第十三話
それはフローリングに広がった血溜まり。とは明らかに濃さが異なる液体の跡だった。
ユウはすかさず床に膝をつき、その液体の跡に鼻先を近づけた。
「これは……インク、かな」
ユウの行動に気づいたシグルドがそれに補足事項を加えた。
「そこにはインクの瓶が転がっていたんですよ」
「インクの瓶?」
「ええ。おそらく、そこの木製デスクの上に置いてあったものでしょう。刺されて膝を崩した際にでも、引っ掛けて落としたんじゃないでしょうか」
「瓶は割れていましたか?」
「いいえ。割れてはいませんでしたよ。蓋が開いていただけです。その蓋も、すぐ近くに転がっていました」
ユウは「ふむ」と一人ごちると、目線を彼から外し、近くにあるデスクを見上げた。
窓の真横に配置された木製デスク。確かに彼の言う通り、インクの後はこのデスクの真下から少しだけ離れた位置に残されていた。
「シグルドさん。そのインク瓶、少し見せていただけないでしょうか」
「いいですよ」
シグルドはそう言うと、再び部下を呼びつけ、インク瓶を持ってこさせた。
「なるほど」
縦十センチはあるガラス製の瓶。やや緑色をしたガラスの底は四角く、口の方は円く作られている。
蓋は回転させるタイプのキャップなのか、螺旋の凹凸が刻まれていた。
中身はすでに二割ほどしか残っておらず、蓋が開いていたせいか、インクは完全に乾いて固まってしまっていた。
ユウは立ち上がると同時に、早々に瓶を部下へと返した。
「この他に落ちていたものはありますか?」
「短剣以外には、百メートル四方の毛布が見つかっています」
「毛布ですか?」
首を傾げるユウに騎士団員は答える。
「はい。素材は簡素なものでしたが、片面には血がべっとり付着しており、中央あたりには穴が空いていました」
「中央に穴……」
ユウは顎に手をやり、しばし考え込むと、
「もしかして犯人が、返り血を防ぐために?」
シグルドは頷き同意を示した。
「私もそう思います。犯人は短剣を抜く際、返り血が飛び散るのを防ぐために、あらかじめ布をかましていたんだと思います」
「となると、かなり周到な犯人だったようですね」
ユウがそう呟きながら思案していると、ベッド周りをうろついていたライラが、突然声を上げた。
「これ、なんでしょう?」
それに気づいたユウとシグルドは彼女の方へと駆け寄った。
ベッド横にあるナイトテーブル。彼女が指差す先には、全長二十五センチはある棒状のものが置かれていた。
よく見るとそれは薄く、細長い板が何枚も重なってできたものだった。板の隙間ごとに紙も挟まっている。
「うわっ、これ——」
それを見た途端、ユウは誰よりも興奮気味に反応をしました。
ユウはシグルドに許可を得ると、素早くそれを掬い取った。そしてライラにも見えるように掲げた。
「これはねライラ。こうやって使うものなんだ」
ユウはその何枚も重なった板の外側を手に持つと、横へとスライドさせた。
すると片端につけられている黒い留め具を軸に、板は曲線を描くように広がり始めた。
それに付随して、厚手の紙がパチパチと音を立てて広がっていく。
「これは、扇子を言うんだ」
扇状に広がった扇子の片面には白と薄いオレンジのグラデーションが施されており、裏返すと反対は無地で真っ白だった。
ライラがユウの手元を見ながら首を傾げる。
「扇子ってなんですか?」
ユウは不敵に笑うと、扇子の端、要がついている部分を握り込むと、自分に向けて上下に揺らして見せた。
「これはこうやって仰いで涼しむ道具なんだ」
「ああ、なるほど。そうやって使うものなんですね」
感心したように拍手をするライラに、ユウは扇子を手渡した。
彼女は受け取ると、しげしげと興味深そうに眺めると、広げたり閉じたりを繰り返し始めた。
それを微笑ましそうに見つめるユウはシグルドへ視線を変えた。
「まさかこんなところにこんなものがあるだなんて、驚きです」
「ユウさんは扇子をご存知だったんですね。私は見たこともありませんでした」
ユウは再びライラの持つ扇子に目を向けると、
「扇子は僕がいた世界にもあったんです。もしかすると僕みたいにこの世界へ転移した人間が、これを作り広めたのかもしれませんね」
「確かに、その可能性は十分にありそうです」
シグルドは扇子をまじまじと見やるとユウに言った。
「広げて気がつきましたが、なかなかに大きいものなんですね、扇子と言うものは。これだけ大きいと、仰ぐだけでもそれなりに力を使いそうですが、彼女は疲れなかったのでしょうか」
そう言われ三たび扇子に目を向けたユウ。
確かに彼の言う通り、女性が持つにはいささか大き過ぎるように感じる。男性の懐ですら入りきらない長さをしているのだ。
ユウは扇子の置いてあったテーブルに目を向けた後、シグルドに訊ねた。
「この扇子は彼女が普段使用していたもので間違いないのでしょうか」
「彼女が愛用していたと言うのは事実のようです。聞いた話では、彼女はどこぞの商人から強く進められて購入したんだそうで、それ以来肌身離さず持ち歩いていたそうです」
ユウはまたもライラの持つ扇子に顔を向ける。
彼女は未だに扇子を閉じたり広げたりを繰り返して遊んでいた。どうやら開閉の際に鳴るパチパチと言う音が気に入ったらしかった。
ユウにもその気持ちは十分に理解できた。だが、さすがに少しやり過ぎである。
「そんなにやってたら壊れるよ」
ユウに注意されたライラはハッとして、「すみません」と扇子を元あった場所に戻した。
「他に何か、気になる点などはありますか?」
シグルドが訊ねる。
ユウは人差し指を上げると、
「最後に一つだけ」
と言って、その指をそのまま部屋の中央に向けた。
「ああ、あれですね」
シグルドは彼の言いたいことを一発で理解したのか、納得する素振りを見せた。
正方形の窓と部屋の扉にお互い背を向くように設置されたソファ。ユウたちはそれを左右に見下ろせる位置に移動した。
二つのソファの間にある楕円形のローテーブルにはカップとソーサー、それから使用された形跡のあるスプーンが二つずつ置かれていた。
カップとスプーンはそれぞれ持ち手が奥へ向いており、その先にはティーセットが添えられている。
それ以外には陶器でできた砂糖壺に、ミルク瓶が一つずつ載せられているだけだった。
「ほぼ間違いなく、これらは被害者であるアンナ嬢と犯人が使用したものですね」
ユウの質問を先回りしてシグルドがそう結論づけた。
「このティーセットは第一発見者でもあるアデラさんがアンナ嬢本人に頼まれて、昨夜遅くに運んだものだそうです。頼まれたのが零時半ごろ、持ってきたのが午前一時ごろ、その時にはアンナ嬢はまだ生きており、間違いなく本人に手渡したそうです」
「手渡した?」
ユウが疑問を抱き、シグルドの説明を止めた。
「普通なら室内まで運びませんか。どうして手渡しなんです?」
「ええっとですね。零時半ごろ持ってくるように頼まれた際、部屋にルイス王子が来ていたそうです。ですが、一時ごろに持って行くと、ちょうどルイス王子が部屋から飛び出してきて、彼はそのまま部屋を後にしてしまったそうなんです。アデラさんはどうしたものかと迷ったそうなんですが、ちょうど部屋から顔を出したアンナ嬢がそれを引き取られた。彼女自身は室内まで運ぶと言ったそうなんですが、アンナ嬢にやんわりと断られてしまったそうです」
ユウはシグルドの話に耳を傾けながら、ポケットに忍ばせていたパイプを取り出すと、口へと加えた。が相も変わらず、火をつける気配はない。
「ルイス王子はその時のことを何と?」
「職務が滞っていたので急いで部屋へ戻ったと、そう証言しています」
ユウはローテーブルの一点を見つめたままパイプから口を離すと、ころっと話題を変えた。——と言うよりも、変えすぎたのである。
「ソフィア嬢は左利きでしたか?」
「は?」
あまりにも唐突すぎる質問に、シグルドは思わず騎士にあるまじき言葉が喉の奥をついた。
ユウは止めていた視線をその場から外すと、シグルドの目をまっすぐに見つめて、再度同じ質問を繰り返した。
「ソフィア嬢の利き手は左でしたか?」




