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『溢れ出すわたし - Be water』

作者: IYA−I

少しだけ、美容に気をつかい始めた大学2年の夏。

きっかけは、Amazonで買った浄水器でした。


ほんの些細な日常の変化が、少しずつ――彼女を変えていきます。


雨宮澪あまみや・みおは、1Kの間取りの6階建てマンション506号室に住み始めて、ちょうど一年が経った。

先日、Amazonで「HITONATU」という会社の浄水器を見つけ、迷わず注文した。レビュー評価は高く、「取り付け簡単」「水がまろやかになる」といった言葉が並んでいた。しかも送料は無料だった。


届いたその日に、澪は箱を開けて蛇口にカチッと取り付けてみた。

コップに注がれる透明な水。見た目に変化はない。

そっと口をつけると、ひんやりとした感触が舌に広がる。

味は――正直よく分からない。でも、なんとなくいい気がした。


その夜から、澪はその水を飲むようになった。


年配の夫婦が切り盛りする店で、授業帰りに目にした「まかない付き・時給1200円」のビラがきっかけだった。


「はい、お茶」

「あ、ありがとうございます」

湯気の立つ湯呑みを受け取り、一口。

讃岐うどんは今日もコシが強く、澪の大好きなちくわ天が皿に載っている。

「もうすぐ夏休みだね」

夫婦は大学での勉強や試験期間などを気を使ってくれるいい人たちだ。

ずずうずず…ずずずう

本格派の讃岐うどんはやっぱりおいしい。

「その前にテストですけどね……あ、ありがとうございます」

お茶がなくなる度に何度も注いでくれる店主に、そのたびに頭を下げた。


おつかれさまでした。そういって外へ出た。夜風が少し冷たい。

店先の暖簾がはらりと揺れ、街灯の下で淡く光っていた。

近くのコンビニでオレンジジュースを買い、自転車の前カゴに入れて帰路につく。


最近――やけに喉が渇く。


喉の奥が、何かを「もっと」と欲している感覚。

「……ちょっと、贅沢になったのかな」

そう自分に言い聞かせた。



――そう思うことにした。



大学の友達と京橋駅で待ち合わせがある。

みおは、特急に乗るため、プラットフォームの黄色い△印が並ぶ列の最後尾に立っていた。

(寝ぐせ直らないな~)

最近は目覚ましが鳴る前に目が覚めることが増え、家を出る前にはメイクや服選びの余裕ができていた。



「まもなく、3番線に電車がまいります――」

ふいに喉の渇きを覚え、列を離れて自販機へ向かう。

冷えたペットボトルのお茶を買い、手にひんやりとした感触が伝わる。


「まもなくドアが閉まります。ご注意ください」

駆け足で戻り、滑り込むように電車に乗り込む。


プシュー。


京橋駅まではだいたい20分。

澪はバッグから文庫本を取り出し、ページをめくる。

けれどその日は、文字がなかなか頭に入ってこなかった。

それより、喉が――乾く。


少し考えてから、鞄の中を探る。

さっき、買ったお茶を取り出し、キャップを回して


ゴク…ゴク、ゴク……


一気に飲み干してしまう。

「ぷはぁ……」

けれど、喉の渇きは、まるで何も変わらなかった。

喉の奥がまだ乾いている。

身体の奥が、水を欲しがっている――そんな感覚。


はっ……は、っほぉ……は……


呼吸がうまくできない。

頭がぐらりと揺れて、世界が霞む。


「……あの、大丈夫ですか?」


誰かの声が聞こえた気がした。

けれど、身体はもう動かなかった。


バタン。


 


「お客様にお知らせいたします。

現在、車両内で非常ボタンが押されました。

次の駅で停車いたします」


車内放送が、遠くから響いていた。


 


次に目を覚ましたとき、澪は病院のベッドの上にいた。

医者に言われたのは、**「脱水症状ですね」**という言葉だった。


――脱水?


納得がいかなかった。だって、あれだけ飲んだのに。

けれど、医者はやさしく言った。


「水分は摂取してすぐに吸収されるわけじゃないんですよ。特に体調が崩れていると、うまく吸収できないこともありますからね」


そう説明されて、澪もなんとなく「そうなのかも」と思うことにした。


 

それから彼女は、家から水筒を持ち歩くようになった。

中身は、家にある浄水器の水。

大学へ行くときも、バイト先にも、ちょっとした外出にも――いつもその水を携えていた。


気づけば、どこへ行くにも、その水がそばにある生活になっていた。


(……これじゃないと、だめなのかも)


澪は、そう思い始めていた。

けれど、まだ「異変」だとは気づいていなかった。


――いや、もしかしたら。

気づかないふりをしていたのかもしれない。


駅までの10分。

ただ歩くだけで、Tシャツの背中がじっとりと濡れる。


(新陳代謝が良くなったのかも……)


そう思ってみる。

夏だし、これくらいの汗は普通。

自分にそう言い聞かせながら歩く。


でも、日に日に量が増えていく汗に、違和感は募るばかりだった。


授業の前、いつものように友達の隣に座ると


「お風呂上がりみたいだね、澪」


友人の言葉に笑ったが、内心では、笑えなかった。


(これは、汗じゃない)


病院では「多汗症ですね」とあっさり言われ、塗り薬を処方された。

けれど、塗ったそばから薬が流れ落ちるのを見て、澪は何も言えなかった。


それから、澪は誰かと過ごすことが減った。


講義には出る。だが、友達とはひとつ席を空けて座るようになった。

講義が終わると、友達の誘いには乗らず、すぐに帰った。


学食では、隅の席で一人、水だけを飲む。


友達を避けたいわけじゃない。

むしろ、戻りたかった。

ネイルも、おしゃれも、本当はまだ好きだった。


でも――

濡れた自分の身体が、“汚いもの”のように思われるのが、怖かった。


ある晩、澪は台所の引き出しから、ドライバーを取り出した。


そして、蛇口に取り付けられた浄水器に手を伸ばす。


カチッ、カチッ。

止まらない汗が視界を曇らせる。


(これのせいや……)


そう思った。


あの水を飲むようになってから、何かがおかしくなった。

喉が乾いて、汗が止まらなくて、生活が壊れていった。


外に出られなくなったのも、笑えなくなったのも、

あの浄水器の水のせいだ――そう思いたかった。


「……もう、いらん……!」


小さく叫びながら、浄水器を外し、床に叩きつけた。

白いフィルターが転がり、内部の部品がカランと音を立てる。


でも。


でも、すぐに、喉が渇いた。


水筒の底を覗く。空っぽだった。


冷蔵庫の麦茶。だめ。

蛇口の水。だめ。


――もう、遅いのかもしれない。


澪は、流しに崩れ落ちた。


(もう、無理なんや……)


あれしか、身体が受けつけない。


――もう、とっくに気づいていた。



彼女の全身の細胞が、水を求めている。



夏休みに入ってからというもの、澪は、ほとんど外に出ていなかった。


特に予定もない。

バイトにも「体調不良」とだけ連絡し、休み続けている。


詳しいことは、誰にも話していない。

――というより、話せなかった。


スマホには、友人たちからのメッセージが溜まっている。

けれど澪は、それを開こうともしなかった。


通知だけが、画面の中で静かに積もっていく。


家の中は、ずっと静かだった。


エアコンの風がカーテンを揺らし、

冷蔵庫のモーターが小さく唸っている。


その隙間に、自分の呼吸が重なっていた。


そして、ある夜。


湿った手で握ったゲームのコントローラーが、少し滑った。


八月の夜。冷房の効いた部屋の中。

澪はその日、一日中ゲームをして過ごしていた。


オンラインで、世界中のプレイヤーと協力してモンスターを倒す――

そんなゲームだけれど、澪が一番好きなのは“着せ替え”機能だった。


メイクもネイルも、思いのまま。

現実ではできなくなったおしゃれを、ゲームの中でだけ楽しんでいた。


(……そろそろ、生活費のこと考えないと)


そんなことをぼんやり思いながら、電源を落とし、ベッドに横たわる。


そのまま、浅い眠りへと落ちていった。


夢とも現実ともつかない感覚のなかで、澪はうなされていた。


身体のどこかが、じくじくと疼いている。

熱ではない。むしろ、ひんやりとした冷たさがあった。


皮膚の内側から押し広げられるような、不快な刺激。

その奥から、微かな痛みが滲み出す。


――チク、チクチクチク……


まるで無数の画びょうが刺さっているような、浅く、鋭い痛み。

でも、それがどこから来ているのか、わからなかった。


目が覚めると、枕はびしょ濡れになっていた。


首筋から肩、背中にかけて、冷たい液体が流れている。


澪は毛布を蹴飛ばし、跳ね起きた。


「……なに、これ……?」


額に、胸に、腕に――何かがにじみ出ている。

冷房もちゃんとつけていたのに。

あの水も、ちゃんと飲んでいたのに。


タオルで拭いても、すぐに肌の奥から滲み出してくる。

皮膚が開いて、“自分の一部”が流れ出しているような感覚だった。


そのとき――あの、喉の渇きが、また襲ってきた。


澪は台所へ駆け込む。

蛇口をひねり、コップも使わず、そのまま水を飲む。


ごくごく、ごくごく……

水が喉を通るたび、ようやく身体が落ち着いていく。


床に座り込むと、濡れたTシャツの裾から水がぽたぽたと滴っていた。


昨日はやばかった。

澪は、X(旧Twitter)を眺めながら、ふと目を留めた投稿があった。


「彼女と、梅雨が明けたらプールに行こうって話してた。でも、八月に入った頃から、彼女の姿が見えなくなった。

連絡もつかない。……でも、信じてもらえないかもしれないけど――

梅雨の時期になると、彼女によく似た“何か”を見かけるんだ。未練があるみたい。笑ってくれ。」


リプライには「わかる」「元気だソ」などの軽い反応が並んでいた。


けれど澪の目は、投稿に添えられた写真の隅に映った浄水器に釘付けになった。


――自分と、同じものだった。


投稿者の過去のツイートをさかのぼる。

体調不良。異常な発汗。喉の渇き。……すべて、自分と同じ症状。


そして、その投稿は7月26日で途絶えていた。

ちょうど、今年の“梅雨明け”と同じ日。


澪は、静かに思った。


――私も、彼女のように、消えてしまう。


その夜――


澪の身体は、ぬるい水に溶けていくような感覚に包まれていた。


ふいに、鋭い痛みが走る。


「……っ!」


声を出そうとしても、喉が動かない。


ごぼっ、ごぼっ、ごぼぼ……

空気を吸おうとするたびに、のどの奥で水音が鳴った。

息ができない。喉が塞がり、胸が苦しい。


自分の身体の内側から、何かがあふれ出している。

透明な“それ”が、皮膚の隙間から、静かに漏れ出していく。


(……死んじゃうのかな)


そんな言葉が、ぼんやりと浮かんだ。


けれどそのまま、意識はすっと遠のいて――

澪は、静かに眠りへと沈んでいった。


夢を見た。

あるいは、夢のような感覚だった。


そこには、痛みも、渇きもなかった。

不快さも、怖さもなかった。


ただ、やわらかく、包み込まれるような静けさがあった。


目を覚ましたとき――


自分の手が、水のように透けていることに気づいた。


けれど澪は、叫ばなかった。

慌ても、しなかった。


――刺すような痛みも、苦しいほどの渇きも、もうどこにもなかった。



人間という“かたち”を失った自分を


澪は、すでに受け入れていた。


そして――澪は、“水”になった。


これまで我慢してきたこと。

やらなかったこと。やれなかったこと。


――全部、やってみよう。


着たかった服。

「似合わない」と諦めた服。

その全部を、今日は着倒してやる。


部屋の鏡の前で、次々と形や色を変える。

青いワンピース。真っ赤なスカート。透き通った水色のシャツ。

生地の感触も、重さも、全部自分で作り出せる。


「他には……なにをしようかな」

思わず笑みがこぼれる。


だって――もうお腹は空かない。

眠気もこない。

前髪を切りすぎても、すぐ元に戻せる。

寝ぐせだって、気にする必要はない。


だから、人よりもずっと――時間がある。


窓の外では、夏の終わりを告げる雨が降り始めていた。

澪は傘を取らず、外へ一歩踏み出す。

雨粒が身体に溶け込み、街灯の光にきらめく。


“水”になったこの身体で、

私らしく、生きてみよう。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。


少しでも心に残るものがあったなら、とても嬉しいです。


もしよろしければ、感想や評価をいただけますと、今後の作品作りの大きな励みになります。


他にも、『cut&delete』という短編ホラーも公開しています。

もしご興味があれば、そちらも覗いていただけたら幸いです。

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