まるでファントムのような
まさに絶体絶命の状態だった。
意識を失うことはない。
ただ激痛と苦痛を感じながら、鬼畜ハムスターに襲われる。
もう終わった。
詰んだ。
そう思い、目を閉じた。
「ふぎゅん」
ブタのような鳴き声が聞こえた。
いつ触れられるかと戦々恐々だったが、胸に鬼畜ハムスターの手はまだ触れていない。なんだかいろいろな音がしているが、どうなっているのかしら。
薄目を開けると……。
東屋の壁によりかかり、鬼畜ハムスターが伸びていた。
「!」
まるでオペラ座の怪人のファントムのような仮面をつけた男性が、私に近づいた。
顔の半分は仮面で隠れているような状態だが、それでも整った顔立ちの男性であると分かる。
明かりが乏しいのでハッキリは見えないが、黒い瞳をしていると思う。
高い鼻に形のいい唇。
サラサラの髪は夜空の下、真っ黒に見えた。
黒のマントを羽織り、下には軍服を着ている……?
男性は私のそばにくると、その長身の体をかがめた。ゆっくり、私の頭を持ち上げると、仮面を外してくれた。呼吸が一気に楽になり、あの苦痛と激痛も少し和らいだ気がする。
同時に、なんとか手が動き、痛みを感じ続けている腹部に触れると……。
男性の瞳が心配そうに私のお腹を見て、唇が動いた。
何か言うのかと思ったが、その唇はすぐに閉じられる。そしてゆっくり私の状態を確認しているようだ。それが終わると、腹部に置いた私の手に「大丈夫ですよ」と言うように触れると、すぐに立ち上がり、東屋を出て行ってしまった。
ここまで助けてくれたのに。
抱き上げてホールまで運んでくれてもいいのでは……?
置いてきぼりにされたことに、思わず呆然としたが。
「あっ」
声が出たのと同時に、これでよかったのだと思い直す。
だって。
かつらを被り、フルフェイスの仮面をつけ、ださださのドレスを着ていたのだ。
今の自分の状態はよく分からないが、かつらはずれているだろう。ドレスはボロボロだと思う。さらに仮面は外している。この状態でホールに抱きかかえられて戻ったら、多くの貴族を驚かせることになるし、何より、アレクサンデル王太子に見られてしまう!
私が変装していると察し、立ち去ってくれたのでは?
そう思ったその時。
「大丈夫ですか、お怪我はありませんか!」
声の主を見ると、それはマルグリット公爵夫人!
「バークモンド公爵様のご息女、チェルシー様ですよね? そのお顔は。でも髪は……かつらですよね? 今、あなたがティーシュー男爵に襲われそうになっているところを助けたと、男性が知らせてくれました。ドレスもボロボロですわね。でも大丈夫ですわ。裏口から屋敷へ入りましょう。着替えなども用意しますから」
マルグリット公爵夫人の後ろにいた警備の騎士が、ティーシュー男爵を担ぎ上げている。
「ありがとうございます。あ、あの、その、私を助けてくださった男性は……お名前は?」
するとマルグリット公爵夫人は困り顔で答える。
「長身の方でしたわよね。事態を知らせた後、名乗ることはなく、立ち去ってしまいました。……チェルシー様は、舞踏会の会場でお見かけした記憶は?」
「ホールで見かけた記憶は……ないんです。ただ、マントに軍服を着ていたように思えるので、騎士なのかと思うのですが……」
鬼畜ハムスター……下衆男爵のことは、目を閉じていたので、見ていなかった。
ただ、声を聞いていた限り。
下衆男爵は、一度しか叫んでいない。
つまり一撃で気絶させられている。
そんなことは、訓練された人間ではないとできないだろう。
そうなるとあの謎のファントムは……謎の騎士だ!
「騎士! そうですか。……どなただったのかしら。もし分かったら、お知らせしますわね。……マイク、チェルシー様のこと、頼みますわ」
マイク……どうやら公爵家のバトラーの一人のようだ。
服装は白シャツに黒のテールコートと、バトラーのそれだが、軽々と私を抱き上げている様子は、騎士のように思える。
さすが筆頭公爵家のバトラーね。
きっとバトラーとしての業務は勿論、体も鍛えているのだわ。
そんなことを考えられる余裕もできていた。
つまり、痛みもかなり治まってきている。