ハムスターくん
舞踏会の開始の挨拶や最初のダンスは、もう床をひたすら見つめ続けた。
だって顔を挙げたらそこには、アレクサンデル王太子がいるのだろうから。
瞳の色は、仮面では誤魔化せない。
そして紫の瞳は珍しいのだから、気を付けないと。
ということで王太子が視界に入りそうなイベントは、床を見てやり過ごす。ダンスがスタートすると、早速さっき見つけた中肉中背くんに声をかけようと、移動を開始した。
「あ、あの、ご令嬢!」
いきなり声をかけられ、振り返ると。
誰もいない。
気のせいかと立ち去ろうとすると「お待ちください」と言われた。再度振り返り、視線を下に落とすことで、声の主の姿が見えた。
焦げ茶色の髪をオールバックにした、少し小太りな20代と思われる男性が、額と鼻の下に汗をかきながら、私を見ていた。なんだか食べ過ぎたハムスターみたいに見える。
「はい、何でしょうか」
「よろしければ、ぼ、ぼくとダンスをしませんか」
これには非常に困ってしまう。
誘われたダンス。
応じたい気持ちはあるが、いかんせん、身長差がありすぎる。
チェルシーは女性にしては高身長なのだ。
対してハムスターくんはチェルシーと30センチぐらいの差がある。
これではダンスがしづらい。
「……申し訳ございません。私、ダンスはあまり得意ではなく……。ダンス目的ではここに来ていませんので」
「そ、そうでしたか。で、では、飲み物でも片手に、お、お話などいかがでしょうか」
既成事実婚狙いでこの場に来たわけだが。
舞踏会の序盤でホールから姿を消すのは、得策ではない。
それはどうしても目立つ。
男女二人が隠れるように、ホールから姿を消すのは、舞踏会の中盤。
これは知識としてちゃんと覚えていた。
よって序盤の今。
ハムスターくんとおしゃべりしても構わないが……。
チラリと中肉中背くんの方を見ると、彼は何人かの令嬢に囲まれていた。
その令嬢の中には、かなり大胆なデザインのドレスを着ている子もいる。既成事実婚狙いなのかなと、思ってしまう。
ひとまず今、中肉中背くんのところへ割って入ると、反感を買いそうだ。
「あちらにいる男性に用事があるので、短い時間でよければ」
「あ、ありがとうございます!」
ハムスターくんと話しているうちに、中肉中背くんを囲む令嬢達がいなくなっていることを願い、飲み物を取りに向かう。
「あ、あの、ぼ、ぼくはティーシュー男爵と申します」
ティーシュー男爵。
男爵家の中ではかなり有名で、歴史はある。
だがそれだけなのだ。
家柄は悪くないが、財力はなく、縁談は二回失敗したと、噂で聞いたことがある。
縁談に関する情報は多分、私がこの王都で一番持っていると思う。何せ二十五回の経験者。もはや縁談の情報通だ。
「あ、あなたのお名前を教えていただいても?」
なんとなく、本名を名乗りたくない気分になっていた。
舞踏会では紋章が入ったアイテムで、相手の名前を推測する。
でも今回私は、紋章の入ったハンカチを持っているが、それ以外は紋章がない。
既成事実婚に至った相手には、紋章入りのハンカチを見せるつもりだが、そうではない相手なら……。
「私はチェリーと申します」
舞踏会で偽名が使われることは、珍しいことではない。
「チェリー様! なんだか可愛らしいお名前ですね」
その瞬間。
「あ、この人はダメだ」と思ってしまう。
今、ハムスターくんの目は、物欲しげに私の胸を見ていた。
どんなにださいドレスを着ても、体のラインは出てしまう。
チェルシーの胸はドレス映えする大きさなので……。
ハムスターくんは、既成事実婚狙いだ。
アイマスクや仮面をつけていないので油断したが、それを狙っているとしたら、厄介。
私としてはハムスターくんより、中肉中背くんと話したいのだから。
「……それはどうも」
先ほどより声が硬くなってしまう。
ハムスターくんは私の声の強張りにも、偽名にも気づかず、そのまま私に手を差し出してくれる。でも「エスコートは大丈夫です」とお断りした。
早々に切り上げよう。
変に気を持たせるとよくない。
「あ、チェリー様、お酒は飲めますか?」
「飲める年齢ですが、お酒を飲むつもりはありません」
というか。冷静に考えると、私は仮面をつけている。
フルフェイス。
飲み物を飲むには、仮面をはずす必要がある。
だがハムスターくんの前で、仮面をはずすつもりはない。
「ではこちらの炭酸水を」
「いえ、仮面をつけていますから、結構です」
「あ……」
今気が付きました!という少し間の抜けた顔をしている。
私も鈍いが、ハムスターくんも鈍い。
なんだか警戒したが、無害なのかもしれない。
ハムスターくんは、自身が飲む赤ワインの入ったグラスを手に、テラスの方へ歩いて行く。