(1)理想と自由への願望
昭和五年十二月、帝都───
陸軍某施設内にて……
「本当に済まんな、尾坂大尉。副官代理とはいえ俺の用事で東京にまで付き合ってくれて」
「いえ、お気になさらず奥池中佐。仕事ですから」
おそらく上官とその部下なのだろうか。二人組の男が施設内から出てきた。当然、陸軍の軍服を着ているために二人は軍人だ。
階級はそれぞれ、奥池と呼ばれたやや草臥れた風の中年男の方が中佐、そしてその隣を歩く尾坂と呼ばれた若い男の方が大尉。彼らの軍服の襟に付けられた鳶色の襟章が示すのは工兵科。その上からアラビア数字で「5」という数字が縫い付けてあるということは、二人の原隊は東京から遠く離れた広島の工兵第五連隊ということになる。
「代理とはいえ今の私は貴方の副官です。この程度、お安いご用でありますよ」
「ああ、助かったよ。俺の専門は土木だからな。機械やら車両の方はからっきしなんだ。お前を連れていって正解だった」
「お役に立てたのならば光栄であります」
待たせてあった車に乗り込みながらも二人は会話を続けた。
彼らは工兵第五連隊所属の将校だ。奥池俊雄中佐は長である連隊長。そして尾坂仙大尉は普段は第一大隊で中隊長を勤めているが、今回の東京行きにあたって副官の代理として抜擢されていた。
奥池の補佐を行っている副官は別にいるのだが、本来その役目を追うべき大尉は郷里の岡山で父親が急病で倒れたためにそちらの方に行っている。そのため、陸大卒がいない連隊内の同階級で、砲工学校の成績が最右翼であった尾坂が今回、副官代理として奥池に同行することとなったのだ。(※1)
「この後のご予定は」
「今日の所は帰って休む……と、言いたいところなんだがな。実はこの後、私用で寄りたい場所があるんだ。もう少しだけ付き合ってくれないか?」
「別に構いませんが……酒の席でありますか?」
「んー……ちょっとは入る、かもしれんな」
「そうですか。では、飲み過ぎないよう注意してください。明日、東京を出立して広島に帰るのですから、二日酔いで汽車に乗り遅れるなどという醜態を晒されないように」
「うぐっ」
酒好きの癖に酒に弱い奥池に対し、義務のように淡々と釘を刺しながら尾坂は冷めた目で正面を見据える。
一方で尾坂が刺した釘が思いの外深々と突き刺さった奥池は、苦笑いをしながらそっと思考を巡らせた。
(……このまま何も言わないと、怒るだろうなぁ……こいつ)
「何かおっしゃりたいことでも?」
「あー……うん。ちょっとな」
目深に被った帽子の下から、瑠璃色の瞳が覗く。
尾坂の瞳は、ここ日本では非常に珍しい色をしていた。宵の空のように美しい瑠璃色は、医学的には灰色に分類されている色だ。その色の瞳は、世界的に見ても露西亜や北欧などの北国でしかお目にかかれぬ滅多に無い色。
なぜ日本人である彼がその色を持っているかというと、噂によれば彼の亡くなった実母が北欧系であったからという話だ。
らしい、というのは彼自身がその類いの話をしたがらないから知っている者が少ないというだけである。
「そうだな、ハハハッ……ところで大尉。貴公は最近、ご家族と連絡は取っているのか?」
「……それは、養父との間で……という意味でありましょうか」
スッと目を細めて、尾坂は奥池に探りを入れる。一方で奥池の方は「直球過ぎたか」と思って冷や汗を流しながら、次に言うべき言葉を必死で探していた。
「隼三郎閣下とは頻繁に連絡を取り合っているでありますよ。それについてはご心配なく」
「うん、それは判っているんだが……」
「違う……と仰るなら、それは私の生家の話でありますね」
言いたいことを当てられたような気持ちになって、奥池は酢を飲んだような表情をする。
彼が普段から目をかけて可愛がっている部下は今でこそ尾坂姓を名乗っているが……旧姓は九条院。旧清華、九条院侯爵家の現当主である九条院 梅継の三男として生を受けた男だ。
しかし彼は十四年前に生家を飛び出して陸軍軍人である尾坂 隼三郎の元に養子に入ったため、今は尾坂姓を名乗っている。
どうやら生家と折り合いが悪かったらしく、尾坂は実家関係の話題を口にしたがらないのだ。ただし何があったのか、正確な真相は誰も知らないのだが。
「ご存知の通りに私はもうあの家の者ではありません。侯爵が駄々を捏ねられたので華族からの除籍はなっておりませんが、数え十四であの家を出て以来、あの家には寄り付くことさえしていませんから。当然ながら、侯爵のご子息ご令嬢の方々の婚礼の儀にも参加しておりません」
「ううむ……それはいかん。お前も幼年学校で散々言われただろう。父母兄弟は大切にしろと」
「ええ、私が広島幼年学校に通っていた時分に生徒監(※2)でした貴方から耳にタコができるほど聞かされましたので、よく覚えております」
実は二人は上官と部下という関係以外に師弟関係でもあった。十四年前に広島地方幼年学校に入校した尾坂の生徒監だったのが奥池なのである。
「ご心配なく。毎年、季節の挨拶状程度のやり取りは続いておりますので」
「どうせお前の二番目の兄さんとすぐ下の妹が頼んでもいないのに送って来るから、仕方なく判で押したような一言だけ書いて出しているってだけだろ」
「ええ、そうです。よくご存知で」
「お前な……少しは言葉を濁す素振りを見せろよ……」
奥池は隣で無表情を貫く尾坂を軽く叩いておいた。二人を乗せた車は軽快なエンジン音を響かせつつ、夕闇に染まる帝都を走って行く。
「そのような曖昧な物言いをしたところで、時間を無駄にするだけです。それでしたらさっさと素直に白状してこっぴどく叱られた方が、誉れ高き帝国の武人らしいと言うものではありませんか?」
「そういう時だけ武人の精神美の話を持ち出してくるな」
スパッと鋭く突っ込みを入れて、奥池は肺が萎むのではないかというほど深く息を吐いた。
(昔はもうちっと可愛げがあったのになぁ……)
砲工学校(※3)を卒業して員外学生(※4)として米国に留学してくる前まで、尾坂は本当に大人しく模範的な良い子の優等生だったのだ。
ところが人というものはちょっとした事で変わってしまうもので。他の青年将校のように軍規に抵触するスレスレまで瀟洒に仕立て上げた軍服を身に纏うわ、ダンスホールに通い詰めるわ、夜な夜な料亭に繰り出して芸妓遊びを繰り返すわ……奥池が手塩にかけて育て上げた教え子兼部下は米国留学から帰ってきてからというもの、今までの大人しかったのが嘘のように派手な行動を繰り返す不良軍人へと成り果てていた。
それで自己改革が失敗して盛大にコケていたら良かったのだが、残念なことにその変身と方針転換が見事に嵌まって成功してしまったのだから、頭を抱える他無い。
「どうかなされましたか、奥池中佐」
「へっ?」
「何か、私に対して仰りたいことがあるようですが……」
「あぁー……いやぁ、その………ハハハ……」
運転手を勤める若い少尉が、バックミラー越しに奥池に対してそっと同情するような視線を送る。
ただし、そこには「頼みますからこっちに面倒ごとを投げないでください」と言わんばかりの感情が何割か入っていた。
これから行く先を判っているためか、どうにも罪悪感が湧いているらしい。なにせ何も知らない尾坂を嵌めるようなものだ。それは十代のころから叩き込まれていた誉れ高き帝国軍人としての、ひいては武人としての精神美学に反するような卑怯なものなので……
「…………」
「中佐殿」
「……うん、先に謝っておく。スマン、尾坂。俺にはどうしようもできなかった」
「?」
何が、とは具体的には言わずに奥池は素直に謝った。さすがの彼にも罪の意識くらいはあったらしい。尾坂は実家とは絶縁状態、特に実の父親に対しては二度と顔も見たくないという勢いで嫌っていることは奥池も重々承知の上であるからだ。
一方で突然上官から謝罪の言葉を述べられた尾坂は頭の上に疑問符を浮かべながら首を傾げていた。
……ほんの少しの嫌な予感に、胸騒ぎを覚えながら。
「これから行くのは俺の同期の家なんだがな……うん。そこにお前のよく知っている奴がいる」
「は、」
「だからスマン。俺も半分嵌められたようなものなんだ。だからどうか許してくれ、このとぉーり!」
「中佐殿?」
パンッ、と両手を合わせ、上官が頭を下げて来たのを見てぎょっとなった尾坂が大慌てで彼を制する。これはただ事ではないなと感じ取りながら……
「私が知っている者……でありますか」
「うん……まあ、見たら判るよ。もう着いたし」
キッ、という軽いブレーキ音と共に今まで前に進んでいた車が止まる。
どうやら目的地着いたようだ。そこからの尾坂の行動は早い。
先程の嫌な予感はあっさり振り切り、さっと車の扉を開け先に出てドアの横で待機する。そうすると後からのっそりと奥池が出てきた。
……尾坂に対して申し訳の無い表情をしながらも、バツが悪そうに目を泳がせながら。
「うわ、寒い」
「風が出てきたでありますね。雪起こしでしょうか」
「えぇ……今、十二月だぜ。しかも帝都の」
「雲行きも少し怪しいでありますから、今夜は早めに引き上げた方がよろしいかと」
「うーむ……そうできたら良いんだがな……」
帝都の空を埋め尽くす勢いで発達する灰色の雲を見上げながら、奥池はひとりごちに呟いた。
※1:陸軍内での席順は「陸軍大学を卒業しているかどうか」が全てです。たとえ陸士を主席で卒業していても同期同階級に陸大卒がいた場合、席順はその人よりも後ろになります。尾坂大尉は後述の通りに砲工学校高等科を卒業して員外学生になった特別抜擢組なので、人事の面では陸大卒者と同じ扱いになっています。なお、この当時は工兵第五"連隊"ではなく工兵第五"大隊"でしたが、この話ではあえて"工兵第五連隊"にしてあります。史実で工五が連隊に昇格したのは昭和十一年の話です。
※2:平たく言うと陸軍幼年学校の担任の先生。幼年学校のことは陸軍の付属中学のようなものだとイメージしてください。通常は妻子のいる大尉クラスの武官が担当。
※3:砲兵科、工兵科の将校が一年間隊附を勤めた後に東京に呼び戻されて全員入校するのが陸軍砲工学校(後に陸軍科学学校に改称)。普通科と高等科があり、普通科学生の中で上位三分の一までの成績優秀者が高等科に進む。また、高等科を卒業すると、人事の上では陸軍大学卒業者と同じ扱いを受けて、成績トップには「恩賜の軍刀」も授与される。
※4:砲工学校高等科卒業生の内、さらに砲兵科の中から主席と次席の二名、工兵科の中からは主席一名が陸軍外の大学(通常は東大や京大の理工学部)に派遣されて各々の担当分野を三年間学習・研究する。員外学生というのは「大学の定員外の学生」という意味。員外学生に選ばれた学生は「特別抜擢組」と呼称され、陸大卒業者である「天保銭組」と共に同期から一目置かれる存在でした。(実際に二次元もびっくりな経歴の人がいらっしゃったり)