第三十話
ユウは壁に凭れかかっているシグルドを呼んだ。
すると彼はこの時をずっと待っていましたと素早く身を起こすと、ユウへ歩み寄り、懐から細長い布を取り出した。
ユウはそれを受け取ると、膝の上に一旦置いて話を再開させた。
「私は事件現場の調査をしている際、いくつか気になる点を発見しました。一つはなぜルイス王子の短剣が凶器として使用されたのか、ですが、これはもう解決しました。
二つ目はイヤリングの件です。これも先ほど言いました通り、ルイス王子の偽装のためでした。——そして最後ですが、それはインクのシミでした」
「インクのシミだと?」
オスカーはまったく心当たりがないと言うふうに、怪訝な視線をユウへ向ける。
「ええ。床にはアンナ嬢の血痕だけでなく、インクのこぼれた跡が残されていました。後にシグルドさんのお話では遺体発見時、そこにはインク瓶が一つ転がっていたそうです。場所は窓のすぐ横に置かれていたデスクのちょうど目の前に当たります。
私はすぐにインク瓶を直で確認しました。大きさは約十センチほどで、そこは四角く、蓋は丸い。そして、回すタイプの口がついていました。割れてもいませんでした。蓋もすぐ近くに転がっていたそうです。
これが何を意味するのか、わかりますか?」
ユウはやや挑戦的な瞳でオスカーを見上げた。だが、彼はユウの言葉の意図するものを未だ図りかねており、眉間に濃いシワを作っていた。
ユウは目を伏せると、先を続けた。
「デスクの近くに転がっていたと言うことは、インク瓶はまず間違いなくその上に置かれていたのだと推測されます。
おそらくアンナ嬢は短剣で胸を刺された際、デスクの上に置かれていたそのインク瓶を、腕などで引っ掛けしまい床へ落としてしまった。——これは誰にでもすぐに考えつくことです。しかし僕が不思議に感じたことは、なぜインクがこぼれていたのか、と言うことなんです。
先ほども言いましたが、瓶は割れていませんでした。それに蓋は回すタイプでした。回さなければ開かないような蓋は、床へ落とした程度で開くことは絶対にありません。ましてや、インクのように空気に触れていればすぐに乾いてしまう液体が入った瓶を、締め切らず置いておくなどは考えられない。
となると考えられる推測は一つです。瓶の蓋はデスクの上にあった時からすでに開いていた、と言うことです」
彼はそう語りながらも一向に、膝の上に乗せた布に手をつける素振りすら見せなかった。
未だにソファの前に立ちっぱなしのオスカーはユウの表情と、膝の上に乗った布とを交互に見ながら、顔に苛立たしさを表し始めていた。
なにをいちいちまどろっこしいことを言っているんだ——と、彼の表情を見ているだけで、今にもそう聞こえてきそうだった。
「それが何だと言うのだ——瓶が開いていたことなど、どうでも良いだろう」
ユウはこれで話は終わりではないという風に、かぶりを振るとさらに言葉を継いだ。
「ではなぜ開いていたのか? インク瓶を開ける理由など一つしかない。書き物をするためですね。彼女は書き物をするためにインクの瓶を開けていたのですよ」
「……だ、だがそうとは限らんだろう。中のインクを詰め替えていたと言う可能性も——」
反論を示したオスカーだったが、ユウは彼の話を最後までは聞かず、すぐに否定した。
「いいえ、それは違います。もしインクの詰め替えをしていたのなら、部屋のどこかに元の詰め替え用の入れ物の殻が落ちているはずですし、そもそもこの事件はお客を部屋へ招いている時に起こった出来事です。わざわざそんなタイミングでインクの詰め替えをする人はいないでしょう。それに、床に落ちていた瓶にはまだ、十分にインクが残っていました」
固まっていましたけどね——ユウは最後にそうつけ足すと、改めて話を軌道修正させた。
「彼女は部屋で書き物をするためにあらかじめ瓶の蓋を開けていた。こう考えると、少し不思議なことに気がつきます。——彼女は一体、何を使って、何に書こうとしていたのでしょうか?
彼女の部屋をざっと調べましたが、ペンも紙もどこにも見当たりませんでした。もしかすると、それらは引き出しの奥にでもしまわれているのかもしれませんが、インクの瓶を先に開けてからペンと紙を探すと言うのは、ちょっと考えられません。インクは乾きやすいものです。少しでも開けておく時間は短くしたい、それが真理だと思います。しかし、そんなものはどこにも発見されなかった。
ではその二つはどこへ行ってしまったのでしょうか。——これを解く鍵は三つあります」
ユウは今度は三つの指を立ててみせた。
「一つは遺体の位置です。彼女は窓際に背を預けるように倒れてしました。次に刺し傷です。彼女は致命傷である胸以外にも、背中に一つ刺し傷が残されていました。そして最後が、窓そのものです。遺体発見当初、窓の扉は大きく開け放たれていました。
この三つで、大体の状況は説明することができます」
ユウはちろりと乾いた唇を湿らせると、
「まず犯人は部屋へ入ると、アンナ嬢とお茶を交わした。そして何らかの理由からアンナ嬢は席を立ち上がり、窓際に歩み寄った。窓はこの時開けられたのか、それとも元から開いていたのかは不明です。そしておそらく、インク瓶の蓋はこの時開けられたのだろうと思います。
彼女はお客に背を向ける格好で、書き物を行った。犯人はその後ろ姿を見て、今が絶好の機会だと判断し、その無防備な背中めがけて短剣を刺した。犯人は手加減をするつもりはなかったでしょうから、勢いよく突進する形だったはずです。その勢いに押されたアンナ嬢は半身を大きく窓の外へ投げ出されたに違いありません。——そうです。彼女はこの時、手に持っていたペンと紙を手放してしまったのです。しかし、彼女はそんなことを気にしている場合ではありません。アンナ嬢は即座に犯人の方へ振り返った。
しかしそこで彼女は犯人からの止めを受けてしまった」
一気に捲し立てたことで口が乾いたユウは紅茶を一口だけ啜り、口内を潤した。
「バランスを崩した彼女は膝から崩れる形でその場にへたり込んでしまった。その際デスクの上にあった瓶を引っ掛け落とした。
——本題に入りましょう。果たしてアンナ嬢は客人が来ているにも関わらず何を書いていたのでしょうか?」
ユウはそう口にしながら、ようやく膝の上にあった布に手を触れ、ゆっくりと解き始めた。
「私はあなたと別れた後、裏庭園に散歩に行くがてらにそれを探しに向かいました。そしてその結果、ペンと紙を探し出すことに成功したのです」
ユウはひたとその手を止めると、オスカーを見上げた。
オスカーは額に汗を伝わせ、寒心に耐えない表情をしていた。
ユウは手の動きを再開さながら、目の前の男に問いかけた。
「オスカー侯爵はご存じですか? アンナ嬢は常日ごろから扇子を持ち歩いていたそうですよ。旅先で出会った行商人から強く勧められたんだそうです。なんでもすごく便利なんだとか……」
次々と布を捲っていくユウ。
そしてついに、最後の布を掴み取り、開いた先に現れたものは——先ほどユウが口にしていた、扇子だった。
それはアンナ嬢の部屋、ベッド横にあったナイトテーブルの上に置かれていたあの扇子と、まるっきり同じデザインだった。
ユウは扇子を持ち上げると、
「ルシール嬢のお話ではアンナ嬢は当時物覚えが悪く、家庭教師の先生によく叱られていたそうです」
オスカーの前にこれみよがしに見せつける。
「この扇子は僕の故郷にもありましてね。用途は多岐に渡りますが、今は主に涼むために使用されている道具になります。
しかしその起源は檜扇と呼ばれる、薄い木の板を何枚も重ね合わせたものだと言われています。このように紙などは一切使用されておらず、元々は風を起こす代物ですらありませんでした。
これは元来、忘れごとがないよう書き留めておく、メモ代わりに愛用されていたのですよ。それが時代を経て、紙を貼りつけ、今の扇子が誕生したのです」
ユウはバッと音を立たせ、扇子を勢いよく開くと、そのまま上品に口を隠した。
オスカーは細い目をさらに険しくさせ、扇子に映ったオレンジ色と白色のグラデーションを睨みつけた。
「私が何を言いたいか、もうお分かりですよね」
ユウは怪しく、その両目を三日月形に歪めると、
「オスカー侯爵。僕が部屋を訊ねた時、貴方はアンナ嬢の部屋になど一度も入ったことはないと仰っていましたね。——では、これについて説明を願えますか?」
ユウは手に持つ扇子をくるっとその場で素早く回転させ、裏面をオスカーへ見せた。
その面には柔らかな色彩が彩られた表面とは違い、一面は白一色——しかし、その面には黒いインクで書かれた細かい文章がずらりと並んでいた。
ユウはそれを一つ一つ読み上げていった。
「10/3 11:00 アモルト城廊下 ルイス 不満を表す(対処不要)
10/10 12:00 アモルト城裏手 ソフィアの呼び出し 別れてくれと懇願(要注意)
同日 1:15 アモルト城自室 オスカーの訪問 秘密について言及(要——」
ユウは一通り読み終えると、再度回転させ表面を向けた。
「前述の二つについては日づけと内容から、オスカー侯爵と、それからルシール嬢とスビン王子が目撃されたものでまず間違いないでしょう。ですが、最後の一文。乾く前に地面へ落ちたせいでしょう。少しぐにゃぐにゃになっていますが、『十月十日一時十五分、アモルト城自室、オスカー侯爵が訪問』と書かれています。日づけも時間も、彼女が死亡したとされる時間にぴったり付合します。それに貴方は一時半過ぎにソフィア嬢の部屋を訪ねたとも仰った。——聞かせていただきましょうか。貴方はソフィア嬢の部屋を訪れる以前、一体何をしにアンナ嬢の部屋へ向かわれたのですか?」
徐々に声に力を込め、ユウはオスカーに詰め寄った。
オスカーは何も言葉を発さず、懸命に歯を食いしばっていた。ふと下方に視線を下げると、彼の拳はこれ以上ないくらい固く握り締められていた。
だが、やがて彼は力尽きたかのように全身を脱力させると、倒れ込むようにソファへ沈み込んだ。
彼の両目からは生気が抜け落ち、視線は誰に止まることなく天井を見ていた。
それを見届けたユウはパタリと扇子を閉じた。
「実は扇子についてはもう一つ可能性を残していました。それは扇子が運悪く窓の外には落ちず、犯人に持ち去られてしまったのではないか、というものです。ですがこの案はオスカー侯爵、貴方自身が否定なされました」
その時、天を見上げていたオスカーの黒目が一瞬だけユウへ落ちた。
「貴方は一時半ごろ、ソフィア嬢の部屋を訪れたと仰いましたね。時間的に見ても、貴方が犯行に及んだ後のことです。その間、部屋に戻る暇などないでしょうから、おそらく貴方はそのまま彼女の部屋に直行したはずです。貴方はアンナ嬢を殺害する際、布を使って返り血を防いでいました、そのまま行っても問題はなかった。
もしこの時扇子を持ち去っていたのなら、当然ソフィア嬢の元へ向かった際も持っていたはずです」
ユウは再びアンナが最後に残した扇子を顔の前に掲げた。
長さ二十五センチはある大きな扇子をユウは軽く振ってみせる。
「この扇子、女性が持つには非常に大きいですよね。とても服のポケットになどには入りません。つまりソフィア嬢の部屋へ向かった際、貴方は手に持ったか、服の中に無理やり隠したりなどしたはずなのです。——しかし貴方はそこでハプニングに見舞われた。ソフィア嬢がうっかり足を滑らせ、貴方の衣服に紅茶をかけてしまった。
貴方はすぐに使用人を呼び出し、変えの衣服に着替えた。——そう着替えたんですよ。近くにはソフィア嬢やアデラさんがいた。その二人の目を掻い潜って扇子を隠し通すのは至難の業です。もし見られていたのなら、少なくともアデラさんは不思議に思ったはずです。彼女はアモルト城で使えている方、アンナ嬢の扇子のことはもちろん知っているはずですからね。しかし、彼女はそんなことなど一言も仰らなかった。
となると、初めから貴方は扇子など持っていなかった。——だから僕は扇子は間違いなく裏庭園へ落ちていると、確信したわけです」




