覗く
「今朝はトーストか‥
そんなにマーガリンをたっぷり塗ると太るぞ❗
お前がバターバターって口癖のように言ってるそいつは廃油だからなっ‥相変わらず珈琲が好きだな‥それで4杯目だぞ‥」
風も凍りつく早朝7時。
卓上カレンダーの日付は2016年1月31日。
キチンとめくられている。
「よしっ!」
俺のいつもの日課は当たり前のように、こうして始まる。
心無しか、辺りはまだ少し暗い。空の雲ゆきがあやしい。
テレビの画面に天気予報の雪だるまマークが一瞬映り、視界に飛び込んできた。
(はは~ん、どうも冷え込むと思ったら、今日は雪か。」
この部屋を覗く。
俺の一日の日課はここから始まる。
たぶん、まだ気づかれてはいない。この塀の壁穴は、あちら側からはあまり目立たない。たぶん‥。
この部屋にだらしなく住んでいるこの女は、なんだか放っておけない。俺は別に、この女に女としての興味がある訳ではない。
でも気になる。
今、何をしているのかが異様に気になるのだ。
今、何を食べているのか、何を見ているのか、何を考えているのか。誰がこの女を訪れて来るのか、そして何を話すのか。
「おいっ、もうそろそろ出かけないと仕事に間に合わないぞ❗
行きながらコンビニで携帯の料金を払うんだろっ、支払い用紙のハガキをもっていかないと❗携帯停まるぞ❗」
何で俺がこんな心配までしなくてはならんのだ。
もう神経がもたないぞ~。
この覗きがもし見つかれば、悪いのは100%俺だ。立派なストーカー成立で逮捕は免れないだろう。でも俺は悪くない。
こんなにあの女の事を心配している者は他にはいない。
その日の夕方。
何か胸騒ぎがしていつものように女の部屋を覗くと、見慣れぬ男の姿があった。
「お前~、その男だけはやめておけ!
悪影響はないが、その男と付き合っても良い事もないぞ。
他の良縁を逃すぞ。俺の言うことを聞け!」
俺の声など聞こえる訳はないか‥いや聞こえたらヤバイだろう。
俺は少し焦っていた。
どうしたら良いのだ‥。
もう、捕まっても何でもいい。俺は奇声をあげた。
「おーい!その男を追い出せ~今すぐ追い出すんだ❗」
次の瞬間、俺の覗きを見破られたのか‥依りにもよって男の方が
ずかずかと俺に向かって近づいてきたのだ。
「なに? やっぱり気づかれたか‥」
俺は恐怖のあまり、また震えた奇声を発していた。
そして、その男が想像を絶する行動に出た。
(バシャーバシャ!バシャ!バシャ!)
壁穴から女の部屋を覗いている俺に大量の水を浴びせかけてきたのだ。 いつのまにこんな大量の水を汲んできたんだ?
俺の全身は水びたしで酷いことになっていた。
でも、そんな事に構っている場合じゃない。
とにかく逃げなければ❗
俺の覗きの日課はもう10年以上。実際に取り調べを受けることにでもなったら‥と考えたら冷や汗が止まらない。
俺は、なり振りも構わず先ず逃げた。
逃げて逃げて逃げ隠れた。どれだけ走ったかは覚えてはいない。
そして、そのまま意識がぼんやり遠のいていった。
あれ?
ここは何処だろう。
俺はテーブルに腰かけている。
そしてテーブルの上にはこんがり焼けたトーストが2枚。
マーガリンがたっぷり塗られている。
何処かで見た事のあるこの景観。
でも気のせいか‥悪い夢でも見ていたのか‥。
だんだんと意識ははっきりと甦ってきた。
今朝は寒い。
どうも午後からは雪予報だ。
急いで支度をして会社に出かけようと鏡をのぞくと、そこには
何処かで見かけたような女の姿があった。
(なんだ?
いったいコレは何が起きているんだ?)
鏡の中に映っているのは紛れもなく女の姿が
をした俺だ!
何事もないように時計の針はカチカチと軽快に音をたて、テレビからは雪予報を知らせるアナウンサーの声が轟いていた。
その夜。
女になった俺は、会社の同僚の男を部屋に誘った。
おとなしい、うだつの上がらぬ男だが人はいい奴だ。
帰宅し、同僚に珈琲を入れて少し会話をした。
そして着替えをしようとソファを立ったその時、小さな庭先を囲む塀の外で何やらおかしな声が聞こえる。
女の俺は叫んだ❗
「武田さん~助けて!
誰か外にいる!今、おかしな声が聞こえたわ。」
「えっ?」
同僚の武田はすぐさま立ち上がり、庭先に様子を見に行った。
「友子さん、ここに覗き穴があるぞ❗」
体の大きい武田は、庭に汲み置きをしてあったタライの水をとっさに持ち上げて、その壁の覗き穴めがけて撒き散らした。
(バシャーバシャ!バシャ!バシャ!)
「バタバタバタバタ~バタバタバタバタ~」
「な~んだ。
友子さん、誰か覗いているのかと思ったら
ただのカラスだったよ~(笑い)」
テーブルの上の卓上カレンダーが何か言いたげに、その日の日付 を誇張していた。
2217年1月31日‥寒い雪の夜だった。
~完~