第二十話
「では、今朝見た時と比べて、何か変化していた部分などはありませんか? 何かがなくなっているとか、なかったものが置かれていたとか」
ルシールはユウから視線を外すと、顎に手を当てて考え込んだ。
「ローテーブルの上に二人分のティーセットが置いてありました。それから床に毛布が、それとインクの瓶が転がっていました。後は……」
「よくそんなことまで覚えていらっしゃいますね」
彼女の記憶力にシグルドは感嘆の声を上げた。
親友の遺体を見てひどく動揺していたであろうに、彼女はローテーブルの上にあったティーセットだけでなく、それが二人分あったことまでしっかりと記憶していたのである。
正直これにはユウも驚いていた。
「私、記憶力はいい方なんです。——後それから、アンナは左手にイヤリングを持っていました」
そう自信満々に語るルシール嬢。だが、それはあくまでも、保安騎士団が駆けつけた時の状況を補強するだけのも過ぎず、これでは参考になりそうもなかった。
ユウは気づかれないようにため息をこぼした。
新しい情報はなしか……。
そう皆が諦めかけていた次の瞬間、彼女は先ほどよりも一際大きな声を出して目を見開いた。
「そうだわ。そういえばアンナ、指輪をしていなかった」
「指輪?」
ユウがすかさず訊き返した。
今の今まで、ここに来てから一度として、『指輪』という単語は浮上して来なかった。
視線を変え、ユウはシグルドの横顔を窺った。彼もユウ同様、驚きの表情をしている。
「はい。ルイス王子からもらった指輪だそうで、何でもこの国の古いしきたりらしく、王族の婚約者は皆、その指輪をつけていないといけないんだそうです。それで、一週間前のパーティの時、ルイス王子から貰ったとあの子、私に見せに来たんです」
「アンナさんはその指輪を、どこに行く時もずっと身につけていらっしゃったんですか?」
ライラが少し身を乗り出して訊ねる。
ルシールは彼女へ顔を向けると、力強く頷いた。
「ええ。アンナはその指輪を大変大事そうに身につけていました。外す時と言えば、お風呂の時ぐらいじゃないかしら」
「シグルドさん。アンナ嬢の部屋から指輪らしきものは確認されていますか?」
ユウの問いにシグルドは首を横に振った。
「いいえ。そんな報告は受けていません」
ユウはポケットからパイプを取り出すと、素早く口に咥えた。そして、魂が抜けた屍人のように、部屋の中をうろうろと徘徊し始めた。
「その指輪はどんな形でしたか?」
シグルドがルシールに向き直り訊ねた。
「ええと、銀で出来た少し分厚い指輪です。青い宝石がついていました」
「んー。これはもう一度、保安騎士団を呼び戻さないといけなくなりそうですね……」
ルシールから出た新たな情報を聞き、シグルドは腕を組んで呟いた。
彼女のなくなった指輪が果たしてこの事件とどう関わってくるのかは、未だ定かではないが、もし何らかのヒントになるのならば、草の根掻き分けてでも探し出さなければならない。
シグルドは再び低い音で唸った。そしてそこへ、再びライラが口を開けた。
「その指輪は……その、ソフィアさんも身につけていらっしゃったんでしょうか?」
ソフィアの名前を出すことが彼女にとってどのような感情を見出すのか、ライラは重々承知していた。
ゆえに、彼女は恐る恐る言葉を紡いで訊ねた。
「ええ、当然していたでしょうね。知りませんけど」
案の定、むっとした態度で答えたルシール。ライラは少し申し訳なさそうに肩を窄めた。
そこへ今度はソファの後ろを彷徨っていたユウがようやく口を開いた。
「指輪はどこの指にされていましたか?」
「そうですね。左手の、薬指にしていました」
「間違いなく?」
「はい。間違いありません」
ユウはその答えに満足したのか、パイプをポケットにしまった。
そして目線を上げて、今度は窓の横、デスクの上に置かれた一枚の写真立てに視線を止めた。
そこには縦十五センチほどの金枠に入れられた、三人の少年少女が描かれた一枚の絵が立てかけられていた。
「その絵はルシール嬢とスビン王子、それからもう一人は亡くなられたアンナ嬢ですか?」
ユウの目線の先を追って振り返ったルシール嬢は、その絵を見てそっと頬を緩ませて答えた。
「ええ。私たちがまだ六歳のころ、以前この城にいらっしゃった宮廷画家に描いていただいたものです」
微笑を湛えた彼女のように、ライラとシグルドも、同じようにその絵に釘付けとなった。
絵に映った彼らは曇りない表情で共に笑いあい、まるでその絵の中にだけ別の、柔らかい時が流れているかのようだった。
左からスビン、アンナ、そしてルシールと思しき子供が並んだ絵。
もう二度と、この三人がこうして笑い合うことができないのかと思うと、ライラは無性に心が締め付けられるように苦しかった。
ライラは徐に視線をルシールの横顔に向けた。
彼女は涙を流すことはなかったが、その瞳に溜まった潤いは外光に照らされてキラキラと煌めいていた。
皆一様にしんみりとしている中、ユウはふと気になったことを口にした。
「アンナ嬢はいつから、扇子をお持ちになられたんですか?」
ユウの質問を聞いて、ライラは再び絵を見た。
絵に映る彼女は扇子を持っていなかった。
単にこの時だけ持ち歩いていなかったのか、それとも絵に描いてもらうというので他所にでも置いていただけなのか。理由は判然としなかった。
ユウの質問でようやく絵から視線を外したルシールは、目を閉じ、瞼の裏で彼女を思い起こしているかのように、ゆっくり間を溜めて答えた。
「十二歳のころです。ご両親のお仕事の関係で家を離れていた時に、とある街の行商人から購入したと聞きました。
アンナは昔から人とは違うものを求めるタイプで、よく変なものを買ってきては、私やスビンに自慢げに話していました。何でもその行商人の話では、扇子と言うものはすごく便利なものなんだとか。——そんなことをあの子は言っていました。するとその数日後に、ものすごい数の扇子を購入したという話を聞き、ひどく驚いたのを今でも覚えています」
ルシールは再度デスクに立てかけてある絵に顔を向けた。
「でも、今思うとその頃からですね。アンナが本気でご両親のために経済学を学ぶようになったのは。
アンナは昔から物覚えがあまり良くなくて、家庭教師の方によく叱られている場面を見たことがあります。私やスビンはその度に彼女を励ましていましたが、ある日突然、ご両親のお仕事が終わり屋敷に帰省した数日後、彼女は言ったんです。『私は経済学を学んでお父様の力になる』と。
それからですね、苦手だった社交パーティにもたびたび参加するようになったのは。おそらくその時に、ルイス王子とお近づきになったのでしょう。スビンと遊んでいた頃は、一度も顔を合わせたことはありませんでしたから。
そんな彼女を妹のように見ていた私やスビンは、少し寂しい気持ちでいました。——ふふっ、誕生日が彼女より数ヶ月早いだけで、年は同じなんですけどね」
最後にもう一度ふふっと笑い、楽しそうに思い出を語るルシールは、ゆっくりとこちらに向き直ると、
「すみません。話が長くなってしまいました」
顔に笑みを残したまま謝った。
どこか憂いを帯びた微笑み。ユウたち三人はそんな彼女に何一つ、かけてあげられる言葉が見つからなかった。
そんな雰囲気を察したのか、今回初めて彼女の方から訊ねてきた。
「他に何かご質問はございますか? 何でも構いませんよ。あの子のためになるのなら、私はいくらでもお力になります」
「ええっと……」
シグルドは隣にいるライラ、それから後ろのユウに目を移すと、他に何か質問はありませんかと、アイコンタクトを送った。
しかし、ライラもユウも共に首を横へ振ったので、彼はルシールに、
「いえ、もう結構です。長々とお付き合いいただき、ありがとうございました」
深々と礼を述べた。
そんな彼に、ルシールは来た時とはまったく違う、穏やかな口調で答えた。
「また何かお聞きになりたいことがございましたら、どうぞ遠慮なく」
彼女はそう言ってまた微笑みを浮かべた。
初めてきた時とは明らかに異なる対応。
ユウに対して、オスカー侯爵に雇われた探偵に対して刺々しかったあの時の彼女は、今は凪のように心穏やかな様子だった。
しかしそれはどこか虚で、まるで夢の中にでも彷徨っているかのような、そんな不安定な情緒を孕んでいるかのように、ユウには思えた。
別段、彼女が危ない状況だと決めつけているわけではなかったが、しかしこのまま別れるのは何となく気分が悪かった。
礼も述べたので、直ちに退室を図るシグルド。
毎度のごとく彼へ続くため、扉の方へと振り返ったユウ。するとその時、ちょうど目線の先、部屋の天井に吊るされた例の管が目に止まった。
オルカーの部屋にもアンナの部屋にも、それからルイスの部屋にもあったその金色の管を見て、ユウはちょうどいいと思い、ルシールへ振り返った。
「最後にすみません。ずっと気になっていたことなんですが、これは何ですか?」
ユウはその少し広がった管の先端を指差して訊ねた。
ルシールは突然のことでしばし固まっていたが、すぐに元の笑みを取り戻すと答えた。
その瞳は先ほどとは違い、微かにだが、しっかりとした光が宿って見えた。
「それは伝声管です」
「伝声管?」
首を傾げるユウにルシールは丁寧に説明する。
「管を使った一種の通信装置です。大きな船などにも使用されているのですが、最近ではこの城のように、端から端がかなり遠い建物などでも使われるケースが増えているんです。その伝声管の先は全て使用人の部屋へと繋がっていまして、それを通じて、彼らに要件を手早く、楽に伝えることが出来るんです」
「なるほど、そんなものが……」
ユウはふんふんと頷き、好奇心に目を輝かせると、改めてルシールに礼を述べた。そして今度こそ部屋を後にした。
ルシールの部屋の前でシグルドは、胸ポケットから銀の懐中時計を取り出した。
「少し時間がかかり過ぎてしまいましたね。もう二時を超えています」
「では、すぐに次へ向かいましょう」
そう言ったユウに、ライラが訊ねた。
「次はどこへ向かうんですか? オスカーさんのところですか?」
ユウは首を振り答える。
「いや、オスカー侯爵は最後にしよう。次に向かうのは彼を除いて残る一人——スビン王子の元へ行きましょう」
ユウはシグルドの方へ顔を向けて言った。彼は頷くと、
「わかりました。ではこちらです」
と言って、西を目指して歩き始めた。




