第1話 揚がる前に言わせろ
じゅわじゅわじゅわ……と、油が歌っていた。
音が熱い。匂いが鋭い。
湯気の粒が顔にあたって、ぱち、と弾けるたびに心臓が縮む。
いや、心臓じゃなくて……胸の中のドキドキ器官(※鶏なので詳しくわからない)が縮む。
『……おい、待て。これは夢だって誰か言ってくれ。いや、無理だろこれ。現実感がやばい。ていうか俺、なんで油面とこんなに距離が近いんだ?』
恐る恐る視線を下ろす。
そこには細い黄色い脚。前に突き出た尖ったくちばし。
視界の端で赤いトサカがぴょこぴょこ揺れる。
『あ、うん。冷静にまとめよう。俺は鶏だ。うん、ここ大事。鳥じゃない、鶏だ。』
さらに周囲を観察。
俺はいま、金属の格子に座らされ、ぐつぐつ踊る黄金色の海の真上にいる。
格子には取っ手。周囲は木の屋台。まな板、包丁、スパイス瓶。
そして俺の前には、箸を握った茶髪の少女。
「油温オッケー。揚げどきだね」
『やめろおおおおおおおおおお!!』
反射で叫んだ瞬間、頭上に薄い光がぱっと開く。半透明の板に文字が走った。
《油温 一七六度 揚げごろまで 残り四秒》
『揚げごろって表現やめない!? もっとこう、命の危機っぽいワードないの!?』
少女の箸が一瞬止まる。
目が大きくなって、俺と空中の板を交互に見た。
「……今、しゃべった?」
『しゃべったぞ! この際声帯がどうなってるかは気にするな! 人語で意思疎通だ! まずは俺を油から遠ざけよう!』
「字幕だ……しかも油温表示つきだ……」
『命のカウントダウンを便利機能みたいに言うな!』
少女はしばらく固まって、それからふっと息を吐き、ゆっくり揚げカゴを台の上に戻した。
俺の羽から力が抜ける。油の歌が一段遠のいた。
「……今日はやめよっか」
『今日は、じゃなくて永遠にやめよう。俺、揚がらない人生を強く希望してる。』
彼女は腰のスパイス瓶をしゃらりと鳴らしながら、まじまじと俺を見た。
栗色の髪はところどころ焦げたように跳ね、頬や鼻先に小麦粉の白い跡がある。
「ひとまず名乗ろうか。私はフィオ。料理ギルドの見習いだよ。君は?」
『俺は……コウで。いや本名はもっと人間っぽいんだけど、今この見た目に似合う短い名前がほしい。コウで。』
「コウね。了解」
『助けてくれてありがとう、フィオ。俺、さっきまで人間だった。ブラック企業で連日徹夜、年末進行の地獄を走り抜け、昼飯に唐揚げ弁当かき込んで、そのままデスクで力尽きて……』
自分で言ってて、嫌な予感がした。
よりによって唐揚げ弁当って……死亡フラグにしても出来すぎだろ。
「……そっか。因果だね」
『やめろその納得の仕方!』
フィオがくすりと笑う。
笑ってる場合じゃない。俺はいま、しゃべる鶏だ。珍奇の極みだ。
そしてこの世界では、珍しいものはだいたい高く売れる――つまり食われる。
「悪い知らせがあるよ、コウ」
『もう十分悪いんだけど!?』
「しゃべる食材は、ギルドの規約で没収対象。期限は七日。建前は安全のためだけど、本音は……まあ、高く売れるからね」
『没収、七日、売られる、唐揚げ……はい、地獄ワードコンプリート!』
空中にまた光の板が開き、冷酷な数字が刻まれる。
《没収期限まで 残り 六日 二十三時間 五十九分 五十秒》
『カウントダウンすんな! 心臓に悪い!』
「回避する方法はひとつだけ」
フィオの目が、きゅっと真剣になる。
「しゃべる食材でも、正式に“人間の相棒”として登録されて、共同で生計を立ててると証明できれば、没収免除。つまり……」
『つまり?』
「コウはうちの屋台の相棒。七日間で、お客さんに喜ばれる料理を出して、ギルドの審問に通れば生き残れる」
『屋台の相棒、鶏。胃が痛くなるワードだな……でも他の選択肢は?』
「没収されて、唐揚げ」
『やります! 全力でやります!』
「よし、交渉成立。握手しよ」
フィオが手を差し出す。
俺はくちばしをそっと彼女の手にあてた。鳥式握手。
その瞬間、空中の板に小さく文字が走る。
《相棒契約 仮登録 達成率 一%》
『一%か……ゼロよりマシだな』
◇◇◇
屋台の後ろは、石畳の路地。昼の市場は人と声であふれていた。
パン屋が焼きたての香りを呼び込み、行商の少年が鈴を鳴らし、冒険者が武器屋で値切り、猫が魚屋を狙っている。
「フィオ、何やら騒がしいな」
現れたのは、肩幅で路地をふさぐような牛獣人の男。立派な角と鼻輪、巨大な荷車を引いている。
「ボンゴ! ちょうどいいとこ。今日からうち、しゃべる鶏を相棒にする」
「しゃべる鶏?」
ボンゴの瞳が俺を映す。
礼儀正しく羽を持ち上げた瞬間、くちばしの先が熱くなり――ぽっ、と火が灯った。
「おお。火ついた」
『あ、驚くと中火になる体質みたいで……』
「便利だな。料理に使える」
「でしょ」
フィオが胸を張った、その時だった。
路地の入口に、白ずくめの男が現れる。白い靴、白いズボン、白い上着、白いネクタイ。粉砂糖をかぶったみたいに真っ白だ。
「香りの良い匂いがすると思ったら、君の屋台だったか、フィオ嬢」
「……伯爵」
白い男――食材ギルドの幹部、カーネル伯爵がゆっくり歩み寄る。
噂では、美しいものと柔らかいものが好き。柔らかい肉も、柔らかい規則も。
「珍しいね。しゃべる鶏。ギルドに没収の手続きをしておこう」
『早すぎだろ!』
「没収は七日後。規約通りに」
「もちろん。私は規約が大好きでね。特に、私の利益になる規約が」
『悪役テンプレすぎて逆に安心するな……いや安心しちゃダメだ』
伯爵の目が俺を射抜く。
洗いたてのナイフみたいな視線。
「臆病な鶏の肉ほど柔らかい。常識だろう?」
『常識が血なまぐさい!』
「君がどれだけ喋ろうと、所詮は食材。七日後には鍋の友だ」
《勇気 減少 仮想値 十》
『数値化すんな!』
フィオが前に出る。腰のスパイス瓶が揺れ、胡椒やクミンの香りがふわりと漂った。
「この子は食材じゃなくて、うちの相棒。七日で証明します」
「好きにするといい。七日後、数字で判断しよう」
伯爵は背を向け、白の背中をひらひらさせながら去っていった。
残されたのは、油より熱い圧と、七日という期限。
俺は深呼吸し、フィオを見た。
『……フィオ。俺、命の恩人のために働くわ。どうせ食材扱いなら、逆に作る側に回って見返してやる』
彼女はにっこり笑い、短く答えた。
「うん。やろう、相棒」
《相棒契約 仮登録 達成率 二%》