第三話
馬車の車輪が道路にできた穴を軽く弾いた。ガシャンという音が鼓膜へと伝わり、ユウ・ハドリーの意識は暗い奥底から引き摺り出された。
重たい瞼をそっと持ち上げ、焦点をくすんだ天井に合わせる。そして左右の目を動かし、自分が今どこにいるのかを把握する。
とりあえずわかったことはここが自室ではあるが、寝室ではないということだった。
自分の前髪を見るように視線を上げると、逆光で暗くなったカーテンの隙間から、幾本もの光の筋が漏れ出しているのがわかった。
その光に照らされ、埃がキラキラと反射している。
ユウはブリキの如く軋む体を起こすと、自身が寝転んでいた場所に目を落とした。
するとそこはベッドの上などではなく、ゴワゴワとした緑毛のソファの上だった。
右手で肩を押さえながら首を左右に捻る。音はならなかったが、それが妙に心地いい。
ユウは改めて前方に目を向ける。
ソファの前に据えられているローテーブルには、溶け切った燭台と見覚えのない分厚い本が開いたままの状態で置かれていた。
ページには二箇所ほど四角く切り取られた絵が差し込まれており、それ以外の場所は隅から隅までびっしりと文字が刻まれていた。
ユウは右手で顳顬のあたりを小突きながら、昨夜の記憶を呼び起こそうとした。
【——神はしもべを創り、この世界を創造した。そして人族、魔族、獣族の三つの種族を生み出した——】
ようやっと思い出せたのは、目の前に置かれている本——昨夜まで読んでいた歴史書の内容だけだった。
ユウは膝を押さえながら勢いよく立ち上がると、窓の方へと歩み寄った。そしてカーテンを取っ払い、
「——ッ」
彼は瞬時に後悔した。
突き刺さるほどの激しい陽光が、寝起き眼に襲いかかってきたのである。
咄嗟に動かした腕で目を守りながら、恐る恐る彼は視線を外へ動かした。
本日の天気は晴天だった。空には一割ほどの真っ白い雲が浮かんでいるだけで、あとは青一色である。心なしかその雲も、いつもより高い位置に陣取っていた。
ユウは徐に掛け金を外すと、両開きの窓扉を外へと押し開いた。
途端に街の喧騒は大きくなり、秋の香りも同時に室内へと流れ込んできた。
ユウは窓枠に手をつくと、そのいつもと変わらぬ景色に身を委ねた。
ここビレッダグレイン帝国の首都ダンミリオン。そのとあるアパルトメントの二階。
彼はそこで暮らしている。
周囲の建物は皆白塗りの壁に、縦横斜めに区切るように立った黒い柱。屋根はくすんだ橙色をしており、煙突が乱雑に突き出していた。
向かいの家の窓辺には花が植えられており、少し殺風景が過ぎるこの景色の、ささやかなアクセントの役割を担ってくれている。
下に目を移せば細い道路が渡っており、大勢の人々が行き交っている。その道を時折、馬車が通り過ぎていくのをユウは見送った。
斜め向かいの建物には小さなお店があり、幾人かの客たちが忙しなく出入りしていた。
一見ヨーロッパを思わせるこの街並みだが、しかしここは異世界に他ならなかった。
先ほど道路を歩いていた人々の中には、頭やお尻、背中から動物のものと思しき耳や尻尾、翼を生やした者がおり、客車を引っ張っている馬の中には可愛らしい小さな翼を生やしたものまでいた。
ユウがこの世界にやってきてから、早四ヶ月になる。
突然、何の前触れもなくこの世界へ飛ばされたユウは、聞くもの見るもの全てが自身の常識を逸脱しており、苦労されられる毎日ばかりだった。
常識では測ることができない超常現象の魔法。どこか似ていて、どこもかしこも異なる街並み。すれ違う人々の中にも、それは十分に感じられた。
しかしそれも不思議なもので、四ヶ月ともなれば割となれてくるものであった。
今まで生きてきた世界が遠い過去のように感じられ、今では部屋の二階から見えるこの景色が、彼の日常の一部となっていた。
彼にとって最も幸福だったことは、時間の概念が元の世界とさして変わらなかったことだ。
一秒の間隔。六十秒で一分。六十分で一時間。二十四時間で一日。七日で一週間。これらの時間の表現が変わらなかったことが、彼を混乱させずに済んだ一番の要因だったのかもしれない。
しかしこの先からは多少異なっている。
全月が一律三十日であること。そして一年が十三ヶ月存在していることである。
ユウがいた世界では十三という数字は、どこの国でもあまり縁起のいいものとはされていなかった。
だがこの世界は違う。そう言った概念はあるものの、十三が忌み嫌われるということはなかった。
こう言った文化の違いこそが、彼の中では異世界を異世界たらしめている事柄の一つとなっていた。
その中でも特に強く印象に残った事柄は季節だった。
この世界には同じように春夏秋冬を表す言葉が存在しており、クニス、アスターエス、トゥヌムアウス、ヒムエスと呼ばれていた。
四つの季節はそれぞれ三ヶ月ずつ振り分けられており、十三ヶ月の最後の一ヶ月だけはどの季節にも属さない五つ目の季節が割り当てられていた。
それがアニスンフィニーである。
まだ彼はその中でもアスターエスとトゥヌムアウスの二つしか経験していないゆえ、この世界では「新年」を表すこのアニスンフィニーが少し楽しみなのであった。
何ともややこしいと初めは嘆いた。
こういった四季ならぬ五季が、これまで培ってきたユウの常識を易々と打ち砕いていくものとなっていたからだ。
しかしその嘆きも単なる悲しみだけではなく、嬉しみを含んだものであったことは否定できない。
いつもと変わらぬ日常を送っていたユウ。無意味に眠っていた彼の頭脳を、あの世界で十全に発揮するには少々力不足だった。
矯正される社会。万人に知り尽くされて久しいあの世界では、彼の興味をそそるものがそもそも乏しかった。
だが、この世界は違う。底の見えない不思議。万人が把握しきれていない法則が、未だこの世界には燻っている。
未知の出来事が、この世界にはまだ眠っているのかと思うだけで、ユウは体のうずうずを止めることができなかった。
彼はポケットから喫煙パイプを取り出した。
以前とある人物からもらったそれを、ユウは歯を詰めるでもなく、火をつけるでもなく、口に咥えるでもなく、ただ眺めた。
ゆるく膨らんだボウルに、しなやかな曲線を描くステム。光沢を出す木目が何とも綺麗で、見ているだけで心が落ち着いていくのがわかる。
ユウはそれを落とさないように注意しながら、手元で弄んだ。
すると突然、部屋の扉が三度叩かれた。
ユウはパイプから目を離すと、
「入っていいよ」
と、扉の向こうに立つ者を誰何することなく許可を出した。
そろそろ来るころだろうと、ユウは思っていたのだ。
許しを得たことで扉はゆっくりと開かれ、そこから一人の少女が姿を現した。
緑色の装いに、紙袋を提げた女の子。金髪の長い髪を腰の辺りで揺らし、陽の光に反射して碧色の瞳がことさら輝いて見える。
可愛らしい小顔の横、まっすぐ降りた髪の隙間からは、やけに尖った耳が突き出しており、彼女が人ならざる者なんだと否が応でも理解してしまう。
少女は入ってくるなり、ユウへ笑みを送った。
「おはようございます、ユウさん」
「おはよう、ライラ」
今日の晴天にも負けないぐらいの眩しい笑顔を浮かべた彼女の名前は、ライラ・ランバートだった。




