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——ねえねえ、汐ちゃん。
——なによ、母さん。
——お母さん、ふっと思いついたんだけどね。ここのドアを開けたら、異世界に行けると思うのよ!
——え、何その異世界版どこでもドアみたいなの。これただのトイレのドアじゃん。
——夢がないわねー。ドアの向こうにはどんなものが待っているかわからないじゃないのー。
——少なくともここはただの和式トイレに繋がってるのは確かだよ。それよりもさ、もうそろそろ洋式トイレにしてみない? 私、和式よりも洋式トイレのほうがいいんだけどさ。ウォシュレット、便利じゃん。
——それは絶対ダメ! そんなことしたらお母さん泣いちゃうから!
——なんなの、泣くほど和式トイレにこだわりがあるのっ! あれすごく飛び散りやすくて汚いじゃん!
——ダメったら、ダメー!
この会話後まもなく、汐の母親は「ちょっと野暮用で母親を休業します」という書置きを残して蒸発した。母親は何かとんでもないことをやらかしそうな浮世めいたところがあったから、汐からすれば来るべき時が到来した、という感じ。父、孝雄は薄くなりはじめた頭髪をがしがしと掻きながらこう言ったものだ。
——あいつは、まぁ、無自覚の悪女だからなぁ。
汐はその言葉に大いに同意した。「野暮用で母親を休業」などとはふざけている! 絶対に、うちの馬鹿母のように気まぐれなんて起こしてたまるか!
彼女はこの中一の夏に誓ったのである。私は、誰にも迷惑をかけない、堅実な人生を生きてやるぞ! と。
そしてこのまま汐は県下随一の超進学校に入学したのである。その地元ブランド力はすさまじく、高校生ながらバイトの履歴書に書けば、「おっ、すごいね」と思ってもらえる。地元就職するには有利だ。
成績も校内で一番だった。最初は半ばぐらいの成績だったが、難関国公立大学ストレート合格を目指すべく必死に机にかじりつき、徐々に上り詰めていったのである。ここまで来たら、東大でも目指してやろうかと彼女はひそかに思い始めている。
人間関係はそこそこだ。さすがに汐も、自分の成績がいいからと言って、それを自慢するほど馬鹿じゃない。謙虚さが自分の身を助けることを知っていた。……ここまで言えばわかるだろうが、汐という少女は善良という意味での「いい性格」ではなく、図太くて若干汚いところもある「イイ性格」をしている。そのため、一部の男女に高慢ちき、高飛車女とあだ名されていた。口に出さなくとも伝わるものもあったようだ。
母親が失踪してから、そろそろ四年になっていた。父親の頭の生え際が年々後退していくのを観察するにつけ、呆れた母親への憤りと父親への憐憫を覚える。父親はいまだに妻が帰ってくると心の底から信じているのだ。汐は、頭皮のはげた面積だけ、父の苦労を見ているようだった。
ある日の夜十二時ごろ。汐は一日五時間勉強のノルマをこなしてからトイレに向かっていた。非常にぎりぎりなところまで催していたのである。
「トイレ、トイレっと……」
トイレは一戸建ての一階廊下の横にあった。いまだに和式である。
汐はさっとその扉を開いた。
するとあったのである、扉向こうにもじゃもじゃが生えた肌色の柱が二本。
汐は名鉄百貨店前のナナちゃんを思いだした。ちょうど彼女が立っている位置が両足の間ぐらいだったからである。けれどもナナちゃんはすらっとした形のなめらかなおみ足で、こっちはどう見ても汚いオッサンの汚足。ぶよんぶよんのぜい肉までついていた。
「うん?」
汐は首を傾げた。……このトイレ、こんなに狭かったっけ? あれ、壁はどこ?
汚い足がつけているのは地面じゃなくて、白いふわふわ……見間違いじゃなければ雲っぽいぞ。
バタン!
汐は扉を閉めた。もう一度開けば、普通に我が家のトイレに繋がっていた。一人分のスペースに備え付けられた和式便器は相変わらずウォシュレットに換わる予定はない。なぜか父親までが汐の洋式トイレ計画の邪魔をしてきたからだ。
彼女は普通に用を足して扉から出てきたが、思い立ってもう一度開いてみる。
ぶわっと汐の髪が風を受けてなびいた。そして、遠い眼下に何か黒いものがうごめいていた。うおー、だの、ぎゃあああああ、だのうるさい。さらに目を凝らしてみて、なんだか悪魔みたいだな、と思っていると、横から一段とまがまがしい姿をした悪魔っぽい生物が玉座っぽいものに座りつつ、おどろおどろしい声で、
「シオメ、ヲテルナシイニ」
と、言ってきたので、
「あ、ごめんなさい。間違えたようです」
扉を閉めた。どうやらショックも度を越すと何もわからなくなるようである。
汐はそのまま寝ることにした。
勉強疲れでとうとう幻覚を見るようになってしまった……。汐はひそかに落ち込んでいたのだ。
その夜、彼女は不思議な夢を見た。ジョセフィーヌの肖像画みたいな白いエンパイアドレスを着た母親が、お城のような場所でイケメンたちにかしずかれながら、キャッキャウフフしている夢である。
(気に食わないなぁ……)
父というものがありながら、そんな尻軽みたいな真似をして。友達でもこんな子はいやだ。
——ちょっと、母さん!
叫ぶと、母は汐の目の前まで駆け寄ってきた。まるで少女のような振る舞いである。置いてかれたイケメンたちは残念そうな顔でこちらを見ていたが、汐は彼らに意地悪くあっかんべえしてやった。
どうせ顔だけのろくでもない男たちである。
——うん? なあに、汐ちゃん。ずいぶんと久しぶりねぇ。どうやってここまで来たの? って、あらぁ。そんな姿で来ちゃったのねー。やっぱり母さんの娘だから、才能あるのね! 導き無しでここまで来れちゃうんだもの! 私以上の素質があるわ!
——はあ? 何意味わからないこと言っちゃってるの。頭おかしいんじゃない? そんなことよりも、母さんは今どこにいるわけ? 私と父さんを捨てるのはいいんだけどさ、失踪とかじゃなくて、もっと穏便な方法で別れてよ! 事故とか事件に巻き込まれたとか考えちゃうじゃん! 連絡ぐらいはしてきてよ!
——汐ちゃん……ごめんね。母さん、まだ帰れないの。今、すごく遠いところまで来ていて、簡単に連絡も取れない。でも母さんは元気よ。それに、ちゃんとお父さん一筋だから安心して。
——だったら、男を侍らせるのは一体どういうわけよ! 年齢ってものを考えてよ! こんなのが母親だなんて、私は嫌!
母はくしゃっと顔を歪めた。
——仕方がないの……母さんしかいないから……。この国の祭祀の最高位たる〈赤の聖女〉は母さんしかやれる人がいなくて。そのお役目も色々あるの。代わりがいないから、どうにもならないの……。帰れないの。……汐ちゃん、汐ちゃん。お父さんは元気にしてる? 禿げチビオヤジになったとしても、ずっと愛しているわ、浮気はダメよって伝えてね……。
——母さん! 私は、そんなことを聞きたいんじゃない! 帰ってきて! ……帰ってきてよ! 父さん、母さんの話が出るとすごくさびしそうなんだよ。父さんには母さんが必要なんだから! すぐに帰ってきて! お役目なんて、誰かに押し付けちゃえばいいじゃん! 代わりなんて、探せばきっといるよ!
——押し付け……。でもね、そんなことをしちゃったら、汐ちゃんが困ることになるけどいいの?
——なんでさ! ちっとも困らないじゃないの。母さんが帰ってこれば、父さんも母さんもハッピーエンドなんだから、私が困るわけがない! ……そりゃあ、うざい時もあるけれど、いないよりはマシだもん。
——そっかぁ。
母は嬉しそうに汐の身体をしっかりと抱きしめた。
——汐ちゃん、ありがとう。母さんも頑張ることにする。だからね、汐ちゃんも少しの間お手伝いしてくれる?
——……はいはい。そんなことだろうと思ってました。いいよ。
汐の母は不器用な人だった。料理を習えば、汐が先に上達するし、掃除を頼まれれば、汐の方が早く終わって、頼んだ母の方が手伝われると言うありさまだったから、汐が母親に助けを求められるのはいつものことなのである。
——じゃあ、そのうちにね。母さん、こっちで待ってるから、早く来てね。二人でこの〈戦争〉を終わらせましょう。
(……んんっ?)
ベッドの上で目を覚ました汐は目元をこすりながら、欠伸をした。
(今日はあんまり夢見がよくなかったな……)
夢に母親が出てくることなんて初めてだったのである。しかも、相変わらずの美人ぷり。そりゃあ、夢とはいえ、男が放っておかないはずだ。
汐の母は金髪碧眼の外国人だった。本人はウクライナ人と言っていたが、今までウクライナ語をしゃべったところは聞いたことがないし、汐に教えることもなかった。
汐は残念なことに平均的な日本人顔である。外国の血が入っているとは思えないほどの平坦なお顔。唯一外国人ぽいのは睫毛が長いこと、平均よりも背が高いことぐらい。日本人の黒目黒髪の遺伝子は美形な母の遺伝子を圧倒したのだ。父親は強し。
もちろん性格もどこまでも女らしい母親とは違ったので、男らしく後頭部をがしがしかきながら、よろよろと制服を着た。制服はリボンもネクタイもない紺色のブレザーである。可愛さ皆無。校則違反など思いもよらない。
「ああー、ねむねむ」
くわぁっと大あくび。そうこうしているうちに、汐は夢のことなどすっかり忘れてしまった。まして、昨日の不思議な体験のことなど、すっかりぽんと頭から抜け落ちていたのである。