消えた灯
「走馬燈、貴方は白露と黄泉という名に心当たりはあるかしら?犯人を名乗る者たちよ。どうも貴方の目を狙っているようね。」
先日の馬鹿か。まさか俺を誘き出すためだけに人々を殺して回ったのか?信じられない。無関係なのに。
「心当たりはあるようね。『走馬燈に告ぐ。一人で来い。次はA村だ。白露、黄泉。』子供騙しだわ。無視するに決まっているでしょう。どうせ直ぐに捕まえるわ。」
『行かないと。また続けるに決まっている。』
『待って、走馬燈、そもそも何処を指しているんだ?A村って…一体誰が殺されたと思う?』
「何処だ?レイ、問題の場所は分かる?」灯馬の声が震える。
「G県のH村の中学校みたいね。」黎明姫は淡々と語る。
『赦さない!なんてことを…。酷すぎる。』走馬は吠える。
「走馬が通っていた学校だよ。年端も行かない子供たちになんて惨いことをするんだ。今すぐに止めないと。何としても。」灯馬は歯軋りする。ここまで怒りを露わにするのは初めてだ。
走馬燈は黙って立ち上がる。玄関に向かうが、黎明姫が袖を捉える。
「走馬燈、一人で行くなよ。絶対に罠だ。一緒に行こう。」灯馬も身支度する。
「駄目よ!相手は中々戦闘に長けているわ。貴方たちでは相手にならないと分かり切っているから、こうも大胆な策が採れるのでしょう。」黎明姫は正論を吐くが、灯馬は兎も角、走馬燈の心は揺らがない。
「母さんの言うことは正しいんだろう。でも、理に適わなくてもここで行かないと皆に顔向け出来ない。放して。お願い。」
黎明姫はあまりの剣幕に一瞬怯みかけたが、決心すると走馬燈に水弾を放つ。まともに鳩尾にくらった走馬燈は気を失う。黎明姫はその身体を支え、床に寝かせる。
「レイ、それでもこの件は直ぐに止めなければ。」灯馬は心苦しそうに言う。
「分かっているわ。私が一人で行くから。時忘が背後にいると知っているのに二人きりで行動するはずがないもの。黒幕がいるに違いないわ。私自ら釘を刺してやらないと。」
「一人で行く気か?駄目だ。危険だ。相手が何者なのか何の情報もないんだぞ。」灯馬は必死に止める。黎明姫は余裕の笑みを見せる。
「平気よ。私に敵う者が動けば情報は筒抜けですもの。三下がどれ程群れようと軽くいなしてみせるわ。この子についていて欲しいの。お願いよ。」
黎明姫はそのまま外に飛び去った。灯馬は後を追う術もないので、無事を祈ることしか出来ない。
ふざけた真似を。無抵抗の人間を虐殺するだけでも十分な罪だが…個人的にも私の家族にそのような態度をとるのは癪に障る。
「まだ来ていないようね。好都合だわ。天候を操作すれば生徒も来られないでしょう。」
黎明姫は校舎の屋上に降り立つ。黒雲がどんどん広がり、大雨が降り出す。その中でも黎明姫には雫一滴たりとも零れていない。
「これだけで尻尾を巻いて逃げ出して欲しいものだけど…。あまり干渉すると咎められるでしょうね。」黎明姫は一角に目を止める。来た。
女の方が黎明姫に目をやる。じっと見つめ、男の袖を掴む。まるで視えているようだ。ありえない。黎明姫は姿を隠している。
二人は踵を返し、駆け去る。ここで逃がしては面目丸つぶれだ。黎明姫は二人に水流を飛ばす。男は難なく避けるが、女は転びかける。
「逃がさないわ。思い上がりも甚だしい。誰を相手取っているのか思い知らせて差し上げてもよくってよ。」黎明姫は悠然と構える。
白露は襲い掛かろうとして膝を付く。吐血する。黄泉がすかさず解呪する。厄介な。まあいい、物理的に叩きのめした方が実力差もはっきりするでしょう。
白露は近付こうとするが、あの目にも止まらない速度に合わせて攻撃する。白露の攻撃は虚しく宙を裂く。仮に当たっても傷一つ付けられまいが。黄泉の呪いは黎明姫に届かない。黎明姫は唇を歪める。
「誰の指示で来たのか言いなさい。もう私には敵わないと分かったでしょうから貴方方は見逃してあげるわ。」
「よっ、久しぶり。」突如女性が現れ、黎明姫の首を切り裂く。紅い飛沫が散る。
「黒彼岸…何故?」黎明姫は傷を押さえる。
「何故ボクが生きているのか?キミが知る必要はないさ。もう死んじゃうもん。雀の罠に鶴が掛かったねぇ。きっとそうだと思っていたけど。日和ったかい?」
しまった。相手が黒彼岸ほどの実力者だとは想定外だ。三対一だし、手傷も負っている。このままでは本当に死ぬ。
黎明姫は濁流を作り出す。黒彼岸は焦らずに待つ。既に勝算はある。
「誰か来る。向こう。」白露が指さす。黄泉が知らせたのだ。
「貴女は…黒彼岸様ですか?」竜巻に乗って現れたのは当然時忘だ。黒彼岸をきっと睨みつける。
「黎明姫をこんな目に遭わせて…貴女は何があっても私が葬って差し上げましょう。」
「二対三でもこちらの優位は揺るがないよ。仲良く地獄で走馬燈を待つがいいさ。」
時忘は口角を上げる。躊躇なく校舎を倒壊させた。辺りに轟音が響く。黒彼岸は顔をしかめる。
「お気付きのようですが、このままだと妖怪も人も大勢押し寄せますよ。お互い逃げないと都合が悪いのでは?」時忘は濡れた髪をかき上げる。
黒彼岸は白露と黄泉を連れて渋々逃げ出す。完全に去ったことを確認し、時忘は黎明姫を抱え、黎明姫の館に急行する。黎明姫の傷は浅いが、異様に顔色が優れない。
「誰かいないか。手を貸してくれ。」
真っ先に駆け付けたのは灯馬だ。直ぐに布団に黎明姫を寝かせる。
「一体どうして?大丈夫だと言っていたのに…。」灯馬が呟く。
「灯馬殿、貴殿は黎明姫を守ると言っていたでしょう。何故危険なところに黎明姫一人で行かせた?返答次第では無事では済まさない。」時忘は灯馬に噛み付く。
「そんなことより医者だ。僕が呼んでくる。」走馬は館を飛び出す。
時忘は黎明姫の前なのでそれ以上の弾劾は避けた。だが腹の底では灯馬と自分に苛立ちを抱えている。
「大変です。人間界に被害が出たことで大物たちが腰を上げました。何とか揉み消さないと。」猫又が報告に現れる。黎明姫を見て動揺を隠せない。
「私が行こう。灯馬殿、黎明姫を頼みます。」時忘は飛び立つ。
『変だな。確か前来た道は山道だったんだよな?これは舗装された道路に見えるけど?』
走馬は走馬燈に問いかける。走馬燈は空間が歪んでいるのだと説明し、走馬はそのまま走り続ける。突如目の前に広がったのは血の海の中に立ち尽くす人影の光景だった。人影はこちらに向き直る。目が合った。
「白露…これ、みんなお前が?嘘だろ?」走馬は声を震わせる。膝の力が抜けていく。
「あ?何で名前知ってんだ?…嗚呼、おめえ妖界に紛れ込んだ餓鬼か。こっちでも会うたあつくづく運がいいぜ。」返り血のせいで髪が固まっている。
『走馬燈、代わるぞ。』走馬は何とかパニックだけは起こさずに耐えている。
『駄目だ。今は腹が空きすぎて…正気を保てない。』
走馬はふざけるなと叱責する気力も尽き果て、膝から崩れ落ちる。見開かれた眼に白露が段々と大きくなって映る。
「怖がるなっつっても無理があるよな。だがオレぁなんもしねぇよ。」
「何でこんなことを?彼らがお前に何かしたわけ?」走馬は白露の目を見られない。
「好きで殺したんでも、食べるためとかでもねぇよ。ただ命令に従っているだけだ。おめえのことは殺せって言われてねぇから話をしてるだけだ。」白露も走馬の方を向かない。
一番殺すべき相手は目の前にいると思うんだけどな。思ったより話が通じそうだ。説得して味方に出来ないだろうか。
「命令だからって何でもするのか。人殺しなんてしちゃ駄目だ。そんなことを命令するような人の所なんか抜け出せよ。」
白露は暫く無言だった。恐る恐る走馬が白露に向き直ると、白露は拳を固く握りしめている。
「分かってんだけどな。黒彼岸は獣として暮らしてたオレに家族みてぇに接してくれんだよ。お袋みてぇな存在なんだ。オレぁ死んでも裏切らねぇ。馬鹿だからそれくらいしか思いつかねぇんだ。」
『黒彼岸?まさか、あの人が…。』走馬燈は絶句する。一切の殺気を感じさせなかった。殺されていたかもしれないのに。背筋が凍る。
走馬は白露の手を握る。白露は一瞬緊張するが、走馬の目を見ると緊張を和らげた。
『走馬燈、やっぱりここで決着を付けなきゃ駄目だ。…情が移る。少しだけ代わってくれ。』走馬は立ち上がると目隠しを着ける。
「…おめえ、走馬燈だったのか。」白露は本当に別人だと思っていたらしい。
血の匂い。目の前の生き物から感じる。旨そうだ。唾液が溢れてくる。一口だけ。もう我慢ならない。喰らいたい。
「う、ああぁ。」走馬燈は声にならない呻きを漏らす。
白露は本能的に飛び退いた。白露のいた場所を走馬燈の歯が噛む。白露は走馬燈を負傷させるが、痛みなど感じないかのように突き進む。
「ぶっ壊れてやがる。だが理性がねぇ方が相手にすんのは楽だぜ。」白露はわざと犠牲者の方に向かう。
走馬燈は息が残っている人間を見つけ、白露そっちのけで喰おうとする。白露は背後から止めを刺そうとする。
『走馬燈、どうしたんだ。返事をしてくれ、走馬燈。』走馬の声は届かない。
「若様?何処にいらっしゃるのですか?」千里が探しに来たようだ。
来ちゃ駄目だ。危険すぎる。何より走馬燈が…僕が危害を加えてしまうかもしれない。来ないでくれ、千里。
白露は邪魔が入ると面倒だと思ったのか、声と反対方向に走り去る。走馬燈は依然として人を喰おうとしている。半分龍に変身している。
『目を覚ませ!俺は食事なんかするつもりなんてない!』
走馬燈は微かに理性を取り戻し、自らの拳を口に突っ込んで気を紛らわそうとする。牙が刺さり、血が流れ込む。変身は収まる気配を見せない。
「若様、よくぞ耐えて下さいました。もう大丈夫ですからね。」千里はそっと目隠しを外す。
口内に広がる自分の血と唾液の混ざりあった味。走馬は直ぐに吐き出し、むせる。手が痛い。出血する程の怪我なんて久々だ。
『許してくれ、走馬。お前に怪我をさせた。苦しめた。一刻も早くそこを離れてくれ。』
『いい判断だったよ。もう大丈夫だからな。』
そうこうしているうちに辛うじて息のあった人も動かなくなっていた。走馬は手を合わせる。走馬燈は悪くない。全部白露のせいだ。そう言い聞かせても釈然としない。
「千里、怪我はない?ごめんね。怖かったでしょう。」
千里は震える走馬を抱きしめる。予想外の行動に、走馬の目が潤む。慌てて目頭を拭うと、千里と一緒に黎明姫の下に帰る。
「お帰りなさい。心配をかけてしまったわね。」黎明姫はもう起き上がっている。
傷口は化膿している。恐らく毒によるものだろう。足元もおぼつかない。無理して笑顔を繕っている。
「白露に会った。また人が殺されている。何とかしなければ。」走馬は黎明姫に言う。
そこに時忘が帰ってくる。疲れ果てた顔だ。黎明姫は一歩下がる。
「お疲れ様です。上手く収拾出来ましたか?」千里が尋ねる。
「謹慎処分だ。まあかなりコネを使ったからこのくらいで済んだが、状況は芳しくない。犯人も言えないからな。」
時忘は座り込むと出された茶を啜る。黎明姫の方には視線を向けまいとしているようだ。
「時忘、話があるわ。」黎明姫が言う。
「では自分たちはこれで。行くぞ、走馬。」灯馬は外に出るように合図する。
「私を襲ったのは黒彼岸だったわ。確認だけど、黒彼岸は百年前に死んだ。これは確かよね。貴方はあれが本当に黒彼岸本人だったと思う?他の妖怪が化けていたのかしら。」
時忘はまだ視線を逸らしたまま答える。
「顔を隠していらっしゃったし、あまりに雰囲気が違いましたが、間違いなくご本人でしょう。凡妖に貴女を傷つけることなど出来ませんから。私が探ってみましょう。」
「任せるわ。」黎明姫は横になる。
思えば百年前のあの事件は不可解なことが多すぎたわ。でも、黒彼岸にしては、あの優しかった黒彼岸にしてはこんなおぞましい悪行を易々と行うなんて。私に怨みでもあるの?
『走馬燈、一体黄泉は何処で何をしているんだろうか。母さんを襲った時は二人で行動していたというのに。』走馬はふと訊いてみる。
『別な場所で人間を襲っているかもな。だが今頃は妖怪たちも厳重に警戒しているだろうから、直ぐに捕まるさ。』走馬燈はまだ気が晴れない。
その頃黄泉は大手を振って往来を歩いていた。その後ろを付かず離れず歩く男がいる。真っ白な髪は目立ちそうだが、器用に気配を消して進む。
あのお嬢さん、堅気じゃないな。足音を完全に消した歩き方、シャンと伸びた背筋。こちらも商売柄尾行には自信がある。気付かれたら急いで逃げればいい。
黄泉は歩みを速めることもない。そのまま路地裏に入っていく。薄氷は少し迷ったが、引き返すことにした。引き際が肝心だ。
振り返った薄氷は突如何者かに突き飛ばされ、路地裏に転げ込んだ。黄泉だ。黄泉は隠し持っている暗器を投げつける。薄氷は氷の盾で防ぐと、両手を上に上げる。
「待ってくれ、可愛いお嬢さんがいるから声を掛けたいと思ってつい後をつけただけだ。敵意はない。気に障ったなら謝るから。」
我ながら下手な言い訳だな。普通の男は懇意の相手を追うのに気配を消して、呼吸まで合わせることなど出来ない。ましてや相手がプロなら尚更その相手を生かす理由がない。
ところが、驚いたことに黄泉は武器を下ろした。薄氷も呆気にとられる。
「ありがとう。俺は薄氷って言うんだ。お嬢さんは?」
黄泉は首を横に振る。その不自然さから薄氷はある可能性に気付く。
「もしかして、違ったら申し訳ないけど、お嬢さんは夜叉の一族の末裔なんじゃないかい?」
黄泉は否定も肯定もしない。薄氷は確信した。それで喉を潰されているのか。気の毒に。
「雪女の一族は最後まで夜叉一族に味方し続けた。いまだに恩義を感じている夜叉も多いとか。お嬢さんもそのクチなのかな。」
黄泉は踵を返す。するといきなり喉元を押さえて苦しみだす。
「おい、大丈夫か?」薄氷は駆け寄る。
黄泉は首の輪を押さえている。徐々に絞まっているようだ。引き剥がそうとするが、絞まる力は相当に強い。このままでは手遅れになる。薄氷は意を決して輪を凍らせていく。絶対零度近くになってようやく輪は音を立てて砕ける。
「しっかりしろ。もう大丈夫だ。」
黄泉の喉には赤々しい痕と軽い凍傷が残る。次第に意識ははっきりしてきた。
俺のせいか。これはこの人の主人が着けたものだろう。敵である俺を見逃そうとしたから処分されたに違いない。
「手当てをするから、俺の家まで来てくれないかな?いずれにせよ今は行く当てもないでしょ。」薄氷は黄泉の顔色を窺う。黄泉は首を縦に振る。
「この首の傷は毒が入ってしまって治すには時間が掛かりますよ。憚りながら黎明姫様、暫し休眠期に入られては如何ですか?人魚なぞ召し上がらないでしょう。」鎌鼬が言う。
「意見を押し付けるのは止しなさい。私のことは私が決めるわ。」
「申し訳ございません。お許し下さい。」鎌鼬は深々と頭を下げる。
床に臥せっていても、黎明姫の眼光は鈍らない。鎌鼬ごとき矮小な妖怪は射すくめられたかのように縮こまってしまうほどの威厳。
私が弱っている今が絶好の機会のはず。何としてもあの子を護らなければ。時忘一人に任せるわけにはいかない。
「薬で治せるのなら処方なさい。」
プライドなんて猫ほどにも役に立たないもの。
生暖かく甘美な、あの味。ドロッとしていながらも刺激的な香りは食欲を呼び覚ましてしまった。十五年間も後生大事に脳の奥底に封じ込めたと思っていたのに。俺は化け物だ。自分の体にも流れているあの液体を奪ってしまいたい。一度味を占めたら引き返せない。
「走馬燈、平気か?」灯馬が声を掛ける。
「…嫌、来ないで!ほっといてよ。」意思とは無関係に口内に唾液が溜まるのを感じる。
灯馬は時忘が飲んでいた盃を取ると、口に流し込んだ。たちまち吐き出すとむせ返った。走馬燈は驚いて背中をさする。
「不味い。とても飲めたもんじゃないな。」
「当たり前だろ。人間の飲み物じゃないんだから。何やってんだよ。」走馬燈は声を荒げる。
遠回しすぎるよ、父さん。僕なら兎も角、走馬燈にはあまり持って回った説教は通用するはずもない。人間を食べてしまっても気にするな、なんて言えるはずもないけどさ。
「少し寂しいな。結局どれほど理解しようとしても完璧に同じ経験なんか出来やしない。父さんにはお前の悩みは共有出来ない。でも、一緒に悩めはすると思うぞ。」
駄目だよ。分かってない。ライオンはシマウマを親に持つことはない。それが真理だろう。このまま一緒に暮らし続ければ、いつか俺は本当に父さんを…。俺なんかいなければ良かったんだ。俺がいなければ家族全員で末永く暮らせるのに。
「狭い所でごめんね。何か食べる?」薄氷は自宅で狼狽していた。
困った。女の子を家に上げるなんて初めてだ。間が持たない。いや、待てよ。今晩泊めないといけないんじゃないか?布団は幸いにも二つあるが、倫理的に良いのか?声を出せない女の子とひとつ屋根の下…。駄目だな。
「お風呂先に入ってよ。布団を敷いておくからさ。客間でいいよね?」薄氷は体温が低いくせに汗を掻いている。
嗚呼、母様。俺にはどうすることも出来ません。母様はこんな時の対処法などただの一つも教えては下さらなかった。
黄泉は風呂の中で物思いに耽っていた。彼女の警戒心は燻っていた。それでも今直ぐに動けない理由がある。精々数日の辛抱に違いない。
「速いね。これ、名案じゃない?お互い見ず知らずの間柄だったわけだし、安心のためにね。」
そう言って薄氷が取り出した物を見て黄泉は微かに口角を上げる。薄氷は頬を赤らめる。荒縄に鈴を括り付けた何か。鳴子のつもりなのだろう。
「白露、行くよ。今なら邪魔が入らない。」黒彼岸は手を差し伸べる。
白露は手を取るのを躊躇う。黒彼岸はその一瞬を見逃さない。
「やっぱりいいや。ここで眠り姫を見張っていてくれないか。もしも今回失敗したら起こすことになるだろうから。」
「あぁ。」白露はぶっきらぼうに答える。
何で…何で今更あんな顔をするんだよ。卑怯だ。今まで目を瞑ってきたのはキミなのに。
黒彼岸は呪文を唱え、消え去った。
走馬燈は虚ろな目をして彷徨っていた。足は泥に塗れている。立ち止まると、目の前には黒彼岸がいる。走馬燈は急に正気を取り戻す。
「ここは…?俺は何をして?」走馬燈は目隠しに手を掛ける。
「久しぶりだね。その紙を捨てないでいてくれて助かったよ。黒彼岸だと言っても分からないかな?」
走馬燈は手を止め、懐にあった黒彼岸の名が入った紙を破り捨てる。黒彼岸を攻撃する。
「話は最後まで聞くものだよ。走馬燈、キミと走馬の関係は知っているよ。それを解消する方法は二つある。どうせあの連中は何も言っちゃいないだろ。」
『耳を貸すな。どうせはったりだ。』走馬は警告する。
「一つはこの薬だ。これを飲めばキミはただの龍になれる。その場合走馬は死ぬが、キミの目は開ける。」
黒彼岸は瓶を振る。からころと音が鳴る。錠剤なのだろう。言っていることが本当ならば。走馬燈は顔をしかめる。
「もう一つはボクがしようとしていることだ。キミの目を抉り出せばいい。キミは死ぬが、走馬は人間として生きていける。盲人になるが、悪くないだろう。」
「どちらもお断りだ。俺らは二人で生きていく。」
黒彼岸は笑った。想定内の出来事だが、あまりに美しい笑い声に驚く。
「何が可笑しい?」走馬燈は黒彼岸を攻撃する。
「そんなにも不安定な状態がいつまで続くかな?キミにも思い当たる節があるんじゃないか。近いうちにどちらも死ぬことになるさ。」走馬燈の動きが止まる。
『走馬燈、惑わされるな!』走馬は悲痛な叫びを上げる。
見失ったな。目覚めたら走馬燈がいなかったから、微かな姿を頼りに追ってきたのだが…。
灯馬は道に迷っていた。まごまごしていると遠くで物音が聞こえた。走馬燈が誰かと戦っているのかもしれない。灯馬は足を速める。
黒彼岸は走馬燈が躊躇った隙に左腕を突き出す。人差し指と中指を突き出している。
「止めろ!」灯馬が割って入る。
灯馬の頭の右半分は脆くも崩れ去る。黒彼岸は少し驚いたような顔をする。
その頃黄泉は起き出すと、慎重に家を抜け出し、何処かに走り出した。薄氷は、それに気付き、後を追い駆ける。黄泉は薄氷に気付くが、相手をする余裕もないのでひたすらに走った。
誰だ?いや、この妖気…走馬燈だな。もう一人走馬燈並みの実力者。人間もいるのか?
薄氷と黄泉が見た光景は、灯馬の身体が崩れ落ちていく瞬間だった。走馬燈の顔が見たこともないほどの怒りに染まる。妖力が跳ね上がっていく。
素手で黒彼岸に掴みかかろうとする走馬燈を誰かが止めようとする。走馬燈は咄嗟に殺そうとするが、またしてもその手は宙に留まる。
『何をしている?やられるぞ。』
この外道め!父さんに何をするんだ。こんな…攻撃出来るわけないだろう。
灯馬の死骸は走馬燈の右目を抜き出した。血飛沫と悲鳴が上がる。黄泉は灯馬を見つめ続け、一瞬たりとも目を逸らさない。術者で間違いない。
薄氷は黄泉を殴ると、再び倒れた灯馬から目を奪う。直ぐに黒彼岸は薄氷に襲いかかるが、間一髪でかわす。体勢が崩れた薄氷に追撃しようとする黒彼岸を押し退けて、黄泉は薄氷から目を奪う。
「赦せない。死ね。」走馬燈は最早完全な龍になっている。翡翠のたてがみに鱗はさながら青龍だ。
龍は大きな牙で黒彼岸たちを咬み殺そうとする。黒彼岸は片目でも手に入れたので、大人しく引き下がる。灯馬の身体は倒れたまま今度こそ動かない。
走馬燈は追い駆けようと身構えるが、出血多量で力尽き、気絶して地面に倒れこむ。徐々に体は人間に戻っていく。薄氷は急いで走馬燈を止血する。灯馬の遺体に向き直ると、暫く考え込んだのち、目を瞑ると手をかざす。
傍目には何も起こらなかったかに見える程透明で分厚い氷が、灯馬をすっぽりと包み始める。氷で完全に包む前に薄氷は自分の指を噛み切ると、真っ赤な血を一滴氷に混ぜる。棺のような氷の中に灯馬は横たわっている。
「誰か来て下さい。走馬燈が…。」薄氷は時忘の館を訪れる。
一反木綿がスッと現れる。血塗れでぐったりと力尽きている走馬燈を見ると、薄氷を中に招き入れる。直ぐに右目が失われているのが見て取れる。
「走馬燈。どうしたの?何があったのです?」黎明姫は取り乱しもせずに薄氷に尋ねる。
「俺にも何が何だか…。黒髪の鬼女と紫の髪の夜叉に襲われて…。」薄氷は言葉を詰まらせる。
「小僧、人間の男を見なかったか?先程から姿が見えないのだが。」時忘は薄氷に付いた返り血の多さから最悪の想像をしている。
薄氷は取り敢えず現場に来るように言う。黎明姫と時忘は走馬燈の介抱を言いつけると薄氷に付いていく。血と焦げた樹の臭いが鼻に付く。
「灯馬…。」時忘はチラッと黎明姫を見やる。黎明姫はただ静かに遺体を見下ろして佇んでいる。
「走馬燈の右目もこの中です。奪われそうになった時にこの人の右目とすり替えたので。この氷獄は俺以外には外から決して壊せません。さて、ご提案なのですが。」
黎明姫は薄氷の話を無視して至近距離から全力で攻撃する。傷どころかひびすら入らない。薄氷はあまりの威力に驚くが、虚勢を張って言葉を継ぐ。
「これを買い取って頂けませんか?俺は別段これ以上の妖力なんて欲しくないし、それよりは懐を温めたいだけでして。」
この人達にとってははした金だろうし、攻撃が無意味なのは思いがけず証明された。これは乗ってくるはずだ。
「いや、この方が安全だし、この目はもう走馬燈の物とはなるまい。灯馬も事が落ち着いてから埋葬した方が良い。買い取る必要はないな。」時忘は言い放つ。
「良いんですか?俺が相手に売ってしまっても。」
「あら、大人しく売らせてあげるとお思い?それに貴方は相手を既に騙しているわ。のこのこ出掛けて行ってもまさか無事に帰れるなどと思うほどおめでたい考えではないでしょう。」黎明姫は思ったより早く立ち直る。
悔しい。俺が言い負かされるとは。時忘だけなら他にも切り札は用意していたが、黎明姫様には通用しない。
「せいぜい大切に保管なさい。後日引き取るときには少し考えてあげてもよくってよ。それにしても、雪女でこれほどの妖力を有している者には初めて会ったわ。何か隠していることがあるでしょう。何処の誰なの?」
流石に勘が良い。だが調べる程の好奇心もないと見た。
「慧眼恐れ入ります。確かに純血の雪女ではありません。これ以上は控えさせて下さい。名乗るほどの者でもありませんから。俺はもう用件は済んだので失礼します。」
薄氷は顔を歪める。家族の話題は口にしたくないのだ。黎明姫は薄氷が言葉を濁したのを訝しんだが、彼女の好奇心はそれ以上の詮索をしたいとまでは言わなかった。名家のお嬢様は好奇心を押さえつける術を熟知している。
時忘はじっと薄氷を見て、ふいに視線を逸らした。灯馬の顔を見つめる。
最期まで憎らしい奴だな。黎明姫を置いて一人で逝ってしまうなんて。分かっている、望んでそうしたわけでないことくらいは。だが、これでもうあの人の心に私の入りうる隙間は一点もなくなった。一生灯馬を偲んで生きていくような方だ。いっそ私が消えてしまいたかった。黎明姫の身にもなれずにずっとこんなことを思っているくらいなら。
時忘は氷獄を思いっきり叩く。乾いた音が木霊する。
「…ここは?」黒彼岸は目を覚ますと、辺りを見渡す。
「倒れたんだよ、黄泉が連れ帰ってくれた。失敗したみてぇだな。」白露は青白い顔で答える。
「おい、ボクを看病なんかするなとあれほど…。」黒彼岸は殺風景に磨きがかかった山を見て言う。またしても樹を枯らすほどの猛毒をばらまいたらしい。
「オレぁ丈夫だから良いんだっつってんだろ。薬も毒も大差ねぇって聞いたしよ。」
白露の笑顔の奥に苦悶の表情を見て、黒彼岸は歯を食いしばる。
このままでは走馬燈の目を手に入れるより先にボクらの寿命が尽き果てる。特に白露はもう先が長くないだろう。仕方ない。あれを遣うしかないな。
白露は黒彼岸に薬を飲ませて出て行く。喀血しながらも黒彼岸の世話を止めない訳は、自分でも分かっていない。黒彼岸は確かに彼を拾いはしたが、特段育てたわけでもない。扱いだって必ずしも厚遇されているとは言い難い。
黄泉は黙って哀しみを湛えている。黄泉は黒彼岸には義理があるわけではないが、白露は喉を潰され、感情も押し殺した自分の叫びを拾ってくれた。どちらかが死ぬなら、黒彼岸であるべきだ。殺人鬼が死んでもそれは仕方のないことではないか?
「気が付いて?走馬燈。具合はどうかしら。」
「違う。」走馬燈は一言呟く。
「どうしたの?何が違うの?」黎明姫は優しく問いかける。
『走馬燈、これは一体全体どういう事だ?今まで一度もこんなことなかったじゃないか。心当たりはないか?』
「僕は…僕は走馬燈じゃない。走馬だよ。」目の周りに包帯を巻いたまま走馬が言う。目を覆った状態の走馬は混乱を隠せない。
『駄目だ。体の主導権を握れない。目は開けられるか?髪色はどうなっている?何でもいいから情報を寄越してくれ。』
走馬は目隠しをしたまま目を恐る恐る開く。左目に映ったのは包帯の陰から覗く光だ。目隠しを取って髪を見る。翡翠色だ。愕然として顔に手を当てる。千里は走馬に頼まれて鏡を差し出す。右目の周辺だけ黒髪でそれ以外は翡翠色だ。
黒彼岸が言ったことは本当だったのか。俺は片目を失い、走馬の主導権は拡大した。この左目も失う時、俺は消え、走馬は普通の人間になれる。走馬燈は冷静に分析したが、直ぐに黒彼岸への怒りが首をもたげる。
冗談じゃない。あんな女に利用されるなんて御免だ。俺があんな妄言に惑わされなければ父さんは死なずに済んだんだ。
走馬は傷の痛みに耐えかねて再び横になった。次に目覚めた時、走馬燈は完全に体を動かせるようになっていた。
黒彼岸は禁足地に向かっている。結界を破って奥の地に向かう。辺りには霧が立ち込め、自分の足元さえ分からない。その中を勝手を知っているように進み、遂に足を止める。
「数百年ぶりに外に出してやるよ、龍殺しの咎人。」
そこに縛り付けられている青年は黒髪に朱い大きな翼が一対、目を閉じ、口元を布で覆った状態で御神木に吊られている。黒彼岸はそっと鎖に触れる。ゆっくりと鎖は溶けゆき、遂には切れて青年は倒れこんでくる。
「赤羽の烏天狗か。目覚める前にもう一度縛るよ。」黒彼岸は縄で後ろ手に縛る。
縛り終わると、青年はカッと目を見開き、黒彼岸に襲い掛かろうとして縄に阻まれる。
「恩知らずな奴だな、封印されていたキミを解き放ったのは他でもないこのボクだ。黒彼岸という。見ての通り鬼だ。キミの名前は?」
青年は辺りを見渡し、縄を切ろうともがいていたのを止める。
「烏兎という烏天狗だ。助けてくれたことには礼を言うが、所詮は俺様を利用しようとの思惑ありきの偽善だろう。俺様のことをある程度知っての行動ならば龍殺しの助太刀でも頼みに来たとみるべきか?言え、事と次第によっては手を組もう。」
烏兎は黒目と白目が逆転した珍妙な目で黒彼岸を見据える。高々烏天狗風情が龍を殺したと聞いた時には半信半疑だったが、どうも只者ではない。そもそも朱い翼を持っている時点で幾分他の俗物共とは異質な存在だ。賭けてみる価値はありそうだ。
「成る程な、事情は呑み込めたが、相手は三の方に三の方たる盲目の龍、三の方の夫である龍。それに引き換えこちらは猛毒を振りまく鬼女、脳足りんの鵺、口の利けない夜叉か。」烏兎はクスクスと哂う。
相手方に雪女がいて、夜叉との接触があったのは興味深い。一般に夜叉は雪女だけには一目置くからな。
「黄泉とやらと話がしたい。通訳に白露も呼んでくれ。」
黄泉と白露が来て、黒彼岸は出て行く。黄泉は目を伏せ、白露はキッと睨みつけている。烏兎は早速本題に入る。
「初めまして。今日から仲間になる烏兎だ。黄泉と白露だな。自己紹介でもしたいところだが時間がない。黄泉、貴様には当分例の雪女の下に行ってもらう。」
黄泉はすぐさま首を横に振る。
「この件は黒彼岸に一任されている。断ることは許さない。そうでなくともこちらは戦力不足なのだ。悠々と安全圏に居ようなどとは考えない方が身のためだぞ。」
「いくら何でも敵の真っただ中に行けたぁ筋が通りゃしねぇぜ、オレぁ反対だ。」
白露は黄泉の前に立つと、烏兎を見下ろして凄む。目付きの悪さと高身長の効果でそれなりに威圧感がある。
「貴様の意見は求めていない。小人が口を挟むな。それとも代わりにその雪女を拷問して情報を聞き出してくれるとでも言うのか。」
「てめぇ馬鹿にすんのも大概にしやがれ。」黄泉は白露の袖を引く。
「仕方ねぇ、黄泉は行くとよ。だが忘れんな、黄泉になんかあったらただじゃおかねぇからな。」
黄泉はその後烏兎から詳しい作戦を聞き、荷造りをすると薄氷の家に向かった。もう二度とこの住まいには帰れない。名残惜しく振り返るが未練になるといけないのでそれきり彼女が後ろを向くことはなかった。
『やっと起きたかたわけが。儂はもうそなたを見限るところであったぞ。』
『金烏か。執念深いことだな。七百年も経てば野心も冷めたかと思ったが。』
烏兎の目だけには深紅の八咫烏の姿が映っていて、彼は金烏というその鳥と話しているのだった。
『そなたが昏々と眠っている間にも龍族の奴らめは着々と力を蓄えおった。筆頭は黎明姫や時忘だが、走馬燈という青二才には底知れぬ力を感じる。これは好機だ。天照大神の御名にかけて、一網打尽にしてくれようぞ。』
龍族に怨みはないし、天照大神を信仰しているわけでもないが、死に別れた唯一の肉親である妹の無事のためだ、待っていろ。
コンコン。
「どちら様ですか?」薄氷は目を擦りながら玄関に向かう。黄泉を見ると血相を変えて慌てて中に引き入れ、戸を閉める。
「あの時の…黄泉ちゃん、で合ってる?何故またここに。危ないじゃないか。」
黄泉は所々怪我をしている。手当をしようかと下がろうとした薄氷に、黄泉は宙に何か書く真似をする。
「紙と筆なら持っていくから、ひとまず適当にくつろいでよ。相変わらず狭い家だけどさ。」
首輪の呪いを作動させたばかりか破壊してしまい、貴方を庇う素振りを見せた妾は信用を失い、追われる身と相成りまして御座います。つきましては誠に手前勝手なお頼みと承知で失礼を申し上げます。手傷の癒えるまでの間、土間にでも泊めては頂けますまいか。
こういった内容が、非常に古めかしい文体で達筆に書かれている。
正直眉唾物だが、この娘の方が俺より強いから俺には断るという選択肢はない。精々騙されているふりしか出来ないな。
「悪いけど、独断で俺が許可したらこちらの首も危ないんだ。一度は走馬燈に顔合わせしてもらわないと。それでもいいかい?」
黄泉は頷く。目が据わっている。薄氷はふと黄泉の首に手を伸ばし、黄泉は払い除けて薄氷の額に人差し指を当てる。
「ごめん。つい…俺のせいで凍傷になっちゃったから、治ったかなって。軽率だった。」
黄泉は薄氷から離れると頭を下げ、首筋の髪をかき上げる。痕は傍目にも分かるほどにくっきりと残っている。
「本当に悪かった。女の子を傷付けるような男にだけはなるまいと思ってたんだけど。痛む?」
黄泉は首を横に振り、傷を再び隠す。
「だーれだ。」
「キャッ。若様か走馬様かっていうことでしょうか。…ヒントはないのですか。」
「出しようがないよね。普通これは声で当てるものだもん。困ったな、我々のアイデンティティは髪色と一人称以外にないのかな?」
この感じは走馬様の方でしょうね。でも急に驚かせるから、少しこちらもからかってみましょうか。
「若様ですね。」言うなり千里は振り向く。
千里は目を円くする。目の前にいる人物が目隠しをしており、何故か帽子を被ってはいるが、紛れもない翡翠色の髪が覗いているからだ。
「当たり。何で分かったの?」
「ま、まあ、走馬様、人を騙すのがお上手ですこと。ねえ、本当は走馬様なんでしょう?最初から分かっていましたよ。」千里は狼狽える。
『千里が可哀想じゃないか。その辺で止めてやれよ。良かったな、気付いてもらえて。本当はそれを試したかっただけだろう。』
「この状態でもなりすましは無理…か。お見事。ねえ、母さんは気付いてくれるかな?」
この間のことまだ根に持ってるのか。もしかしたら会話さえすれば気付いたかもしれない…と、思いたい。
「どうでしょうね。あの方は少し鈍感と申しますか、あまり他人の感情の変化に振り回されないお方ですよね。」
譬えるなら…ヤマアラシかな?近付いたら怪我をするから皆に遠巻きにされている感じ。性格は可愛くないよな。ただ不器用なんだろ。
父さんの言葉を思い出して思わず頬が緩む。
「気付いてくれて嬉しかったよ、ありがとう。」走馬は目隠しを外す。
黒彼岸。あいつは赦せない。自分の私利私欲のために人の親をゴミみたいに殺しやがって。悪魔に魂を売ってでもあいつに後悔させてやる。僕は狭量な人間だからどうにも慈悲の心なんて考えられないみたいだ。
「出て行きなさい。出て行って!私は八つ裂きにしても気持ちが収まることはないわ。私のトウを返しなさい。よくもおめおめと顔を出せたわね。」玄関から黎明姫の怒声が響く。
玄関には薄氷と黄泉がいる。黄泉は倒れこんで動かない。
「母さん、話を聞こう。落ち着いて。千里、時忘を呼んできてくれないか。」
「それで?謝罪に来たとでも言うのか?」時忘は冷静に問う。薄氷が事情を説明する。
「随分と虫のいい話だな。証拠は?そもそもこやつ自体私達の仲間ではないし、よしんばそうだとして君を匿うに足る理由がない。」
証拠は御座いませんが、証明ならば可能です。故在って今は出来ませんし、お話しすることも叶いませんが、一月の猶予を下さいまし。
十中八九罠だが、逆にこちら側が利用出来ればこれほど使える駒もない。今までの感じでは黒彼岸様の周りにはさしたる切れ者はいないと見た。裏をかけるかもしれない。
「それならば私の館の一つを貸そう。一人にするのも心細いだろうから、使用人の一人を送る。これでいいだろう。」
「俺の家でいいでしょう。殿のお手を煩わせる必要もないですよ。」薄氷は警戒する。
「勝手に話を進めないで下さる?監視するには貴方では力不足と言いたいのよ。私の所に来なさい。おかしな真似などさせはしないわ。」
『こじれてるな。時忘の案が一番まともだと思うが。』走馬燈は走馬と共に蚊帳の外で眺めている。
「退屈でしょう。お茶など如何です?」千里は喉に良いぬるいお茶を黄泉に差し出す。
ニッコリと笑っている千里に押し切られ、黄泉は無表情で茶を啜る。千里は背後の口論を完全に無視して黄泉に話しかける。
「夜叉一族の方だとか。ということは少なくとも五百歳にはなりますよね。年が近い妖怪には中々会えなかったから嬉しくて。五百歳以上の妖怪って表に出てこないでしょう。」
妾は天永四年の生まれに御座います。貴公はそのような年には見えませんが、失礼でなければお年を伺っても差し支え御座いますまいか。
「まあ、確か鳥羽天皇の御時でしたね。九百歳を超えている方には本当に久々に会いましたよ。天慶八年の生まれですから、干支は同じかもしれませんね。源氏物語の舞台になっている年の辺りと言えば皆様納得して頂けるから説明が楽ですよ。」千里は顔を綻ばせる。
見たところ妖力は殆ど感じられないし、悪事に手を染めてきたようにも見受けられない。よくもその年まで生き抜いてきたものだ。龍族に何代もお仕えしているのだろうか。
「壇ノ浦の戦いはご覧になりましたか?遠目にしか見られなかったのですが、あの時の馬蹄は本当に恐ろしかったですよ。」
申し訳ございません。存じ上げません。ですが、藤原忠通公にお会いしたことなら御座います。貴公はご存知でしょうか。
千里と黄泉は平安時代の話に花を咲かせている。お互いとても久々に会う年の近い女の子同士、盛り上がっている。年が年だけに記憶が曖昧な部分も多かったが。
『当人が全く聞く気がないんだからな。いっそじゃんけんでもしたらいいのに。水掛け論じゃないか。時間の無駄だよ。』走馬燈が欠伸をする。
『言ったな。お前が仕切れよ。代わるからさ。』走馬は目隠しに手を伸ばす。
「皆さん、走馬燈から提案です。」大音声でのたまうと、目隠しを着ける。
『無責任なことを言って悪かったから、走馬。二度とこんなことしないでくれよ。見ろよこの空気、どうやったらじゃんけんしようなんて言えるんだ。』
走馬燈は沈黙に耐えきれずにやけになってじゃんけんを提案する。意外にも全員反対しない。着物を着たまま、真剣な面持ちでじゃんけんする様は傍目には滑稽だったが、兎にも角にも勝者は決定した。
「では、薄氷が引き取るということで。黄泉も異存ないでしょうね。」
黄泉はそんなこと言える立場でもないけど。黄泉が頷くが、走馬燈は気付かないので薄氷が通訳する。この二人では会話は成り立たない。
「この件はこれでお仕舞いよ。さあ、私も食事がしたいからここでお開きにしましょう。」
黎明姫は思ったよりサバサバしている。走馬燈は一安心する。
薄氷と黄泉が帰ると、待ちきれないように百目鬼が黎明姫に相談事を持ちかける。呆れているような声だ。
「黎明姫様、三上の祝の儀の礼服の採寸を行うと約束していたではありませんか。割を食うのはこちらなのですよ。まさか忘れていたなどと言わないで下さいね。」
「まだ採寸もなさっていなかったのですか。私の方が早く準備出来そうですよ。…黎明姫?」黎明姫は冷や汗を掻いている。
「それよりも問題は走馬燈と走馬だわ。万一お父様、お母様に半妖であると知られたら…。」
そこ?マズい、いつの間にか走馬と入れ替わってしまうこの状態では誤魔化すにも限界がある。
「バレたらどうなるの?」恐る恐る尋ねる。
「何と言っても孫には違いないから、そう酷い扱いは受けないさ。…まあせいぜい名誉を守るために急死したことにされるだけだろう。私はそんなに生易しいことでは赦されないだろうが。」時忘は自虐的な微笑みを浮かべる。
『最悪の事態だな。一生幽閉されるみたいだけど。』走馬は最早他人事のように言う。
「そんな解決策を採って下さるとは思えないわ。貴方ほど楽観主義者になれないもの。どうしましょう。」
黎明姫が冗談を言うとは思えない。時忘なら兎も角。人間界の常識や倫理観はこの際捨て去った方が良いみたいだ。
「サトリには招待状を出さないとか?あとは特訓するのみだろう。一月もあれば何とかなるだろう。」
「ねえ、三上の儀って何?」走馬燈は我慢しきれずに質問する。
時忘はしまったという表情をする。黎明姫は一瞬眉を吊り上げる。何か言いさす時忘を手で黙らせ、黎明姫が説明する。
「私は享保五年生まれなの。もうすぐ三百になるから、そのお祝いの儀式のことよ。龍の他にも様々な妖怪が集まるわ。勿論私の両親もね。貴方が参列しないわけにはいかないのよ。」
『あれ?父さんって確か今年で三十二歳だったような。犯罪だろう。』
『他の感想はないのかよ。』走馬燈は苦笑する。