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第四章(終)

第四章

〈一〉

 どうぞ、と慎二は明子にコーヒーカップをわたした。

「ありがとう」

 明子はカップに口をつけ、熱っ、と小さく声をあげた。

「宗ちゃん、なんでこのクソ暑い日にホットコーヒーなんか出すんだよ。エアコンきいてるからいいけどな」

 豪三郎はテーブル上のクッキーを親指と人さし指でていねいにつまみ、コーヒーで流しこんだ。

「悪いね、スペシャルティコーヒーなんだけど、安く手に入ったから飲んでもらいたかったんだ」

「いくらだよ」

「百グラム二五〇〇円」

 吹きだす豪三郎に、慎二と宗一は笑った。

 時刻は午後五時。セッションは終了し、みんなは宗一が出してくれたコーヒーとお菓子を楽しんでいる。

「しかし二人とも、初心者とは思えないくらい堂に入ってたな」

「三郎さんも恰好よかったです。ハードボイルドにも少し興味がわきました」

「そうか、じゃあ今度、本を持ってきてやろう。チャンドラーがいいかな、最初は」

「城田さんも凄かったよね。〈トーキョーNEO〉の街を知り尽くしてる感じで」

「私はルールブック読んだから、世界観も飯島君より把握してたし……」

「俺も買おうかな、ルールブック。でも、字見てると頭痛くなるんだよなあ」

 明子は笑いもせず、カップに目を落としている。

 どうしたの、と宗一が訊くと、

「あれでよかったのかなって」

 ぽつりと明子は言った。

「あれでタギツさんは納得したのかとか、私たちがよけいなことをしたんじゃないか、とか……」

 明子はカップを置いて両手で頬に触れた。

「やだ、私、まだあの街にいるみたいな気がしてる」

「ノリノリだったもんな、嬢ちゃん」

 にやにやと豪三郎が笑う。

「なんだか、恥ずかしいです」

「でも楽しかっただろ?」

「それはもちろん!」

「そう言ってもらえるのが、GMとしては一番うれしいよ」

 今度は宗一が笑顔を見せた。

「次は城田さんがGMをしてみるといい」

「私? 無理ですよ、あんな大変な役割」

「TRPGの面白さの七割以上は、GMの面白さなんだよ。プレイヤーしかやっていないんじゃあ、もったいない」

「でも……」

「大丈夫、私が横に座ってサポートするから。手取り足取りなんでも教えてあげよう」

「おじさん、〈ブラッドハウント〉につかまりたいの?」

「痴漢でもあいつら動きそうだな」

「なにもやらしいこと言ってないのに、そろいもそろってひどいな!」

 どっとみんなが吹きだした。

 そのあいだも、慎二は明子の横顔を絶えず盗み見ていた。

 お菓子がなくなってきたころ、「そろそろお開きにしよう」と宗一が宣言した。みんなで食器を片づけてから、宗一はガレージから軽自動車を引っ張りだしてきた。

 みんなを乗せると、まず明子の家に向かった。

「次のセッションがあるときは、また声をかけようか?」

「はい、ぜひ!」

「俺も呼んでよ、おじさん」

 車は五分ほどで家についた。

「またな、嬢ちゃん。身体を大事にな」

「じゃあね、城田さん」

 慎二が言うと、明子はうつむき、

「いろいろありがとう、飯島君。私、頑張るから」

と言って家に入っていった。

 宗一は車を走らせ、慎二と豪三郎を降ろした。

「車を置いてくる。二人は見張っていてくれ」

 車が走り去ったあと、二人はあと戻りし、塀の陰から明子の家を見やった。

「今日、城田さんは動くでしょうか」

「わからん。だが、可能性はある。嬢ちゃんは俺たちに『答え』を示したんだ。迷いはない。動くなら、今日だ」

 それと、と豪三郎はつけ加えた。

「もう三郎はやめろ」

「え?」

「豪三郎と呼べ。今は動かないといけないときだ」

 夕日はまだあたりを照らしていたが、闇が道路や建物にじわじわとしみこみはじめている。

 今日は動かないか、と思ったとき、玄関から人影が現れた。

 明子だ。杖をつき、道路に出る。いっしょに出てきた母親と思しき女性と話をしていたが、何度かうなずいてから慎二たちの方に向かってきた。

 二人はあわてて曲がり角まで後退した。明子は二人とは逆の方向に歩いていった。

 慎二が先行して明子を追う。身体が大きく、目立つ風貌の豪三郎は、慎二と距離を取って追跡している。

 明子が一戸建ての前で足をとめたので、慎二は電柱の陰に身をひそめた。

 呼び鈴を鳴らし、インターフォンごしに住人と話をしている。明子の表情はかたい。

 十分ほど経って、ようやくひとりの少女が現れた。

 慎二はあっと声をあげそうになった。

 演劇部の稽古を手伝ったときに見かけた、あの少女だ。

 明子と少女はなにかを話しているが、聞きとれない。ただ、少女が険しい表情をしているのはわかった。

 二人が歩きはじめたので、慎二もあとを追おうとした。

 その肩を、誰かがつかんだ。


 × × ×


 ジェイムズは腕を組み、指でしきりに二の腕を叩いている。

 表情には出ていないが、いらついてるな、とシンジは思った。

「──で、お前たちがジョン・ネガットの計画を叩きつぶしてしまったわけか」

「しまったってなんだよ。いいだろ、仕事が減って。まあ、残党狩りはそっちの仕事だけどな」

「誰がそこまでやれと言った。よけいなサービスを加えても、カネは払わんからな

 ジェイムズは今度こそいらだちを顔に表した。

 シンジとアキ、そしてジェイムズは、バー〈Fate〉にいた。サブローの紹介でやってきたジェイムズに、アキはことの顛末を語った。獲物を横取りされたと思っているのか、猟犬の不機嫌さは相当のものだ。

「私なら、お前たちのような生ぬるいことはしない。〈トーキョーNEO〉に牙を剥いたことを、地獄で後悔させてやれたものを」

 ぎりっと奥歯をかむ。

「それで、私をこんなところへ呼んだ理由は? 言っておくが、タケシ・シバタの犯罪行為について〈ブラッドハウンド〉はいっさい関知しない。奴がテロリストだというなら別だが」

「本当に街のことにしか興味がないのね」

 スツールに腰かけていたアキは肩をすくめた。

「でも、それ以外のことで動かなければならないときがある。そうでしょう?」

 アキは人さし指を立てた。

「たとえば、捜査官の目の前で犯罪行為が行われたとき。それがどんな小さな事件でも、取り締まる義務がある」

「この店でなにかが起こるというのか? あいにく、私はそんなチンケな犯罪にかかずらっているひまはない」

 失礼する、とジェイムズが背を向けたとき、「あなたには」とアキが声をあげた。

「ここで見守っていてほしいの。もう、人が殺されないように」

 ジェイムズはちらりとアキを見やった。アキのまなざしは真剣だ。本気でジェイムズを頼っている。

 ジェイムズは深いため息をつき、もとの体勢に戻った。

 シンジは横目でカウンターを見やった。マスター……ススム・タギツは黙々とグラスを磨いている。いつもどおり、よどみなく。

 鐘の音とともにドアが開いた。

「はなせ! はなせよこの野郎!」

「おうおう、よくわめく奴だ」

 サブローに首根っこをつかまれわめいている男は、タケシ・シバタだった。


「き、北橋さん!? どうしてここに」

 慎二の肩をつかんだのは、演劇部部長の北橋だった。

「君こそなにをしているんだ」

 縁なし眼鏡のブリッジを押しあげ、たずねてくる。

「私は明子──城田の様子を見に来ただけだ」

「ここ、城田さんの家じゃないですよ」

「わかっている。城田はどこだ?」

「そこに」

 視線を戻し、思わず飛びだした。

 少女ともども、明子はすでに姿を消していた。慎二は家の前まで駆けていき、あたりを見まわした。

 明子の足ならそう遠くへは行っていないだろうが、このあたりの路地は入り組んでいる。細い道をわたり歩かれたら、地理に明るくない慎二では追いかけられない。

 後方にいた豪三郎が合流してきたので事情を説明すると、「なんてこった」と吐き捨てた。

「すみません、俺がしっかりしないといけないのに」

「俺にも責任はある。とにかく、手わけして探そう。悪いが君も手伝ってくれ」

 待った、と北橋が二人をとめた。

「飯島君たちは城田を追いかけているのか」

「そうです。早く探さないと」

 いや、と北橋は二人を手で制した。

「城田は梶と会った……そうだな?」

 慎二は表札を見た。「梶」と書かれている。では、あの少女が梶貴理恵──。

「行き先はわかった。城田が梶を連れていくとするなら、たぶんあそこだ」


 シンジがじろりとねめつけると、シバタはわめくのをやめた。

「ジョン・ネガットがぜ~んぶしゃべったわ」

 それだけで伝わったのだろう、シバタは「あの野郎!」と怒りをあらわにした。

「俺をつかまえるのか? 企業警察でもないくせに! 誰も俺をつかまえることはできない。それが〈トーキョーNEO〉という街だ!」

「でも、人の命はお金になる」

 アキは足を組み、カウンターにもたれかかった。

「だから、殺しが仕事として成立する。不思議よね。〈トーキョーNEO〉において、人の命は百円玉より軽いって言われてるのに、その百円玉を何百何千万というお金に変えられるなんて」

 シバタの顔が蒼白になった。振り返ると、シンジとサブローが出口を塞いでいた。ジェイムズは壁に背を預け、黙りこんでいる。

 カウンターからタギツが出てきた。シバタを射抜くように見つめ、

「どうしてタナカさんを殺した」

と問うた。

 ごくり、とシバタの喉が鳴った。


 大きな街灯が目立つ公園。明子が襲われた場所。

 慎二と豪三郎、北橋は物陰から公園をのぞいていた。

 公園には、すでに明子と貴理恵がいた。街灯のそばで向きあっている。二人とも黙りこんでいた。

 しばらくして、杖が地面の上で音を立てた。

「スカウト、断ったよ」

 貴理恵の目が見開かれた。

「あれが原因なんでしょう? 貴理恵ちゃんが私を……したの」

 慎二は息を呑んだ。ほかの二人も同じだった。

 明子はたしかに言った──「刺した」と。やはり貴理恵が、通り魔の正体だった。

「ショックだったんだよね。東京に遊びに行ったとき、貴理恵ちゃんじゃなくて私が声をかけられたこと。スカウトの人、ずっと私のことばかり見てて、傷ついたんだよね」

「な、なによあんなの!」

 貴理恵は鼻息をあらくした。

「芸能界なんか興味ないわ。あんなところ、頭がからっぽの連中か、客寄せパンダになりたい奴が行くところよ。あたしには関係ないっ!」

「わかってる。貴理恵ちゃんならそう言うと思ってた。本当は、もっと前から私のこと嫌いだったんでしょ」

 貴理恵は一瞬呆気に取られたような顔をし、すぐに真っ赤になった。

「わかってる、ですって? 私のなにを理解してるっていうのよ! どうしてそんなことがわかるわけ!?」

 明子は気を静めるように深呼吸し、はっきりと言った。

「教えて、もらったから」


「タナカの奴、早川重工の研究所に異動することになったんだ。次世代の鋼材を研究・開発している部署だ。社長から直々に、君の力が必要だ、と言われたんだとよ!」

 シバタは吐き捨てるようにまくしたてた。

「そんなことがあってたまるか! 俺はしがない製造部門、あいつは花形の研究職、しかも社長直々の! ふざけるな! あんな、あんなトロい奴が!」

「それが動機……なの?」

 アキは立ちあがった。信じられないという表情でシバタを見つめている。

 シバタは床に唾を吐いた。

「あいつはトロくて馬鹿で間抜けで、どうしようもない奴だ! 俺がついていないとなにもできない奴なんだ!

 辞令の話をしたとき、あいつなんて言ったと思う? 『シバタさん、どうしよう』だ。嫌ならやめちまえよクソが! うぬぼれやがってあの馬鹿! 身の程をわきまえろ!」

 シバタはそばのスツールを蹴飛ばした。派手な音ともに倒れたが、誰ひとり微動だにしない。

 息を切らせ、シバタは床に膝をついた。すべてをぶちまけるように再びわめく。

「俺だって努力してるんだ! あいつは、タナカは努力が足りない怠け者なんだ! そんな奴が、俺を足蹴にして先へ行く。許せるわけないだろうがそんなこと!」

「ちがう!」

 アキの声は悲鳴に近かった。

「足蹴にしたわけじゃない! あなたに相談したときも、本気で悩んでたのよ彼は! だって、仲がよかったんでしょう? 相談ぐらいするに決まってるじゃない!」

 肩を震わせ息をつくアキを、シバタ以外の全員が見つめていた。

 やがて、

「もういいよ、シロタさん」

 タギツが言った。

「この男は取り憑かれてしまっているんですよ。嫉妬と……恐怖に」

「恐怖……」

「自分より絶対に下だと思っていた者に追い抜かれる恐怖。そうでしょう、シバタさん」

 いつの間にか、シバタの声は嗚咽に変わっていた。

 アキの顔は蒼白だ。

 おそらく、自分も同じような顔をしているだろうと、シンジは思った。


「あたしがあんたに嫉妬? うぬぼれんのもいい加減にしなさいよ!」

 貴理恵はかみつくように怒鳴った。

 明子はうつむいた。

「うん……うぬぼれてる。うぬぼれてた。貴理恵ちゃんのおかげでいろんなことが叶って、私はこんなにできるようになったって。

 それがうぬぼれなんだって、貴理恵ちゃんを傷つけたときに気づかされた。正直、どうしたいいのかわからなくなった。貴理恵ちゃんみたいになろうと頑張ってきたのに……」

 明子は顔をあげた。強いまなざしで貴理恵を見すえる。

「そう。頑張ってきたんだよ、私。貴理恵ちゃんを目標にして」


「あんたもつらかったんだな」

 シンジはそんな言葉を口にしていた。

 自分より下だと思っていた者に追い抜かれる恐怖。つらいのはそれだけではない。相手を見くだすという下劣な気持ちが自分の中にあると気づいたとき、人は絶望的な気持ちになる。善良な人間であるほど、絶望は深い。

「もう、よろしいですか」

 タギツは腰に手をまわした。

「この男はくだらない嫉妬からタナカさんを殺したのです。馬鹿馬鹿しい理由だ。企業警察が裁かないのなら、私が裁く」

 腰からハンドガンを引き抜き、シバタに照準を定める。

「ジェイムズさん、とめないでください」

「言っただろう、こんなチンケな事件にはかかわらんと」

「やめてください!」

 アキがタギツとシバタのあいだに割って入った。

「嫉妬と恐怖に取り憑かれてる、ただそれだけなんでしょう? タナカさんを本当に殺したかったわけじゃないんです!」

「アキ、やめろ」

 シンジはシバタに歩み寄り、首根っこをつかんで無理やり立たせた。

「タギツさん。こいつの命、俺に預けてくれませんか」

「なにをなさるおつもりですか」

 シンジはコートを脱ぎ、二挺のハンドガンとともにアキに預けた。機械化した両腕があらわになる。

「俺と戦え」

「はあ!?」

「素手で俺と戦え。勝てば、お前を自由にしてやる」

「無理だ!」

 シバタはまたわめいた。

「こんなのフェアじゃない! あんたなんかに勝てるわけがないだろ!」

「機械の腕がフェアじゃないというのなら、腕は使わない」

「そういう問題じゃ──」

「タナカも、勝てるはずのないものと戦っていた。それは、シバタ、あんただ」

「は?」

「あんた、さっき言ったよな。タナカはうぬぼれていたって。

 それはちがう。タナカはあんたを目標に努力を重ねていた。一番身近な男として尊敬しながらも、乗りこえようとしていた。要領も頭も悪い彼にとっては、頂上の見えない高い壁に思えただろう。うぬぼれる余裕なんかどこにもなかったんだ。

 それでも、タナカが努力し続けたのは間違いない。その結果が、あの辞令だ」

「タナカの部屋に、通信講座の教材や専門書がずらりと置いてあった。人知れず、勉強していたんだろうな」

 サブローが言った。

「はっきり言ってやろうか。タナカはあんたをこえたんだ」

「き、さまぁ!」

 シバタの顔が真っ赤になる。

「次はあんたがタナカの立場に……『挑戦者』になる番だ」

 シンジは両腕をさげ、一歩、前に出た。

「かかってこい」


〈二〉

「私が貴理恵ちゃんにお願いしたいことは、ひとつだけ。自首してほしいの」

 貴理恵の表情が険しさを増す。

「悪いことしたんだから、きちんとしないと。私もいっしょに行くから」

 手をさしのべる明子から、貴理恵は一歩、また一歩とあとじさる。ゆっくりとかぶりを振り、引きつった笑みを浮かべる。

「友達だと思ってたのに」

「今でも友達だよ」

「嘘!」

 貴理恵は叫び、頭をかきむしった。怒りにまみれた形相を明子に向ける。

「あたしを恨んでるんでしょ。友達だと思ってるはずないじゃない!」

「ちがう!」

「仕返しがしたいから、ずっと機会をうかがってたんでしょ。あんたがチクらないかおびえてるのを、ずっと笑ってたんでしょ!」

「そんな……そんなことっ!」

「黙れ、グズ明子!」

 明子は目を見開き、顔を歪めた。それは、彼女が幼いころずっと言われてきた言葉にちがいない。しかし貴理恵に言われたことは一度もなかったのだろう。

 そのとき、貴理恵の背後から人影が三つ現れた。高校生ぐらいの少年たちで、どこか剣呑な雰囲気を漂わせている。

 貴理恵は彼らに気づくと、「おそかったじゃない」と表情をゆるめた。どうやら、明子に会う直前、貴理恵が呼んだ者たちらしい。

「どうしたんだよ、貴理恵。頭ボッサボサじゃねえか」

「あの子友達? 結構かわいいじゃん」

「ひょっとして紹介してくれんの?」

と、ぶしつけなまなざしを明子に投げかける。

 そうよ、と貴理恵は言いはなった。

「好きにしていいから」

 少年たちは顔を見合わせ、おいおい、と笑った。

「友達なんだろ。なに馬鹿なこと」

「しないなら、あたしがやる」

 貴理恵はポケットから折りたたみ式のナイフを取りだした。

「貴理恵ちゃん……」

 今度は明子があとじさった。

「こいつ、生意気な口叩くのよ。裸にして写真でも撮れば大人しくなるでしょ」

「おい、貴理恵……」

「さっさとやれ! 終わったら、そいつあんたたちにやるから!」

 少年たちはみな、困ったような表情を浮かべていた。

 しかし明子の脚が不自由であることに気づいたのか、いやしい笑みを見せた。逃げられたり、暴れられたりする心配がないと判断したのだろう。

「お前、後ろから押さえろ」

 少年たちのひとりが顎でしゃくる。足を踏みだそうとしたそのとき、

「そこまでにしとけよ、ガキども」

 豪三郎が声を張りあげ、公園に飛びだした。慎二と北橋もあとに続く。

 貴理恵や少年たちがひるんだのは、急に大人が現れたからではなかった。豪三郎の手にスマートフォンが握られていたからだ。

 豪三郎は軽くスマートフォンを振ってみせ、

「悪いが、今の話、全部撮らせてもらった。もうやめとけ」

 慎二と北橋は明子に駆け寄った。明子は泣きそうな顔になり、

「北橋君、来てくれたんだ……でも、飯島君と向井さんは」

「アキから依頼を受けて、ここに来ました」

 慎二は言った。

「ある女の子を助けてほしい。はっきりと頼まれたわけじゃないけど、俺はそう受けとめました」

「それは……」

「明子!」

 貴理恵が気も狂わんばかりに叫んだ。

「あんた、やっぱりあたしをはめる気だったのね! そんな奴らまで呼んで! 大嘘つき! グズのくせに、グズのくせに!」

「やめろよ!」

 慎二が怒鳴った。

「城田さんが好きで自首をすすめてると本気で思ってんのか!? 城田さんだって、城田さんだって苦しんでるんだ!」

「黙れ!」

 お前ら! と貴理恵が少年たちに向かって叫んだ。

「あのスマホぶっ壊して! そうしないと、あんたたちがやってきたこと全部ここでしゃべるからね!」

 少年たちは一瞬、躊躇したが、いっせいに豪三郎に視線を向けた。バラされては困るようなことがあるのだろう。

 腰をおとし、豪三郎は柔道のようなかまえを取った。しかし、高校生は三人。ひとりでは分が悪すぎる。

 慎二は明子を見やり、

 ──やるしかないか。

と覚悟を決めた。

「その杖、お借りします。北橋さん、城田さんをお願いします」

「わかった」

 北橋はうなずき、明子の肩を抱いた。

 ──あー、やっぱりこの二人って。

 北橋は明子よりひとつ上の「先輩」なのに、明子は「君」づけで呼んでいた。だからもしかしたら、とは思っていた。

 軽く落ちこんでから、慎二は杖をあらためた。長さは一メートルちょっと。竹刀よりは短いが、問題はない。杖の先を地面につけ、

「おい、お前ら」

 少年のひとりが慎二を見た。

「中坊とひょろい眼鏡はほっといてもいいと思ったのか? 眼鏡はともかく、俺を無視するな」

 ちょっと、と明子がささやくが、慎二は無視した。

「かかってこいよ。城田さんをおびえさせたぶん、きっちり返してやる」

 少年はなおも横目で豪三郎を見ている。

「中坊ひとり相手にできないのか、腰抜け」

「んだとこのガキぃ!」

 突然、少年は歯を剥いた。大股で慎二に近づいてくる。右手で握った杖に対して、あまりに無警戒だ。

 慎二が手首をまわすと、杖の先が一瞬で少年の顔面をとらえた。

 大気を裂くような鋭い気合いが、慎二の口から吐きだされた。

 右腕一本ではなった、突き刺すような一撃が少年の額を打ちすえた。

 のけぞる相手に、慎二はそのままの勢いで体当たりをぶちかます。土の上を無様に転がり、腹をかかえてうめき声をあげている。重量級の大学生選手も吹き飛ばす慎二の一撃に、生身で耐えられる者は少ない。

「おっかねえな、最近の中坊は」

 そう言う豪三郎は、すでに少年二人の腕をひねりあげていた。ひかがみを踏んでひざまずかせ、そのまま地面に押し倒した。

「大人しくしろよ。お前たちに用はないんだ。問題なのはそっちの嬢ちゃんで……」

「明子ぉ!」

 貴理恵が慎二と豪三郎のあいだを凄まじい勢いで駆け抜けた。右手にかまえたナイフの刃が、街灯を反射し閃いている。

 慎二は完全に油断していた。振り返るひまもない。

「城田さん!」

 刃が肉に突き刺さった。半ばまでめりこみ、ボキン、と刃が折れた。体重を乗せた勢いに耐えられるようには作られていなかったのだ。

 慎二は貴理恵の肩を引っ張り、思いきり顔面を殴った。女相手というためらいはいっさいなかった。

「北橋君!」

 明子が泣きだしそうな声をあげる。

 ナイフは、明子の前に立った北橋の右腕に深く突き刺さっていた。あと少しずれていたら、胸に刺さっていたことだろう。

「……けがはないか、明子」

 脂汗を浮かべながらたずねる北橋に、明子は何度もうなずいた。

 うずくまる貴理恵が嗚咽をもらしはじめた。

 北橋を慎二に預け、明子は貴理恵に駆け寄った。さしのべた手を、貴理恵は振り払った。

「これが目的だったんでしょ!? あたしを破滅させるのが!」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔をさらし、貴理恵は叫んだ。

「仲間まで集めて、あたしを陥れて……最低よ、あんた!」

「ちがう! 私はただ、どうしたらいいのかわからなかっただけ。貴理恵ちゃんを陥れようなんて、考えたこともなかった!」

 明子は悲しそうな顔をした。殴られたうえ、涙と鼻水まみれの貴理恵より、ひどい顔をしているように見える。

「ずっと、貴理恵ちゃんに悪いことしたと思ってた。だから、誰にも貴理恵ちゃんのことは言わなかった。存在しない『通り魔』の話を、ずっとしてきた。おまわりさんもそう言ってたでしょう?」

「明子……」

「もとの友達同士に戻れることだけを考えてた。足が治ったら、なにもかも忘れて、またいっしょに学校へ行こうって、それだけを」

 豪三郎がスマートフォンを切った。

「救急車と警察を呼んだ。嬢ちゃん、録画したデータはどうする?」

「消してください」

「いいのか?」

 明子はうなずき、

「貴理恵ちゃんは自首してくれるよ。嫌がったら、引っ張ってでも連れていく。なにもなかったことにしたら、貴理恵ちゃんのためにならない」

 明子は慎二を見てから、貴理恵に視線を戻した。

「どんなことがあっても、私は貴理恵ちゃんの友達。友達だから、悪いことをしたらいさめないといけない。だから」

 地面にいくつもの染みができ、すぐに消えていく。明子は何度も目をこすり、

「ごめんね。私、グズだから、貴理恵ちゃんが傷ついてること全然気づいてあげられなくて」

 貴理恵を抱きしめ、明子は静かに涙をこぼした。


 × × ×


 震動が、棚に並ぶ酒瓶を震わせた。

 幾度目かのダウンの末、シバタは起きあがることをあきらめた。

 シンジは汗ひとつかいていない。両腕を使わず、足技だけでシバタを叩きのめした。一般市民とプロの用心棒とでは、鍛え方も技の練度も段違いだった。

「火を見るより明らかだったな」

 サブローが苦笑した。ジェイムズはつまらなさそうに鼻を鳴らした。

 アキだけはちがった。シンジがなにを考えているのかわからないという様子で、おろおろしている。

「……もう、よろしいですか」

 タギツが力なく言った。シンジは肩をすくめ、「どうぞ」と言った。

「やめてください!」

 駆け寄ろうとするアキを、シンジは押さえた。機械化された両腕で押さえられれば、華奢なアキは一歩も動くことができない。

 ハンドガンの銃口がシバタをとらえる。

 シバタは動かない。顔を風船のように腫らし、内出血のせいで肌が青黒く染まっている。鼻血もよだれも垂れ流しで、バーの床を汚していた。

 タギツは引金を引いた。一発、二発と、銃弾が炸裂し、硝煙のにおいがバーに充満した。床板が木片となって飛び散っても、シバタ以外微動だにしなかった。

 十数発の弾をすべて撃ち尽くし、タギツはあらい息を吐いた。

 銃弾はバーの床を砕き──ただそれだけだった。

 シバタは胎児のようにまるまり、すすり泣いている。

 手からハンドガンが滑り落ち、床ではねた。

「はじめから殺す気はなかったんですね、タギツさん」

 こたえはなく、タギツはただ天井を仰いだ。きらめく光に目を細め、

「殺す気でした。はじめはね」

 ぽつりとタギツは言った。

「探偵を雇おうと思った。殺し屋も。しかし、なにかが私を思いとどまらせた。そんなことをしてはいけない、と。わかっていたんだ。シバタを殺しても」

「タナカさんが悲しむだけだと?」

 タギツはうなだれた。

 だから彼は、殺し屋を雇わず、用心棒を雇ったのだ。意味などはない。ただ、殺し屋の代わりとして、自分をなぐさめるためだけに。

「こいつが死んでも、早川重工を追われてのたれ死んでも、タナカさんは悲しむでしょう。仲のいい友人だと言っていましたからね。それどころか、こいつにはいろいろなことを教えてもらったと感謝まで口にしていましたよ」

 もう十分だ、とタギツはかぶりを振った。

「このまま解放してやってください」

 アキが安堵の息をついた。それが一番いいことだと表情が物語っている。

 しかし。

「駄目です」

とシンジは言った。愕然とするアキを見つめ、

「シバタを許せるのは、タナカさんしかいない。でも、もうそれは叶わない。なら、誰かが仇を討つか、警察に裁いてもらうしかない」

「どうして!?」

 アキはシンジの両肩をつかみ、激しく揺さぶった。

「もう、いいじゃない! タギツさんは十分だって言ってる。企業警察は捜査そのものを打ち切った。あんたに散々やられて痛い目を見て──それでも不満だって言うの!?」

「アキなら、どうする?」

「見逃す! タナカのためにも!」

「被害者が自分でも?」

「そうよ!」

 シンジは微笑んだ。今まで見せたことのない、優しい表情だった。

「間違えたのなら正してやらないといけないと、俺は思う。それが大切な友達ならなおさらだ。そうしないと、そいつは同じ間違いをくり返す。ちがうか?」

 アキはシンジの胸を強く叩いた。金属音が響く。しびれた手をさすりもせず、アキはシンジの胸に頭をこつんとぶつけた。

「……年下のくせに」

「俺の方が上だろ」

 シンジ……慎二は苦笑した。プレイヤーの実年齢と、キャラクターの設定がごっちゃになっている。

 アキは軽くかぶりを振り、息をついた。それで、もとの彼女に戻っていた。

「じゃあ、こいつどうする? あんたに負けたから、殺すの?」

「シバタはテロリストにかかわっている。それだけでも重罪だろ?」

 ジェイムズは面倒そうに顔をあげ、

「〈ブラッドハウンド〉の裁判を受けてもらうことになるだろう。うちの裁判官は気性があらくてな。死罪をさけるのは至難の業だぞ」

「私が弁護士を用意する」

 勝手にしろ、と言い捨て、ジェイムズはバーを出ていった。これ以上、茶番につきあわされるのはごめんだという様子だ。

「タギツさん、いいですか」

 シンジが言うと、タギツは腰をかがめ、ハンドガンを拾いあげた。銀色の表面を指でなぞり、頭を垂れるようにうつむいている。照明の光が、皓々とタギツに降り注ぐ。

「本当に仇を討つつもりだったんですよ」

 タギツはつぶやいた。

「でも、シンジさんの言うことに納得している自分がいる。シバタを許したわけじゃない。ただ、彼に同じあやまちをくり返してほしくないと願い、あとの人生を大切にしてほしいと思う自分がいることもたしかです」

 タギツは天井を仰ぎ、

「タナカさんは、意気地のない私を許してくれるでしょうか」

「大切な友達を救ってくれたと、感謝していますよ。それに、あなたに人殺しになってほしいと思っている人なんていません」

 シンジは写真立てに目をやった。


〈三〉

 夏休み前のことだ。

 テスト休みがはじまってすぐ、 明子と貴理恵は東京に遊びに行った。ずっと前から二人で立てていた計画だ。

 テーマパークを楽しみ、ショッピングをし、スカイツリーと東京タワーを堪能するという、二泊三日の旅行だった。

 そこで、二人はある男に出会った。

 芸能事務所のスカウトを名乗る男の名刺をわたされたのは、明子だった。

 ──少しだけ、いいですか。あ、おごりますからそこのスタバに入りませんか。「お連れさん」もよかったらごいっしょに。

 お連れさん──その言葉が、貴理恵のプライドをどれほど傷つけたか。

 コーヒーで喉をしめらせながら、男は明子の魅力をひとつひとつほめそやした。

 ──君には光るものがある。もっと大勢の人に知ってもらい、光り輝くべきだ。

 ──演劇をやってるの? いいね、理想的だ。

 ──歌に興味は? 城田さんはきれいな声をしているね。きっと歌手としても大成するよ。

 歯の浮くような台詞に、明子はただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。一方で、自分にはそんな魅力があったのかと、うぬぼれのような気持ちがわきあがっていた。

 だから、気づかなかった。

 大切な友達が険悪な表情を見せ、明子をにらみつけていることを。

 男は貴理恵に見向きもしなかった。それどころか、

 ──私たち、そういうの興味ないんで。

と貴理恵が会話をさえぎろうとすると、男は露骨に嫌な顔をし、

 ──お連れさんは帰って、どうぞ。

 言葉にはしないが、態度で貴理恵を追い払おうとした。貴理恵が逆上しなかったのは奇跡だった。

 帰りの新幹線の中でも、貴理恵のいらだちはおさまらなかった。明子は貴理恵の様子に気づかず、すっかり舞いあがり、もらった名刺をいつまでも眺めていた。

 改札口を抜けようと鞄から切符を出そうとしたとき、貴理恵は鞄に折りたたみナイフが入っていることに気がついた。演劇部で、小道具係を手伝ったときに借りたものだ。鞄は部の合宿で使ったもので、返し忘れたナイフが鞄の底に沈んでいたのだろう。

 貴理恵はナイフを、鞄の外側のポケットに移した。

 ──なぜそんなことをしたのかわからない。

 のちに、貴理恵は警察にそう話したという。

 すっかり暗くなった道を、二人は歩いていた。明子はにこにこと笑顔が絶えず、足どりも軽い。

 そして、言った。

 ──貴理恵ちゃん、どうしよう。

 ──なにが。

 ──だって芸能界だよ? 信じられない。貴理恵ちゃんじゃなくて、私だなんて……

 明子にとってはなにげない一言だったのかもしれない。しかし、貴理恵の怒りを爆発させるには十分だった。

 ──嫌ならやめればいいでしょ!?

 ──き、貴理恵ちゃん!?

 ──なんであんたなのよ! 私がそばにいたのに、なんで、なんで!

 貴理恵は叫びながら、明子に飛びかかった。面喰った明子は、足をもつれさせながら公園を横切る。道路に出たところで転んだ。

 貴理恵はナイフを引き抜いた。鞄の底に沈めたままだったら、簡単に出すことはできなかっただろう。

 凶刃はためらうことなく、振りおろされた。


 豪三郎さんは? と慎二がたずねると、ここのところ寝こんでる、と宗一はこたえた。

「慎二たちを危険にさらすまいと、かなり無理をしたみたいだから。当分、こっちには来ないだろうね」

「大丈夫かな」

「病気とのつきあいは長い。しばらく休めば、また動けるようになるさ」

「……厄介だね」

 厄介だ、と宗一も言った。

 高校生二人をあっという間にねじ伏せた豪三郎を思いだす。あんなに腕っ節が強く、豪放磊落に見える人が、心に病をかかえているなど、いまだに信じられなかった。

 ──みんな、見えないところで必ずなにかかかえてる。

 豪三郎が役に立たない自分に思い悩んでいたように、貴理恵が明子にねたみと恐怖心をいだいていたように、明子が貴理恵との関係で悩んでいたように。

「城田さんのこと、訊かないんだね」

「訊いてどうすんのさ。もう警察の領分じゃないか。それに、北橋さんもついてるし」

 貴理恵は今、警察で取り調べを受けている。豪三郎が録画したデータは提出しなかったが、自分のしたことを認めているらしい。

 被害者である明子と北橋は、彼女のために走りまわっていた。重い罰をさけるために警察で話をし、学校にも貴理恵が退学処分にならないよう働きかけていた。貴理恵を慕う後輩たちや友達も、明子たちに協力しているらしい。

 だが、失ったものも少なくない。

 一部の友達は貴理恵からはなれていくだろうし、最悪、不登校になってしまうかもしれない。明子の両親も黙っていないだろう。

 演劇部も去ることになるかもしれない。仲間がどれだけ望んでも、貴理恵は首を縦にふらないのではないだろうか。

「そういえば、城田さんの彼氏は大丈夫なのか? 刺されたと聞いたけど」

「北橋さんのこと? 神経は傷ついてないから、大丈夫だって聞いたけど」

「彼はどうしてあの現場にいたのかね」

「城田さんが梶貴理恵に会う前に、電話で連絡したらしい。不安を感じたからだって言ってた。でも、北橋さんを待っていられずに……」

「先に行ってしまったわけか」

「でも、あの時点で事情を説明してたから、二人が公園に行くだろうって察しがついたみたい」

「相手のことをよくわかっていたわけだ……ふふふ」

 にやにやと笑っている宗一に、「なんだよ、気持ち悪い」と言うと、

「私は、城田さんと慎二はお似合いだと思ってたんだけどなあ。年上のお姉さんと年下のかわいい彼氏っていうのは、王道だと期待してたんだけど」

 なんの王道なんだか。

「ひまだなあ、おじさん」

「人の色恋に首を突っこむ程度にはね」

 背もたれをきしませ、宗一は診察室の天井を仰いだ。

「人生は長い。ひまをもてあます程度の時間は十分あるし、それぐらいないと困る。

 結局のところ、梶さんはあせってしまったのだと思うよ。自分より下だと思っていた城田さんに追い抜かれたと思いこんで、あせったんだ。

 本当は、もっとのんびりかまえてもよかったんだ。城田さんが急に成長したとしても、それがずっと続くわけじゃない。人間というのは、三歩進めば必ず二歩さがってしまう生き物だ。梶さんはあせらず、自分を磨くことを真剣に考えればよかったと思うね」

 耳が痛い。慎二はさっさと宗一に背を向けた。

「もううちに来なくていいよ。腫れも引いてるし」

 カルテに視線を戻す宗一に、慎二は問うた。

「おじさんってさ、かかえてることってあるの?」

「来週までに、『トーキョーNEO』のシナリオを三本作らないといけないことかな。あと、キャバクラのツケが少々」

「おじさん、二度と城田さんに近づくな」

 このムッツリスケベと言いながら、慎二は診察室を出た。


 見なれた坂道をくだり、Y字路までやってきた。明子の家にもつながる左の坂道をくだってまっすぐ歩けば、慎二の通う中学校がある。

 ──なんて言おうか。

 これから自分が言おうとしていること、巻き起こるであろう騒動に、暗澹たる気持ちになる。

 腹に力の入らないまま歩いていると、整形外科から出てきた少年と目が合った。

 仲井だった。吊るされた右腕を見て、息がとまりそうになっている慎二に対し、

「飯島君!」

と左手を振って笑い、駆け寄ってきた。

「制服着てるってことは、今日は部活に出るんだよね。打ち身とかひどくて休んでるって聞いたから、心配してたんだ」

 ──お前が俺の心配してどうすんだ。

 険悪な顔つきに、仲井は臆したように続けた。

「あの、さ、僕、飯島君に謝らないといけないことがあって」

「え?」

「先輩も誰もなにも言わないけど、僕が飯島君にけがをさせちゃったわけでしょ? レギュラーをけがさせて、大変なことになったってずっと思ってたんだ。ごめん。本当にごめん!」

 仲井が頭をさげたので、慎二はどうすればいいのかわからず、つい、

「このお人好し!」

と怒鳴ってしまった。きょとんとする仲井の右腕を指さし、

「お前の腕を折ったのは誰だ!」

「……飯島君、だけど、これは稽古中の事故だから」

「ちがう!」

 あのとき声にならなかった言葉を、今度ははっきり口にした。

「俺はお前の腕を折るつもりで、竹刀を振ったんだ!」

 仲井はぽかんと口を開けた。言っている意味がわからないという顔だ。

 手の中に汗がにじむ。次の言葉が出てこない。

 ──俺は、梶貴理恵と同じだ。

 真面目に稽古を続け、追いついてくる仲井に、慎二はずっと恐怖を感じていた。十年の経験の差を、わずか一年で縮められる恐怖。自分が積みあげてきたものをあっさり壊される絶望感。

 そのすべてが、レギュラーを決定するあの試合で、大挙して押し寄せてきた。

 だから、折った。仲井が絶対にレギュラーになれないように。そして、自分の前に立ちふさがることができないように。

 ──言いわけもできないほど、最低なことを、俺はやってしまった。

 本当は学校で言うつもりだった。仲井ならたとえけがをしていても、必ず見学をしていると思ったからだ。そして、言うべきことはそれだけではない。

 慎二は息を吸った。

「俺は、剣道をやめる。もう二度と、竹刀を握らない。今日はそのことをみんなに伝えるつもりだ」

 俺みたいな人間が竹刀を握ってはいけないと、慎二は思っていた。あれは凶器だ。資格のない人間が手にしていいものではない。

 慎二は頭をさげた。

「本当にすまなかった。許してほしいなんて言わない。俺は剣道をする資格のない人間だった」

 道路に慎二の影が落ちた。強い日ざしがじりじりと背中を焼く。

 仲井は黙りこんでいる。やっぱり怒っている、と思いながら顔をあげ、面喰った。

 泣いていた。仲井は左手で目をこすり、「そんなこと、言わないで」と言った。

「僕のせいで、飯島君が剣道をやめるなんて、そんなの、そんなのっ……」

「お、おい、どうしてお前が泣く? わかった、腕が痛むんだな? そうだろ!?」

「僕、なんにも思ってないよ。腕のことも、全然気にしてない。許してほしいならいくらでも許すから、だから、やめるなんて言わないで」

 ──シバタを許せるのは、タナカさんしかいない。でも、もうそれは叶わない。

 そう言ったのはシンジ──慎二だ。だが、仲井は慎二を許すとあっさり言っている。悪い冗談のようにしか思えなかった。

「……ひとつ、訊いていいか」

「なに?」

「どうして許してくれるんだ? 俺はお前を傷つけたのに」

 だって、と仲井は鼻をすすった。

「飯島君がいなくなったらみんな困るし、それに……」

「それに?」

「飯島君は、僕の目標だから」

 まぶたを腫らして笑う仲井を、慎二は直視できなかった。

 ──ああ、そういうことか。

 明子に会ってから、慎二の中で育まれていた感情は恋心などではなかった。

 明子と貴理恵、仲井と慎二。このふたつは、同じ関係だったのだ。

 慎二は明子に仲井の姿を重ねていた。明子の力になりたい、守りたいという思いは、裏を返せば仲井への罪悪感と謝罪の気持ちに直結していた。だから、明子に北橋という恋人がいると知っても、ショックを受けなかったのだ。

「……馬鹿だなあ、俺」

 慎二はうなだれた。

 ずっと、仲井にやってしまったことから目をそらそうとしていた。しかし、慎二がいだいた罪悪感は、明子という形で目の前にずっと存在していた。それに気づかなかった自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。

 慎二は仲井に背を向けた。

「飯島君?」

「少し、考えさせてくれ」

「やめないよね!?」

 肩ごしに振り返り、慎二は苦笑いを浮かべた。

「目をそらしても、逃げようとしても、どうにもならないんだな」

 のぼり坂の向こうに見える空に雲はなく、青空がどこまでも広がっていた。

 夏は盛りを迎えたばかりである。


 × × ×


 参ったわね、とアキはため息をついた。

「本部長に手をまわしたけど、警官隊の突入を抑えられるのは、もってあと一時間ぐらいね。隊長さん、ちょっとこらえ性がないみたいだから」

 アキはビルと、その入り口を半円形に囲む企業警察の突入部隊を見やった。

 このビル──〈トーキョー銀行〉には、現在、銀行強盗が立てこもっている。それだけならアキの出番はない。

 強盗の一味に、大企業イセサキ・グループの御曹司がいることが、事態をややこしくしていた。

 グループの会長は、アキに企業警察が突入する前に息子を救いだしてほしいと依頼してきた。さいわい、企業警察は強盗の中に御曹司がいることを知らない。

「ほっときゃいいのにな、そんなクソガキ」

 アキの隣でサブローがぼやいている。彼もまた、会長の依頼で息子を捜していたため、この現場に行きついてしまった。

「ほんと、ろくでもないガキだな。家を飛びだした挙句、銀行強盗の仲間入りかよ」

「どんなくそったれでも、お金さえ払ってくれればなんでもいいわ。シンジ、行けそう?」

 アキが言うと、シンジは肩をすくめた。

「馬鹿息子をとっつかまえて脱出すればいいんだろ。車まわしといてくれよ」

「それが無理なのよ。イセサキ・グループの会長は、息子を人目にさらすなって厳命してきたわ。車なんかに乗せたら、絶対警官の目にとまっちゃう」

 アキは空を見あげた。TV局のヘリコプターは企業警察がさがらせたため、一台も飛んでいない。

「ねえ、屋上から隣のビルに跳べる?」

 夕飯なに食べたい? と訊くような気軽さでシンジに言った。

 シンジはじっとビルをにらんだ。

 〈トーキョー銀行〉と隣のビルとのあいだは、およそ六メートル。人ひとりをかかえて跳ぶとなると──

「まあ大丈夫だろう」

 こともなげにシンジはこたえた。本当に? と訊いた本人であるアキが驚いている。

「裏からまわる。警官隊をさがらせてくれ」

 シンジがアキたちに背を向けると、

「そんなの使うの?」

とアキは言った。

 シンジが腰にさしている刀と脇差しのことを言っているのだ。

「いつからそんなサムライスタイルになったのよ」

「もともとこっちが本業だ。銃よりかよっぽど手になじむ」

「このあいだまで使ってなかったのに」

「いろいろあったんだよ、いろいろ」

「わだかまりでもあったわけか」

 突っこむなよサブローと言い捨て、シンジは走りだした。

 取り囲む警官隊に許可は取ってあるとアキは言った。シンジはビルの裏口から内部に侵入した。

 目標はすぐに見つかった。屈強な覆面姿が四人。

 そのそばで、目に見えるほどガタガタ震えている五人目の覆面姿。華奢で小柄な人物。アキから聞いた、御曹司の体形と一致する。おまけに、明らかに小心者。銀行強盗などできる人間ではないのだ。

 御曹司が振り返り、シンジと目が合った。シンジが唇の前で人さし指を立てたが、

「こっちだ! 助けてくれぇ!」

と諸手をあげて叫んだ。

 舌打ちするより速く、振り返った強盗がサブマシンガンの銃口をシンジに向け、引金を引いた。

 マズルフラッシュが店内を照らし、人質となっている銀行員が悲鳴をあげた。

 煙が晴れたあと、強盗の目が驚愕に見開かれた。

 シンジは傷ひとつ負っていない。刀によってはじかれた銃弾は、壁や机をズタズタに引き裂き、めりこんでいる。秒間十発以上の銃弾をはじいても、刃こぼれひとつなかった。

「ば、ば……」

 驚く強盗を見て、こいつら〈トーキョーNEO〉の人間じゃないな、とシンジは思った。

「化け物かてめえ!?」

 シンジは失笑した。ここまでものを知らないと、あきれるを通りこえて笑えてくる。

 刀を軽く振ってから、正眼にかまえた。ほかの強盗もサブマシンガンの照準を合わせている。

「お前らは大事なことを忘れている」

 一片も臆することなく、シンジは言った。

「ここは〈トーキョーNEO〉。人間という『化け物』の住む街だということを」


(了)


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