思考回路
「ねぇ、遊ぼう♪」
ある少女が言った。
その少女は、少年に向かって華麗な笑みを浮かべていた。只ありふれた少女の無邪気な笑顔だった。
「いいよ」
少年は言った。
少年少女は遊んだ。
それはそれは長い時間、遊んだ。
次の日も、また次の日も、少年少女は遊んだ。
だが、ある日に少女は言った。
「ごめんね、君とは遊ばない」
少年は困惑した。焦りと焦燥の顔で「何故?」とん聞き返した。
その答えは、実にありふれて、だが確かに心を抉るには充分の言葉であった。
「だって、面白くないんだもん」
その日から、少年と少女が共に遊ぶ姿を見た人は誰もいなかった。
あるバーのカウンターの席に一人、腰を曲げてテーブルに寄りかかりグラスを揺らしている男がいた。年齢は三〇代後半ほどの中年太りをした男であった。
「……、」
彼は、頭を悩ませていた。
「どうしたんだい?」
そんな彼に、ひとりの男性が話しかける。話しかけてきた男は四〇を軽超えており、だがその風貌は紳士のような立ち振る舞いであったのだ。気品あふれる佇まいに静かな瞳。そんな彼を見て、中年の男は振り向きざまに応えた。
「いやぁ何、公園で見かけた二人の子供の話なんですがねぇ……特にこれといった深い悩みでもありませんよ」
「……少し、聞いてもいいかね?」
「お酒の摘みに成るのであれば」
紳士の風貌をした男は、中年男性の隣の席に腰掛ける。彼が頼んだのはウイスキーのロックであった。それは中年男性と同じものであるが、種類が違う瓶のものであった。
「それで?」
「ああ、ある二人の少年と少女が公園で遊ぶようになってね、私は公園のベンチからそれを見ていたのですよ。ですが、ある日突然に少女は「もう君とは遊ばない」と言ってね、理由はつまらないという一言だけだったのです」
「ほう……」
中年の男はグラスに入った酒を口につけると、大きなため息混じりにこう告げた。
「私はその公園の近くで小さな診療所を営んでいまして、あのベンチで子供たちが戯れるのを見ているだけでホッとするものがあったのです。ですがその日以来、彼らの姿はそこでは見られなくなって、気が付けば彼らが出会う前の寂れた誰もいない公園で一人で座って暇を潰すようになってしまって……目に何も映らなくなってしまいまして……」
紳士のような風貌をした男は、ふむ、とグラスに口をつけながら聞いていた。中年の男は話している最中何度かその男を見ていたが、整った高価なスーツに顔立ちの良い風貌がなんとも気品そのものを表しているように見えて仕方がなかったのだ。自分とはまるで別の場所の人間とも思えてしまうほどに、その紳士は表情も何も崩さず冷静な笑みを浮かべて聞いていたのだ。
「君は、その子たちが離れる前に何かトラブルのようなものはあったかい?」
「そうですね、楽しそうではありましたよ。いつも少年が少女を連れて遊び回る。そのようななんともありふれた光景でした?」
「では、その時の少女の顔はどうだったかね?」
「顔、ですか?」
意外な質問に中年の男がムムムッと考え込み、
「特には……引っ張られてる時こそ、まあ、驚き焦るような感じでしたが、それでも結果的にどちらも笑っていましたからね……」
「なるほどね。だが、君は一つ思い違いをしているよ」
「思い違い?」
「子供だって、望む遊び方は違うのだ。ましてや少女と少年だ。彼らが同じ趣味を持つ人間だと思うかい?」
「ということは、単に少女の望んだ遊びではなかったから断ったと? ……ですが、それだけで「もう遊ばない」と言う様なものでしょうか?」
「無論、それだけではないさ。きっと少女は少なからず遊ぶことに関しては楽しかったはずだ。だが、遊びとは子供たちが無意識にその好奇心と欲求を満たす手段でもあるのだ」
「……それは、少女が少年に対して、欲を満たす対象だと満たせなかったのですか?」
「さぁ、それが当たりかは分かりかねるがね。だが、それはある意味では遊びに入れてもらえない子供と同じような感覚でもあるのだよ。好きでもないことをやらされる事と、相手が一方的に楽しんでいる状況では、かなり感覚が変わってきてしまう」
男は、語り終えたあと口元にグラスを運び、酒を啜る。
喉元でゴクンッという音と共に、紳士の男は席を立ち上がった。
「では、私は行くとするよ。良い摘みにもなった。ありがとう、お医者様」
「いえ、私こそ。私も子供相手の診療所の院長ですので、その話を教訓にさせていただきますよ」
紳士の男は、クスリッと笑みを浮かばせる。そして、去る前に男に語りかけた。
「君がそうするかしないかは自由だ。だが、人は言葉にしたことをそのまま行動に移す人間ではない。いったところで無意識が勝ち、結局は行動に移せず変われないものも多い。最も大事なのは、精進することだよ」
男は、その言葉を吐き捨てて立ち去った。
その紳士の男は最後まで顔色一つ変えず、不敵に微笑みながら立ち去る。後に残ったのは、酒の料金と半分しか減っていないグラスだけだった。
「……、」
中年の男は、また自分のグラスを持ちテーブルに肘を起き頬杖を付きながら時間を過ごす。
だが、その男の顔はどこか何かの懸念が抜け落ちたような冷静さが残っていた。
「日々精進、か……」
時間がまるで流れる水のように過ぎる。
そして、男は大きく息を吐き捨てると、顔を上げてこう言った。
「マスター、そこの酒と同じ酒を一杯頼む」