愛のかたち
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伯爵令嬢マリアンヌ・フェローは困惑していた。
一度目の人生では、夫の情婦を名乗る女に階段から突き落とされて死んだ。
階段の踊り場から見下ろす不吉なほど真っ赤な髪の女が、大きい腹を抱えて笑っていた。
愛し、愛された結婚のはずだった。その日の朝も頬にキスをして彼を見送ったのに。
夫が自分を裏切っていたことが信じられなかった。
わけがわからないまま17歳の冬に戻った二度目の人生。
また同じ人に恋をして、今度は彼に近づく女を全て遠ざけた。
前世で情婦だった下町の酒場女は探しだして早いうちに娼館に売りつけた。彼が裏切らないよう自由になるお金は渡さないかわりに、恩を着せやすい彼の家への支援を厚くしたのに、今度は彼の母親に毒を盛られた。
「爵位を笠に着て忌々しい。結婚までしてやったのだから後は自由でしょう、これでやっとあの子は愛する人と結ばれる」と言って。
彼が他の女と会う暇などなかったはずで、自分は確かに彼から求婚されて結婚したのに。
また17歳の冬に戻った、三度目の人生。
滑らかなシルクのネグリジェのまま、その夜は分厚い絨毯が敷かれた廊下を裸足で歩き続けた。
求婚されたのは私で、政略でもなく愛し、愛される幸せな結婚のはずだった。結婚後も伯爵家に婿入りした彼を父や母も可愛がり、まだ小さな弟とも仲良くやっていたはずだ。
それなのに、なぜか私は殺されてしまう。
彼はいったい私の何が不満なのか。誰を愛していると言うのか。なぜ何度も同じ人生を繰り返すのか。なぜ彼と出会う前の年に戻るのか。
考えても、考えても、わからないまま春が来て、王城でひらかれる夜会で彼と私は出会い、また恋に落ちる。
柔らかな金髪、少し日焼けした肌、夜空のような群青の瞳に星がまたたくように光が踊る。笑うと目元にかすかに寄る皺が愛しくて、低いビロードのような声が美しいヨハン。
豊かなブルネットの髪、滑らかな白い肌に菫色の瞳の私の手をとって、愛を囁く彼の情熱は簡単に私の心を溶かしてしまう。
二度目を繰り返さないよう、今回も女性を遠ざけ、義母に侮られないよう今度は彼の家への支援も特にはしない。真っ赤な髪の女は使用人にも一人も置かなかった。
それでもまた、私は殺される。
侍女として仕えてくれていた翡翠色の瞳の女に「彼を自由にして」と囁かれながら、枕を顔に押し付けられて。
◇◇◇
息絶える最期の瞬間まで、私はヨハンに愛されていると信じていた。
愛されていると思えるような、甘くあたたかい思い出しかなかったから。
それでもさすがに四度目にはだいぶ慎重になって、彼の身辺や家のことなどをよく調べてもらう。お父様の調査では足りないことがわかっているので、今回はお母様の伝手も頼って。
彼の住む子爵家の領地経営にも問題はなく、三男の彼が不遇という話も聞かない。家族関係も良好で、学院での様子にも特段おかしな話は出てこないけれど、彼には幼少期を子爵家で共に過ごした仲の良い幼馴染のレナという少女がいると言う。
母方の従兄弟の娘で、昔から身体が弱く、私たちの結婚式にはどの人生でも欠席していた。
以前の人生ではたしかあと数年のうちに亡くなったはずだ。
彼と幼い頃から仲が良く、子爵の持つ男爵位を二人で継いでも良いという話があったという。けれど彼女は治療の難しい病気にかかり、婚約の話もたち消えた。彼女の家は、高額な治療費を出せるほど裕福でない。三男の彼や、彼の母に割り振られる私費だけでは足りず、親族だからというだけで出せる子爵家の予算には限度があっただろう。二度目の人生で彼の家にしたはずの支援は、彼女の治療費に充てられたのではないかと思い当たった。
つまり、
一度目の人生では夫として割り当てられた予算だけでは治療が間に合わず幼馴染みの彼女は亡くなって、私を突き落とした酒場の女中を愛し
二度目の人生では夫の予算と、彼の家へ支援をしたために彼女の治療費は得られたが、愛人を許さない私が邪魔になり
三度目の人生ではまた彼女が亡くなって、外の女性と知り合う機会もなかったので侍女に手を出した
では、私が愛されていると思った全ては何だったのだろう?
母から受け取った調書を手元に置いたまま、私は呆然としていた。
熱心な口説き文句、細やかな気づかい、贈り物の数々、何度も送られた恋文、婚約中も結婚してからも、どの人生でも私はヨハンに不満などなかった。私と出会ってから幼馴染と過ごす時間はなかったはずで、彼女が亡くなった時でさえ、彼は嘆き悲しむ様子など見せなかったし、普段と変わりなく過ごしていたはずだ。そうでなければきっと私は気付いたから。
その全てが、彼女の治療費のための演技だったのか、それとも彼女を失って真実の愛とやらに気付いたのか。
何度人生を繰り返そうとも、彼の心の中まではわからないからと自分に言い聞かせて、彼の愛を信じていた。彼の愛だけは信じたかった。私を傷つけるのは、いつも彼自身ではなく、彼の周りにいた人々だったから。
彼の口から直接何かを聞いたこともなければ、死因以外に彼の愛を疑う出来事があったわけでもない。いつから情婦がいたのか、本当にお腹の子は彼の子なのか、義母の希望ではなく彼自身が幼馴染みと愛し合っていたのか、なぜ私を選んだのか、ほんの少しも私に気持ちはなかったのか。私は私に起きたこと以外なにも知らなかった。
けれど、調書の最後に、レナという少女の髪が燃えるダリアの花のように赤く、瞳は翡翠に似た淡いグリーンであると書かれているのを見て、ストンと納得してしまった。亡くなった彼女の面影を追ってしまうほど、彼は幼馴染みの彼女を愛していたのだと。
二人で出かけた美術館や避暑地の思い出、お互いに贈り合った瞳の色の宝飾品。社交だけでなく、領地の視察も熱心で、小さな村の収穫祭で二人して住民と一緒に踊ったこともある。私たちが継ぐ領地だからと、たくさん調べ物をしていくつも有用な献策をしてくれていた。楽しいと笑った全てが嘘だったとは思えない。
それでも、彼にとって私との結婚は期待外れだっただろうと思えば、涙が流れた。
いずれ伯爵家当主になる私とちがって、彼の予算は元々それほど多くなかった。子爵家の三男に与えられる予算とは比べるべくもないが、二度目の人生以降は特に、彼の自由になるお金を極力減らそうと最低限にしていたのだから。
自分に割り当てられた予算を見て、ヨハンは絶望しただろうか。
私にお金の無心などしたことはなかったけれど、宝飾品の贈り物は特に喜んでいた記憶があった。それに結婚して落ち着いた頃にはもう治療は間に合わなかったのかもしれない。
病気の幼馴染みの彼女を愛し、身売りのような結婚をしたのだとすれば、なんと献身的な愛だろう。見ず知らずの人の話ならば、いまマリアンヌの頬を流れる涙も、感動の涙であったかもしれない。きっと誰もが彼の愛を美談だと言うだろう。
けれど、自分が愛をこめた贈り物も換金されたのかもしれないと思えば馬鹿馬鹿しくなって、いっそ今から彼を呼び出して問いただそうかと思った時。ふと、友人の顔が浮かんだ。
13歳から3年間を過ごした学院では仲良くしていたけれど、卒業してからは伯爵家の私などが友人面をして話しかけるのもおこがましい高貴な家の、変わり者。
今回の人生ではたった数年前のことだけれど、人生を繰り返す私にとっては何十年も前のことに思える。
変わり者のアーノルドは絵を描くのが好きな人だった。
それも愛人にした青年ばかりを好んで描く。気に入ったモデルがいれば、身体の隅々どころか、魂まで貪りつくすように愛して、そして自分が満足すれば望むだけ褒美をやって捨ててしまう。それなのに出来上がる作品はどうしてか欲を削ぎ落とした静謐な美しさがあって、私も在学中にモデルになりたいと零した使用人の青年を紹介したことがある。
アーノルドに気に入られさえすれば、大抵の望むものは得られるはずだ。金銭だけでなく、出世のための後ろ盾としても我が家より数段立派で、あまり無茶な要求でなければ誰かを排除することさえ簡単に出来てしまう。
私を愛するふりをして結婚するよりも手早く確実に幼馴染の治療費が得られると知ったら、そしてその幼馴染や実の家族などよりもずっと強烈に、溺れるほどの愛を与えてくれる相手がいると知ったら、ヨハンは、あの変わり者に何を望むだろう?
ただの思いつきのはずがだんだん面白くなってきて、アーノルドに手紙を送り、ヨハンを誘ってアトリエに行く日程を決めた。
◇◇◇
色とりどりの布に、乾き始めた油のにおい。夕陽が差し込むアトリエで、かけられていた布を上げれば、池の畔で微睡む半裸の天使や、果物を手にしたアダムがあらわれる。
あれで公爵家の方ですもの、モデルたちは望めば望むだけ全てが与えられるのよと雑談まじりに笑うと、彼はわずかにだが目をみはり、先ほどよりも真剣に絵を眺めはじめた。
高位貴族と下位貴族では学舎さえ違うから、きっと彼は私たちの噂すら耳にしたこともないだろう。
変わり者が彼にワインを勧めているのを見て満足する。彼は気に入ったモデル候補にはワインを、気に入らなければ紅茶を出すのだ。頻繁にヨハンの肩や髪に伸ばされる手に気付かないふりをして、私はゆっくりとアトリエをまわる。
もっとモデルたちの体があらわな絵は奥の部屋にしまわれているのだろう、同性同士で関係を持つことも珍しくないこととはいえ、ここにあるのはモデル候補者たちが「このくらいなら」と油断してしまうような罠ばかり。
季節の花々に埋もれて頬を染める青年、高価な宝石が散りばめられた絵は異国の技法を真似てわざわざ職人を雇って絵の上に象嵌したと聞いた。
ヨハンの夜空のような瞳がどう描かれるのか想像して、彼がモデルを断るなどと微塵も思っていない自分に苦笑いする。
情熱的な愛情だと感じた彼の言動の全てを、私はもう信じることが出来ない。それを信じていた自分には戻れないのだ。
もし、初めて出会ったあの夜会で彼を無視していたら、彼は他の誰を選んで愛を囁いただろう。
お母様の調査を見てからというもの、私たちは未だ婚約者候補の友人に留まっている。
「いまの君なら、少し描いてみたいね」
ワイン片手に窓辺に立つ私の隣にやってきた、ご機嫌な変わり者の公爵家の跡取りに、微笑みかえす。
「まぁ、あんなに女は恐ろしいと仰っていましたのに」
「その通り。君たちはいつでも一等気に入っている男を平気で私に差し出すからね」
「共に在りたいと願うのも愛なら、美しいものを美しく留めておきたいと思うのもまた、愛の一つではありませんこと?」
「違いない。男は夫になると途端に平凡になるからね。ところで君、僕にお願いがあるんじゃないのかい」
「お見通しですのね」
「長い付き合いだもの。彼を紹介してくれたの忘れてないよ。それで?」
かつて私の使用人をしていた青年は彼に何を望んだのだろう。懐かしい横顔は、キャンバスの中で鮮やかなコバルトブルーで彩られている。
「・・・私、愛し愛される結婚がしたいと思っておりますの」
「彼を気に入っているのに?」
「赤い髪に翡翠色の瞳をしたお姫さまにお気をつけあそばせ」
ふうん、と不敵に笑う変わり者は恋敵の存在にすっかり火がついた顔をしている。
「釣り書きを送るように声をかけとくよ」
変わり者が継ぐ公爵家と違い、我が伯爵家の寄親である侯爵家はどちらかと言えば新興の貴族家だが、派閥としては遠くない。伝統ある家との婚姻は父の役にも立つだろう。
「そろそろ新しい血が入っても良い頃合いだと思っていたんだ」
貴公子の顔を、器用に高位貴族のそれに変えて変わり者は笑う。
愛しい彼を婿に迎えることばかり考えていたけれど、年は離れているが弟もいるので私が嫁に行っても問題はない。
「楽しみにしております」
熱心にアトリエに飾られた絵を観察するヨハンの背中を見つめながら、私たちは微笑んだ。
◇◇◇
その後のことは、実はよく知らないままだ。
ヨハンは無事にアーノルド様の愛人の座を射止めたようだが、恋人たちの蜜月期を覗き見るほど悪趣味なことはしなかった。
ただ、ヨハンの父である子爵が最近夜会に伴うのはもっぱら夫人ではなく真っ赤な髪の若い愛人だと聞く。治療費は無事に支払えたようだし、私に毒を盛った夫人への同情は持ち合わせていないが、落ち着くところに落ち着いたと言うべきかは少し悩むところだ。
私は私で、すぐに送られてきた釣書の方々と顔合わせをして、半年もしないうちにそのうちの一人と婚約式をして、何事もなかったかのように18歳になった。そしてその1年後には貿易港を持つ南の侯爵家嫡男のルバート様のもとへ嫁いでいる。
すっかり婿をとる気でいたため、嫁入り道具が全てそろったのはなんと出発の朝。連日、徹夜で刺繍を入れていた見送りの女性陣はみんなふらふらと体が揺れていた。有り体に言ってしまえば、ヨハンのことを気にしている暇などなかったのだ。
あれから、時が戻ることはもうない。
春の夜会で出会うたび、恋に落ちた。
何度人生を繰り返しても、彼の愛がどこにあるのか知った今でさえ、17歳の私には彼を愛さないという選択肢はなかった。
私の夫となった侯爵家嫡男ルバート様は、言葉の選び方が柔らかい温厚な人柄で、過去の恋人たちはもちろん、例え他に愛人がいたとしても一切私に気付かせない程度の余裕と誠実さを持った大人の男性だ。
私の容姿の美しさを讃えるばかりではなく、南の地に馴染もうとする努力を認めて支え、将来の侯爵夫人に相応しくあろうとする勤勉さを愛してくれている。
ルバート様の侯爵家が治める領地の夫人たちを集めた茶会での情報収集はもちろん、身寄りの無い子どもたちを保護し教育を与える施策、女たちという古くて新しい働き手の「発見」は、夫にまるで視野が倍になった気分だと大層喜ばれていた。
私は確かに彼を愛していたし、今は夫を心から愛している。
ヨハンの愛を献身と言うのなら、
変わり者のアーノルド様の愛は、相手を焼き尽くす業火であり
ルバート様の愛は、尊敬を礎にした堅牢な塔
そして私の愛は、盲信することでも、制限することでも、支配することでもなく、
人生の選択肢を増やし、共に新しい道を切り開いていく愛でありたいと願っている。