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~宴席編~

お酒は二十歳になってから。お酒は楽しく、量は程々を心がけましょう。

お酒。それは大人の嗜好品の一つ。歴年齢で二十歳を過ぎた時点で、二十歳の誕生日を迎えた午前零時をもってして、飲酒する権利が法的に認められる。


私は趣味の一つに"飲酒"と胸を張って言える自信があるが、専ら一人晩酌専門である。酒が好きなら週末の夜はちょいと居酒屋にでも繰り出して……なんてことをしてみたらいいのでは?と思われる方もいらっしゃるだろうが、私はそれをしない。何故か。私は宴席というものが非常に苦手である。苦手というか、嫌いである。嫌いというか、大嫌いである。出来れば一生宴席に参加しないでいられるものなら、参加せずに棺桶に入りたい、と切に願っている。


思えば私の宴席嫌いとなる決定的"事件"があった。思い出しただけでも背筋に寒気が走るし、自分の記憶というものが消去できるものなら消去してしまいたいのだが、私は高次脳機能を持ってしまった人間であるから、それが容易く出来ないのは誠に遺憾である。


──大学二年生の春の出来事である。


所属していたブラスバンド部の新入部員歓迎会でのこと。大学という自由で、ちょっと気怠くて、たまには徹夜でレポートを書いて、前後期の試験を無事にクリアしなければならなくて、出席に厳しい教授の授業が一限めから入っていたときは眠気を堪えて出席して……などなど"大学のシステム"に慣れるために丸一年を費やした私だったが、二年に進級してやっと"サークル活動"という大学生らしい(或いは大学生っぽい)活動に参加してみようと思ったわけである。


そして私は、己に文武両道、という試練を課し、陸上競技部とブラスバンド部という、まるで正反対の体育会系サークルと文化系サークルの掛け持ちというかなりの無理をしてしまった。


陸上競技部はさすが、体育会系ということもあってか(私が進学した大学が特殊だったのかもしれないが)、学年による上下関係が非常に厳しく、中途入部の私にサークルでは先輩にあたる一年生が「お疲れ様です!」とか「洗濯物は自分が洗っておきますんで!」といった言葉を投げかけてくるものだから、正直言って居づらいことこの上なし。しかしそこはばしっと割り切って、無料でトラックコースと学内のマシントレーニングジムが使えるサークル、というスタイルに変換した。妙なところで頭の機転が利く私であった。


さて、大学生ともあれば、勉学に、スポーツに精を出し、これから社会と言う荒波に出ていくための準備をしなければならない……のだが、それだけでは面白くない。スマートで(身長が百六十センチなら体重は五十キロくらいが望ましい)ショートカットの素敵な異性との出会いに期待し、恋愛関係になろうものならもうけもの。そんな色めいた気持ちも手伝ってのサークルへの入部だったわけだが……私は入る学校を間違えていた。経済・経営学部と工学・理学部という、極めて男子比率の高い我が母校、そもそもの女子学生の総数が足りていない。男子学生の供給超過と女子学生の需要超過状態と化した我が母校。悲しきかな、入学段階でサークルに加入していなかった私は、完全に出遅れてしまっていた。


それならば……文化系のブラスバンド部なら、少なくとも男子部員しか在席していない(そもそも女子陸上競技部が存在しない)陸上競技部よりは出会いの可能性があるだろう、そんな不謹慎かつ不純な動機で入部したブラスバンド部だったのだが、結果は悲惨なものだった。一年の部員がおらず、中途入部の私と、それにくっつくような形で入部した同じ研究室の友人が二年生、三年生は部長(男子)とほとんど幽霊部員だという女子学生の二名、四年生は就職先が決まっている男子部員一名、院生のOBが二名(どちらも男子)という、ブラスバンドをやるには数も足りなければ本来の目的である女子学生が幽霊部員で、常駐メンバーが全て男子学生という、悲惨極まりない状況。私は、私と同じ疚しき目的で入部した友人と、二人心の中で涙した。


そんな色気の全くない状況で行われた新歓コンパで事件は起こる。


──金曜日の夜。


キャンパス近くにある、とある大衆居酒屋に六名の男子大学生が飲み放題プランで入店していた。5限めの授業が終わった後。時刻は夕方六時を回ったくらいだが、早くも店内は酔客の喧噪で賑わっている、というより、喧しい。新歓コンパと銘打った割には、飲み代がしっかりと新入部員からも徴収されていて、早くも出来上がった酔客の大声となけなしの金を払ったおかげで、早くも気分が悪い。弱小文化部といっても、大学から"部"として承認されているわけだから、部費がゼロということはないでしょうが。先輩方、ケチすぎるぜ。私の心の声がそう叫んでいる。


実質的な宴席の主導権を握った院生のK先輩が、部員全員のオーダーを取る。「とりあえず"生"でいいだろ?」私以外の全員が頷く中、私だけが「すいません、俺、ビール飲めないんで……」と言うと、K先輩を含めた全員の刺すような視線が私に向けられた。そんな睨まれても、飲めないものは飲めないんだよ、嫌いなんだよ。「お前、先輩の言うことが聞けないってか?」そう言いたげなK先輩の隣に着席した院生M先輩が、「好みがあるだろ」とフォローしてくれる。さすが、これまで私にテナーサックスの熱血指導をしてくれただけのことはある。「じゃ、何にする?」同じ院生の肩書でも、K先輩が"動"ならM先輩は"静"で、対極にいる二人だよなと思ってはいたのだけれど。「あ、じゃあ、ウーロン茶で」私が安堵して微笑みながら答えると、さすがのM先輩も表情が固まった。「お前、空気読めよ」全員から声なき声が発せられた。仕方ないじゃないのさ、他の皆はキャンパスからほど近い距離にアパートを借りているか、実家が近い。ブラスバンド部の中で私だけが、往復三十キロを苦手な自動車の運転をしながら通ってきているんだもの。


しかし──この流れで行くと、乾杯の音頭となる前に険悪な雰囲気になることは自明である。仕方がない。「……あ、すいません、間違えました、ウーロンハイと間違えましたよ、ははは」私は苦笑しながらオーダーを変更した。


それにしても、である。現実として今日の私は自動車で学校まで来てしまっているし、アルコールを摂取してしまったら運転は不可能である。安全安心の電車で帰ろうかとも思ったが、正直な話、この空気で途中で退席しようものなら、先輩方から罵詈雑言を浴びせかけられるのは明らか。そこで私は考えた。日本史のひっかけ問題を解くとき並みに考えた。そして、私はその"秘密作戦"を実行に移した。


「ちょっとお手洗いに……」と自分の席を立ち、オーダーを受けてくれたぽっちゃりした中年の女性店員さんの所へ駆けていく。呼び止め、店員さんに告げる。「すみません、今日俺、車なので、ウーロンハイのふりをしてウーロン茶を持ってきてくれませんか?」すると店員さん、こういう"秘密作戦"の対応に慣れているのか、にっこりと笑って「はい、わかりました」と応えてくれる。助かった。安堵の息を吐く私だった。


いかにもお手洗いに行ってきましたよ、のポーズで、濡れてもいないハンカチで手を拭きながら宴席に戻ると、乾杯もしていないのに男子学生連中が騒いでいる。ほんの数分席を外しただけでこのテンションの差。気持ち悪い。何事かと隣の座布団に座った先輩に耳打ちをすると、どうやらブラスバンド部唯一の華、女子部員で幽霊部員のA先輩が飛び入り参加すると、幹事のK先輩にメールがあったらしい。思わず「お、マジですか!?」私の声も上気してしまう。何せ大学入学後、一年以上もまともに女子と会話していないのだ、ここに女子が来る、それだけでボルテージは上がるというもの。若い男子学生というのは、ことごとく単純なのである。


パートはトロンボーンらしい唯一の女子部員で幽霊部員のA先輩の到着はまだかまだかと浮足立つ男子学生たちはとりあえず、運ばれてきた生ビールとウーロンハイという名のウーロン茶で乾杯した。K先輩の熱気あふれる幹事挨拶をそこそこに、新入部員の"はじめまして挨拶"はA先輩が合流してから、ということになり、テーブルにずらりと並んだ焼き鳥、卵焼き、ポテトサラダ、刺身盛り合わせ、よくある居酒屋メニューをつまみながらそれぞれが歓談していた。いくら部員数が足りないとはいえ、管楽器で鍛えられた肺活量は大声に繋がり、アルコールの力も手伝って、個室に響き渡る若き男子大学生の大声。一人だけ素面の私、正直、こいつらやかましいな、と思う。最初はどの教授の授業は厳しいだとか、卒論はどうのこうの、比較的真面目な会話は早めのお開きとなり、やれ好きな女性芸能人はどんなだとか、初めて異性と付き合ったのは何歳の時だ?だとか、段々と"野郎トーク"に突入していくブラスバンド部の男子部員。いよいよ本気で帰りたくなってきたその時である。隣の個室から、壁を殴るようなごつん、という音が聞こえてきた。隣からの無言の苦情だろうか?と思った矢先、私が座った席と、向かい合っていた部長のテーブルの真ん中に、"手羽先の骨"が落ちてきた。


「なんですかこれ?」私が部長に問うと、部長は立てた親指で隣室を指し、「あっちからだ」とサインを送ってくる。成る程、隣の酔客にも伝わってしまうくらい、こちらの大声は不快だったのか。そりゃあそうだよな、と納得しつつ、それでも食べ終えた手羽先の骨を放るとは何たる無礼者め。素面の私は無性に腹が立ってきた。しかし……ここでもめたら大変なことになってしまう。落ち着け自分。拳を握りしめて怒りを堪える。その様子を見ていたのか、院生M先輩が私の名前を呼び、煙草を吸うポーズを送ってくる。さすがはM先輩、ナイスタイミングである。ブラスバンド部で煙草を吸うのは私とM先輩の二人だけなので、二人揃って席を立ち、居酒屋の外に設置してある灰皿へと向かった。


店内の熱気とは裏腹に、まだ夏が訪れていないこの地では、昼と夜の寒暖差が激しい。少し冷気を帯びた外の空気を吸いながら、M先輩と私はそれぞれの煙草に火をつけた。


「なぁ、お前さ、こういう席、嫌いだろ? いいから、遠慮しないで正直に言えって」M先輩は口元を斜めに上げ、微笑みながら私に言う。「うーん、苦手というより、何せ初めての経験ですからね……耐性がないんだと思います。皆のテンションについて行けません」私は苦笑しながらM先輩に答えを返す。「まあ、久々の新入部員だし、張り切ってるんだよ、Kのやつ。迎えられる側ってのは気を遣うもんだ、今夜ばかりは我慢してくれよな」M先輩は私の肩をぽんぽんと叩きながら灰皿で短くなった煙草を揉み消した。「実はさ、俺も"人数が集まった宴会"はあんまり得意じゃない」にっと笑ったM先輩の顔が妙に可愛らしくて、性癖はストレートな私だったが、思わず、一瞬だけ、私はM先輩に惚れた。


──宴会開始から九十分後。


貧乏学生でも手が届く安酒をたらふく飲み続けている男子大学生の集団は、いよいよ声量にセーブが利かなくなり、誰が何を話しているのか認識できないレベルの、質の悪い酔っ払い集団と化していた。ついさっき、一緒に煙草で一服したM先輩、寡黙な部長ですらけらけらと笑い、同級の友人は何故か上半身裸になっていて、就職先の決まっているS先輩はまだ卒業もしていないというのに早くも就職先の愚痴をたらたらと流している。その中にぽつねんと置かれたウーロンハイならぬウーロン茶で誤魔化している素面の私は、いかなる手段をもってしてもさっさと帰って寝たくなっていた。


誰の携帯電話かわからないが、テーブルのどこかで着信音が鳴っている。音の鳴る方向へ視線を動かすと、茶髪のソフトモヒカンで顎髭という、見た目も性格もアグレッシブなK先輩のピンク色の携帯電話が鳴っている。似合わないなと腹の中で常々思っていたK先輩の携帯電話、持ち主はすでに出来上がっていて、自分の大声で着信音に気づかない様子。部長とM先輩は何事か密談しているし、愚痴話のターゲットに捕捉された同級の友人は就職先に不満のあるS先輩が捕まえて離さない。相変わらず上半身裸なのが滑稽だ。そんな中で唯一素面の私はそっと席を立ちあがり、K先輩の隣に移動し、「先輩! "携帯"鳴ってますよ!」と耳打ちする。「ん? おお、気付かなかった、サンキュー!」いってK先輩は私の背中を思いきり叩いた。アルコールの作用で力加減も判別がつかないのか、高校時代はばりばりの柔道家だったというK先輩の平手は泣くほど痛くて、私は本気の舌打ちをした。「いてぇなこの髭野郎」心の中の私が呪詛を唱える。がしかし、「いいえ、早く出てください」ポーカーフェイスを保った私はそう答えて席に戻り、ウーロン茶ではなく、本物のウーロンハイを注文した。飲まなきゃやってられない。車は大学駐車場に置いたままにして、終電に間に合わなかったら土下座覚悟で実家に電話しよう。私は腹を括った。


「こんばんわ、お邪魔します」


男子大学生集団の半ば地獄絵図と化した個室の宴席に、うら若き女子の声が響いたのは私がオーダーしたウーロンハイが半分空になった頃である。手羽先の骨を放った隣の部屋の客はもう帰ったのだろうか、いつの間にか隣からは酔客の声は聞こえなくなっていた。酔っぱらっているものの、普段縁のない"若い女子の声"には敏感で単純な男子大学生集団、一斉に声の聞こえた方向を向く。


そこには──。


黒髪のショートカットにメタルフレームの眼鏡に水色のワンピースを着用した細身の女性が立っていた。K先輩が声を上げる。「おお、Aちゃん、久しぶり! 遅かったじゃないか」声が1オクターブ上がったK先輩。どうやらこの美人さん、言っちゃ悪いが野郎だらけのこの大学には似つかわしくない華奢な美人さんが"幽霊"で噂のA先輩か──。


「ごめんなさい、バイトが長引いちゃって……」小首を傾げるA先輩。正直、可愛い。恐ろしく可愛い。大学全体を見渡してみても男女比率が恐ろしく偏っている我が大学において、ビジュアルはさておき、女子というだけで男子学生が浮足立つこの大学の希少な女子学生にこんなに可愛い人がいたなんて……しかも自分と同じサークル員だなんて……。ウーロンハイで火照った体が熱くなってくる私。それは先輩方も同じようで、ついぞさっきまでとは声のトーンも違えば態度も全然違う。蝶よ花よな接し方をしている。A先輩を所見の私と同期生Bくんは話の切り出し方が判らず、もぞもぞするばかり。「可愛いよね?」「うん、可愛い」「彼氏いると思う?」「絶対いるだろ……」こんな密談をしている新入部員の我々に、幹事K先輩からお声がかかった。「新入部員、挨拶しろっ!」いかにも体育会出身なK先輩の体育会系な挨拶号令に、私とBくんは並んで立ち上がり、手短に自己紹介と諸先輩方へ一言ずつコメントを発表したのだが、号令をかけた割には先輩方、さして興味もなさそうに聞いている。そりゃあそうだ、A先輩が来るまで、私とBくんはさんざ先輩方に絡まれているし、講義が終わった後の部活では頻繁に顔を合わせているんだから。そうなると新入部員の私とBくんが気になるのはA先輩の反応なわけで、最初に挨拶をしたBくん、回った酒の勢いでか、いきなりこうのたまった。「A先輩のようなトロンボーン吹きになりたいです!」凍りつく部員たち。そしてM先輩が言う。「あのさ……お前、担当ラッパだろうが」いつも沈着冷静なM先輩の現実に基づく指摘に固まるBくん。失笑するA先輩を含む先輩方。「やっちまったな」と思う私。Bくんの大失態を学習し、当たり障りのないコメントをした私に、神様が微笑んだのがこの時である。


「へえ、地元が私と同じだ、すごい偶然。よろしくね」ライムサワーを飲みながら微笑んだA先輩の表情を見た私は、一瞬で恋をした。さながら天使、過言ではないと思った。


──そろそろお開きの時間の二十分前。


A先輩という天使がむさくるしいこの男子大学生集団の輪に入ってから、飲み放題終了時間まで我々は大いに飲んだ。駐車場に置いた車?そんなの知らん。徒歩で帰れるわい、電車なんぞいらんわい。アルコールの力は人間の思考を鈍化させ、普段持っていない力がさもあるかに思わせてくれる液体である。K先輩と同期生Bくんは上半身裸になって肩を組んで"体育とブラバン"という変な議題で語り合っているし、部長は梅酒を淡々と一人で飲み続けていて、なんだか武士の様相。落ち込み上戸から回復したS先輩はA先輩に就活の心得を教授している。そして私は親愛なる院生M先輩と共通の趣味である"幕末の歴史"について熱く語り合っていた。


私がウーロン茶とウーロンハイの"替え玉"をお願いした女性店員さんが、ラストオーダーを訊きにくる。たらふく飲み、たらふく食べていた我々、誰も追加オーダーをすることなく、新入生歓迎会を銘打った宴会は、一応無事に終了した──はずだった。


幹事K先輩が会計を済ませている間、他の部員たちは店外の冷気を吸って、それぞれ酔いを覚ますなり、会話するなり、一服するなりしてK先輩を待つ。私の視線ははほとんど一目惚れと言っていいA先輩の挙動に釘付けになっていた。どうも真っ直ぐ立っていないなぁ、大丈夫かなぁ……と心配した矢先、A先輩は「あ、飲み過ぎた、駄目かも……」そう言って隣で煙草をふかしていたM先輩に寄りかかってしまう。「おいおい、大丈夫か」言ってM先輩、さり気なくA先輩の細い体を脇から支える。あの紳士的なM先輩のことだ、疚しい気持ちなぞあるわけがない。いや、あってはならぬ。A先輩は俺の彼女になる人だ。やめろ、その手を離せ。ウーロンハイで鈍化した頭でそう思う私。


「おぉい、お待たせ。かなりのアルコールを摂取していたが、声がでかいだけで顔色も変わらず足取りもしっかりしたK先輩が会計を済ませて我々の所に帰ってきた。「次、二次会は俺のアパートでやるぞ、参加者は?」私とA先輩、同期生Bくん以外の面子が挙手をした。「おいおい、新入部員が二次会不参加かよ、お前ら空気読めよ」K先輩が高圧的な口調で言い、私とBくんを睨む。これは逃げられない──と思った時だ。M先輩が私に言う。「お前はAさんと一緒に帰れ。飲み過ぎだ。これ以上飲ませたら吐くし、地元が同じだろう? 男なら女性を送って行け」つくづく、どこまでも紳士的なM先輩である。一瞬でも先輩を罵ってしまった自分が情けない。それに──A先輩と一緒に帰れるなら願ったり叶ったりだし、K先輩の恐怖政治さながらの宴席からも公然と逃げられるではないか。


「Mがそう言うならしゃあないなぁ、じゃ、お前はAちゃんと帰っていいよ、ただし、Bは参加な。いいな?」さすが同じ院生のM先輩の発言とあらば、K先輩も強くは出れない様子。矛先が自分に向けられたBくんは悲壮感の漂う表情で私を睨むが、現実はこうさ。個々人の意思を無視した恐怖政治は恐ろしい。Bくん、すまないな、どうか一晩乗り切ってくれたまえ。私は愛しのA先輩とこれから駅に向かって、愛の帰路につくのさ。さようなら、お元気で、どうかご無事に。


「おい、早く行け、酔っ払いの足だぞ、まだ一時間あるが……終電に乗り遅れたら話にならん」M先輩のお達しで、私と足取りがかなり怪しいA先輩は、居酒屋の前で男子学生集団から離脱し、駅方面へと向かうことにする。「すいません、じゃ、お先します」私は気持ちがまったく入らない謝罪の言葉を先輩方に向かって発し、A先輩を促す。「ゆっくりでいいんで、転ばないように行きましょう」私の台詞に「ごめんね、飲み過ぎたよう……」と返すA先輩が可愛らしくてたまらない。


──十五分後。


「ざっけんじゃないよ! なんなんだよKはよう! たかだか三年? 四年? ちょっと先に生まれたからって先輩面してんじゃねぇよ、あのセクハラ猿野郎!」飲み屋街にこだまする大声、それもかなり口汚い声の主はA先輩である。「大体MもMだよ、ちょっとふらついたからってどさくさ紛れに胸触ってんじゃねぇよ! いい人ぶりやがってさぁ、あの助平!」「S? 就職先が決まっただけでもありがたいと思え! 愚図愚図言うなよ!」細い腕を上下左右にぶんぶん振り回しながら大声で暴言を吐き出しまくるA先輩をどうフォローしたらいいのかわからない私は、ひたすらおろおろするだけで、ただ一歩後ろをついて歩くだけである。私は心底、引いていた。あんな可憐なA先輩の口からこんな汚い言葉が、私も正直好きではないけれど、それでも一応は院生のK先輩を呼び捨てにした挙句、信頼するM先輩にも暴言を吐いている。真面目な顔して就活指南を受けていたS先輩に対してもこの有様。


そして崩壊する私からの一方的な愛情。……だって、この人、怖い。


散々先輩方への罵詈雑言を吐き散らし、「黙って歩いてんじゃねぇよこの根暗」と私にも暴言を吐いたA先輩は、終電に乗り、シートに腰を落ち着けたやいなや、眠ってしまった。車外と車内の温度差で曇った終電の窓をぼんやりと眺めながら私は思う。酒って、怖い。女って、怖い。私とA先輩、その他乗客を乗せた安全、安心の電車は、定刻通りに私とA先輩が住んでいる某市某駅へと到着しそうである。恐る恐るA先輩に声をかけ、起こす。「A先輩、そろそろ到着ですよ、起きてください」「……」A先輩、起きる気配がない。「先輩! 起きてください!」少し声のボリュームを上げて言うと、A先輩はうっすらと瞼を開き、私にこう言った。「気安く話しかけんじゃねぇよ馬鹿野郎」


すっかり酔いもA先輩への愛情も醒めてしまった私とA先輩は終電の去った駅構内を無言で歩く。気まずい。非常に、気まずい。


「あのう、先輩、自宅まで送りましょうか?」小声で言う私を振り向き、私を睨むA先輩。「おい……」私を睨みながらA先輩は続ける。「夜道を女一人で歩かせる気かよ、おい。送っていくのが男だろうが、うん?」口調がすっかり"そっちの人"になっている。これは逆らったら大変なことになりそうだ。殴られるくらいで済めばいいけれど……。


出入り口のロータリーに停車しているタクシーに私とA先輩は乗車した。さすがは地方の片田舎である。停車していたタクシーは我々が乗った一台が最後の一台だった。


運転手に行先を告げ、タクシーは発進した。寡黙な運転手でよかったと私は思う。もし気さくに話しかけて来ようものなら、可憐な女子大生の皮を被った猛獣のA先輩が何を言い出すかわからない。どんどん上がっていく料金メーター。私の所持金は残り三千円。間に合うだろうか。


A先輩の自宅へと無事に到着した時点で、料金は二千円を超えそうである。当然のごとく乗車料金は私が支払い、一緒に降りる。


「てめぇ、ストーカーかよ、ぶっころ……」ここまで言ったA先輩を「違いますよ! 家まで三キロくらいだし、酔い覚ましに歩いて帰りたいんです! 誤解しないでください」声でA先輩を制した私は、「じゃ、おやすみなさい」言って背を向けた私は去ろうとする。「おい」背後から聞こえる声に背筋に冷たいものが流れる感触。「なんでしょう?」出来るだけ平静を装って私は言う。「……」呼び止めたものの、黙るA先輩。「あの……大丈夫ですか?」沈黙に耐え切れなくなった私が声をかけた瞬間、A先輩はその場で盛大に吐瀉物をぶちまけた。


夜風に舞い、私の鼻腔を刺激する刺激臭。可憐な姿からは想像もつかない罵詈雑言を吐き散らした挙句、胃の内容物まで吐き散らすA先輩。ものの数時間で私の一目惚れは粉みじんにされ、尚も嗚咽しながら内容物を吐き散らすA先輩の存在がなきもの、そもそも存在しなかったんだ。そう自分に言い聞かせ、私は早足で自宅に帰った。シャワーを浴びてすっかり酔いも醒めた私は、ベッドにもぐり込み、少しばかり、涙した。


──翌週。


私とBくんは揃って逃げるように退部届を部長に提出した。私がA先輩の介抱を放棄したとほぼ同時刻、Bくんは二次会会場のB先輩宅で、"尊敬する先輩"というテーマの作文の提出というかなり無茶苦茶な要求をされ、心がぽっきりと折れてしまったとのこと。部長は「俺に引きとめる権限はないからねぇ」と苦笑しながら退部届を受け取り、どうやら部長もあのK先輩の統治下に置かれた悲しき境遇だったことを知る。


──そして今。


多感な学生時代の宴席。そこで私の心に残った"酔っ払いへの恐怖感情"は、三年に進級と同時に廃部が決まったブラスバンド部とともに消えて欲しかったのだが、無理だった。そして結局春を迎えられずに大学を卒業して、社会人となった以降も未だ消えることがなく、宴席への参加依頼は仮病、急病、ありとあらゆる手段を使って回避している。仕事が終わり、家に帰って一人飲む芋焼酎が、今はとても美味しい。とても美味しいのだけれど、たまに切なくなるのはきっと気のせいだと思うようにしている。寂しい?いいえ、そんなことはございません。


ああ、来週は栄転の決まった同僚の祝いの席に誘われてしまった。前日から発熱しようか。いや、でもそれは忘年会の時に使ったネタだし……そそろそろネタが切れてしまう。そんなことを考えながら、今夜も私はグラスに魔法の液体を注いでいる。


(了)

苦手シリーズ最終話、非常に長くなりましたが。お付き合い頂き、ありがとうございました!



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