まさかそんなわけあるまい
顔料の木箱を持つルイズと、工房を出て歩き出す。
水路に陽射しが反射し、水面がキラキラ輝いている。
「ねえ、ルイズ。あの工房にいたルーという子。途中でいなくなったけど、私のお土産用の顔料を袋にいれてくれた子ね。あの子、5歳の時、宮廷画家のピエーロ様の弟子をしていたそうよ」
「へえー、そうなんだ」
ルーの名前を出してもこの反応。
知らない……のかな。
それでも確認の意味で尋ねる。
「ルーという名前に、聞き覚えはない? 実は子供の頃、会っていたなんてこと、ないかしら? こんな場所で再会なんて、ビックリじゃない?」
「知らないな。聞いたこともないよ。……どれぐらい弟子をしていたか、チェルシーは聞いた?」
「えーと、5歳で弟子入りして、でも3か月でこの工房に移ったって聞いたわ」
するとルイズが苦笑する。
「そんな短期間で音を上げるような奴、覚えていられないよ。師匠の弟子になるのは、とても大変なんだ。ちょっとやそっとのことで、心が折れてはダメだんだよ。画家なんてさ、売れない期間の方が長い。そこで生きていくには、強い精神力も必要なんだから」
「……ルイズ、随分手厳しいわね。私、覚えているわよ。ルイズと初めて会った時、『だって師匠、本当に厳しいんだもん』って涙目だったわよね」
するとルイズは実に困った顔になり、そして「う~ん、そうだね」と、あいまいな表情を浮かべた。
「それにね、あのルーという子。この水の別荘で私を見て『チェルシー』って名前を呼んだのよ」
「チェルシーは美しいから、宮殿でも有名だった。見かけたことがあったのだろう。……それよりも名前を呼ばれたって、ちゃんと扇子で顔を隠していなかったの、チェルシー?」
「! ち、違うのよ。コーヒーをそこのベンチに座って、飲んでいたの。まさか見られていると思わなくて……」
未婚の令嬢は、顔を極力隠さなければならない。
あの時は、コーヒーを飲みながらだったのと、水の別荘の敷地内で、気持ちも開放的になっていたから……。ルイズは鋭い指摘が多いから、気が抜けないわ!
「ふうーん。コーヒーね。ところでチェルシー。どうして水の別荘に来ることになったの? もしかして先日の舞踏会のお詫びで、マルグリット公爵夫人に招待されたの?」
ぎくっ。
ここには、実は縁談の顔合わせの一環で来たのだけど。わ、悪いことをしたわけではないわ。だって既成事実婚を狙ったわけでもないのだから。それにこちらから動いたわけではなく、マルグリット公爵夫人が、あの二人を紹介してくれたのだから。
そこで公爵夫人の仲介で、ジョルジオとセントと顔合わせをしたのだと話すと……。
「へぇ……。ジョルジオは、結婚を約束している令嬢が二十人以上いると、宮殿では噂になっている。それにセントは……。僕、見てしまったんだよね。宮殿で。彼が騎士の一人と熱烈に抱き合っているのを。……それで顔を合わせの結果はどうだったの、チェルシー?」
衝撃だった。
これではまるで家政婦ならぬ、「宮廷画家の弟子は見ていた!」ではないか。
宮廷画家の弟子であるルイズは、常に宮殿にいる。
実はそれって、宮殿の噂やありとあらゆることを、目にすることができるということではないかしら。
もし事前にジョルジオとセントのことをルイズに相談していたら……。
そんなこと思いながら、当然だが二人には「お断り」したことをルイズに告げる。
「やっぱりチェルシー、焦りは禁物だよ。いくら持ち込まれた縁談だったとしても、安易に受けてはダメってことなんだよ。もっとちゃんとした、チェルシーに相応しい相手と、縁談はしないと」
その言葉に、なんだか気づかないでいいことに、気づいてしまった。
マルグリット公爵夫人は、筆頭公爵家の夫人であり、社交界では王族の次に力があると言っても過言ではない。その彼女が、ジョルジオやセントの性癖を知らなかった……なんてこと、あるのだろうか?
その一方で、限りなく私に親切であり、ここでの滞在でのもてなしは、完璧だった。それに彼女から悪意を向けられる理由なんてない。
そ、そうよ。まさか失敗すると分かっている顔合わせをセッティングするなんて、そんなわけないわ。あんなに親切なマルグリット公爵夫人に対して、うがった見方をしてしまうなんて。私、罰が当たるわ。
「じゃあ、チェルシー、僕はこれで帰るよ」
「え、昼食は? よかったら私達と食事をしてから……」
「そうしたい気持ちは山々だけど、僕、遊びでここに来ているわけではないからね。師匠のおつかいできているから。僕の帰りを師匠は勿論、他の弟子も待っている」
それはまさにおっしゃる通り!だった。
だから私はゴンドラ乗り場までルイズを見送り、そしてお土産用の顔料を渡すと。
ルイズの顔が再び笑顔になる。
それはまるで天使のようであり、とても眩しいぐらいの笑顔だった。
「チェルシー、本当にありがとう。大切にするよ、この顔料」
「顔料だから、大切にするより、ぜひこれを使って素敵な絵を描いてちょうだい」
私の言葉にルイズは「一本取られた!」という顔になる。
「! 分かったよ、チェルシー」
なんだかルイズは再びハグをしたそうにしていたが、木箱を持っているからそれはできない。その代わりなのか、全力の笑顔を私に向け、ゴンドラへと乗り込んだ。
私はその姿を見送り、水の別荘へ戻り、両親と合流。
そしてマルグリット公爵夫人と工房の職人たちが、腕によりをかけて用意してくれた昼食をお腹いっぱいに食べ、王都へ戻ることになった。