母の正体
父さん、母さん、見て!俺の目が見えるようになったよ。俺を見てよ。違う!そっちは走馬だろ?走馬じゃない。俺だよ。見えないの?こっちだよ。ねえ…。誰か気付いて。助けて。ここから連れ出して。また暗闇に潜るのは耐えられない。ねえ…。
嫌な夢だ。これが俺の本心なんだろうな。なんて醜い。自己嫌悪に陥りそうだ。所詮は走馬の陰でしかない。
「そう…若様、朝食は如何なさいますか?」
「…時忘に会いに行く。後で走馬に勧めてくれないか?」
走馬燈は家を出てから目隠しを取る。走馬は家で待つべきだと言うが、走馬燈は家に居たくない思いもあって頼み込む。走馬は文句を言いつつも時忘の元に向かう。
うわああぁ。何だ、あれは…?巨大な蜘蛛のような体。醜悪な顔に角が生えている。妖怪には違いないがそれにしても驚いた。なんだって時忘の屋敷から出てきたんだ?時忘は大丈夫なのか?
「時忘!今のは一体?」走馬は息せき切って尋ねる。
その場にいたのは銀の龍だった。走馬はハッとする。
「牛姫に会ったのか。牛鬼だ。根は優しい人だぞ。私がそちらに行くと言ったのに。」
時忘は龍から人の姿に戻った。白い浴衣姿だが、少し乱れている。左肩の付近に血が滲んでいる。本人は気付いていないようだ。
「時忘、血が…。」走馬は自分の肩を指す。
「嗚呼…全く、商売道具に傷を付けて…。痕が残ったらどうしてくれるのだろう。上客とは言え頂けないな。」時忘は傷口を舐める。
嗚呼、そんな目で私を見ないでくれ。眩しすぎて辛いんだ。私はこういう人間なんだ。君とは住む世界が違うのに。
「狡いですよ。貴方が自分のことをそんな風にしか見られないなら、そんな貴方に救われた僕は一体何なんですか?あの女たちはどうなるんですか?結局否定されるのが怖くて、その前に逃げているだけでしょう。」
「その考え方そのものが君と私が相容れない理由の全てを物語っていると思うね。」
『走馬、本題に移ってくれ。議論なんか意味ない。』
時忘は奥の部屋で服を着替えた。走馬は広く殺風景な部屋の中で暫し待っていた。生活感のない空間。走馬は彼の性格をよく表していると思った。
「待たせたな。初めに謝っておく、今回の一件で君の噂が広まるのは時間の問題となった。だからいっそ公に君のことを公言した方が安全だと思う。そこで、私の息子という体を取りたい。利点から説明しよう。」
『何故こんな急に話が進むんだ?』
そのために走馬燈を呼び捨てで呼んでいるのか。最初からこのつもりだったってことだ。
「名の知れた妖怪は全て私が抱き込んである。君と親子ということにすればまず手出ししない。雑魚が徒党を組むかもしれないが、それにしたって私は十分に対応出来るつもりだ。だが、無論直ぐにこうしなかったのにはそれなりの理由がある。」
それでもこの方法が理に適っているのは明白だ。本当に強い妖怪を全て掌握出来ている場合の話だが。走馬は次の言葉を待った。
「まずは灯馬と君に失礼だからだ。君はもう人前に出られなくなる危険性さえある。一気に走馬燈は有名になってしまうからな。走馬燈もずっと堅苦しいしきたりに縛られた暮らしを送るだろう。公にすることで虎を起こす可能性もある。それでも賛同してくれるかだ。」
「…少し二人で話してみます。」
時忘は黙って書類を出すと、何やら作業を始める。本当に多忙な人なんだろうな。それでもこんなにも気遣ってくれる。
『走馬燈、お前はどう思う?』
『きっと選択の余地など無いに違いない。寧ろ走馬は良いのか?自由が利かなくなる。』
「時忘、それでお願いします。」
「そうか。それなら走馬燈には礼儀作法を叩き込まなければならないな。確か十五の誕生日が近かったのではないか?その時に公的な場でお披露目しよう。丁度元服だろう。」
『来週じゃないか。間に合うものか。俺は物覚えが悪いんだ。』
時忘は嗜虐的な笑みを浮かべて走馬に説明し始めた。時間がないから儀式は簡略化してやると言うが、ならば正式なものは一体どんなに地獄のような長さなのか。訊くのは恐ろしすぎて断念した。
「お帰りなさいませ走馬様。大丈夫ですか?顔色が優れませんね。」
来週には死んでいるかもしれない。安請け合いなど金輪際するもんか。走馬はぐったりと倒れこんだ。
それでも何だかんだ直ぐに時間は過ぎ去るものだ。いよいよ儀式の当日になった。千里や薄氷は参列しない。まだその方が緊張しないで済みそうだ。この人だかりは一体どうしたわけだ。時忘の名でこれほど人を集められるのか。
『着付けに小一時間掛かってしまったな。頑張れよ。忘れたら僕に訊け。多分僕の方が覚えているさ。』
きっと美しい服なのだろうな。だが、動きにくくて敵わない。ここまでお膳立てしてもらって時忘の顔に泥を塗るわけにいかない。しっかりせねば。
儀式は滞りなく済んだ。翡翠色の髪に合う白い絹糸で朱い袖口の服。背には滝が刺繍されている。龍の証だ。烏帽子まで被っている。時忘は真っ白な服だ。そのまま無礼講が始まる。
「お集まり頂いて恐縮です。皆様に今日ご紹介するのは愚息、走馬燈です。見ての通り盲目なので安全のためこの年まで人間界に匿っていたのです。」
客がどよめく。俺は事前の打ち合わせ通りに口を開く。
「走馬燈と申します。今後お見知りおき願います。」
豪華絢爛な御膳が並んでいるが、食欲は全くない。俺と時忘の前には何も置かれていない。誰も何も言わないからこういうものなんだろう。宴会はどんどん進んでいく。もう帰りたい。
「三の方とは驚きました。つきましては私めにその技の一部でも拝見させて頂くことは可能でしょうか?」
場の視線が俺に注がれる。そんなことが出来るなら初めから苦労するものか。断りにくい雰囲気だが呑まれてたまるか。
「俺はとてもお見せ出来るようなものはありません。申し訳ない。」
「走馬燈は私に似ず温和で争いを好まない性格なのですよ。」時忘がすかさず場の空気を戻す。
「キャー。」あちこちから悲鳴が上がる。
「大したものですね。寸止めすると分かっていらしたとしても身じろぎ一つなさらないでいられるのは相当な度胸です。完敗ですよ。」
『走馬燈、どうやら攻撃されたみたいだが、勿論分かっていたんだよな?』
「あれは俺への攻撃だったということでしょうか?すみません。ご期待に沿えなくて。今からでもやり直しましょうか。」
時忘は走馬燈の本質を見抜いていた。反応が異常に悪いのは危険と認識していないからだ。もっと端的に言えば走馬燈は殺気にしか反応出来ないのだ。こけおどしは意味ない。大物のようにも思えるが、負傷するのだから要領が悪いのだな。
『おい、挑発しないでくれ。本当に相手が乗ったらどうするつもりだ。』
時忘は微笑みながら盃を傾けている。これなら抑止力として申し分ない。勝手に尾ひれがついてしまうだろうから。
「お疲れ様。上手くいったな。後は何日か様子見だ。」
「二度とやりたくない。さっきはわざと放っておいただろう。」
走馬燈は目隠しをむしり取った。走馬はこの御殿を見て回りたいと言う。時忘は少し悩んだが、承諾する。
奥の部屋に布の掛かった肖像画を見つける。布を外そうと手を伸ばす走馬を時忘は力強く止める。走馬は驚いて手を引っ込める。時忘の顔は穏やかだったが目は笑っていない。走馬は強い好奇心を押し止める。
「薄氷、僕との契約を覚えているか?時忘に関して知っていることは何でもいい、教えてくれないか。」
狐火を食べていた薄氷は急いで飲み込んだ。舌なめずりをすると話し始める。
「時忘様は生まれた時から名門に婿入りすることが決まっていた。一人息子だったから。しかも相手は三の方だったから幼少期から厳しい訓練を受けてきた。だが結婚から十年と経たずして二人はほとんど会わなくなった。時忘様は複数の女性と関係を持ち続けている。」
時忘は肖像画の布を取った。眼光の鋭い女性だ。黒くて長い髪は純和風だが、目は紺色だ。美人の部類に入るのだろうが、怖そうという印象が先立つ。
「黎明姫…私はもう耐えられない。」
時忘は俯いて肖像画に布を掛け直した。再び顔を上げた時は毅然とした態度に戻っている。
「妻の名前は?」
「黎明姫様。黎明に姫で黎明姫だ。現存する龍で最高位の方に当たる。時忘様の権力も彼の方の後ろ盾あってのこと。水を操る方だったと思うが、条件さえ満たせば他者の体内の水分さえ思いのまま。」
『俺らの母親は黎明姫だと思うか?だとしたら…。』
『根拠のないことを言うな。決めつけるのは早計だ。』
物心ついた時からずっと私は家門のための道具だった。まだ生まれてもいない方の夫になるべく厳しい躾をされた。母は名家の方である相手に何をされても、何を言われても耐え抜くように励ました。母自身がそのような思いをしてきたことは知っていた。
思えば、あの方にお会いしたあの日が私の第二の人生の始まりだったのだろう。両家の婚姻に反対する者たちの仕業だろう。急に天井が崩れてきて、私は咄嗟に黎明姫を庇って下敷きになった。私が黎明姫の心配をすると、黎明姫は自分こそ怪我しているのに人の心配などするなと責めたっけ。
私を一人の妖怪として扱ってくれたのはあの方が初めてだったな。権力を求めるでもなく、建前上の心配をしたわけでもなかった。あの時に今後どれほど辛いことがあろうとも黎明姫のためなら何でもしようと決心した。それは今も変わらない。
「いつの間にこんなに歪んでしまったのだろう。」
寂しさが募っていく。あの日々が戻るなら、全てを失ってでも取り戻したい。
「時忘様が悪いさ。一途に黎明姫様をお慕いしていればこんなこと出来っこない。不誠実だよ。」
薄氷の言葉は走馬と走馬燈に静かに波紋を呼んだ。時忘に自分たちの母親について訊こうと思って…出来なかった。
そして、何もない日々は淡々と過ぎていった。油断が招いた隙をついて、事件が新たな風を起こした。
千里は買い出しのために町に出ていた。人間のための食事はかなり外れまで行かなければ求められない。帰るとき、人通りの少ない道で何者かが千里の口を塞ぐ。千里は振り解こうとするも、直ぐに気を失う。
「操れるか、黄泉?」攫った男は金髪を後ろに上げている。目は琥珀色でがっしりとした体つきだ。
黄泉と呼ばれた女は紫の髪に真っ赤な唇。髪は下の方で結んである。灰色の瞳は生気がない。首に鈍色の首輪が着いている。巫女のような服装だ。
「千里の奴遅くないか?俺が探しに行ってもいいか?」
走馬燈の嗅覚は人並み外れている。千里の匂いを辿り、見知らぬ男女の匂いと混ざったとき足を速めた。
「誰だ。痛い目を見る前に帰れ。」男の声だ。
「そこに妖狸がいるだろう。俺の連れだ。返してくれ。」息を切らしつつも言う。
「おめえ、目が見えないのか。走馬燈だな。」
走馬燈は即座に電撃を声の方目掛けて飛ばす。避けられた。何処にいる?相手は二人組だし、分が悪い。
男は素手で殴りかかってきた。想定外の攻撃にもろに喰らってしまう。電撃を放つが、またも手応えがない。この至近距離で電気を二回も避けられるものだろうか?戦っている場合じゃない。千里を取り戻して帰ろう。
『走馬燈、相手は接近戦しか出来ないはずだ。防御に専念していい。』
「うっ。」噛まれた?あいつはまだそこまで接近していないはず。
このままじゃ二人とも死ぬ。相手は二人なのに一人はもう静観を決め込んでるな。体術しか使っていないのにこの強さ。もう一人は言葉を発していないから居所がつかめない。
体が少しピリピリする。毒か。龍は耐性が強いと聞いている。持ってくれ。この音と気配は茂みが近いな。一旦隠れよう。
茂みに逃げ込む走馬燈に男は石を投げつける。しまった。
『走馬、直ぐに目隠しを着け直せ。お前には相手出来ない。走馬!』どうなった?走馬は沈黙している。気を失ったのか?
「あれ?どういう事だ?人間じゃねぇか。」男は走馬の顔を覗き込む。
走馬は走馬燈に代わらなかった。走馬燈に事情を伝えもしなかった。彼等は感覚や意識を共有してはいない。殺されるなら恐怖を感じさせず、一瞬で頼む。走馬燈に解決出来ないなら最期まで走馬燈に迷惑を掛けたくない。
「なあ、翡翠色の髪に目隠しの男を見なかったか?」
「…はあ?」
普通同一人物だと思うだろう。顔は全く同じだぞ。それよりも走馬燈が飛び込んだ茂みに代わりに居たのに。走馬燈と同じ場所に怪我があるし。馬鹿なのか?
「怖がらせて悪ぃ。迷い込んだのか?出口は分かるか?」男は手を差し伸べる。
こいつは馬鹿だな。だがもう一人いるはず。そいつが止めるだろう。何とかしなければ。このままこんな馬鹿に殺されてたまるか。
「僕のことをどうするつもりだ?食べるのか?」
毒が急速に回る。仲間も近づいてきた。まだだ。諦めない。走馬燈も死ぬんだ。絶対に生き残ってやる。
「まさか。でも変わってるな。走馬燈に似てる。でも気配は完全に人間だ。何者だ?」
嘘を吐き通したいが、妖怪の中には嘘が分かる奴もいたような…。サトリだかサトラレだか。明言するのは避けた方が良いのかもしれない。
「僕がその走馬燈だと思うのか?」
丁度仲間が合流した。僕を見て状況を悟っただろう。早く次の言い訳を考えよう。どうすれば誤魔化せる?
「何言ってるんだ?いくら何でもその程度の変装が見破れないほど馬鹿じゃねぇよ。こんな目と鼻の先まで追い詰めてみすみす逃がしたらよっぽどの馬鹿じゃん。なあ黄泉?」
…お前が言う?え、本気なの?あり得ない。もう一度言わせて、お前が言う?なんか哀れになってきた。
黄泉は一瞬躊躇った。こっちも馬鹿なのか?迷うことないだろうが。中途半端な思いやりは何の役にも立たないぞ。
「ほら、黄泉もこう言ってるじゃねぇか。仕方ねえな。引き上げるか。オレぁ白露ってんだ。困ったことがあったら来いよ。あばよ。」
どう言ってんの?黙ってるじゃん、その子。何名乗ってるの?来いって言うのに居場所は言わないの?本当に引き上げるよこいつら。せめて千里は忘れずに連れていけよ。
『走馬、無事なのか?返事してくれ。』
『敵が恐ろしく馬鹿だから助かった。最早同情するよ。』
「何?そんなことがあったのか。黄泉に白露か。聞いたことない名だが…。調べてみよう。千里も走馬、走馬燈も大事ないか?」
時忘は訝しんでいた。たった二人で私を相手に出来る程腕に自信があるとも思えないが。後ろ盾があるとするならば誰だ?心当たりがない。
『走馬燈、何考えてるんだよ。普通はあんなことがあったら外出を控えるだろう。』
『あいつらだってそう思うだろう。逆に今こそ安全だと思うね。過剰に恐れるのは不健康だよ。』
周りの噂になっているな。ここまで人目があれば平気なはずだ。千里と時忘に菓子でも買ってやろう。向こうも気が滅入っているだろうから。
水菓子になってしまった。まあきっと問題ないだろう。走馬燈は両手一杯に袋を抱えて帰路に就く。路傍の小石に蹴躓いて転ぶ。上り坂だったので果物はずんずん離れていく。走馬燈は見えないので拾えない。周囲の妖怪は誤解を恐れて遠巻きに見ている。
「はい、これで全部だと思うな。大丈夫?」女性の声だ。
「ありがとう。六個買ったから全部です。袋は破けていませんか?」
女性は袋を調べる。
「駄目かな。穴が開いちゃってる。六個は持てないよね?半分持つよ。家は近いの?」
『断れ、走馬燈。怪しいじゃないか。人目のない家に招くのは許さないぞ。お前は一対一でも危ないんだから。』
「折角ですけど一人で大丈夫です。」
女性は走馬燈が差し伸べた手を掴むと一緒に歩きだす。気の弱い走馬燈は振り解くことも出来ずにそのまま進む。
「大層な御殿だなぁ。ボクなんかが声を掛けちゃ失礼だったろうね。」
「いえ、助かりました。宜しかったらお一つ如何ですか?お礼がこんなのじゃ申し訳ないけど。」
『走馬、包丁は何処にあるか分かるか?』
『いい加減にしろ。一つ土産に持たせれば済む話だろう?』
女性は自分で剥くと言って台所に入ってくる。走馬は刃物を持たせるなと警告するが、走馬燈は相手から微塵も悪意を感じないので好きにさせておく。
「あら、食べないの?じゃあ剥きすぎたな。悪いことしちゃった。」
女性が果物を食む音が軽快に響く。そのまま取り留めのない話をしている。暫くして女性は言った。
「こんなに楽しい時間は久々だよ。ボクは醜悪な見た目でね、他の妖怪とは距離を置いているのさ。でも坊ちゃんは見えないから関係ないでしょ。」
走馬燈は何も言えない。女性は走馬燈の態度に気付いたのか言葉を繋ぐ。
「もう気にしてないけどね。昔は普通の姿だったこともあるんだ。家族がいて、想い人がいて、ちやほやされていたっけ。幸せだったんだよなぁ。失わないと気付かないもんなんだよね。ボクは愚かだったよ。」
初対面で随分と立ち入った身の上話を打ち明ける人だな。俺なら共感するとでも思っているのかな。残念ながら俺は先天的に目が見えないし、人付き合いなど全くなかったから何も言うことはないんだよな。
「変なこと言って悪いね。もう帰るよ。御馳走様。次はボクがおもてなしするよ。」
「待って、お名前だけでも訊いて良いですか。」
女性は走馬燈の腕の中に紙切れを押し付ける。耳元に口を近付けて低い声で囁く。
「今に分かる。ボクの言ったことの意味が、全部。」
走馬燈は目隠しを取る。走馬は紙片の文字を見る。細く美しい墨の文字が和紙にたった三文字書かれている。
「黒彼岸。でいいのか?」
三文字か。『走馬、俺らの母さんも三の方だよな?もしかしたら…。』
思わせぶりなことを言っていたし、あり得ないとは言えない。時忘に訊いてもはぐらかされるのが関の山だろう。それならこちらにも考えがある。
「走馬様、お食事をお持ちしました。」
走馬はわざとらしく目頭を擦ると、千里に笑顔で向き直る。いくら鈍感な千里も、走馬に言葉を掛ける。
「泣いていらしたのですか。如何なさいました?」
「何でもないんだ…ただ、このまま全然母さんのことも知らずに過ごすのかと思うと、つい…。」
千里は困ったように目を逸らす。口止めされてでもいるのだろう。だが、ここで引くのは嫌だ。
「悪い、ずっと父さんと二人きりで過ごしてきて、父さんとも離れ離れになったから少し気弱になっちゃっただけだよ。心配しないで。我慢するのは慣れているさ。」
『怖い奴だな。何処でそんな技を覚えたんだよ。』
「あたしが話したことは内密にして下さいね。黎明姫様と仰る方です。最高位の龍であられるのでご多忙なのです。確か近々三百歳の御生誕日を迎えられるはずです。少なくともその式典ではお会いになれますよ。お美しい方です。」
『時忘の妻だ。父さんは時忘じゃないのに。走馬燈、僕は母さんのことがどうにも好きになれそうもないよ。』
走馬の手が怒りに震える。千里はまるで気付きもせずにニコニコとあどけなく笑っている。
白露と黄泉は山奥の寂れた屋敷に入っていく。そのまま一番奥の部屋に直行する。
「首尾はどうだった?」暗がりに女性の声が響く。
「走馬燈に会ったのに逃げられた。狸も逃がしちまった。すまねぇ。」
白露は首を垂れる。傍に控えている黄泉は相も変わらず口を噤んでいる。女性は御簾の後ろで肘掛けにもたれている。長い黒髪に縁どられた頭には二本の角が生えており、左目は髪に隠れて見えないが、右目は臙脂色だ。口元は覆面で隠されている。
「みすみす相手の警戒心だけを煽ってきたというわけか…。」
白露は黄泉を庇うような仕草を見せる。どうやら罰を受けると思ったらしい。
「黄泉、キミは上手くやったろうね。切り札を切るには時期尚早だからさ。」
黄泉は黙って頷く。白露はまだ何のことか分からないようだが、女性は黄泉から手紙を受け取る。一瞬驚いたように目を見開くも、直ぐに気を取り直す。
「上々だ。これで策が講じやすくなった。白露、キミには言っていなかったが、最初から今回の狙いはあの子狸の記憶を覗くことだけだったのさ。眠れる森の美女はもう少し惰眠を貪ることが出来そうだよ。あの子は御しにくそうだから良かった。」
白露はまだポカンとしている。黄泉は無表情に女性の方を眺めている。女性は苦し気に咳き込むと、二人を下がらせる。
走馬燈自体は簡単に丸め込めるだろう。後はまともにぶつかることさえなければ問題ない。
「思ったんだけど、銃とか刀とかって使えないわけ?俺はもうこれ以上妖力を遣うことは出来ないと思う。」走馬燈は弱音を吐く。
「銃なんか持ち出しても私なら遠距離で暴発させられるぞ。刀なぞ避雷針の代わりをして電撃を全部手元に戻してくれるだろうな。結局はこれが一番確実だ。威力も含めてな。」
時忘は即座に一蹴する。ここまで膨大な妖力を持ちながら宝の持ち腐れとしか言いようがない。惜しいものだ。
「幾分コツを掴んでいるぞ。いいか、私がバケツの水を高圧で撒いているとすれば、今の君は海の水をただ手ですくって掛けているに過ぎない。勿体ないだろう。本来私は君とは勝負にすらならないはずなのに君を手玉に取っているんだぞ。第一君には殺気が足りない。」
『ハハハ、何か言い返せよ、走馬燈。散々な言われようじゃないか。』
走馬燈は汗をさっと手で拭う。気の毒に。時忘は自分の妻と知らない人間の子に世話を焼いて、憎くないはずないだろうに。
「その辺で休憩にしましょうよ。お茶を千里さんが淹れてくれましたよ。」
薄氷がお茶を差し出す。時忘は直ぐに取ると一息にあおる。かなり湯気が出ていたが、意に介さない様子だ。走馬燈も受け取って飲む。味は気に入らないが、お茶など皆こんなものだろう。
薄氷は宵の口まで屋敷に居たが、帰路に就いた。仄暗い道には誰もいない。後ろに妖怪の気配を感じて足を速める。つけられている。
薄氷は氷の盾を前面に立てる。間一髪、そこに刃物が突き刺さる。心臓の真上だ。薄氷は盾を何重にも設置する。相手は一息に三枚も割る。破片が四枚目に突き刺さる。
「何でこんなことを…。」薄氷は勝てないと思い、恐怖に声が上ずる。息が弾む。
無言で狙いを付け直す。放とうとした所に声が掛かる。
「誰かいるんですか?」人間の声だ。若い男だろう。襲撃した人物は恨めしそうにその場を去った。男にはその姿は見えなかった。
「大丈夫?声を掛けるつもりはなかったが、放っておけなかったもので。自分は灯馬と言う者です。」灯馬はくたびれたジーンズ姿で妖界では珍妙な出で立ちである。
「もういいでしょう。早く送り届けなければ首が飛びます。」
灯馬と共にいた猫又の男性は半ベソを掻いている。護衛役が付くのは高貴な方なのだろうか。人間にしては破格の待遇である。
「では、自分はこれで。お気を付けて。」
走馬燈も走馬も驚くだろうな。久々に会うから。ずっと妖界について秘密にしてきたから怒っているかもしれない。しかし一番会うのが楽しみなのは…。
「千里ちゃんか。走馬か走馬燈はいる?」
千里は目を円くする。猫又が後ろで尻尾を振って合図する。千里は灯馬を屋敷に上げる。猫又はここで帰る。
「久しぶりだな。少し痩せたか?」灯馬は微笑む。
「その声は…父さん?まさか、何故此処に?」走馬燈は驚きを隠せない。
俺は何を言えばいいんだ?あまりに言いたいことが多すぎる。母さんのことを黙っていたことを責めればいいの?どんな思いで母さんと共に居たんだよ。時忘のことは知っていたのか?
『走馬燈、今日はもう遅い。休めよ。話は明日で十分だろう。』
「顔色が悪いぞ。時忘さんはいないのかな?明日挨拶するか。」
「夕飯は食べた?風呂が沸いてると思うけど。あ、走馬に代わるよ。」
走馬燈は諦めて普通に接することにする。千里は既に灯馬を泊めるための準備に奔走している。
「じゃあ一緒に入ろうか。父さんは明日から母さんの所に暫く行くつもりだから。」
「会えるの?」思わず走馬は訊き返す。
「ああ。安全のためにと向こうから招いてくれたからな。…もしかしてまだ会えていないのか?」
『避けられているとしか考えられないじゃないか。実の母親だぞ?無責任にも程がある。』
走馬は目を伏せる。一度も会ったことのない母親に対する不信感は静かに心を蝕みつつあった。会いたくない。会わせたくない。それでもここを乗り切らないと僕らは先に勧めないのだろう。
『走馬燈、母さんに会いたいと今でも思っているか?』
『俺はたとえ心底憎まれているとしても一目会いたい。だが、無理はしなくていい。お前が辛い思いをするのは本意じゃない。』
風呂の中で黙り込む息子に気遣わし気な表情を見せるが、本人たちによる会話がなされていることも分かっているので待っている。走馬の目には直ぐ傍の灯馬すら映っていない。ただ走馬燈と走馬が世界の全てになっている。
「父さん、明日僕も母さんの所に連れて行ってくれない?」
「勿論だ。」
「どんな人?美人?」走馬は口元を緩める。
「そうだなあ。譬えるなら…ヤマアラシかな?近付いたら怪我をするから皆に遠巻きにされている感じ。性格は可愛くないよな。本人には絶対に言うなよ。ただ不器用なんだろ。」
灯馬は屈託なく笑った。風呂場に笑い声が木霊する。つられて走馬も笑い出してしまう。思い悩んだのが馬鹿みたいじゃん。
「お迎えに上がりました。あの、走馬燈様も御一緒なさるのでしょうか?」
昨晩の猫又だ。明らかに二人に増えたことが嫌なようだ。護衛の難易度が二倍になるから当然と言えばそれまでだが。
変な道だな。先程は日が右から射していたのに、いつの間に後ろに移動したんだ?方角が狂ってる。距離もおかしいな。物の気配が急速に近付いたり離れたりしている。
「まだ着かないの?疲れたよ。」
「あと四半刻ですよ。はぐれないで下さいね。二度と戻れませんから。」猫又は厳しくたしなめ、一層歩調を速める。
凄まじい警戒ぶりだ。余所者は絶対に辿り着けないようになっている。
「着きました。取り次ぎますので暫しお待ち下さい。」
猫又が扉に手を掛けると、勢いよく開き、指を持っていかれる。猫又は痛みに鈍い呻き声を漏らす。だが、相手は灯馬と走馬燈に見入っていて無視している。
黒髪を腰の辺りまで垂らし、深い紺色の瞳で食い入るように見詰められる。紅い着物には細やかな刺繍が施されている。敢えて彼女がそうなのかとは尋ねるに及ばなかった。黎明姫だ。家族を前に表情を崩すことなく、ただ微かな手の震えが感情を示している。
「レイ、ただいま。」灯馬は腕を広げる。
黎明姫は灯馬の腕の中に飛び込む。灯馬は優しくその頭を撫でる。先程の威厳は何処へやら、少女のように無邪気にされるがままになっている。
「ずっと逢いたかったわ。トウ、貴方は相変わらずね。」
「変わらないのはレイの方こそだよ。自分はすっかり年を取ったもの。髪が少しは伸びたんじゃないか?前は腰まではなかったと思うな。」
『思ったより親しみやすそうな人で良かったよ。そう思わないか?』
走馬燈は大きめに咳払いをする。黎明姫は走馬燈に向き直る。緊張で胃が痛くなる。全く覚えていなかったり、気付かなかったりしたらどうしよう。黎明姫はゆっくりと目隠しの布に触れる。予想外の行動に走馬燈は手を跳ね除けそうになる。
「ごめんなさい。急すぎたわね。自己紹介させて下さる?」
黎明姫は一歩下がる。よく通る声が耳に残る。
「私は黎明姫。貴方の母です。今まで顔も見せずに本当にすまないことをしたわ。どうぞ貴方の気持ちが落ち着いたら家族一緒に暮らしましょう。」
「俺も自己紹介良いですか。走馬燈と言います。龍の方の俺ですね。もう一人人間の方、走馬に代わってもいいですかね。」
走馬燈は徐に目隠しを取る。表情が急に曇る。
「…走馬です。初めまして。どうやら人間界の十五年は妖界とは違って大分長いらしいですね。」走馬は皮肉っぽく笑う。
「おいおい、何処でそんな高度な自己紹介を覚えたんだ?積もる話は後にして、取り敢えず中に入ろう。な?」
時忘の館も相当な広さだが、これは規格外だ。学校より広いかもしれない。猫又の他、パッと見ても何の妖怪だか分からない者たちが大勢控えている。気後れしそうだ。
「一寸一人にしてくれない?二人で積もる話もあるでしょう。」
身勝手な人達。悪いけど僕は聖人君子じゃないから。美人には違いないけど、目がすべてを見透かしそうで好きになれないな。威圧感も息が詰まりそうだ。
『走馬燈、お前まで僕を措いていったら僕の存在は消えてしまう。放さないからな。他の誰が僕を見捨てても構わないが、お前だけは僕の物だ。一生涯。』
『お互い様だろう。半端者同士傷を舐め合おうぜ。』
多分一生走馬は母さんを赦さない。俺は間に挟まれて苦悩するのだろう。別にいいさ。俺の存在が首の皮一枚幸せを繋ぎ止められるなら。俺の代わりに走馬が怒りを露わにしてくれるから。だからこそ俺は馬鹿みたいにへらへらと愛想笑いし続けられる。
「あの、姫のことを嫌わないであげて下さい。あの方はずっと感情を殺していらしたから他人の感情も分からないような方なんですよ。本当に欠片ほどの悪意もないのでしょう。」
顔を厳重に隠しているから何だかさっぱり分からなかったが、声は少ししわがれているな。それでもよく分からない。
「忠実なんだね。それでも僕にはあの人が理解出来ない。」
「私にだって理解は出来ませんよ。数百年見ていたって何も分かりゃしない。灯馬さんの方がまだ共感出来ますね。」
百目鬼か。その妖怪は覆いを外した。ニッと笑うが、走馬は鳥肌が立つ。生理的嫌悪感というやつだろう。
「こんな見た目なら兎も角、姫は可愛い範疇に入ると思っていますよ。まあ、時忘様のような色男でもある意味問題かと思いますけど。図々しいでしょうが、一つお願いしたいのですが、姫は灯馬さんに依存しすぎています。どうぞ救って下さい。」百目鬼は再び顔を覆う。
『代わってくれ、走馬燈。疲れた。』走馬は目を瞑る。
「と、言うと?」走馬燈は会話をそのまま引き継いだ。百目鬼は平然と言葉を継ぐ。
「あの方は灯馬さんからの手紙が月に一度は届かないと食事も喉を通らないようなんですよ。異常でしょう?このままだと灯馬さんに何かあったら生きていけないでしょうね。」
成る程、狂ってる。父さんは人間で母さんは龍なんだから、間違いなく父さんの方が先に死ぬ。俺の寿命はどちら寄りなのか気になるところだな。
落ち着け。黎明姫が私に相談してくれなかったくらいで、何故こうも醜く嫉妬に駆られる必要がある?本来であれば私が彼を保護すべきだったのだ。嗚呼、私より四百も年下の男に大人げないな。尤も、彼が龍ならば生かしてはおかなかったろう。
時忘は食事をしていた。虫の居所が悪かったため、獲物は一瞬で絶命した。かえって幸運だったかもしれない。強烈な血の味に時忘は正気を取り戻す。
「黎明姫…。」血塗れの口で呟くのを罪に感じたのか、時忘は口を塞いだ。
走馬燈は両親のいる部屋に行く。誰も口を開かない。灯馬が沈黙を破る。
「まずは近況を伝え合おうか。自分は相変わらずしがないサラリーマンを続けているわけだけど。」
灯馬は走馬燈に目配せする。無論走馬燈は気付かない。手を挙げて話し始める。
「俺は、と言うか走馬は中学生だったけど、時忘に連れてこられて、あの人の屋敷で千里と暮らしてる。最近薄氷っていう友達が出来た。そんなとこ。」
「時忘のお蔭で近頃は大分平和だわ。毎日喧騒があれば治めに行っているけど、大したこともないもの。」
外から黎明姫を呼ぶ声がする。この声は先程の猫又だな。
「黎明姫様、至急ご報告です。」
「入りなさい。」
猫又は跪いた姿勢のまま報告する。
「人間界で虐殺を行う輩がいたそうです。犯人は調査中です。死因が不自然なため妖怪でしょう。死者は三十人。複数の動物の噛み傷、掻き傷があるのに死体は喰われていないとのことです。死体自身が移動したかのような跡もあるそうです。更に現場にこんなものが。」
猫又は黎明姫に紙片を渡す。灯馬はそれが見えない。走馬燈は当然何も見えない。黎明姫は表情を変える。握り潰す拳には力がこもる。
「龍にしか開けられないよう術を掛けてありましたので。やはり黎明姫様宛でしたか。」
「ご苦労。下がりなさい。」猫又は一礼すると消え去る。
「何があったの?」灯馬が訊く。黎明姫は少し躊躇うが、結局話すことに決めた。