恐るスプーンを口に運び――そして目を見開いた。
「……うまっ! パンが柔らかくなると同時に、スープの旨味が……!」
パンがスープを吸って、もちもちした食感に変わる。鶏の旨味と野菜の甘み、生姜のピリッとした刺激が三位一体になって口の中に広がる。
《満腹度:+30/勇気:+5/再注文意欲:+20》
『おお、良い数値きたな』
「これ、マジで旨いぞ! おかわり!」
その声に釣られて、周囲の通行人が次々と立ち止まる。行列がじわじわと伸び始めた。
「俺も一杯!」
「私も!」
『うおー、いきなり行列だ! フィオ、追いつく!?』
「任せて! コウ、火力そのままで!」
俺とフィオの連携が始まった。俺が火加減をキープしている間に、フィオがスープを注ぎ、パンを配り、代金を受け取る。
まさに屋台の黄金時間。客と売り手の間に生まれる、あの独特の熱気。
◇◇◇
昼を過ぎた頃には、鍋が三回転。
俺の火力とフィオの手際、ビアンカのパンで、屋台は小さな騒ぎになっていた。
「フィオ! 追加の硬パン持ってきたよ!」
「助かる!」
パンを運びながらビアンカが笑う。客の一人が、スープをすすりながら俺をじっと見た。
「なあ、その鶏……売り物か?」
『在庫ゼロ(俺)! そして非売品!』
「ははっ、面白いやつだな!」
屋台に笑いが起き、UI板に初日の数字が出た。
《初日売上:15コッパー/評価:「まあまあ↑」/好感度:街の人々+15》
『"まあまあ"か……でも悪くないな。まだ伸びしろある』
「ここからだよ、コウ。明日はもっと客を呼ぼう」
『おう、任せろ』
その時、小さな影がちょこちょこと足元を走った。雀だ。茶色い羽根にちっちゃな帽子をかぶっている。
「あら、スズじゃない」
『スズ?』
「雀の吟遊詩人よ。街の噂を歌にして広めてくれるの」
スズがぴょんと屋台の端に止まり、澄んだ声で歌い始めた。
♪「鶏が火を吹く屋台では 硬いパンも柔らかに
しゃべる相棒と人間娘 今日も腹を満たしてく〜」
『即興で歌作るのか! しかも韻踏んでる!』
「これで明日はもっとお客さんが来るよ」
スズがちゅんちゅんと鳴いて飛び立っていく。
《評判:街中に拡散開始/明日の集客予想:+30%》
『宣伝効果まで数値化されてる……便利だな』
◇◇◇
日暮れ、片付けを始めたその時だった。
背中に冷たい視線が刺さる。
「……屋台営業、君たちか」
低く響く声。振り向くと、濃紺の制服に銀のバッジをつけた男が立っていた。背筋の通ったその姿――料理ギルドの査察官、ボルド。
四角い顎、鋭い目つき、手帳を持つ手に一切の無駄がない。規約の化身のような男だった。
「ギルド規約に基づき、七日間の営業審査を開始する」
『きたか……』
ボルドが手帳をぱらりとめくる。
「営業許可は仮のもの。七日間で以下の条件をクリアせよ。一、安定した売上。二、客からの好評価。三、食材の適切な管理。四、相棒関係の実証」
《審査開始:残り6日/達成率:2%→5%/緊張度:+25》
数字の重みがずしんと胸にのしかかる。
しかし、ボルドの目が一瞬鍋を見た。かすかに鼻が動く。
「……鶏のブロスか。香りは悪くない」
『え?』
「明日も見に来る。料理人としての腕、見せてもらおう」
そう言い残して、ボルドは夕闇の中に歩き去った。
俺とフィオは顔を見合わせ、無言でうなずいた。
『……あいつ、思ったより話が通じそうだな』
「料理人の魂は共通よ。きっと分かってくれる」
『そうだな。今日は良いスタートが切れた』
《相棒契約 仮登録 達成率:5%→8%》
『おお、上がった』
「明日はもっと上げよう。胸肉料理、どう思う?」
『胸肉……パサつきがちだけど、低温でじっくりやれば……』
「そうそう! コウの火力調整なら、絶対美味しくできる!」
俺たちは屋台を片付けながら、明日の作戦を練り始めた。
空にはもう星が瞬いている。そして明日も、腹ペコの客たちが俺たちを待っている。
――本当の勝負は、これからだ。