誘拐・監禁されましたが、どうやら愛されているようです。
「アイビー。目を開けて」
やわらかな声で、意識が浮上していく。
いつの間に、寝ていたのだろうか。意識を失う寸前、自分が何をしていたのか分からない。
アイビー。もう一度優しい声が聞こえて、彼女はそっとその両目を開いた。
「おはよう」
少女・アイビーが目を覚ましたことに、少年の顔は喜びで彩られる。
ああ、そうだ。とアイビーは全てを思い出した。
「いやあああ!! やめて、離してっ!! 誰か、誰か誰か誰か、助け……ッ」
「痛いじゃないか、アイビー」
にこり、と笑みを深くした少年に、アイビーはびくりと身を震わせる。
彼は、アイビーの幼なじみ。名を、ジークと言う。
その少年・ジークに、アイビーは今、監禁されていた。
「大丈夫、落ち着いて。ここには、俺しかいないから」
なぐさめるようにするりと頭を撫でる手が、少し震えているのは気のせいだろうか。
呆然と見上げるアイビーに、目があったジークは困ったように目を細める。
「お腹はすいてない? あたたかい飲み物がよければ、君の好きな甘いミルクをいれよう」
「……、どうし、て……?」
「ん? 大丈夫だよ。ここには君を傷付ける怖いものはない。安心して」
繰り返される優しい言葉に、だんだんと落ち着いてくる。
目に入るもの全てを敵だと思い込んでいたが、そういえばこの幼なじみはいつだってアイビーの味方だった。
するり、と肩にかけていた布がずれ、寝転んでいたベッドの上に落ちる。ふと見下ろした視界に入ったのは、繊細な模様が織り込まれたレース生地の、薄いナイトドレスであった。
「きゃ……!」
慌てて全身を隠すように、そばにあったシーツをかき抱く。
「……や、やだ。なに、この服……!」
「俺が選んだんだよ? よく似合ってる」
シーツ越しに抱きしめられ、アイビーの両肩が跳ねた。その仕草さえ愛おしい、と全身であらわにするジークが、腕の力を強くする。
「ここは、アイビーと暮らすために購入した屋敷なんだ。家の者は誰も知らない。影はマリーンに頼んでいる。だから、ここには本当に二人っきり」
「……なんで?」
「小さい頃。約束したでしょう。結婚しようって」
ぶわり、と涙があふれた。今は遠い昔の、なんでもないような日常の中でした、ささやかな約束。
そんなことを、彼はまだ覚えていて。そして今、それを実行しようとアイビーをここに閉じ込めているのか。
「……いやよ。だって、あなたには正式な婚約者がいるじゃない」
「全てを捨てて、ここに来たんだ。君と生きるために」
「どうして……私に、あなたの未来を奪う価値なんてない」
「そんなこと言わないで、アイビー。俺は君しかいらない。君がいない世界にこそ、価値なんてないさ」
君が好きなんだ、アイビー。
抱きしめられたまま、震える全身で絞り出すように言われた愛。
ガツン、と頭を殴られたような気がした。
「……ひどいわ」
熱い涙が、頬を滑る。
苦笑を浮かべながらジークが、その雫を指でぬぐった。そのまま流れる髪を少しすくい、優しく口付ける。
「私の気持ちを、知っているくせに。断れないことを、分かっているくせに」
「ごめんね、アイビー」
「ひどいわ、ジーク……」
くしゃり、と嬉しいような悲しいような、複雑な笑みをジークが浮かべていた。きっとアイビー自身も、同じような顔をしているだろう。
「愛してる。アイビー」
「……私も。あなたを、愛しています。ジーク」
「結婚しよう」
引き寄せる手は優しいのに、閉じ込められた腕はぎゅうぎゅうと痛いくらいに締め付ける。
愛という名の優しい檻だと、アイビーは思った。
男は地に崩れ、泣き叫んでいた。
この日は男が目星をつけていた商品が、屋敷に届く日のはずであった。しかし待てど暮らせど馬車は来ず、しびれを切らし下人を出せば、村の手前の街道で壊れた馬車の一部を見つけたという。
最悪、馬車はどうでも良い。その荷台に乗せていた、商品さえ無事であれば。
急ぎ報告のあった場所へ向かえば、火が見えた。
轟々とあがる火元には大きな車輪があり、見覚えのあるそれは、なるほど確かに“壊れた馬車の一部”だ。ならば、商品は?
苦労して手に入れたのだ。地域一と言われた娼婦が生んだ赤ん坊。王都郊外に住む艶やかな髪の少女。熟れた肉体と輝く瞳が蠱惑的な人妻。没落した貴族の無垢な娘。
金を払った。チャンスとあらば、拐った。
せっかく手に入れた、美しい女達。男の新しい花嫁にするつもりだった。
「……探せ……探せ探せ、探せぇっ! 全員、ワシの女だッ!」
涙に暮れる男の周囲に、突如火柱があがる。
「ッギャあああァァア!!!!!」
転がる男の体を、激しい炎が焦がす。まるで生きているかのような火炎は皮膚を焼き、喉を焼き、肺を焼いた。くらり、と意識が霞む。
「……ギオルム・フィクス。地方の領地持ちとはいえ、よくここまでの悪事を隠し通せてきたな。人身売買に、誘拐、詐欺。殺人こそ未だ犯してはいないが、それも時間の問題だったか……」
暗く狭まる世界の隅に、男の鋭利な声が響いた。凍てつくような、冷たい声だった。
「見目麗しい女性達を買い漁り、時には拐い。自分の妻として侍らせる。飽きれば闇や国外に売りさばき、その金でまた新しい女性達を買う。最低だな」
「……主様」
「……死んだか」
物言わぬ物体になった男に、あらわれた2つの影が寄る。主と呼ばれた男が右手をふると一瞬で火が消え、もう1人が小さく鎮魂歌を口ずさんだ。
ふわりと浮いたギオルムだった物が、未だ燃える馬車の一部へと消えていく。
「……ウィンター家から、あの子を拐ってくれたことだけは礼を言う」
おもむろにあげた左手の、人差し指の印に口付ける。
「帰るか。俺達の家に。アイビーが待ってる」
「はい」
男の言葉に、従僕が頷く。2人のまわりを熱風が囲み、陽炎のような幻影が姿をかき消した。