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龍の目玉  作者: 馬之群
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来し方

情に絆されて任務を全う出来ないようなことはないけど、やはり不安はぬぐえないですね。失敗したら何もかもお仕舞いですから。

黄泉は真夜中に起き上がり、形代を寝床に就かせると、薄氷に眠りの術を掛け、家を捜索する。あっさりと氷獄を発見し、拍子抜けする。

血が付いている。呪術でしょうね。解呪するには本人の血でも難しそうですね。呪術は苦手なようですが、これは一級ですよ。

黄泉は一通り調べ、あることを発見する。外から本人以外の誰にも壊せないけど、中からなら簡単に壊せそうですね。

『そういえば金烏、俺様が見ていない所で黄泉と話をしていたな。何の話だったんだ?』烏兎は手から焔を出し、木の実を炙っては口に放り込んでいる。

『そなたと儂は対等ではないぞ。教えてやる義理などないわい。』金烏は乾いた笑い声を立てる。

『別にいいさ。』烏兎は翼の手入れを始める。

「走馬燈、私と心中でもする気か?もう少し真剣に取り組んでもらわないとどうにも出来ないからな。」

時忘は少しでも集中が切れると髪が黒く染まっていく走馬燈を見かねて天を仰ぐ。このままでは到底間に合いそうもない。

「休憩だ。一時にやるとかえって効率が悪い。」

時忘は走馬と部屋に入ると腰を据える。走馬は何の気なしに時忘に話しかける。

「それにしても母さんも酷い人だよね。時忘の気も知らないで僕の世話なんて押し付けて。本当は僕のことなんて顔も見たくないはずでしょ。」

時忘はクスクス笑うと、走馬の方に詰め寄って顎を手で持ち上げる。走馬は驚くが、静かにその手を払い除ける。

「黎明姫を悪く言うのはたとえ実の息子でも癪に障る。このくらいで済んでいるのは黎明姫の恩情と言える。私は大罪を犯したからな。詮索したいなら好きにすればいい。」

「そんな目に合っても母さんを庇うのか。そんなに母さんのことが好きなら尚更何故僕のことをこんなにも気に掛ける?憎くないのか。」

時忘は淡褐色の瞳で走馬の左目を注視する。走馬は赤くなって視線を逸らす。

『言いすぎだぞ走馬。謝れよ。』

「安心しろ。私は黎明姫が悲しむようなことはしないさ。君や走馬燈が自分の身を案じて牙をむいたとしても、私の方からやり返すことはない。」

時忘は走馬に目隠しを着けると、再び庭に向かう。

厄介な行事だわ。三上の儀なんて、黒彼岸の格好の機会ですもの。人質になりそうな弱い妖怪が雲霞の如く集まるし、黒彼岸なら難なく入り込めるわ。警備を増やすことは出来るけど、限界があるわね。この件を公に出来ないのはどうしようもないもの。

「黎明姫様、式の段取りが決まりました。一読下さい。」

こっちはそれどころではないのよ。なんておくびにも出せないから仕方ないわ。奇跡でも願って儀式の無事だけ考えていましょう。

『どうするんだ、まだ数刻しか持たないじゃないか。このまま向かうのは自殺行為だ。』

『帽子を被って過ごすさ。母さんも俺から離れずにいてくれると言ってるし、何とかなるはずだ。』走馬燈は着せ替えされながら走馬と話す。

「おい、何故此処にいる。おまけにあの女まで連れてきて…。いくら走馬燈の友人とはいえ、招かれざる客は入れられない。」時忘が誰かを叱っている。

「正式に招かれていますよ。お生憎様でした。ちょっとしたツテがありますから。」

「薄氷、来てくれたのか。時忘、通してくれ。近頃は碌に話も出来なかったんだから。薄氷、直ぐに会いに行くから少し待っていてくれないか。」

時忘は走馬燈の言葉で直ぐに引き下がる。

「黄泉ちゃん、どうせなら目一杯旨いもの食べていこうよ。タダだもんね。流石羽振りがいいや。」薄氷は最低限のマナーは守りつつも食べあさっている。

薄氷は急に立ち止まった河童に衝突してしまう。

「ちょっと、急に止まらないで頂きたい。」

「悪かったね、お若いの。どうにも年のせいか目が悪くてね。死んだはずの方が見えるなんて。でもあの艶やかな黒髪は黎明姫様とあの方の他には終ぞお目にかからないもんで。」

「お初にお目にかかります。走馬燈です、お爺様、お婆様。」走馬燈は深々と頭を下げる。

「急にこんなに大きな孫に会えるとは夢のようだ。おまけに盲目の三の方とは。」

『失礼な。孫の目が見えないことを喜ぶとは。』走馬は第一印象から気に食わなかったらしい。

「婿殿、我々は妙な噂を耳にしましたよ。貴殿が黎明姫を放っておいて名家のお嬢様方と夜な夜な遊び歩いているとか。」

空気が一瞬で凍り付いたな。この上に俺のことまでバレたら時忘は間違いなく無事では済まない。これはどう誤魔化そうというのだろう。

「本当のことですよ。全ては私の方から持ち掛けた話です。お陰でかなりの権力を掌握しました。それでは義母上は私をどうなさるおつもりでしょうか。」

目が見えなくても荒々しい気迫が伝わってくる。冗談じゃない。

「我々に手を下す度胸がないと思ったら大間違いですよ。今日は見逃しますが、気を付けることね。」時忘は唇を歪める。

あれ?意外と見逃すのか。拍子抜けしたな。

「そこまでよ。今日は私の言う事を聞いて頂戴な。折角家族全員が初めて一堂に会したのですもの、我が儘くらい良いでしょう。」黎明姫は有無を言わせない。

「家族全員?つれないことを言うなぁ、姉上。ボクはもう死んだから家族じゃないって?」

黒彼岸の声だ。姉上って…誰に向かって姉上だって?

「黒彼岸…そんな馬鹿な、貴女は確かに百年前に…何者だ。正体を明かせ。我が娘の名を騙ろうとは不届き者め。」

黒彼岸は笑い出す。走馬燈は静かに怒りに満ちていく。

「義兄上も姉上も何も伝えていなかったというわけか。ボクは可愛い甥っ子に忠告しに来ただけだよ。ついでに姉上の長寿を祝ってね。」黒彼岸が傾けているであろう盃の音が響く。

「その通り、ボクは百年前に夫の永訣と共に一夜にして亡くなった黒彼岸。龍族の今生三人しかいない三の方の一人にして黎明姫の実の妹。本人に間違いないことを証明するために暫くあの夜本当は何があったのか話そうと思う。腐りきったこの家に乾杯。」

「黒彼岸様、済んだ話を蒸し返すのはお止め下さい。人目もあります。」時忘が遮る。

「結界くらい張っているさ。それに真実を隠したのはキミだ。義兄上。下手にボクの機嫌を損ねない方が身のためだ。」時忘はそれでも必死に頭を働かせているようだ。

「ボクは永訣という、義兄上とは対立する家元の次男を婿にして、二人で暮らしていた。永訣は医学に精通しており、慣れない結婚生活の疲れのためか、度々体調を崩していたボクに薬を煎じてくれた。」

祖父さんと祖母さんの様子がおかしい。それに時忘が慌てるのも妙だ。

「ある時、永訣は荒療治になるが、必ず治すと言って強い薬をボクに差し出した。それを飲んで暫くして、ボクは高熱を出し、眩暈や吐き気も酷くなって、臥せってしまった。相当に体調は悪かったが、ボクのためを思ってくれた永訣に義理立てて、薬の件は黙っていた。」

黒彼岸は髪を手ですき、勿体ぶって言葉を継いだ。

「その後最初に見舞いに来たのは父上と母上だった。それから数日後、義兄上が見舞いに来た。そしてその晩、ボクと永訣は亡くなった。姉上、世間的にはボクらの死はどういった風に説明されている?」

「貴女が病死し、嘆き悲しんだ永訣が後を追って死んだと。でも本当は時忘が貴女を病気にさせたことで永訣を責め、口論になった末にうっかり永訣を死なせてしまった。それを見た貴女は容体が急変して亡くなったと、時忘はそう言っていたわ。」

黎明姫の声には棘がある。走馬燈は時忘の言う大罪の正体が分かった。

「両方不正解だ。義兄上は独り泥を被って事を収めようとしたみたいだが、ボクは決して赦さない。あんな奴が美談にされているなどとは虫唾が走る。姉上、永訣を殺したのはボクだ。明確な殺意を持って殺した。一切後悔していないし、寧ろまだ腸が煮えくり返りそうだ。」

黒彼岸は下唇を噛む。

「義兄上は見舞いに来た時、真っ先に永訣の部屋を見に行った。そこはボクも立ち入ることを許されていない研究室だ。程なくして永訣と義兄上が口論している声でボクは目覚めた。その内容にボクは耳を疑ったよ。」


「永訣殿、これはどういう事ですか?この資料は黒彼岸様に薬物を投与して結果をまとめたものだ。貴殿は黒彼岸様をモルモットのように扱ってこられたのですか。丁度黒彼岸様が倒れられた時期に、後天的に『盲目の龍』を作り出す薬を投与したとあります。何か弁解がありますか。」

時忘は手に資料を持ったまま永訣に詰め寄る。

義兄上は何を言っているのだろう。まるでボクの今までの体調不良は永訣のせいだったかのような物言いじゃないか。

「あれは失敗でしたね。ですが時忘様、この研究は後世の子孫のために大いに役立ちますよ。この研究さえ成功すれば我々は最早妖力ごとに生まれた時から将来を決定づけられることもない。他の妖怪には到達しえない高みに登れます。天照にも怯える必要がなくなる。」

永訣は狂気に満ちた瞳で真っ直ぐに時忘を見つめて語る。非常に楽しそうに語る様に時忘は拳を握り締める。

「黙れ。君の勝手な理屈に黒彼岸様を巻き込むな。この件は義父上と義母上に報告させてもらう。」永訣は更に口角を上げる。

「無駄だよ。冷静に考えろ。あの方たちがお気付きでないとでも?これを指示したのは誰で、資金を提供したのは誰だ?」

その時に初めて言いようのない、心の底からの怒りを覚えた。

黒彼岸はその会話が全て聞こえていた。それでも体を動かせる体調ではなかったが、次の一言が逆鱗に触れる。

「良かったな、黎明姫様じゃなくて。それもそうだろう。あの方は妖力では黒彼岸に劣るが、黒彼岸の方が気も弱いし、言い包めるのが楽だ。」

黒彼岸は最期の力を振り絞り、永訣の胸に飛び込むと、躊躇うことなく喉笛に噛み付く。永訣の喉から迸る赤い血潮を見ると、黒彼岸は鬼の形相で地に倒れ伏す。


皆の視線が黎明姫の両親に注がれる。

「ボクにはこの程度しか分かっていない。義兄上、補足してくれないか?」

「私は…黒彼岸様が永訣殿を殺したとき、割って入る余裕もあったのに…見殺しにした。それだけは今も悔やまれる。その後何故私があのようにことを収めたのかご説明しましょう。」


「永訣殿、今手当てします。お気を確かに。」時忘は永訣の方に駆け寄る。

「母様?…永訣です。一言…名を呼んで…下さい。」永訣は時忘の頬に触れ、息も絶え絶えに懇願する。

「…永訣。」

永訣の母は龍の身には珍しく特に病弱で、次男の永訣を産んだその日のうちに息を引き取った。恐らくは幼い頃から心無い言葉を散々聞かされてきたのだろう。私は永訣の瞼を閉じて手を合わせた。死に顔は心なしか穏やかだったように思う。

「黒彼岸様はもうとうに息を引き取っておいでですね。」

私は徐々に頭が回るようになってきた。龍族の一番の御法度は身内殺しだ。おまけに御両親共に味方となって下さらないかもしれない。そうすれば黒彼岸様の亡骸は正式に埋葬して頂けないと思った。いくら何でもそれでは不憫だ。

一族からそのような不名誉を出すくらいなら、いっそ誰かに罪を擦り付けようと思った。偽装など出来そうもなかったから。だが、いくら考えてもお二人を殺める動機も能力も持っているのは私以外考えられなかった。

私は偽装のために永訣の喉を風の刃で掻き切った。

これが義父上と義母上に最初にお会いしたならば、こちらの情報をもとに交渉すれば上手くとりなして頂けただろうが、黎明姫も一緒に現れた。そこで私は黎明姫に嫌われたくないという個人的な感情と一族の平穏を天秤にかけ、先程黎明姫が言ったように伝えました。

義父上と義母上は私が事の顛末を知っているかもしれないと知ったら、私の口を割らせるまでは生かしておくでしょうから。逆に永訣が嘘を吐いていたならば私は一族の名誉のために葬られたでしょう。一世一代の賭けでした。

「嘘よ。…黒彼岸、目を開けて。」黎明姫は目を潤ませる。

「このようなことが世間に明るみになっては困る。これはここだけの秘密にします。いいですね?」

「何てことを言うのですか。母上。事故なんかじゃないわ。時忘はわざと殺したのよ。事故で永訣を殺せるはずがないことはご存じでしょう。」黎明姫は時忘を睨む。

「殺意はありませんでした。どうかそれだけは信じて下さい。たとえ死罪となろうともそこだけは誤解を受けたくありません。特に黎明姫、貴女には。」

私はその時の黎明姫の表情を生涯忘れることはないだろう。黎明姫に嘘を吐いたのは私の方だ。黎明姫は悪くない。そう思っても私の心は凍り付いてしまった。あの瞬間、黎明姫の夫である時忘という男は死にました。

その後義父上と義母上に私は糾弾されましたが、私は既に何も恐れるものがなかったものですから、かえってお二人を脅しました。立て続けに三人も死者を出せば、呪われた一族との評判が立ち、没落は免れえないと。私もこの事実を公表する気など更々なかったですが。


「そんな…それでは私は…時忘、貴方になんて酷いことを…。百年間も一人で耐えてきたというの?」黎明姫は膝から頽れた。

「黒彼岸様、それよりも気になるのは、あの時貴女は確かに息を引き取っておいででした。確かに別の妖怪に変化する事例はありますが、それは禁忌中の禁忌、代わりの命を生贄にせねば成り立たないと思います。永訣殿は既に亡くなっておられましたし、生贄は誰ですか?」

時忘は黎明姫から目を逸らす。

そんな過去があったなんて。何が地位だ、身分だ。こんな馬鹿げたことをしないと存続出来ないような家など滅びてしまえ。俺は利用されないぞ。

「…そうだ。ボクは一体誰を犠牲にして甦ったのかを知るまでは、キミたちを皆殺しにしようとまでは思わなかったさ。永訣はもう死んだからな。誰だと思う?最も身近で、その人が殺されたなら何を措いても復讐しようと思える人は。」

『まさか…黒彼岸はその時…妊娠していたのか?』走馬が呟く。

「誰が甦らせてくれと頼んだ?そのまま死なせて欲しかった!永訣は死ぬ前にボクに薬を打った。まだ世間に公表すらしていないほど最近知ったことだったのに。何故もう少し待ってくれなかった。精々一年足らずで良かった。これでボクがこのまま死んだらあの子の死は一切意味がなかったじゃないか。」

走馬燈は混乱していた。この女は父さんの仇だ。それなのに…ここで俺が復讐するなら俺と彼女に一体どれほどの違いがあるというのだろう。

「走馬燈、ボクと一緒に来い。こんな腐りきった家にいてはキミも利用されて一生を終えるだろう。ボクには当面はキミの右目だけあればいい。キミに怨みもない。」

黒彼岸の左手を走馬燈は払い除ける。

「黙れ。俺はもう心を揺るがせたりするものか。お前は罪なき人々を殺し、父さんを殺した。お前に利用されるくらいならこの家を根本から俺が変えてやる。」

頭がクラクラする。走馬と入れ替わってしまう。時間がない。

「残念だよ。キミがうんと言ってくればこの妖怪たちは無事だったろうに。」

黒彼岸の合図で客の一人が白露に変わる。彼はそのまま客を襲いだす。時忘や黎明姫は白露と戦おうとするも、周囲の客を人質にされ、身動きが取れない。

「黄泉ちゃん、あれはあんたの仲間だったね。…行かないで。あんたはいい人だ。離れていかないでくれ。」

薄氷は黄泉の袖を掴む。黄泉は振り解こうとするが、薄氷は黄泉を抱きしめる。黄泉の動きが止まる。

先程の河童の首が転がってくる。白露はもう走馬燈の下に随分と迫っている。黄泉は薄氷を突き飛ばす。

「やぁ、走馬燈。いや、おめぇは走馬か?まぁいい。あばよ。」白露は客の陰から走馬を急襲する。

『走馬、避けろ!』

走馬は目を瞑るが、何の感触もない。ドサッという音に目を開け、恐る恐る目隠し越しに覗く。白露が膝を付き、黄泉がべっとりと返り血を浴びている。

「黄泉…何で…。これも芝居なんだろ?そうだと言ってくれ。」白露は本当に動揺している。

黄泉は渾身の一撃が白露にそこまでダメージを与えられなかったため白露から距離をとる。黒彼岸は驚いたように暫く棒立ちになっていたが、黎明姫からの攻撃をすんでの所でかわす。

「動くな。私の傍から決して離れるなよ。」時忘は走馬を庇う。

「黄泉、何でだ!話をさせてくれ。」白露は叫ぶ。

白露は黄泉からの攻撃をかわすが、自分からは威嚇程度の攻撃しかしていない。それでも白露は何度呪術で攻撃されても顔色一つ変えない。黄泉は隙を見て呪術をかける。白露が一瞬反応を遅らせた隙に白露の心臓に手を押し当て、印を記す。白露の心臓が止まる。

「白露ッ。」黒彼岸はそちらに気を取られ、黎明姫に負傷させられる。

嗚呼、最初に会った時と同じ顔してんじゃねぇか。黄泉、すまねぇ。オレぁずっとおめぇを泣かせてばっかいる。もうおめぇの気持ちを分かってやれる奴ぁいなくなっちまったな。

白露は黄泉の瞳を見据え、最期に唇の端をフッと持ち上げる。黄泉に向かってゆっくりと手を伸ばすが、その手は虚空を掴んだまま地に墜ちる。

『死んだのか…?信じられない。』走馬燈が呟く。

黒彼岸は勝機がないと悟ると、助かる見込みのない白露を見捨て、一人で人質を取って窓から外に脱出を試みる。黎明姫は黒彼岸を追うが、時忘は無駄だろうと思って走馬の下を離れようとはしない。

走馬は白露の脈をとる。止まっている。薄氷が駆け寄ってくるが、時忘は近付けさせない。時忘は黄泉に向き直り静かに問い質す。

「この青年は君の仲間だったはずだな。説明してもらおうか。」

お察しの通り妾はこちらで情報を集め、あわよくば目を奪うために派遣された諜報員に御座います。而して妾は行きがかり上詮無くあの方々の側に与しておりましたが、あの方の人もなげな立ち居振る舞いたるや筆舌に尽くしがたきものが御座いました。あのままでは孰れ落命は必至、そこで彼のものの一命と引き換えに正式にお味方に加えて頂きたいと存じます。

これも罠なのか?しかし、ただでさえ相手方には手駒が少ない。信用を得られるかも定かでない方法のために彼ほどの戦力を手放すとは考えにくい。この女は顔色一つ変えることなく彼を殺した。一方の彼も黒彼岸様も何も知らないようだった。一理ある話だ。

「小僧、この女はもう暫くお前が見張っていろ。」

「時忘、口を挟んで申し訳ないが、白露の遺体を葬ってあげたい。どうやら孤児で埋葬してくれる身内もいないようだから。」走馬燈が無理に体の所有権を取り戻す。


白露は草の上に寝転んで微睡んでいる。急に飛び起きると一点を凝視する。

「誰だ。」

おずおずと姿を現したのは紫の髪の無表情な少女だった。

「驚かせて悪かったな。なんだってそんな木の裏で泣いてんだ。暇だから話くれぇ聞いてやってもいいぜ。」

黄泉は全く表情を変えることなく立ち尽くしている。顔には涙の痕など微塵も見えない。

「何をそんなに驚いてんだ?なんかマズいこと言ったか?取り敢えず隣に座れよ。怖がんな。なんもしねぇからよ。」

黄泉は字を書く真似をする。白露は笑って言う。

「オレぁ字が読めねぇんだ。だがよ、おめぇの言いてぇことくらいなら何となく分かるぜ。それじゃ不十分か?」

その時も黄泉は表情を崩さなかったが、恐らくは笑っていたのではないだろうか。暫く二人は無言で座っていたが、ふいに白露が声を上げる。

「おい、どうしたんだよ。急に泣き出して。」

白露は黄泉の肩を抱き寄せて黄泉の涙が枯れるまで寄り添っていた。秋日に照らされた二人の影はどんどん長くなっていった。


「それでは俺たちはこの辺りで失礼させて頂きます。」薄氷が一礼した拍子に何かを落とす。走馬燈が拾い上げる。

「薄氷、これ…。」何だ?タイルに紐を通してネックレスにしたような代物だ。

薄氷はサッとひったくると、しまったという風に走馬燈に謝る。走馬燈は好奇心を必死に抑えて笑顔を取り繕う。

「いつも持っているのか?」時忘が薄氷の耳元で低く囁く。ニヤリと唇を歪めている。薄氷は完全に無視する。足早に帰っていく。

「俺、何か気に障るようなことをしただろうか。」走馬燈は時忘に言う。

「気にするな。君が悪いわけではない。私の口から言うのも野暮だから、本人が話すつもりになるまで待ってやれ。」思わせぶりな口調ではぐらかす。

『癪に障る。いつも蚊帳の外じゃないか。黄泉の処遇についても一人で決定した。時忘は秘密主義が過ぎる。』走馬は愚痴をこぼす。

嗚呼、白露。一切相談もなしにこんなことをした妾を怨んでいるでしょうか。でも、これしか貴殿を救う方法はなかったのです。大丈夫、禁術とはいえ、この手の術は得意ですもの。どうか、無事に成功しますように。

黄泉は氷獄の前で佇むと、白露の胸に描いたのと同じ印を刻む。すると、氷獄内の灯馬の瞼が微かに震える。灯馬はゆっくりと瞼を開ける。目は焦点が合わず、虚ろである。体を起こす隙間もない空間なので、天井を手で確かめる。

上手くいったみたいですね。本当に良かったです。暫くは妾の妖力を運ぶことにして、十分に回復したら二人で逃げましょう。

突如轟音が轟き、氷獄は粉砕される。黄泉は間一髪破片をかわす。黄泉は驚いて目の前の人の瞳を見据える。黒い左目と紺色の右目。灯馬は体に慣れようとしてか、腕を曲げ伸ばししていたが、黄泉と目が合うと、急に襲い掛かる。

高価そうな螺鈿細工の櫛が落ちる。箪笥の隙間に消えていく。

「誰だ!」薄氷が勢いよくふすまを開ける。その一瞬前に灯馬は天井裏に逃げ込んでいて、薄氷の目に映ったのは壊された氷獄と気を失っている黄泉だけだ。薄氷は直ぐに黄泉を介抱する。

「気が付いた?何があったのか話しては貰えないかな?あの人と走馬燈の目を盗んだのは誰なのか。」

まだ意識もはっきりしないうちにあの右目と同化して妖力を蓄えてしまうとは予想外でした。このまま白露が発見されれば白露の身が危ないでしょう。どうか上手く隠れて下さい。

「分からないならいいんだ。俺は今すぐこの件を知らせないといけない。待っててくれる?」黄泉は頷く。

「何ですって?トウがいなくなった?右目も持ち出されるなんて。」黎明姫は薄氷を睨む。

「黎明姫、今は責任を追及している暇はない。万一黒彼岸の仕業だったら一大事だ。走馬燈、その後制御は出来るようになったか?」時忘は問う。

『そもそも今既に走馬と代わってしまってるんだよなあ。』走馬燈は走馬に話し掛ける。

時忘の言う通りだ。この状態ではまともな戦いなんて出来そうもない。俺の目がどれ程危険なものなのか皆目見当がつかないけど。

薄氷は黄泉の世話のために家に帰る。それを待っていたかのように時忘が走馬に言う。走馬は目隠しを既に取っている。

「怒らないで最後まで聞いて欲しい。走馬燈の状態はこれ以上良くなる見込みがない。現状を打破するには…『食事』を摂る以外にない。千里が言うには、走馬燈は一度も食事をしていないのだろう。そんな状態で妖力を遣い続けては生命力が枯渇する。」

『人間しか…それも生きた人間しか食べられないと知っての発言なのか?正気の沙汰じゃない。死んでも御免だ。』走馬燈は珍しく怒っているようだ。

「口を噤みなさい。この子は半分人間の血を引いているのよ。三大禁忌を犯せと言いたいのかしら。」黎明姫は時忘に強い口調で迫る。

時忘はたじろぐことなく反駁する。ずっと以前から考えていたようだ。

「何も喰い殺せと言っているわけではない。他に方法があるなら私だってそうしたいが、これだけは妥協できない域に達している。覚悟を決めなければ。」

走馬の脳裏にはかつての血と唾液の胸がむかつくような味がチラついている。あの痛みを思うと、時忘の正論に諸手を挙げて賛成など出来かねる。皆殺しにあった同級生の顔が浮かんでは消えていく。その一線を越えるなら、僕は殺人者も同然だ。

黎明姫と時忘が言い合う声が木霊する。走馬燈は僕に気を遣ってか押し黙っている。走馬は拳を握り締め、震えていたが、ふいに大声を上げる。

「五月蠅い!本人の意思を確認せずに勝手に話を進めるなよ。僕の立場はどうなる?人間でありながら…ただ黙って同胞が自分の養分となっていく様を指を咥えて見ていろと?冗談じゃない!もうたくさんだ。走馬燈の決断なら尊重するが、部外者が口を挟むな。」

黎明姫と時忘は呆気にとられたように走馬を見ている。走馬は二人が何か言う前にさっさと部屋を後にする。

『走馬…ごめんな。このままじゃ俺はお前も道連れにしてしまう。いっそその前に…。』

『何言ってんだ。これは僕ら二人の問題だ。お前一人が気に病む必要など更々ないからな。自惚れるな。』

これが俺一人なら他の人の犠牲の上に生きるくらいならと思うが、走馬が不憫すぎる。何も悪くないのに。もう片方の目を抉れば済む話だが、それでも一生十字架を負うだろうし、本当は俺も走馬と一生共に歩みたい。

「走馬様、お食事をお持ちしました。」千里が声を掛ける。

走馬は目隠しを着ける。走馬燈は箸を取ると、慣れない手つきで食材を摘まもうとして失敗する。目が見えない上に箸の持ち方もなっていないから当然だ。千里は一切訳を聞かずに走馬燈の代わりに口元に秋刀魚を運ぶ。走馬燈は匂いを嗅いで一気に口に含む。

走馬燈はむせ返って吐き出す。千里が口元と床を拭う。

「悪いけど、このまま少し手伝ってくれない?何か食べられる物があるかもしれない。」

千里は味付けを工夫した料理を作ったり、様々な食材を試したりするが、走馬燈は全て吐いてしまう。この程度のことで解決出来るなら、最初から誰かしら知っているはずだと分かってはいても試してみずにはいられなかった。

「時忘は留守なのね。それではここで待たせてもらうわ。」黎明姫は時忘の館で一反木綿に言う。

「申し訳ございません。お食事などご用意致しましょうか。」

「結構よ。下がっていて下さる?」黎明姫は既にちゃぶ台に突っ伏している。

誰か来るわね。時忘が帰ってきたのかしら。

黎明姫が戸を開けると、そこにいたのは九尾の狐だった。相手も驚いたように黎明姫を見つめるが、何者なのかは直ぐに分かったようだ。

「これは黎明姫様。ここにはどのようなご用件でいらしたのですか?あまりに拝謁するのが久しくて、一瞬何方かと思いましたよ。」キンキンと耳障りな甲高い声が響く。

「妻が夫の家を訪ねるのに理由など要るかしら。それに貴女に教える義理はないわ。」

一反木綿は一層白くなったように思われた。黎明姫は毅然とした風格で佇んでいる。九尾の狐もこのくらいでやり込められる器ではない。

「お気分を害されたなら申し訳ございません。こちらは賤しい生まれの獣ですから、生まれながらに許婚がいらっしゃるような高貴な方の耳には好ましくないでしょう。あたしは欲しいものは待ってなどいないで自分の手で掴み取りますの。」

黎明姫はフッと微笑んで答える。

「そうね。時忘と同じように私も苦労をしてこなかったから、貴女とは話が合いそうもないわ。どうぞ時忘と仲良くしてやって頂戴な。私は邪魔なようだから帰るわ。」

「いえ、黎明姫様を追い返してしまっては申し訳ないですから、あたしが帰りますよ。時忘様に宜しくお伝え下さい。」

悔しい。絶対に棄てられることもないし、時忘様の御心は永遠にあの方のものだ。不公平だ。高貴な方には高貴な方なりの悩みがあるのでしょうが、そんなものは欺瞞としか思えない。一度どん底に堕ちてから同じことが言える人はどれだけいるの?

時忘には悪いけど、仮に百年前のあの事件が無くても、私は彼の人を心から愛することはなかったと思うわ。嗚呼、灯馬。貴方がいないなら私ばかりこの先の永い時間をどうすればいいの。


「あら、トウ、それは何?」黎明姫は灯馬が後ろに隠している物に気付く。

灯馬は貧乏な少年がお小遣いから懸命に買ったような、安っぽく似合わない服を無理に着込んでいる。頬を赤らめて花束を差し出す。紺色の桔梗だけをまとめて赤いリボンで括ってある。

「誕生日は過ぎちゃってるけど、おめでとう、レイ。レイに似合う花をと思って探したんだ。アクセサリーの類は贈るまでもなく持っているだろうから。」

黎明姫は顔を綻ばせる。灯馬にしか見せない可愛い笑顔だ。

「私の目の色ね。嬉しいわ。一番素晴らしい贈り物よ。」

「それも一つの大きな理由だけどね、もう一つあるんだ。この文化は妖界にも共通なのか分からないけど。花言葉って知ってる?」

灯馬は黎明姫の紺色の瞳に映る自分を眺めながら花言葉について解説する。自分で言うのは野暮だと思わない辺りが初々しくて黎明姫は一層愛おしく思う。流石に桔梗の花言葉は教えなかったが。こうして何度もただ会って数時間話すだけの関係を続けていた。

「黎明姫、最近頻繁に人間界に行っていますね。妙な噂を耳にしました。今後はそのような軽率な行動は慎んで下さい。」

時忘の言葉は遠くから響いて聞こえる。時忘は黎明姫のその様子を見て、最悪な想像が的中しているのではないかと疑心暗鬼に陥る。

「黎明姫、何も二度と行くなとは言いません。ほとぼりが冷めるまで待つか、絶対に周囲に悟られないようにして頂けるならば私には何も言う資格がないですから。」

こちらが全面的に悪いのにその低姿勢な物言いが腹立たしい。惨めになるだけだからいっそ怒鳴られた方がマシだわ。

「いいえ、もう行かないわ。忠告ありがとう。」

黎明姫はその後暫く枯れていく桔梗を眺めて日々を送っていたが、食事は次第に喉を通らなくなっていった。百目鬼だけが焦っていく。黎明姫も自分でこれではいけないと分かっていたが、どうしても生き物を食べる以上、気分によっては全く食べられない日が続く。

「黎明姫様、時忘様がいらしています。何方か男性をお連れです。」

「通しなさい。」黎明姫はフラフラと立ち上がる。時忘の連れを見て息を呑む。

「トウ、何故此処にいるの?時忘、貴方は一体何をしたの。私は約束通りあれから一度も会っていないわ。」

灯馬が時忘に代わって説明する。

「レイ、違うんだ。時忘さんはレイが病気だからと見舞うように案内してくれただけだ。具合は大丈夫なのか?」時忘が口を開く。

「黎明姫、貴方には悪いが、灯馬殿の人となりを少し調べさせて頂きました。性格もいいし…貴女を幸せにしてくれると思います。私といるときの貴女はいつもとても辛そうだから。…これ以上私に気を遣わないで。公には私との結婚生活を続ければ問題ないでしょう。」

灯馬はギョッとしたように時忘の方を向いて言葉を失っている。時忘と黎明姫は暫く互いを見つめ合っていたが、黎明姫が耐えられないように目を逸らす。

本気で言っているなら時忘、貴方ほどの愚か者はいないわ。嫉妬でトウを殺すなら分かるわ。何故公認で譲ってやるのよ。私は貴方の妻なのに。私がとんでもない悪女みたいね。元はと言えば貴方が妹を死なせたくせに。罪滅ぼしのつもりかしら。

「見くびらないで。私もそこまで傲慢じゃないわ。私一人の我が儘で何人も不幸にするような女だと思うの?」

「黎明姫、貴女が一身にその不幸を負わなくても良いでしょう。これは人並みの権利ですよ。」

灯馬はこんな会話に割って入るには余りに若すぎた。そうでなくとも妖怪でない彼は成り行きを見守る以外になかった。当時の彼は十五歳。今の走馬、走馬燈と同じ歳だ。こんな修羅場が急に現実になっても対応なんて出来るはずもない。

「灯馬殿、今誓って下さい。必ず彼女を幸せにすると。そうしたら私はもう何も言いません。」時忘の哀し気なヘーゼルナッツの瞳で見つめられ、灯馬は決心する。

「誓います。自分の方が先に死にますが、命ある限りレイと共に歩みます。幸せに出来るかは分からないですが、最大限の努力をします。」


「逝かないで、トウ。」黎明姫は飛び起きる。悪夢を見ていたらしい。

黎明姫の頬を涙が一筋伝っている。慌てて手で拭う。黎明姫は外の空気を吸いに縁側に出る。そこにあった物を見て驚愕する。

「トウ、トウなの?何処にいるのよ。出てきて、お願いよ。私をまた連れ去って。」

黎明姫の右手にはしっかりと桔梗の花が握り締められている。悲痛な叫びは空に吸い込まれて消えていく。灯馬が黎明姫の下に現れることはなかった。

時忘の家から帰る道中、狐は何者かにつけられているのを感じ取る。敢えて人気のない裏道に入り、相手に向き直る。何の用か問い詰めると相手はいけしゃあしゃあと答える。

「天狐とか言ったか?時忘の客の一人の。時忘について耳寄りな話があるんだが聞きたくないか?」顔を隠した男が九尾の狐に声を掛ける。深紅の翼。烏兎だ。

「あんたは一介の烏天狗だろう。何故そんなにも尊大な態度をとる?余程有用な情報なんだろうね。」

「時忘は黎明姫に良いように利用されていると思わないか?このままでは彼は骨の髄まで貪られてしまう。黎明姫と時忘の関係は冷え切っているのだから、ほんの少しきっかけを与えてやりさえすればいい。ところがそれを出来る人物は限られている。」

金烏が天狐の肩に止まる。その瞬間天狐は小さく身震いする。金烏は気に留めずに嘴で天狐の耳に何か囁く。

「あんたの言う通りだ。あたしは何をすればいい?」

金烏は天狐の肩を蹴って烏兎の下に羽ばたく。烏兎は懐から幾通かの手紙を取り出して渡す。天狐の目は虚ろになっている。

「簡単なことだ。ただこれを差し出し人が分からないように気を付けて時忘に渡すだけでいい。」

「時忘様にご迷惑をお掛けするのは嫌だ。危険なものだったり、時忘様の立場が決定的に危うくなったりする類の書ではないよな?」痩せても枯れても妖狐である。完全には術が効いていない。

「誓って黎明姫と時忘の仲を悪くするだけだ。俺様も時忘を成るべくなら傷つけたくはない。」

烏兎は唇の端を歪める。ここまでくれば間違いなくこの女は手駒として動くだろう。

『分からんな。これほど回りくどいことをして何になる?儂ならば小細工などせずに蹴散らしてくれる。』金烏は羽繕いしながら言う。

『囲碁と同じだ。一見関連していない布石が後々効いてくるものだ。細工は流々仕上げを御覧じろ。これで少なくとも時忘は手中に収まった。生半可な賢さは命取りだ。あの男は一番扱いやすい。』

『そなたの頭脳には舌を巻くわい。敵に回さなかったことが本当に良かったぞ。その調子で龍どもを駆逐してやれ。』

烏兎は自分がそこにいた痕跡を隠滅するために足跡を消すと、木から木へ飛び移って寄り道をしつつ帰る。

どういう事だ。離間の策なのだろうが…正直黒彼岸様がこのような手段をとるとは考えにくい。大分変わってしまったから何とも言い難いが。

次の朔の日に重陽の節句の儀式が行われるとか。義兄上はおいでになるのでしょうか。ボクも見に行きたいものです。

ボクたちの初めて会った寺を覚えておいででしょうか。あの寺の茶は格別の香で御座いましたね。是非とも名を知りたいものです。

一見何でもないことをわざわざ手紙にして、敵である私に送ってよこすとは。他人に見られては誤解を招きかねない。処分せねば。これでは暗号で内通しているととられる。いや、本当に暗号になっているな。それも私だけに分かるように。

時忘はすぐさまその手紙を火にくべる。完全に灰になるのを見届けても安心出来ず、次の手紙が来ないことを祈る。だが、無論手紙はこれで終わるはずもない。次の一通は最悪なタイミングで届く。

「何の用だ?」時忘はぶっきらぼうに薄氷に言う。薄氷は時忘の館に皆が集っているのに驚いたように帰ろうとするが、走馬燈が引き止める。

「行くなよ。本でも読んでくれないか。大人ばかりで退屈だったんだ。」

「時忘様、お手紙が届いています。」

最悪だ。この面子に知られるのは避けたい。今開封しなければ済む話だが、それはそれで不自然だろうか。いや、最善策だな。

「あの、差出人が黒彼岸様となっておりますが…。」

「何ですって?読み上げて、時忘。」

まあ想定内だ。そんなに機転の利く性格ではないからな。勧進帳をするか。黎明姫や走馬燈にはまず気付かれまい。

「走馬燈を差し出せば私たちの安全は保障すると。くだらない。」時忘は何でもない風を装って、手紙を暖炉に投げ入れる。

薄氷が暖炉に駆け寄ると、焔の中に腕を突っ込んで手紙を凍らせて取り出す。時忘は流石に心臓が跳ね上がりそうなほど緊張して、迫りくる身の破滅をどうするか頭を回転させている。

「失礼ですが、中身を確認させて頂いても宜しいでしょうか。」薄氷は時忘に向き直る。

「拝啓、時忘様。ボクが百年前の真相を告白しようと決意致しました訳は、義兄上の名誉を挽回するためでした。あの時は庇って下さり、誠にありがとうございました。貴兄の宿敵の息子、走馬燈を殺す手助けをして下さい。ボクは貴兄のことをずっと想ってきました。色よい返事が頂けますように。敬具、愚妹黒彼岸。追伸、先回の手紙の件、承知致しました。」

燃やそうとしたのは本当に失敗だった。これでは私が何を言ったところで信憑性など全くもってありはしない。せめて黎明姫、貴女は私を疑わないでくれ。

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