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even if

作者: 鍋島五尺

この作品は平井堅 - even ifの歌詞を再解釈したものです。

 君と会うのはいつぶりのことだろう。きっと最後に会ったのは君が出て行った日だ。


 あの日からもう3年も経ってしまった。君がいなくなってから僕の毎日は変わった。いや、何も変わってはいないのかもしれない。変わったのはきっと僕だ。君が僕の部屋に来る前はこんな生活だった。一人の部屋。風が吹くだけでガタガタ鳴る窓と狭い布団。僕の手が届く距離に全てがあって、僕だけの国だった。

 初めは思っていたほどうまくいかなかった。生まれた場所も、育ってきた環境も何もかもが違う他人だ。当たり前だろう。ぶつかることは何度もあった。人と人はこんなにも分かり合えないんだということに気が付いた。それが例え愛し合う二人だとしても。それでも僕らはお互いを知って、徐々に生活は溶け込んでいった。狭い布団の中、僕らは抱き合って眠った。二人の部屋はこれ以上ないほどに素晴らしかった。あの時は気がついていなかったけれど、それは楽園そのものだった。いろんなものを君と一緒に見て、いろんなものを君と一緒に食べた。おいしいねって笑い合って。いつでも君と一緒に暮らした。なんでも君と分け合った。君といる日々こそが僕の幸せだった。

 でも、いつしか大切なことを忘れてしまっていた。僕らはお互いを知った気になっていた。言葉にせずともわかってもらえるはずだと甘えていた。衝突はまた段々増えていった。それで君は別れを決めた。

 あの日、まるで飲み物でも買いに行くように、君は「じゃあね」と言った。閉めたドアの音が部屋に重く響いて、その瞬間僕は間違いに気がついた。きっと君にはわかっていたのかもしれない。でも君はまっすぐ前を向いて、振り返ることはなかった。僕は君を呼び止めたかった。でも僕にはもうどうすることもできなかった。あんなに狭かったはずの布団は、今や一人で寝るには広すぎるように感じた。テーブルの上に置かれた雑誌は僕の趣味じゃない。でも表紙に残ったコーヒーのシミのザラザラとした手触りが愛おしくて、いつまで経っても捨てられない。


 新橋駅に着いた時、君は僕より早く待っていた。寒そうに両手に息を吹きかける姿をしばらく見惚れていた。君は今もあの頃のままだった。君は僕を見つけると、あの可愛らしい笑顔を僕に向けたね。僕の返す笑顔はきっとぎこちなかった。

 いつも行っていた駅前の居酒屋に入って、君がタバコを取り出さなかったことにすぐ気がついた。君は「やめたんだ」とだけ答えた。でも僕は右手の薬指に指輪がはめられていることにすぐ気がついて、全て悟った。それで自分が少し期待していたことに僕はやっと気がついた。君から久しぶりに連絡がきた時、きっと僕はそう思ったんだ。そんなこと絶対にあり得ないのに、僕はバカだ。でも僕はどうしても、そうじゃない期待を捨てられずにいて、指輪について君に聞いたね。君は少しはにかんで、それから言いづらそうに婚約したことを教えてくれた。僕は精一杯の笑顔で祝福した。バレてなければいいと思う。本当は泣き出しそうだったこと。


 店を出てから僕が近くのバーに行こうと言ったら、君は一瞬考えてから快諾してくれた。有楽町にあるその店までは15分くらい歩いた。歩きながらまるで昔みたいにいろんなことを話して、僕の恐れは杞憂になった。この時間がずっと続けばいいのにって思った。でもあっという間に店に着いてしまった。一人で歩いた時はあんなに遠かったはずなのに、君といると時間があっという間に過ぎていく。


 「たまたま見つけたんだ」ってさっき言ったけど、本当はずっと前から君を連れてきたかったんだ。でも、それは叶わなかった。今日のことが決まってすぐに、僕はこの店に来ることを決めていた。

 やっぱりすごくいい店だと思った。髭面のマスターがグラスを拭いていて、店内はピアノの流れる素敵な雰囲気の店だった。カウンターにはキャンドルが優しく揺れていて、君の顔をふんわり照らしていた。君は本当に嬉しそうに微笑んで、彼にもらった指輪を眺めている。そして僕が黙っているとこちらを向いて、僕ににっこりと微笑むんだ。僕は何を話せばいいのかわからなかった。何も言えなかった。そうして二人の時間がさまようたび、決まって君は彼の話ばかりを繰り返す。優しい人だとか、こんな仕事をしているとか。嬉しそうに話すんだ。君のことはどんなことでも知りたいはずなのに、僕は耳を塞ぎたくなった。それで、言葉をさえぎるためだけに煙草に火をつけた。僕は卑怯で、弱い男だと思う。でも僕にはそうするしか手立てはなかったんだ。

 わかってもらおうとは思わない。もしかしたら君はもう全てを見通していて、僕のことなんてわかっているのかもしれない。でも僕の悲しみが君に届くことはないだろう。だって君の心はもう満たされているんだ。僕じゃない、他の誰かで。きっと君は彼の胸に戻るんだろう。でも、でも。このバーボンとカシスソーダがなくなるまでは君は僕のものだ。


 この空間に鍵をかけてしまいたい。時間を止めてしまいたい。君がここから離れてしまう前に。君が彼の元に帰ってしまう前に。きっともう君と会うことは叶わないだろう、だからその前に。少しだけ酔い始めてるのかな。言わなくてもいいことかもしれない。それに独りよがりだ。でも本当の気持ちなんだ。君も少し、いやいっそ酔ってしまえばいい。そして彼のことなんて忘れて僕の肩に寄りかかればいい。だけどそんな言葉と、残りのバーボンを全て飲み干して、君から目を逸らして時計を見た。「もうそろそろ、行かなきゃいけないんじゃないか」。「ああ、そうね」。そう言って君は鞄を手に取って立ち上がった。本当はその腕を掴みたかった。でも僕の勇気が身体を動かすことはなかった。


 君は磯子行きの列車に乗り込んで、ホームに立つ僕を見ていた。ホームドアが閉まり電車が動き出してからも君は僕を見つめていた。君が何を言いたかったのか僕にも少しわかった。僕はやっぱり大馬鹿だった。僕はその場に立ちすくんで、君と見つめ合ったままでいた。君は一瞬小さく手を振って、そしてまた僕に微笑んだ。そして君は行ってしまった。


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