……チェルシー?
水路に面した工房の一つに、ブランデー工房があったようで、職人が父親に声をかけた。父親は大のブランデー好きなので、母親と共にブランデー工房へと入っていく。マルグリット公爵夫人に「チェルシー様はブランデーはお好きですか?」と聞かれ、「ブランデーはあまり飲まないので、このベンチに座り、コーヒーを飲んでいます」と答えた。
マルグリット公爵夫人は「分かりました」と微笑み、私の両親を追い、ブランデー工房へと入っていく。
気持ちのいい天気だった。
空には雲一つなく、今日もよく晴れている。
ブランデー工房のそばには水車があり、水路の一部が分岐して、水車の方へ水が流れ込んでいた。
「気持ちがいい天気だわ」
独り言をつぶやき、コーヒーを飲んだその時。
「……チェルシー?」
突然名前を呼ばれ、驚いて振り返ることになる。
陽射しを受け、サラサラのプラチナブロンドが輝いて見える。
美しく長い髪は、左側で束ねられていた。
瞳は吸い込まれそうなセルリアンブルー。
血色のいい唇に、少し日焼けした肌。
帆布で作られたエプロンをつけ、その下に白シャツにスカイブルーの上衣とズボン、茶色の革のブーツ。
エプロンのポケットには、筆、絵具がついた布、そしてエプロンのあちこちにも絵具がついている。そしてかすかにする油の香り。
画家の卵だ。
年齢としては……私より年下に思える。
線が細く、もし髪をおろしていたら、少女に見えたかもしれない。
まだ十代なのでは?
その画家の卵に今、「チェルシー」と名前を呼ばれた気がする。
一応確認の意味を込め、聞いてみることにした。
「もしかして私の名前を呼びましたか?」
「はい! 呼びました。チェルシーなんですね。まさか、また会えると思いませんでした!」
「?????」
頭が「?」でいっぱいになったところで「おい、こら! ルー、何勝手にさぼってんだ! 戻って来い!」と、どうやら目の前の少年に呼び掛ける、先輩画家の声が聞こえた。声の方を見ると、水路を横断した先にあるブルーの壁の工房の窓から、赤毛に眼鏡の男性が、身を乗り出すようにして叫んでいた。
「す、すみません! すぐに戻ります!」
ルーと呼ばれた少年は、私に何か言いかけたが、すぐに踵を返し、水路にかけられたアーチ型の橋へと駆けて行く。
「いやー、コーヒーにブランデーを入れると、実に素晴らしい香りになる。コーヒーの香ばしさにブランデーの芳醇な香りが混ざり、実にエレガントになった」
父親が満足気な顔で、少し頬を赤らめ、母親と共にブランデー工房から出てきた。
マルグリット公爵夫人も、ブランデーの入ったグラスを手に持っている。
「次はチョコレート工房にご案内しますわ。コーヒーにチョコレート。ブランデーにチョコレート。どちらにも合いますわよ」
チョコレート!
食べ物系の工房をはしごすることで、ピザや燻製を食べたが、まだまだ胃袋には余裕がある。出来立てチョコレートが食べられるなら、まさに受けて立つ!だ。嬉しくなりながら、マグリット公爵夫人の後へ続く。
チョコレートの一言で、一気に気持ちがそちらへ向かってしまった。
だがそこで、私に声をかけた少年について思い出す。
私の名前を知っていた、線の細い画家の卵の少年。
どこかで会ったことがあるのだろうか?
――「まさか、また会えると思いませんでした!」
会ったことが……あるのだろう。
でもどこで……?
画家の卵の知り合い……と言えば、宮廷画家の弟子ルイズだ。
だがルイズに、同じ弟子の誰かを紹介してもらったことはない。
いつも宮殿で会う時、ルイズは一人だった。
そうなると他に誰かいただろうか?
考えているうちに、チョコレート工房に到着した。
甘く心をくすぐる香りが漂い、瞬時に気持ちが高揚する。
「さあ、中に入りましょう。ジャン、お客様よ。試作品のチョコレートを出して差し上げて」
「かしこまりました。マダム」
ジャンと呼ばれる職人が、試作品として作ったチョコレートは、いわゆるウィスキーボンボン! 上質なウィスキーが閉じ込められたウィスキーボンボンを口にした父親は、大喜び。母親も「これなら女性でもウィスキーとチョコレートを楽しめるわね」と絶賛。
前世では子供の頃に一度食べて「甘くない~」と匙を投げたウィスキーボンボンであったが。
今回改めて食べてみると、美味しい。
自分の舌が大人になったことを実感しつつ、一粒では止まらず、二個、三個とつい食べてしまう。
なんだかじわっと体も温まった気がする。
「次は製菓工房へ行きましょう」
ご機嫌でマルグリット公爵夫人の後に続いた。
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