(終)むすび
昼下がりの東京郊外にて。とある工兵将校が、降ったばかりの新雪を踏み分けながら住宅地の端に現れた。もちろん、その工兵将校とは尾坂大尉のことだ。
「ん………」
行李を片手に尾坂は東京郊外の一軒家を目指して歩いていた。そこに住んでいるのは自身の養父である、陸軍省次長の尾坂隼三郎中将閣下だ。
ちょうど今、隼三郎の居住地辺りを歩いているのだが……何やら、目的地のある辺りから不穏な気配を感じる。言い換えれば、えらく殺伐とした重苦しい妖気のような物が立ち上っている。
ちょっとした用事を済ませていたら少し遅くなってしまった。もしかしたら、既に自分の上官である奥池が訪ねていたのかもしれない。そう思い当たった尾坂は小走りになって隼三郎の自宅の門戸を潜り抜ける。
「───ごめんください」
ガラガラと引き戸を開けながら様子見を兼ねて挨拶の言葉を投げ掛けるが、返事は無い。家の中に入ったためか、威圧感がよりいっそう身近に感じられて「これは相当お怒りだな」と苦笑する。
「閣下、私です。仙です。いらっしゃいますでしょうか」
「………ああ、仙か」
妖気の出所はすぐに判ったので、行李を廊下の隅に置いて襖越しにお伺いを立ててみた。すぐに「入りなさい」という声が。
失礼します、と襖を静かに開けると、そこには予想した通りに養父である隼三郎閣下と上官である奥池の姿があった。
ただし、奥池は隼三郎を前にして青ざめた顔で正座したまま縮み上がっている。四十路越えの無精髭の男が生まれたての小鹿よろしくぴるぴると震えている姿は、なんともまあ情けないことこの上なかった。
しかしこれは仕方がないだろう。奥池は今まさに絶体絶命の危機を迎えているのだから。
(なるほど、これが日露戦争従軍者の迫力か……)
さすがに養子である尾坂の手前、多少は威圧感を弱めたが……それでも、空気がピリピリしているのが肌で感じ取れてゾッと背筋が粟立った。
年代的に当たり前と言ったら当たり前だが、隼三郎には十数年前に勃発した日露戦争での従軍経験がある。あまりその手の話をされた記憶が無いが、人伝に聞いた所によると激戦として有名な旅順攻略戦に参加されて無事に生きて帰って来られたとかなんとか。
「随分と遅かったじゃないか」
「申し訳ありません。歩三の駐屯地に少し顔を出して来て、予想外に時間を食ってしまいました。ご連絡もできずに要らぬ心配をかけたこと、心よりお詫び申し上げます」
「奥池に言われて向こうの家に連絡を入れたら、もうとっくに出ていった後だと言われてね………心配したよ」
次からはちゃんと連絡を入れておくれ、と安堵したような表情を見せる隼三郎の傍らには、なぜか鞘に収まった刀が転がっている。それも軍刀のような儀礼用ではなく、人を斬るためだけに鍛え上げられたと思われる「それっぽい」刀が。
(あともう少し、到着が遅れていたら抜刀騒ぎが起こっていたかもしれないな)
他人事のように考えていたら隼三郎が何かに気付いたらしい。奥池の方をちらりと横目で見てから、ちょいちょいと指先で尾坂にもっと近付けと指示を送る。
「奥池から聞いたのだがな、お前……妹君と一緒にあの家に一晩泊まったそうだな」
隼三郎の意図を正確に汲み取った尾坂は黙って養父の側で膝立ちとなり、音量を絞った声で囁かれたことを反芻する。
奥池には聞かれたく無い話だ。冷や汗を流しながらも頭の上に疑問符を浮かべ、しきりに首を傾げている奥池の様子を見る。聞こえていないと判断し、隼三郎は話を続けた。
「……お前、大丈夫だったのか。その……彼女はお前の妹君だが、お前は……」
「大丈夫です。彼女は私の───妹、ですから」
まるで、自分自身に言い聞かせるような低い声だった。こうなると判っていたから、今まで彼女のことを避けていたのに……という声が聞こえそうだ。たった一晩だけとはいえ、必死で我慢して耐え抜いたのだろう。
「いやだがな、しかし……」
「ご心配していただき、恐縮であります。ですが……私とて、数え十四の頃から過酷な訓練を生き抜いてきた一端の軍人ですから。この程度、耐えることができないのでは陸軍軍人の名折れです」
……痩せ我慢をしているのだということは、顔を見れば明白だ。何でも我慢してしまうのは、この青年が子供時からの悪い癖である。
「仙、」
「たとえこの先同じような事が起きようと、昨夜と同じように一分一秒でも長く……我慢して見せるでありますよ」
本人がこう言っている以上、さらなる追及は逆効果になってしまう。話題を変えよう、と提案した。
「歩三の駐屯地に行ったということは、お前の同期に会いに行ったのか?」
「はい。チハ……いえ、鷹山と会って話をしたのであります」
鷹山というのは尾坂の陸軍幼年学校本科時代の同期のことで、彼の数少ない友人のことだ。本名は鷹山千晴と言い、今は歩兵第三連隊の連隊本部附副官として勤務している。
「そのあとで参謀本部にも寄ろうかと思っておったのでありますが、奥池中佐が閣下の元に行ったと聞きましたので急ぎこちらに戻った次第であります」
極々自然な流れで隼三郎の側を離れた尾坂は、さも当然とばかりに奥池の隣にひょいと正座で座った。上官からの妖怪でも見るような視線を受け流しつつ、尾坂は少し困ったような表情を見せる。
「閣下、少々よろしいでしょうか」
「仙?」
「……あまりうちの奥池中佐を責めないで下さい」
助けてくれるのか?という期待が、隣からキラキラ降りかかってきた。
むさ苦しい中年男が向けてくる、悪戯をして叱られている最中の子供のような眼差しというのは何とも言えずに気色が悪いものだ。正直言って鬱陶しいにも程があると、舌打ちしそうになったが懸命に堪えた。
「いえ。ここで中佐が消耗されてしまわれたら、帰る道すがら今回の件の反省会を行う予定が崩れてしまうので……」
(あ、助けてくれたわけでは無いのね)
どうやら奥池が常日頃から目に入れても痛くない勢いで可愛がっている部下兼元教え子は、奥池のことを助けてくれたわけでは無く……むしろその真逆のことをしたいがために、自身の養父を窘めたようだった。
自分の身から出た錆、自業自得……そんな文字が奥池を押し潰し、どんよりと暗い空気を纏わせる。
隣でそんな暗い空気を出している奥池をしれっと無視して、尾坂はふっと口の端に笑みを貼り付けた。
あえて上官の期待とは真逆のことをしれっと口にすることで、湧いて出てきた苛立ちをプチっと潰すことに成功したというわけだ。
「そうか……この後はどうするつもりだ。もう帰るのか?」
「ええ、もう帰る他無いであります。実のところ、奥池中佐と合流したら参謀本部に顔を出して、自分の陸幼時代の模範生徒殿の様子でも拝見いたしましょうかと思ったのでありますが……」
「ああ、戸田か。残念だったな、今は欧州出張中でおらんぞ。鷹山から聞いたと思うが」
用事が無いのなら帰って当然だろう。残念ながら隼三郎も午後から出勤だ。あと一時間と経たずに陸軍省まで行かねばならぬ。名残惜しいがもうお別れだ。
だがその前に。と、隼三郎が席を立ったと思えばすぐに何かを抱えて戻ってきた。
「お前にこれを渡し損ねる所だった」
「閣下、それは?」
「ああ、これか。中身は瑞典産のアクアビットだそうだよ。度数の高い酒だから、飲むときは気を付けなさい」
「アクアビット………で、ありますか」
「昨日家にお前の米国留学時代の友人だとかいう英国人がやって来て、お前に渡してくれと置いていった物なのだが……」
「!」
ひゅっ、と息を呑む。
───自分の米国留学時代の友人を名乗る英国人。
……覚えが無かった訳ではない。むしろ、得体の知れない男であったからこそ、記憶の底にその存在がこびりついて離れないでいた。なにせその男……どういうわけか、記憶力には自信のある尾坂でさえも顔だけが思い出せないという、どう考えても堅気とは思えない男だったからだ。
名前はちゃんと名乗っていたが、どうせそれも偽名だとしか思えない。
その英国人とは、今の尾坂がはいている長靴を贈って来た相手だ。しかし尾坂は、その男と友人になった覚えはない。妙な渾名を着けてきた上に、そこはかとなくキナ臭さが漂う怪しい男なのだから、警戒して当然だろう。
「その………ミッチェルが何を……?」
「ん?お前、何も聞いていないのか。帰国したら酒を贈る約束をしていたと聞かされていたから、てっきり……」
「………」
あの男はいったい、何を考えて瑞典の蒸留酒など贈って来たのだろう?
「荷物になるなら広島まで輸送させようか?」
「……いえ、頂いて帰ります」
固い表情のまま、それを受け取る。
あの男の腹の内など読めないし、読もうとも思わないが………さすがに受け取らないと無礼に当たるだろう。それに、送り返そうにも本名さえ定かではない男の居場所など判る訳がない。
「仙……」
「閣下?」
「……また、東京に来ることがあるなら。その時はゆっくり話そう」
「はい、閣下」
それだけ言って、尾坂は奥池と共に隼三郎の自宅を辞した。
太陽光が当たったためか、軽く溶けている雪の上をサクサク歩いていく。
「駅までは歩いて参りましょう、中佐」
「えぇ……円タク拾った方が早くないか?」
チラチラと視線で円タクを探しながらタラタラ歩く奥池を、尾坂はじとっと横目で見やった。
「駄目です、中佐殿。最近、貴公の腹の辺りに余分な肉がついてきたようにお見受けいたしておりますが?」
「うぐっ」
痛いところを突かれて息を詰める。そりゃあ、奥池だってもう中年。広幼の生徒監だった大尉の頃と比べられたら困る。書類仕事と気苦労だってあの時の倍以上に増えたのだから、そりゃまあ、それ相応の体になるだろう。
「広島の連隊に帰投するまで、代理と言えども私は貴方の副官でありますから。その間の貴方の健康管理はしっかり監督させて頂くでありますよ」
「……お前、やっぱりまだ怒ってる?」
「いいえ、そんなまさか」
奥池がお伺いを立ててきたのを一蹴し、尾坂は肩を竦めて雪を蹴る。
十二月の帝都にしては珍しく、雪が積もったその日の昼下がり。
昨夜の大雪が嘘のように晴れ渡った空は、冬の澄んだ空気と相まってそれは見事な青空だったそうだ。
何かが吹っ切れたような気分である尾坂にとっては、ちょうど良い天気なのかもしれない。
淡い太陽の光に照らされて、その瑠璃色の瞳が銀色に輝いた。瑠璃色の瞳は、光の加減でまるで万華鏡のようにその表情を変えていく。
瑠璃細工のように綺麗な瞳の奥に切なる願いを宿し、尾坂は静かに歩んでいった。
彼が何を望んでいるのかは判らぬが、その望みはきっと叶うものだろう。
そう確信した奥池は、手塩に育てた可愛い部下がもっと上手に生きられるよう、密かに祈って下手っぴな口笛を吹いた。
終
2020/3/2




