瘴気
ランティス様が私の腰に手を回す。
「恐ければ我にーー俺にしがみつけ」
次の瞬間、足元が無くなった。
空中⁉︎
悲鳴すら上げられない恐怖で、ランティス様に必死にしがみつく。
目をきつくつぶり、顔をランティス様の胸元に埋める。
が、いつまでも落ちる気配は無い。
恐る恐る目を薄く開けると、遥か彼方にそびえる稜線が見えた。
視線を落とせば、鬱蒼とした森が続いている。
「落ち着いたか?」
風にランティス様の黒髪がたなびいている。
金色の双眸を見上げ、私はこくりとうなずいた。
「はい、大丈夫です。ここはどこですか?」
「東部地方に広がる森の上だ。あの霧が見えるか?」
ランティス様が指差す方向に目を凝らすと、山の裾野の辺りに漆黒と真紅の霧が渦を巻いているのが分かる。
「はい、見えます」
「あの霧が瘴気だ。瘴気は瘴核を生む。飛散して弾けた瘴核の欠片が刺さると、魔族や魔物は血の狂乱に陥り、手を施さなければ狂魔化する。竜のような大型の強い魔物が狂魔化すると被害は大きくなる故、俺が出向く。竜の気配は辿れた。行くぞ」
ランティス様が再び転移すると、降り積もった真っ白な雪の上でのたうちまわる竜がいた。
元は白かったのではないだろうか。
爛れ、赤黒くまだらに染まった鱗のところどころに白い鱗が見える。
目から血を流し、咆哮を上げながら暴れ回る竜。
辺りには手足や首が有り得ない方向に捻れ、倒れ臥している漆黒の鎧を着た騎士たち。
散らばる武器と死体を踏みつけ、竜が口を大きく開けた。
鋭い牙が連なるその奥に白熱が灯る。
ランティス様がすっと右手を竜にかざした。
ーーその動作は私にはとてもゆっくりに見えた。
優雅な仕草。
しかし、次の瞬間、数多の黒い光の槍が降り注ぎ、竜を貫く。
竜の顎門から放たれたブレスは、私の目の前できらきらと輝く光となって消えた。
竜が轟音と雪煙を立て、地に横倒れる。
ランティス様が私を抱いたまま、ふわりと竜の頬の上に降り立った。
耳を打つふいごのような息。
竜の縦長の瞳孔がぎろりとランティス様を見上げた。
穏やかに優しくランティス様が竜に語りかける。
「そなたの苦しみは我が胸に留めよう。安らかに眠るがいい」
竜の瞼が閉じられた。
ランティス様が闇色の大剣を右手に作り出し、ひと振りする。
そうして、竜の首は断たれた。
「ランティス様……」
哀しげに竜を見下ろすランティス様の名を呼ぶ。
ランティス様の視線が私に移る。
「瘴気は、人間が生み出すものだ。人間が人間同士争うとき、人間の魂が怨嗟と憎悪、そして悲嘆と苦悶の声を上げる。瘴気は、その魂の叫びによって生まれる。人間の同族喰いの最たるものが戦争だ。ここ最近瘴気が頻発している。近々人の世で大きな戦争が始まるのであろう」
感情は一切込められていない。
ああ、ランティス様は人間がお嫌いなのだな、と私は静かに悟った。
近々人の世で大きな戦争が始まるーー
もしかしたらその戦争がランティス様が人の世を滅ぼそうとなさる原因なのだろうか?
ゲームの中では、戦争についても他国についても描かれていなかった。
だが、この大陸で今戦乱の火種が少しずつ広がっているのは知っている。
大陸東部に位置するレギオン帝国。
鮮血帝と呼ばれる現皇帝が即位してから、あの帝国は急速に版図を広げている。
エリューシオン聖王国とレギオン帝国の間にはまだ幾つかの小国が存在するが、それらの国が落とされれば、ふたつの大国の戦端が開かれるかもしれない。
ーー話が大き過ぎる……
ランティス様が殿下とリディアに会うのを防ぎ、魔族や魔物が人々を苦しめるのを防ぐ。
そのためには戦争を起こさないようにする⁉︎
一介の公爵令嬢には荷が勝ち過ぎますわ!
ああ、でも……
私はランティス様の凪いだ金色の瞳を見つめる。
「私がその戦争を防いだら、ランティス様は私を褒めて下さいますか?」
「何⁉︎ そなたは何を言っておるのだ⁉︎」
「大きな戦争が起きれば、大きな瘴気が生まれて、ランティス様は今みたいに悲しい想いをなさるのですよね? だったら私、その戦争を防いでみせますわ!」
魔王より怖いものがこの世にありまして⁉︎




