第四話
ほぼ毎日のように繰り返されてきた挨拶を交わし終えると、彼女はすぐに台所の方へと消えていった。
そしてすぐに手ぶらで戻ってくると、ユウに訊ねた。
「どうでしたかユウさん。少しはお役に立てたでしょうか?」
「え?」
ユウは目をぱちくりさせると、彼女の言葉の真意を探した。——と言うより、思い出そうとした。
——何かを忘れている。
彼の欠如した頭の中にはそのことだけが、かろうじて引っかかり、記憶を取り留めていた。
「んー」
両目を強く瞑り、右手で眉間を軽く摘む。
「あの、ユウさん?」
彼の行動に不審を抱いたライラが、たまらず声をかけた。
しかしそれを、ユウは左手で制する。
「待ってくれ。今思い出すから」
——何か、自分は何かを忘れている。
ユウは必死に昨夜までの記憶を、頭の奥底から引き摺り出そうとした。
片目を開け、ライラを見る。
彼女はオロオロとした様子で、仕切りにユウと何かもう一つを交互に見やっていた。
その視線を先にあるものはローテーブル——の上に開かれた本だった。
そうだ。本、本だ——。
「思い出した。ライラ、昨日の答えはイエスだ」
ユウは力強く答えた。
ライラは一瞬キョトンとしたが、すぐに気持ちを切り替えるとユウに微笑んだ。
「ユウさん、——ハズレです」
「くそっ」
悔しさのあまり、思わず汚い言葉が口をついた。
あからさまに悔しがるユウに、ライラが丁寧な説明を加えた。
「正解はノーです。私を含むエルフ族は人族、魔族、獣族——この三つの種族のどれにも当てはまりません。エルフ族は妖精種と呼ばれる種族に該当します。妖精種は他種族とは異なり、そもそも在り方からして違うんです」
人差し指を真上にピンと伸ばして、彼女は生き生きと語る。
私を含む——と彼女はそう言った。
彼女はエルフと呼ばれる種族だった。
神々しい金髪や碧い双眸、そして尖った両耳。これだけの特徴を抜粋するだけで誰もが言い当ててしまうくらいに、それは明白な事実だった。
人里離れた森で暮らし、人あるいは下界とは一切交流をしない印象のある種族。
ユウは今まで一度としてエルフと呼ばれる種を見たことはなかったが、そんな漠然としたイメージを持っていた。
そしてそれを昨日、ユウは彼女に話したのだ。
彼女の言ではその認識は間違いではないそうだ。
エルフ族が人を毛嫌いしていることは多く、奥深い森でひっそりと暮らしているのも確かなのだと。
しかしだからと言って、エルフ族全員が人を嫌っているわけではないとも、彼女は言った。
自分もその一人であるとも……。
しかしそれは人に興味がある。と言うわけではないのだ。
興味がないからこそ、好きも嫌いもあるとも言える。少なくとも彼女の興味の対象は目下別のところにあった。
「私、魔法師になりたいんです」
いつだったか、彼女がユウに言ったセリフである。
魔法師とは名の通り、魔法を専門とする職業のことであり、活動目的は研究だと言う。
この世界には未だ計り知れない可能性に満ちているのだと、彼女は笑顔で語っていた。
ユウにもそれは十二分に理解できた。
興味の対象が異なっている彼ではあるが、興味を持つととことんまで突き進まなければ気がすまないという一点を見れば、両名ともに同じなのだ。
それゆえにか、今でもこうして彼と彼女は毎日挨拶を交わす仲となっている。
そんなある日、彼女は種族について語り出した。
この世界には神が存在しており、さまざまな種族を生み出したのだと。種族の数は多岐に渡るが、その中でも特に人族、魔族、獣族——この三つが世界で最も繁栄している種族なのだそうだ。
当然、ユウは人族に分類される。
「ではユウさん。私のようなエルフ族はこの三つの種族に分類されると思いますか?」
彼女は唐突にそんな問題を出した。
異世界に来て四ヶ月になるが、ユウはそっち方面の知識にはあまり明るくはなかった。
しばし悩んでいるユウに、彼女は一冊の分厚い本を差し出した。
「参考になるかどうかはわかりませんが、これをどうぞ。何ぶんあまり下界には現れない種族ですので、資料が少ないんです」
その本こそが、今ローテーブルに広げられている本だった。
ユウは昨夜、早速本を開き読み始めた。だが、本は分厚く、ぎっしりと詰め込まれている文字群は彼にとって催眠術にも等しかった。
彼の意識は徐々に虚とかし、段々と焦点がページと合わなくなっていった。
そして意識はふつと途切れ、いつの間にやら寝落ちしていたと言う有り様だった。
「妖精種は三つの種族とは異なり、自然の一部と言っても過言ではありません。自然が豊かであればあるほど、その力を発揮する。自然が生み出す魔力を、私たちエルフはほぼ無尽蔵に使用することができるんです」
「無尽蔵って、それは結構ずるくないか?」
悔しいとは微塵も思ってはいなかったが、ユウは言葉の端に皮肉っぽさを交えた。
しかしライラは特に気にした素振りなく返す。
「どうでしょう。対人戦では確かに脅威になるかと思いますが、何ぶん数が少ないですからね、戦争にでもなれば不利だと思います」
ユウは彼女が平然と「戦争」と言う言葉を用いたことに少し驚いた。
ユウとしてももちろん、人と比べてずるいと言ったのだが、戦争という大掛かりなことまでは考えていなかったからだ。
「そっか……」
ユウは出来るだけ平生を装って話を打ち切った。
あまり自分の種族と彼女の種族が対立している姿を想像したくはなかったからだ。
その時、ぐぅという音が静かな部屋の中に轟いた——轟いたは少し誇張かもしれないが……。
自分ではないとわかっているユウは当然、もう一人の方へ顔を向ける。
その人物は咄嗟に手でお腹を押さえてはいるものの、鳴ってしまった過去は覆らない。
ライラは顔から火が噴き出すほどに真っ赤だった。
「えっと……朝食にしようか」
「はい。その……すみません」
ユウの提案にライラはぎこちなく頷いた。
彼女は赤顔したまま、のそのそと台所の方へ姿を消した。
その微笑ましい光景を見送ると、ユウは壁にかかっている振り子時計に目をくれた。
時刻は午前八時を回っていた。
ユウはパイプをテーブルに置くと、その足で洗面所へと向かった。
今日はまだ、朝起きて一度も顔を洗っていないことに気がついたからだ。
蛇口を捻り、両手で掬い上げた水を勢いよく顔にぶっかける。
まだ朝ということもあり、水は程よく冷えていた。かけるたびに、頭の芯も同時に冷やされていくのがわかる。
その工程を二、三度繰り返し水を止めると、小脇に置いていた茶色いタオルでさっと水気を拭き取った。
そして顔を上げ、目の前の壁にかけられている鏡と相対する。
短めに切り揃えられた黒髪はところどころピンと跳ねており、昨夜遅くまで起きていたせいか、大きめな目も少し充血していた。
ユウはもう一度蛇口を捻ると、今度は思いっきり頭から突っ込んだ。




