~甘味編~
現代の日本において、和食、洋食、中華、イタリアン…etc 食べ物ジャンルの選択肢は多岐に渡り、友人や知人、家族との食事においては"各々の食の好み"で対立し、最悪の場合喧嘩になる機会も多くなったと思う。私は基本的に食事は一人で摂ることが多いので、せいぜい野菜を積極的に食べましょうと心がけるくらいなもの。食の好み闘争に巻き込まれる機会が少なくて助かる、が正直なところである。
それでもたまには家族サービスで外食に出かけたり、友人と食事を共にする機会がゼロではないので、人付き合いは大変だなと思うし、面倒だけれど、一人で生きていけるほど私は強靭な精神と肉体を持ち合わせていないのが悔しいところ。
初めに断っておくと、私は偏食なわけではなくて。好き嫌いは殆どないし、地方の片田舎で育った私、幼少の頃イナゴの佃煮が食卓に出ることもあり(白米と相性がよろしい)いわゆる寄食とされているものも、さほど抵抗はございません。例外は焼酎に浸かったマムシを見て失神しかけたぐらいだと思う。
しかし。どうしても苦手な食べものはある。
それは──「甘いもの」
それはそれは昔、幼稚園の同級生が嬉々とした表情でオレンジジュースを飲みながら口の周りをクリームだらけにして棒アイスを舐めまわしていた光景を見た我が母が、息子を不憫に思ったのか「あんたも食べる?」と言ってくれたのに対して「僕はおにぎりが食べたい、牛乳が飲みたい」と即答したのだとか。この話は未だに親族一同が集まった際の笑いの種にされてしまって、なかなか辛い。さながら終わらない罰ゲーム。お米大好き、水の代わりに牛乳、そんな子供だった私、おかげで本気でダイエットを始めた中学生の後半まで、まるまると肥えておりました。ひとえに炭水化物と牛乳の過剰摂取の賜物。思い出して心が痛くなってきたので、肥えた思春期の記憶は鉄の箱に入れ、厳重に施錠して、重りをつけて海に放ることにしよう。自己防衛は大事。
さて、そろそろ本題に戻りましょう。
甘いものが得意でない方は少なからずいると思う。しかしながら私の甘いもの嫌いはちょっと病的らしい。数少ない友人や家族の指摘なのだから、ほぼほぼ間違いないと思う。
──とある日。
私は友人ととあるドーナツショップに赴いていた。入店するやいなや、鼻腔をかすめる甘い香りと油の匂い。私の体は拒否反応を起こす。何も食べていないのにも関わらず、胸焼けがする。先にレジカウンターの前に立った友人は、ドーナツ全体に粉砂糖をまぶしたドーナツと、カスタードクリームが挟まれたドーナツとコーヒーを注文した。セルフサービスのガムシロップは二個確保していらっしゃる。
「……うわぁ……」私は心の中で思う。「お待ちのお客様、ご注文をどうぞ」可愛らしい女性店員さんの満点スマイルが私に向けられた。
「……コーヒーをブラックで」
「コーヒーだけでよろしいですか?」店員さん、表情は満点スマイルのままだけれど「ドーナツ屋に来てるんだからドーナツを注文しろよ」と言いたげである。分っている、頭では分っているが、私は甘いものが苦手なのだ。
「えぇと……じゃあ、この中で一番甘くないものをください」続けて言うと、店員さんの表情が固まった。くっきり二重で顎のラインがシャープで、後ろで束ねられた髪の長さは解けば肩くらいのセミロングなはず。身長はおおよそ156cm、おそらくは標準体重とみた可愛らしい店員さん。そう、見た目で言えば、私の異性のタイプのど真ん中を射止める店員さんの眉間に思いきり皺が寄ったのを私は見逃しませんでしたとも。
しかし、そこは接客のプロ。一瞬で元の満点スマイルに戻し、私にアドバイスをくれました。
「それでしたら、こちらのドーナツがシンプルですし、お子様にも人気がございます」と店員さん。
「あ、それでお願いします」注文を繰り返しながら、店員さんの満点スマイルの奥に「ふざけんなよ、ここはドーナツ屋だぜ? 甘くないドーナツなんかあるわけないだろうが」と言う心の声が。思い込みではない。間違いない。
会計を済ませるときも、トレイを受け取るときも満点スマイルは崩さないままだったけれど「二度と来るな」の心の声は私にしかと届いておりました。ごめんなさい。
友人と向かい合って座る私。普段縁がない場所に来ると、ついつい人間観察をしてしまう。
隣の席の五十代と思しきご夫婦が、さも美味しそうにドーナツを頬張っている。ちょっとふくよかな妻と、長身で細身の夫。後ろの席には学生数人が座っていて、スマートフォンを操作しながら、ドーナツを食べつつドリンクを飲み、スマートフォンを操作する、というルーティン。全く会話がない。うぅーん、これが現代っ子なのか?と思う。窓側に陣取った主婦と思しき女性三人組が大声で何事かを喋っている。三人が三人、同時に発話をしているものだから、お互いの話を聞いているのか疑問だけれど、たぶんこれでバランスが取れているのかも。三方向から発せられるドーナツとクリーム各種とチョコレートの匂い。胸のむかむかが悪化する。
友人もクリームたっぷりのドーナツを頬張って、ご満悦の表情。ドーナツ本体とクリーム、チョコレート、ストロベリークリーム、メープルシロップといったトッピングたち。甘いものが苦手な私の視覚と嗅覚は猛攻撃を受け、胸焼け胃痛というダメージを負う。
「食べないの?」
口元に付着したドーナツの油とクリームを拭いながら、友人は私に言う。
「あ、うん、食べる」
視覚攻撃と嗅覚攻撃でそろそろ降参したいのだけれど、身銭を切って買ったドーナツ。平らげなければ払い損。一口、二口とドーナツを咀嚼し、嚥下する。口内に広がる甘み、鼻腔に抜ける甘い香りと油の匂い。三口目で私の胃袋は白旗を振った。この場で嘔吐するわけにはいかない。私は友人に半分以上残ったドーナツを差し入れる。
「食欲ないの?」
差し入れのドーナツに手を伸ばし、自分の品と私のを合わせて三個のドーナツを平らげた友人は、食後のコーヒーにガムシロップを入れる。ガムシロップがコーヒーと氷の間をゆらゆらと舞い、カップの下へと沈んでいく光景を眺めながら、私はブラックのコーヒーで口の中に残ったドーナツの味と匂いの除去作業で一杯一杯。脂汗が出てくる。
トレイを返却し、店外へ出ようとする私に、あの可愛らしい女性店員さんの「二度と来るな」の台詞が再び聞こえた気がした。もちろん思い込みかもしれないけれど、腹の中ではそう言っただろうし、きっと同僚にも「昼間変な客が来た」と吹聴したことでしょう。以降、お店の近くを通り過ぎるだけで悪寒がします。
友人の車に戻り、持ち歩いている胃薬を飲んでいると、友人が心配してくれました。実は甘いものがとても苦手だという事実を友人に告げると、申し訳ないと謝る友人。でも友人に罪はありません。気遣って道中コンビニから梅干しのおにぎりを買ってきてくれた友人。持つべきものは友でございます。
──とある年の私の誕生日。
私は実家の自室に持ち込んだノートパソコンで映画のDVDを観ておりました。ヒューマンドラマの主人公に感情移入して、涙腺を緩ませつつ、スルメを噛み、焼酎ロックを舐めるように飲む。至福の時間を楽しんでいたとき、母がドアをノックしてきました。
「あんた、ケーキどれにする?」
そう、この日は私の誕生日。実家の食卓には肉じゃが、厚焼き玉子、もやしの味噌汁、豚の角煮、筍と人参と鶏肉の炊き込みご飯……といった私の大好物ばかり並んでいて、久々の"実家の味"を堪能し、プレゼントで頂いた芋焼酎を早速開封して、映画を楽しみ、たっぷり寝て明日への英気を養う。家族って有難いな……。ヒューマンドラマの内容と相まって、今宵は枕を濡らして寝るよ、そう思っておりました。母が自室ののドアをノックし、ケーキの選択の話を持ち出すまでは。
家族、ましてや親ですから、幼少期からお菓子類は好まず、お米と牛乳を好んだのはよく知っているわけで、まさかケーキを用意しているなんて全くの予想外。そろそろ映画は終盤で、既に半泣きになっていた私は現実へと引き戻され、選択したくない選択を迫られたわけです。箱の中にはチョコレートと生クリームが段々に積まれたいかにも甘そうなケーキ、スポンジとスポンジの間に生クリームとドライフルーツが挟まれ、何かでコーティングされた苺が最上段に載っている、いかにも甘そうなケーキ、デコレーションされた生クリームの輪っかの中には等間隔でみかんのシロップ漬けが置かれ、輪っかの中央には大きなプリンが鎮座し、そのプリンの上にも生クリームが乗っているいかにも甘そうなプリンとその仲間たち。それらが醸し出す甘い香りが箱の中から漂ってきています。
「あぁ、俺、腹一杯だし、飲んでるし、ケーキは父さんと食べてよ」
そう母に告げると、我が母の眼光が鋭くなりました。
「せっかく父さんと選んで買ってきたんだから、遠慮しないで食べなさい」
母は答えます。腹の中ではきっとこう言っていたはず──「今日はお前の誕生日だろうが。わざわざあんなに品数作らせておいて、芋焼酎を買わせておいて、ケーキはいらないだって? ふざけるなよ、空気を読めよ馬鹿息子」と。
ここでもめるわけにはいきません。見た目的に一番甘くないであろう、スポンジとドライフルーツと苺のケーキを手に取った私。すると母は続ける。「わざわざ一番安いやつ選ばなくていいよ、せっかくなんだからこれにしな。チョコレートはね、疲れに効くんだって」言って私の手にあるケーキをひょいと取り上げ、空いた手にチョコレートと生クリームの段々ケーキをそっと置いてくれます。心遣い、感謝です、母よ。心遣いには感謝するけれど、それ、一番甘そうなやつだよね……。
母が去り、テーブルに置かれたスルメと芋焼酎のロックグラスと、チョコレートと生クリームの段々ケーキ。見た目の不協和音。まるで一貫性のないビジュアルにしばし固まる私。テーブルの上からはいかにも甘い香りが漂ってくる。これは、さっさと腹に収めた方が賢明だなと思う。意を決して、チョコレートと生クリームの段々ケーキをフォークでカットして口の中に放るやいなや、チョコレートと生クリームの強烈な甘さが私の味覚を攻撃し、チョコレートと生クリームの甘い匂いが私の嗅覚を攻撃してくる。拒否反応を示した胃袋が、嘔吐せよ、の指令を送ってくるけれど、まさか自室で嘔吐するわけにはいかないし、好意を無駄にしてしまう。これは短期決戦で終わらせないとまずい。ほとんど噛まずに飲み込むようにしてケーキを平らげ、口直しにスルメを噛み、芋焼酎を舐める。口の中でチョコレートと生クリームとスルメの塩味と芋焼酎の香りが激しく交戦し、あ、こりゃ駄目だ、と胃袋に白旗を振り、ベッドに横たわった私の頬を涙が伝っておりました。親の好意を素直に受け入れられない己の体を呪う私。胃薬を飲んでしばらく休み、体を起こしてノートパソコンに視線をやると、映画は既に終了していました。言うまでもなく、翌日の朝は胃がむかむか、胸はちりちり。ちょっと二日酔いかも……と"良い嘘"をついてすすった朝のお茶漬けは非常に美味しかった。
──とある日。
私が出勤したら、直属の上司が休日に赴いたという観光地で買ってきたお土産を、同僚諸氏に配っていました。早くも口にしていた同僚が「これ、なかなか美味しいですねぇ」とほくほくした顔でお茶を飲みながら頬張っていたのは、和菓子でした。餡子と栗が薄い餅の生地に包まれています。「うわぁ、これ甘いやつだ」腹の中でそう思いつつ、私もそれを受け取り、礼を述べる。しかし……食べられません。まさか職場で嘔吐するわけにもいかないので、直属の上司が会議で席を離れた隙を見計らって、同期の同僚に差し入れました。「俺、甘いの駄目なんだよ、代わりに食べて」と。
──とある日の昼休み。
直属の上司が私のデスクにやってきてこう言いました。
「君。甘いの苦手なんだって? いやぁ、すまなかったね。代わりにこれで勘弁してよ」私のデスクに置かれるブラックの缶コーヒー。
「あ、いや、その、すみません」私は冷や汗をかきながら言いました。「人それぞれ好みはあるんだ、気にするな」言って私の肩をぽんぽんと叩いて昼食へと出かけて行った上司の眼は笑っていなかったし、言わなくていいことをほいほいと上司に告げ口した同期の同僚は悪びれる様子もなく、カップラーメンをすすっておりました。口の軽いやつめ……睨んでみるも、まったく同期の同僚には効果がない。その日の私は業務終了まで背中を丸め、存在していませんよ、私はここにいません、というオーラを発して過ごしました。
甘味のお土産スルー事件があって以来、私の知る限りお土産の配布は行われておりません。たぶん私の知らないところで行われているなら、これ幸い。私の責任ではない、と思いつつ、私は思い込みが激しいので、盆休み、正月休み、ゴールデンウイーク明けの出勤初日は勝手に肝を冷やし、いらぬ疲労を背負って帰っておりました。
私の甘味嫌いがようやく同僚、上司に周知され始めた頃、私は見事、異動になりました。左遷ではありません。異動です。
それでも……こんな私でも、多少は甘いものを摂ることがございます。激しく頭脳が疲弊したとき、そのときだけ、缶コーヒーがブラックから微糖に変わります。カップコーヒーなら"砂糖"ボタンを最低にして、微糖にして飲むわけです。
しかしながら着実に認知された"甘いものが駄目な人"としての私を知っている方々からは、微糖を飲んでいる光景を目の当たりにした際、「大丈夫なの?」「気は確かか?」「そろそろ危ないの?」「修行してるの?」「間違って買ったんでしょ?」「失恋したの?」……などなど、心配とフォローを頂いてしまうのが申し訳ないと思いつつ、つっこむ所違うんじゃないか?と思いつつ、もめたくないので何も言いません。
平和が一番。今日も私はコーヒーをブラックで飲んでいますが、それは外のボトルがブラックなだけで、空のボトルに微糖のコーヒーを移し替えたことは、墓場まで持っていく秘密なのです。
(最後の苦手に続く)
本日のコーヒーはブラックです。