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第二十五話

 それからユウはクロエに昨夜の行動を訊ねた。


 彼女はユウの質問にしばし戸惑う素振りを見せたものの、最後には「ずっと部屋にいました」と答えた。

 しかし、そう答えた彼女の瞳が一瞬揺らいだのを、ユウだけは見逃さなかった。



 そして今、ユウとライラは応接間へと帰ってきていた。

 オスカーの部屋を出た二人はとりあえずシグルドと合流するべく、この部屋へと戻ることにしたのである。


「ソフィアさんの身に、一体何があったのでしょうか」


 静寂に沈んだ広い応接間を、ライラの重たい言葉が反響した。


「さあ、そればかりは僕にもわかりそうにないな」


 オスカーの部屋を後にする直前、ユウは事件以前の彼女について訊ねてみた。


 スビンとの会話で浮上した彼女の豹変ぶり。噂で聞いていた彼女の人物像と、スビンから聞いた彼女では認識に齟齬が生じていたからである。


 ならばそんな彼女を生まれた時から見てきた両親と、身の回りの世話をしていたという使用人に話を聞けば、何かわかるのではないかと、そう考えたのである。


 しかし、ユウが質問を投げた瞬間、彼らは皆一様に口を閉ざしてしまった。


 別段後ろめたいことがあるという様子でもなし。とても言いづらいことがある、とも少し違う彼らの態度に、ユウとライラは揃って首を傾げた。


 少しすると、代表するかのようにオスカーが口を開いた。その口元はひどく重たそうである。


「去年の秋ごろのことだ。ソフィアは急な病に倒れてしまってな、かなり危険な状態だと医者から言われたことがあるのだ」

「病、ですか……」


 ユウが相槌を打つ。


「それはまた、何と言う病気だったのでしょう?」

「原因は不明だ。突然ソフィアは倒れ、そのまま意識が戻らなくなった。何十人と医者をかき集め、屋敷に招いては診てもらったのだが、結果は変わらずじまい。一向に治る兆しの見せないソフィアの様子に、皆絶望を感じていたのだ」

「しかし、治った?」


 ユウの言葉にオスカーは頷くと、少し語調を明るくさせ続きを語った。


「二ヶ月ぐらい経ってからか、ソフィアはころっと意識を取り戻したのだ。何が起こったのかはわからない。医者にも原因同様、何が娘の回復に作用したのかわからないと言われた。

 しかし、私たちはそれでもよかったのだ。ソフィアが元気でさえいてくれたのなら、過去のことなどどうでもよかった」


 細く開いた目の向こうに、我が娘の面影を見るかのように話すオスカー。

 その後をイザベラが継いだ。


「でも、それ以降あの子は変わってしまったのよ」

「変わってしまった?」


 ユウが問い返す。


「ええ。私たちはソフィアをそれなりに厳しく育ててきました。いずれは王族の一員となるのだから、人の上に立つという志は持っていて然るべきなのです。勉学に礼儀作法、音楽や社交ダンスといった、多種多様なスキルをあの子には身につけさせました。

 そして結果として、あの子は私たちの望む通りの成長を遂げてくれました。仮にそれを誰かに否定されようとも、あの子は立派な淑女となった。——でもあの子は……目を覚ましたあの子は別人となっていたのよ」

「何があったんです?」

「あの子が元気になってすぐのことよ。廊下を歩いていたクロエが目撃したの」


 イザベラは横に立つクロエに、その先を説明するように目で促した。

 彼女はこくりと頷くと、暗い表情のまま口を動かし始めた。


「お嬢様は廊下に倒れた花瓶を掃除されておられました」

「花瓶?」


 ——花瓶を掃除することの何が問題だと?


 ユウは一瞬首を傾げたが、すぐに彼女の言わんとしていることに気がついた。


 侯爵家の令嬢ともあろう女性が、自ら倒したからと言って、自分でそれを片づけるはずがないのだ。

 自ら望んで手を汚すことはしない。ましてや、以前の彼女では絶対に考えられないことだったのだろう。


 イザベラが少し、気持ちを昂らせた状態で声を上げた。


「侯爵家の令嬢ともあろうあの子が、自分で花瓶を片づけていたんですのよ。倒れていたものを起こすだけならばまだわかります。でもそれだけでなく、あの子は廊下に膝をついて、溢れた水まで雑巾で掃除しようとしていたんです。そんなこと、今までのあの子ならば絶対にしませんわ」


 とても信じられないと顔を震わせるイザベラ。クロエもそれに同調する。


「私もそれを目撃した時、慌ててお嬢様に駆け寄りました。そして『そういったことは私共がいたしますので』と申し上げたのですが、お嬢様は『このくらい自分で片づけるからいいわ』と、軽い口調で仰られて……」

「なるほど。病気をきっかけにソフィア嬢は変わってしまったと……」


 腕組みをして考え込むユウはふと三人へ訊ねた。


「記憶障害、という可能性はなかったのですか?」


 病気を患った際に、何かが記憶に障害をもたらし、彼女の性格を歪める原因となってしまった可能性が考えられる。

 それならばこれらの一件にも一応の説明はつけられる。だが、オスカーは重くその首を横へ振った。


「医者にも確認してもらったが、それはないとのことだ。目を覚ました時は多少混乱していたが、あの子は私たちのことをしっかりと認識しておったし、勉学や、それ以外の習い事に関しても、特に変わった点は見られなかった」


 娘への不安がオスカーの憤りへと変わっていく。彼は口を閉ざし、ざわつき始めた心を一旦沈めると、また一段と沈んだ声で言う。


「私たちとしては娘が元気でいてくれたならそれでよい。それでよいのだ……だが、原因がわからないのでは、やはり少し、な……」


 ユウにはオスカーが飲み込んだ最後の言葉が何となく理解できた。


 気味が悪い——しかし、その言葉を我が娘に向けることに、彼は抵抗を覚えたに違い。


 難病を機に変わってしまったソフィア。彼女の性格の変化は果たしてこの事件と何かしらの関係があるのだろうか。

 この事件の裏にあるものはあの日起こった宣言、だけではない……と——そう、ユウは感じざるを得なかった。



 しばらくが経ち、仕事がありますのでと言って、クロエが一番に退室した。

 彼女が部屋を出ていく姿を見送りながら、ユウたちもそろそろと腰を浮かしかけた時、オスカーが葉巻の煙を吐き出しながら呟いた。


「あの娘もひどく混乱しておるのだ」


 あの娘——という言葉に引っかかりを覚えたユウは浮かしかけた腰を、またソファへと戻した。


「あの娘、とはクロエさんのことですよね。オスカー侯爵はクロエさんのことをよほど気にかけていらっしゃるようですね」


 オスカーは「まあな」と言いながら、二本目の葉巻をもみ消した。


「元々クロエはうちの使用人をしておった女の娘なのだ。ある日突然、幼子を連れた女がうちにやってきて、雇ってくれと言ってきた。まあ、使えそうではあったので雇ったのだが、数年すると女はすぐに病に倒れ、そのまま亡くなってしまった。一人残されたあの娘をどうするか、私たちは話し合ったが、最終あの娘本人から使用人として働くのでこのまま置いてほしいと申してきたのだ。それからクロエが生まれ、当時六か七だったクロエを世話係につけた」

「そうだったのですか」

「クロエには随分と苦労をかけている。その自負はある。娘のわがままにも長きに渡り付き合わせている。しかし、そのわがままも突然、こんな形で少なく——いや、なくなったのだ。混乱しないはずがなかろう」


 葉巻を持つ手とは逆の手で、オスカーはシガーケースを弄びながらそう語った。

 そんな彼にライラが訪ねる。


「クロエさんは嫌ではなかったのでしょうか?」


 母親を亡くし、行き場のなかった状態だったとは言え、まだ六歳にも関わらず使用人として働いていたのだ。その上、主人の娘であるソフィアの横行にも対応させられる毎日。常人ならば、三日と経たずに音を上げそうであるが……。


「さてな。仮にそうであったとしても、それを私たちに告げることはないだろう。それにあの娘ならば、たとえ同種の人間に対しても愚痴をこぼすことはない。——半ば諦めているのかもしれんな」

「諦めている、とはどう言う意味ですか?」


 ユウが眉を顰めた。


「三年前になるか。クロエが二十歳になったころだ。ある日私たちの屋敷に、とある貴族から手紙が届いたのだ。その者は私たちからしたら、下級貴族ではあったが、それなりに裕福な暮らしている男だった。歳は……三十ぐらいだったか」


 オスカーは三本目の葉巻に火をつけた。


「手紙にはこう書いてあった。『あなたのお屋敷で働いているクロエという女性を、是非私の妻として迎えさせてはもらえないだろうか』とな」

「他人の屋敷の使用人に求婚を申し出てきたのですか?」


 驚くユウにオスカーは肩をすくめた。


「いや、これはそこまで珍しいことではないのだ。クロエは顔も良く、気立もいい。初めて見た者ならば、当然良い評価を残していくだろう」

「クロエさんはどう思われたんでしょうか?」


 ライラが訊ねた。オスカーは煙を吐きながら答える。


「積極的ではないにしても、前向きには考えていた。屋敷の使用人という職業は生涯をその屋敷に費やす者が多い。使用人などしていれば、出会いそのものが少ないからな、独身を貫くものが極端に多いのだ。だからこそ、こういった縁談は彼女たちにとって絶好の機会と言っても過言ではない。——だから私はクロエに、受け入れたらどうだと勧めた」


 そこで言葉をやめてしまったオスカー。隣に座るイザベラも依然として暗い表情を続けている。彼の話はまだ途中ではあったが、しかし結果は見えていた。


 彼女自身が今現在もブルクハルト家で使用人として仕えているのが、何よりの証拠だった。

 つまり彼女はその縁談を断ったということになる。


 ではなぜ、二人はそれほどまでに暗い表情を滲ませているのだろうか。そしてその縁談に、ソフィア嬢はどう絡んでくるのか。


 ユウはオスカーが合間合間で吐く煙を上空へ見送りながら、話の続きを待った。


「縁談の話が浮上してすぐのことだ」


 オスカーはようやくその重たい口を動かし始めた。


「ソフィアが私の元へやってきた。ソフィアは私の元へ来るなり、クロエの縁談をなかったことにしてくれと頼んできたのだ。理由は単純、ソフィアはクロエを手放したくなかった。だからこの話をすぐに打ち切ってほしいとな」

「それはソフィアさんがクロエさんのことを少なからず優秀な使用人として認識していた証拠、ですよね。それなら別に……」

「ああ。それならば、良いのだがな……」


 オスカーはライラの言葉を遮るように素早くそう言った。言い方からして、そこには何かしらの含みが混ぜられているのは確実だった。

 その言葉の裏に隠されている事柄も、ユウには十二分に興味を引かれることではあったのだが、それ以上に気になることを優先させることにした。


「オスカー侯爵は結果的にソフィア嬢の言い分を受け入れられたのですよね。クロエさんへは何と答えたのですか?」

「クロエには先方の気が変わったとのことで、この話はなかったことになったと伝えた」

「クロエさん自身は何と?」

「特に何も。ただ一言、そうですか、とな……。私も後ろめたい気持ちがあったゆえ、あまり彼女の顔を直視できなかった。だが、あの娘は中々に聡い子だ。もしかすると、ソフィアが裏で手を回したことには薄々感づいていたかもしれんな」


 消えていく紫煙を眺めるオスカーはそこでようやく話を終えた。

 天井で霧散していく鈍色の煙に何かを投影するかのように、オスカーは薄い目をさらに細めている。


 すると、今度は隣にいるイザベラが、何かを思い出したように言葉をついた。


「そういえばあの子この間、クロエには謝っても許されないことがある、とか何とか言っていたわね。もしかしてあれはそのことだったのかしら」

「そんなことを言っていたのか——」


 初耳だとオスカーは瞬時にイザベラへ向いた。


「ええ。ただの雑談まじりだったから、あまり突っ込んだことまでは聞かなかったのだけれど……。今思うと、あの子、かなり思い詰めた表情をしていたわね」


 イザベラは小さく息を吐き出すと、その時聞き出さなかった自分への後悔を、娘の面影があるであろうその貌に浮かべた。

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