第二章
第二章
〈一〉
コンピュータゲームをしない人でも、RPGという単語を聞いたことはあるだろう。
悪の魔王を倒すために勇者が仲間を募り、怪物を倒してレベルをあげたり、洞窟を探険して宝を手に入れたりするゲームだ。今ではこんな単純な内容のものはほとんどないが、RPGに対していだいているイメージといえばだいたいこんなものだろう。
慎二たちが案内された部屋は、かなり広い長方形の部屋だった。中央にはケーキを食べるときに使ったテーブルがあり、本棚にパソコンラック、机までそろっている。入り口の斜向かいに階段があり、二階のプライベートルームとつながっている。
「適当に座ってくれていいよ。あ、慎二と城田さんは私に近い方がいいな。ルールが説明しやすい」
「宗ちゃん、ルールブック出すよ」
豪三郎が本棚を開けて、黒い大きめの本を取りだした。
「さて、なにから説明しようか」
宗一が椅子に腰をおろすと、はい、と明子が手をあげた。
「TRPGってなんですか? コンピュータゲームのRPGとはちがうんですか?」
「『テーブルトーク・ロールプレイングゲーム』、略してTRPGだ。コンピュータRPGのご先祖様にあたる遊びだね。今のコンピュータRPGは、TRPGがなかったら存在しなかったと言われている」
「はじめて聞きました」
「ジャンルとしては、『協力型ゲーム』とでも呼べばいいのかな。まあ、私の勝手な分類だけれど。
将棋やチェス、トレーディングカードゲームを思いだしてごらん。あれは、一方が一方を負かすことを目的とした、いわば『対戦型ゲーム』だ。二人以上で遊ぶゲームというのは、だいたいこっちに分類されるね」
「『協力型』ということは、TRPGはプレイヤー同士が協力して進めていくタイプのゲームということですか」
「察しがいいね、城田さん。
ちなみにTRPGというのはジャンルの総称で、その中にいろんなゲームが存在する。スポーツというジャンルの中に、サッカーや野球があるみたいにね」
「で、俺たちが今日遊ぶ予定だったのは、コレ」
豪三郎が黒い本をテーブルに置いた。
表紙には若い男女のイラストが描かれ、上部には『トーキョーNEO 基本ルール』と大きな文字で書かれている。
描かれている男女──その二人の姿が、普通ではなかった。
男は片目が機械になっていて、頭や首筋から幾本もの細いケーブルが伸びている。ケーブルの先は肩や腕とつながっていた。ロボットかと思ったが煙草を吸っているところを見ると、一応人間らしい。
一方、女はこちらに向かって拳銃をかまえている。こっちは両腕が機械の腕になっていた。左腕からは、鋭い刃が突きだしている。
SF、という言葉が慎二の脳裏に浮かんだ。
「これは『トーキョーNEO』というゲームだ。ジャンルは、サイバーパンク。現在よりもはるか未来、今より地球環境が悪化した世界を生き抜くゲームだ」
「ひとつの街に数十億人が住んでたり、科学や超能力、魔術があったりする?」
慎二の言葉に、知っているんじゃないかと宗一は言った。
「プレイヤーは未来の大都市〈トーキョーNEO〉で暮らす住人になる。〈トーキョーNEO〉には暴力や差別、貧困など、様々な問題が渦巻いている。それを解決し生き残るのが、このゲームの目標だ」
「そのために、ここにいるみんなが協力するんですね?」
明子は言った。わくわくしているように見える。宗一がうなずくと、「面白そう!」と両手をぱちんと合わせた。
「早くはじめたい! まずなにをしたらいいんですか?」
宗一はB5サイズの紙を一枚ずつ、三人に配った。
紙の最上段には「トーキョーNEO キャラクターシート」と書かれている。その下には名前や年齢、所属などを書く欄があった。さらにくだると、「筋力」「思考」などの言葉と小さな空欄が並んでいる。
「まず、みんなには〈トーキョーNEO〉で暮らす自分の分身──キャラクターを作ってもらう。〈トーキョーNEO〉には警察官や会社員、はてはヤクザやフリーランスの暗殺者まで暮らしている。職業を選び、名前を決めて、自分の分身を作ってくれ」
「『筋力』とか『思考』っていうのは?」
慎二が訊いた。
「それはそのキャラクターの能力。なにが得意でなにが不得意かを表すものだ。『筋力』が高ければ腕っ節が強いことを表し、『思考』が高ければ頭の回転が速いってことになる」
「全部高くすることは?」
「できない。だから協力するんだ。互いの得意分野を活かしつつ、味方に弱点をカバーしてもらうんだ。豪三郎、慎二の面倒はこっちでみるから、城田さんを頼む」
おう、と豪三郎は言い、本──ルールブックを開いた。
「さて、今言ったように、キャラクターの能力は互いに補うようにした方がいい。つまり、かぶらない方がいいってことだ。だから、誰がどんな能力のキャラクターを作るか、相談してほしい」
「はい、先生!」
明子が勢いよく手をあげた。先ほどからやけに元気だ。
「職業の一覧に『フィクサー』ってあるんですけど、これはなんですか?」
「フィクサーというのは本来、紛争の調停……あいだに入って両者を仲なおりをさせる人のことなんだけど、このゲームでは、裏から手をまわして動く人だと考えてくれればいい。〈トーキョーNEO〉では、解決困難な、しかも生命にかかわるような事件がしょっちゅう起こっている。そういうものは、総じてカネになる。フィクサーは問題に首を突っこんで、利益を得る職業だよ」
「……汚い」
慎二がつぶやくと、
「〈トーキョーNEO〉を支配しているのは、資本主義の原理。つまりカネだ。金持ちはよりいっそう裕福になり、貧乏人は底なしに貧しくなっていく」
気が滅入りそうな世界だと慎二は思った。はたして、こんなゲームで明子と楽しい時間をすごすことなどできるのだろうか。
「はい! 私、フィクサーやります!」
「えっ!?」
明子のイメージからはもっとも遠い職業を、本人は喜々として選んだ。
「じゃあ、その方向でキャラクターを作って。豪三郎は?」
「……探偵だ。私立探偵をやる」
「了解。慎二はどうする? フィクサーは根まわしが得意で、探偵は考えるのが仕事だ。そうなると、荒事に向いた職業が望ましい。なにしろ、〈トーキョーNEO〉は暴力がまかりとおる街だからね」
慎二はルールブックをめくり、あるページに目をとめた。ダークスーツに身をつつんだ精悍な男のイラストが載っている。脇には「用心棒」と書かれていた。いかにも強そうだ。
「じゃあ、この『用心棒』っていうのを」
「決まりだ。さあ、〈トーキョーNEO〉に行く準備をしよう!」
ぱちん、と宗一は手を叩いた。
筋力と技、魅力と調査、思考と幸運。
『トーキョーNEO』のキャラクターには六つの能力がある。
用心棒である慎二のキャラクターは、筋力と技が高くなる傾向にあった。
──弱い用心棒なんかいらないもんなあ。
キャラクターシートに文字や数字を書きこんでいると、「武器はどうする?」と宗一に訊かれた。
「拳銃もいいけど、おしゃれなのは日本刀だな。ダークスーツに日本刀をさすなんて、恰好よくないか?」
頭の中で思い描き、普通なら絶対にありえない組み合わせを、少し恰好いいと思ってしまった。
「TRPGは想像力を駆使するゲームでもある。テレビみたいに映像があるわけじゃないから、すべて想像できないといけない。
慎二は剣道をやっているから、銃より刀の方が想像しやすいだろう?」
「……銃にする」
「『トーキョーNEO』の刀は強いよ。なにしろ、銃弾を平気ではじいたり、車をまっぷたつにしたりする剣豪がごろごろいるし……」
「いい。この銃にする」
慎二ははっきりと告げた。ゲームの中でまで、剣道を思いだしてしまうものを使いたくはなかった。
宗一は銃のデータを見て、
「これは大きな銃だから、腕を機械化しないと使えないな」
「もとの腕を切って機械にするの? それはちょっと……」
「〈トーキョーNEO〉では普通だよ。弱い肉体を捨て、より強いものを求めるのはね」
「わかった。じゃあ、両腕を機械化する」
ほどなくして、キャラクターシートのほとんどの項目が埋まった。
「あとはキャラクターに名前をつけないといけないんだが、はじめてだから、自分の名前か、それをもじったものでかまわないよ。名前をつけたら、キャラクターは完成だ」
少し考え、慎二は名前の欄に、片仮名で「シンジ・イイジマ」と書いた。これで、この用心棒の名前は「シンジ」ということになった。
その途端、どこかでかいだことのあるにおいが鼻腔をくすぐった。
それは、父がいつも着ているスーツのにおいだった。
営業部長を務める慎二の父は、いつもスーツを着ている。母がアイロンをかけたYシャツの上から、颯爽とスーツを着る姿を、慎二は幼いころから恰好いいと思っていた。
用心棒のシンジも、ダークスーツを着こんでいる。バーやクラブなどで雇われ、店内に目を光らせる。もめごとが起これば仲裁に入り、相手が武器を取りだせば、ためらいなく懐から銃を抜く。
そんな恰好いい「男」の姿が、目の前にまざまざと浮かびあがってきた。こんなことははじめてだ。
──想像力を使うって、こういうことなのかな。
はじめての感覚に戸惑いつつ、慎二は早くゲームをはじめたいと強く思った。
慎二は明子たちに目を向けた。もう少しでできあがりそうだ。
「ちょっと意外だな」
「なに?」
明子が顔をあげた。
「城田さんがフィクサーを選ぶなんて。ほかにもぴったりのが……歌手とか、アイドルなんてものまであるのに」
明子は苦笑した。
「そういうのはちょっと……」
「嫌いなんですか?」
「あまり表には出たくないのよ。フィクサーは裏で動くのが仕事みたいだし、ちょうどいいかなって」
明子は言いにくそうにしていた。
「宗ちゃん宗ちゃん!」
豪三郎が割って入ってきた。
「筋力と技に全部の能力値を振ってやった! あと、日本刀も三本さしてる!」
「……豪三郎、探偵に必要なのは?」
「調査と思考」
「やりなおし」
「ぶーぶー、GM横暴!」
「ジーエム?」
慎二は首を傾げた。そういえば、プレイヤーの三人はキャラクターを作っているのに、宗一は作っていない。
「私はTRPGの中で、『GM(ゲームマスター)』という特別な役割に徹する。簡単に言うと、ゲームの司会進行役だ」
「なんか、キャラクターのイメージはできたけど、ゲームがどういうものなのか全然イメージできないな」
「テーブルトーク」というからには、トーク……会話で進めるゲームなのだろうが、それがRPGとどうつながるのかわからない。
「そのへんはやりながら理解していけばいいよ」
みんな、できた? と宗一が問うと、できた! と明子と豪三郎が返した。
「よし、じゃあはじめようか。ようこそ、〈トーキョーNEO〉の世界へ。運命の扉は、今、開かれん!」
〈二〉
× × ×
西暦21XX年。
超過密都市〈トーキョーNEO〉は豪雨に襲われていた。いつもならネオンによって美しく彩られるビル群は、黒い雨のカーテンに覆われ、不気味な黒い塊と化している。
シンジは黒いレインコート姿で、酒と汚物のにおいが充満する路地を歩いていた。大気汚染は著しく、公害はとどまるところを知らない。その影響で巨大化し変質したネズミやゴキブリが、さっきから何度も路地を横断している。
〈Fate〉という看板のかかったバーの入り口で足をとめた。地下に続く階段をおりながら、左手首に触れる。レインコートが身体からはなれ、機械化した左腕にあっという間におさまった。シンジは髪の毛一本濡れていない。
フリーの用心棒であるシンジの次の雇い主は、このバーのマスターだった。
階段の突き当たりにあるドアを開けると、口ひげをたくわえた初老のマスターが、カウンターの向こうでグラスを磨いていた。シンジに目を向け、
「あんたがシンジ・イイジマさんか」
とたずねた。
シンジはスツールに腰かけ、言った。
「ウィスキーでももらおうか」
明子と豪三郎が突然笑いだしたので、慎二はあわてた。
「だ、だってバーなんだろ!? バーってお酒飲むところじゃないの!?」
「いや、それはそうなんだが」
豪三郎がくっくっ、と笑いをこらえようとしている。
「飯島君、今の会話になってなかったよ」
「名前訊かれて『ウィスキーくれ』はないだろ。会話はキャッチボールだろ?」
自分の失敗に気づき、慎二は抗弁するように口を開いた。
「い、いやだって、おじさんが変な雰囲気でゲームをはじめたから、俺も合わせた方がいいかなって」
ねえ、と助けを求めるように宗一を見た。
〈トーキョーNEO〉の描写は、すべてGMである宗一の口から語られていた。
「今日の〈トーキョーNEO〉は雨、それも尋常じゃない豪雨だ。そびえ立つビル群は雨のカーテンによって隠され、ネオンの瞬きも見えない。
シンジ、君は〈Fate〉というバーのマスターの求めに応じて、店へと向かっている。夜の路地に人影はなく……」
こんな具合だ。
その語り口は慎二の想像力を強く刺激した。雰囲気を壊さないようにした結果、まったくかみあわない会話をしてしまったのだ。
「せめて、『そうだ』ぐらい言ってから座ればよかったのにねえ……」
アドバイスをしながら、宗一まで笑っていた。
慎二は頬を膨らませたが、TRPGの進め方が少しわかった気がした。
GM──司会進行役が状況を説明し、それに応じてプレイヤーが自分のキャラクターを動かしていく。今の例なら、バーのマスターに話しかけられたので、受けこたえをすればよかったのだ。
まさにトーク──「会話」で進めるゲームであった。
「でも、調子は今みたいな感じでいいよ。こんな風に進めていくから」
「今の状況説明って紙に書いてあるんですか?」
明子の問いに、宗一は紙束を見せた。
「これは今日のセッション……TRPGの一回のゲームのことを指す用語だけど……の目標や話の内容を書いた『シナリオ』だよ。基本的に、これに沿ってセッションは進んでいく」
「シナリオだなんて、なんだか演劇みたいですね」
「演劇的な要素もたしかにあるね。じゃあ、続きいくよ」
シンジはスツールに腰かけ、言った。
「俺みたいなのが必要だってことは、このへんでなにかあったのか?」
マスターは顔を歪め、「殺しだよ。あんなことがあったあとじゃあ、みんな用心棒や企業警察に頼りたくなる」と言った。
「口にするのもはばかられる、ひどい状態だったらしい。なにが人をそこまで凶暴にするのか。あいかわらず、この街は狂ってる」
マスターは背を向け、棚からウィスキーの瓶を取った。
「夜は長い。少しだけならいいだろう」
「酔って動けなくなっても、責任は取らんぞ」
「なに、あんたの腕は知っている。信用しているよ」
「俺のこと知ってるの? 今回はじめてなのに?」
慎二が訊くと、
「シンジは〈トーキョーNEO〉でもそこそこ有名な用心棒だ……ということにしておこう。その方がスムーズに話が進むし」
と、宗一はこたえた。
「結構、アドリブで話を進める部分があるんですね」
「自由度高いだろ」
と、明子と豪三郎が話している。
慎二はうーんとうなり、
「人が殺されたっていうけど、いったい誰が殺されたんだろう。どんな事件だったのかな」
「調べてみる?」
そう言って宗一はサイコロを二つ、慎二に手わたした。1から6の目が描かれた、普通のサイコロだ。
「殺人事件がどういうものだったか、調べるためには調査による判定が必要だ。調査の能力値はいくつ?」
「えっと、2」
すべての能力には1から6の数字が割り振られている。シンジは用心棒なので筋力が6ともっとも高く、逆に幸運が1と低い。
「サイコロ二つの出目を合計して、調査の能力値──シンジなら2を足して、11以上が出たら、シンジは事件について聞いたことがあることにしよう」
「ちなみに、サイコロ二つの合計が7をこえる確率は五割以下だ。9以上になると、確率は三割を切る。おぼえておくといい」
豪三郎が言った。まさに今、9以上を出さなければならない状況だった。
慎二は両手でサイコロをつつみ、念をこめながら手の中で転がしてから、テーブルの上にはなった。片方は4の目を出し、一方はしばらく回転したあと、5を上にしてとまった。
「やった! 9+2で11! 成功だ!」
宗一はうなずき、「じゃあ、シンジは以下のことを知っている」と言った。
殺されたのはユウヤ・タナカという男で、早川重工という大企業に勤めている会社員だ。殺されたのは二日ぐらい前で、ひどい状態でこの近辺に倒れていたらしい。
「このあたりは〈トーキョーNEO〉でも下町みたいなところで、もともと治安があまりよくない。〈トーキョーNEO〉には現代の日本みたいな警察組織はなくて、企業警察というものが街を守っている。ただ、企業だから契約した人しか守ってくれないし、追加料金を支払わないと初動捜査以上のことはしてくれない。下町には、企業警察と契約できない貧しい人も多いんだ」
「だから、用心棒が雇われるのね。ねえ、先生」
「GMと呼んでくれたまえ」
「GM、殺されたのはタナカさんひとりだけ?」
「今のところはね」
飯島君、と明子は言った。
「今の情報ってシンジが知っていたことなんでしょう? マスターに直接訊いたら、ほかの情報が出ないかな」
「訊くってなにを?」
「たとえば……」
ストップ、と宗一は言った。
「今はバーの場面で、登場しているのはシンジだけ。場面に出ていない人同士は、相談できないよ」
「じゃあ、私もバーに行ったことにしていいですか?」
「いいよ。じゃあ、城田さんのキャラクターがバーに現れたところから再開しよう」
× × ×
カランカラン、とドアについた鐘が来客を告げた。
ウェーブのかかった長い髪に、ボディラインもあらわなライダースーツを着た女が、店に入ってきた。真っ赤なヘルメットを片手でもてあそびながら、カウンターに近づいてくる。
髪をかきあげると、シンジの顔をのぞきこんだ。
「偶然ね、こんなところでまた会うなんて」
と艶っぽい笑みを見せた。
「……」
「どうしたんだい、慎二。黙りこんで」
「い、いや別に!」
明子のキャラクターではなく、明子自身が迫ってきたような気がしたとは言えなかった。
「凄いね嬢ちゃん。今の台詞の言い方、おじさんゾクッと来たぜ」
と豪三郎は体をくねらせた。
明子は照れたような表情を見せ、
「実は、学校で演劇やってるんです。私のキャラクターは峰不二子をイメージして作ったから、それに沿わせてみました」
「名前は?」
「単純ですけど、そのまま『アキコ・シロタ』にしました。『アキ』と呼ばれることが多いです。歳は秘密ですけど、若い設定で」
「今、『また会った』って言ってたけど、今回がはじめてのセッションじゃないか」
慎二の指摘に、明子はえへへと笑い、「その方が面白いかなと思って」と言った。
「用心棒とフィクサーだから、昔、どこかで仕事を任せたり、守ってもらったりしたこともあったかなって考えてみたの。ちょっと即興演劇みたいでしょ」
「相手が嫌がらなければ、そういうアドリブは大歓迎だよ。セッションに彩りをそえるからね」
今のはかまわないよね、と宗一は慎二にたずねた。もちろん異存はなかった。
「じゃあ、こうこたえます。『あんたか』って」
「あれ、『あんた』呼ばわりなのね」
「な、なんとなく、ドライに行った方が恰好いいというか、プロっぽいかなあって」
「ふうん……そうね、そうかもね」
ゲームの中とはいえ、「アキ」と呼び捨てるのははばかられた。まるで、とても親密な間柄のようじゃないか。
グラスを置き、「あんたか」とシンジはつぶやいた。
「悪いが仕事中だ。あんたの依頼は受けられない」
「別にシンジを仕事漬けにしようなんて思ってないわ。マスター、私にはカクテルくださる? なんでもいいから」
マスターの手もとを見ながら、アキは「タナカさんてどんな人だったの?」とたずねた。赤と青の酒が注がれたグラスをわたしながら、「うちの常連でしたよ」とマスターはこたえた。
「少々気の弱い方でね。今日も失敗した、上司に叱られたと、店に来ては愚痴を言っていました。もう三十近いはずなのに、妙に子供っぽいところがある人でしたね」
アキはカクテルに口をつけ、「それだけ?」とたずねた。
「それだけ、とは」
「だってマスター、泣いてるじゃない」
マスターははじかれるように、指で目をこすった。指は湿ってはいなかった。
「城田さん、魅力で判定してくれる? 12以上が出ればいいよ」
宗一は言った。
「魅力は6もあるのよね。えい! ……あ、9が出た。合計15です」
「かないませんなあ……全部お見通しですか」
「ごめんなさい、そういうわけじゃないの。でも、私の勘は当たってたみたいね」
ええ、とマスターは遠い目をしてこたえた。
「タナカさんは、私にとって息子のような人でした。あまりになんでも相談してくれるので、ついそんな気にさせられてしまったんですなあ。彼自身、人に心を開かせる、不思議な魅力のある人でしたよ」
シンジは酒瓶の並ぶ棚に、写真立てが置いてあることに気がついた。写真には若き日のマスターとその妻と思しき女性、そして小さな男の子が映っている。
事情はわからないが、マスターはもう息子には会えないのだろうとシンジは思った。離婚も死別も、この街ではありふれている。人の命は百円玉より軽いのだ。特に〈トーキョーNEO〉では。
「努力家で真面目で、すなおな人でしたよ。失敗ばかりと言っていましたが、それは彼が果敢に挑戦していることの証でもありました。上司も叱っているだけでなく、叱咤激励しているように感じられました。そのことを伝えると、もうちょっと頑張ってみるとこたえるのが常でしたよ」
「単純……」
「あら、私はかわいいと思うけど?」
時間が経つと、少しずつではあるが客が増えてきた。アキは清算をすませ、席を立った。
「もう行くのか」
「残念?」
「そ、そんなわけ……」
ごほん、と咳払いし、「静かになっていいぐらいだ」とシンジは言った。
アキはシンジに顔を寄せ、ちょっと来て、と言った。
外へ出ると、アキのヘルメットと同じ真っ赤なバイクがとめてあった。
「この事件、気にならない?」
アキはバイクにまたがった。
「なにが?」
「タナカが殺されたこと。知ってる? このバーは企業警察と契約してるのよ」
「まさか。その上で用心棒を雇うほど、この店が儲かっているようには見えない」
でも事実よ、とアキは言った。彼女はフィクサー。物事の裏事情には精通している。
「殺されたタナカ、彼を息子のように思っていたマスター、そして雇う必要のない用心棒。この三つが示すことは」
「ことは?」
アキはこつんと自分の頭を叩き、
「なんだろう」
「コントか!」
豪三郎が全力でツッコミを入れた。慎二も思わずテーブルに突っ伏した。
「さっきから思わせぶりなこと言っていると思ってたら、城田さん……」
「だって、なんだかつながりそうじゃない、この三つ。きっとマスターはなにかしようとしているのよ」
「なにを?」
「……仇討ち?」
「そんな時代劇みたいなことしないでしょう」
「いや、するぞ」
と豪三郎は言った。
「企業警察の仕事は、現代の警備会社に近い。警察のような捜査もするが、徹底的にやろうとすれば追加料金がかかる。そんな金を出せる人間はそう多くない。だから、この街では暗殺者という仕事が成り立つ」
「じゃあ、どうして暗殺者を雇わないのかなあ。シンジ雇ったって仕方ないじゃない」
「シ、シンジ?」
「え? 私、変なこと言った?」
いえ別に、と慎二は言った。言いながら、身体をもぞもぞと動かした。キャラクターのこととはいえ、呼び捨てにされると少し身体がむずがゆくなってくる。
そういえば、明子の言葉づかいが少しくだけてきていることに慎二は気がついた。まるで友達同士のような会話だ。
──いい感じかもしれない。
慎二は心中でガッツポーズを取った。
「ひょっとしてこの街って、犯罪者が野ばなしになってない?」
「そういう側面はあるね」
と宗一。
「でも、企業警察とは別に、治安を守るための組織は存在するよ。警察というよりは軍隊みたいなものだけれどね」
その名は〈ブラッドハウンド〉。「嗅覚の鋭い猟犬」「冷酷な追手」を意味する〈ブラッドハウンド〉が動くのは、〈トーキョーNEO〉の機能を麻痺させるほどの重犯罪に限られる。
その最たるものは、テロ行為だ。
「〈トーキョーNEO〉はいくつものテロ組織に狙われている。資本主義の権化のようなこの街を、よく思わない連中はたくさんいるからね。そういうのと戦うのが〈ブラッドハウンド〉の仕事さ」
ふっふっふっ、というふくみ笑いが部屋に響いた。豪三郎が腕を組み、なにか言いたげな顔をしている。
「君たち、〈ブラッドハウンド〉のもうひとつの意味を知ってるか?」
慎二も明子もかぶりを振った。
「『探偵』という意味があるのさ!」
へえ、そうなんですかと慎二は流し、
「で、さっきの三つだけど、やっぱり関係してるのかな」
「私はしてると思う。目的はやっぱり仇討ちじゃないかな」
「暗殺者を雇わないのはお金の問題?」
うーん、と二人そろってうなっていると、宗一が助け舟を出した。
「まあ、セッションははじまったばかりだからこれからいろいろ調べたらいいんじゃないかな」
「調べるなら、探偵の仕事だよね……って、どうしたんですか三郎さん?」
豪三郎がすねたように、キャラクターシートの端をいじっている。
「豪三郎、お前の出番、すぐだから。というか今からだから、すねるな」
ぱっ、と豪三郎の表情が輝いた。
「シンジとアキの場面はこのへんでいったん切ろう。次は、豪三郎のキャラクターの場面だ」
× × ×
ブラインドの隙間からさしこむ鈍い光が、雑然とした部屋を薄く照らしている。
もう朝か、と男はソファーから身体を起こした。頭が痛い。昨日は秘書のミス・ローリングが帰ってから、ひとりで飲んでいたのだ。ミス・ローリングは健康管理にうるさく、酒も煙草も許してはくれない。
男は机のひきだしから煙草を取りだし、ブラインドをあげた。豪雨はやんだが、濃い霧が〈トーキョーNEO〉を覆っている。大気汚染のため、霧は灰色だった。
この街にふさわしい色だ。明確な真実なんてものはどこにもない。どこまでも曖昧な灰色。
煙草に火を点け、男は煙を肺いっぱいに吸いこんだ。
うまい。この味がわからんとは、ミス・ローリングもかわいそうな女だ。今度、ゆっくりと語ってやろう。もちろん、ベッドの中で。
「そして夜明けのコーヒーを淹れようとするが、豆を切らしていることに気づく。男──私立探偵サブロー・ムカイは舌打ちし、『あれがないと俺の一日ははじまらねえ』と毒づくわけだ……なんだ、その顔」
「いや、いきなりなにがはじまったのかと思って」
うんうん、と明子もうなずいている。
「なにい!? お前らひょっとしてハードボイルドを知らんのか!? マルタのなんちゃらとか大藪某とかなんちゃらビバップは!?」
がっかりだ、と豪三郎はかぶりを振った。宗一は笑いながら、
「コーヒーを切らしているところ悪いけど、サブローの事務所のドアを叩く音がした」
「事務所? ここどこの場面?」
慎二が訊いた。
「よくぞ訊いてくれた。ここはムカイ探偵事務所。〈トーキョーNEO〉でも指折りの名探偵サブロー・ムカイ、つまり俺の事務所だ!」
胸をそらし、豪三郎は自分を親指で指した。
──この人、テンションおかしいよなあ。まだ酒が抜けてないのかなあ。
「おーい、続きはじめていいかー?」
発言を半ば無視された宗一がさびしそうにたずねた。
「うむ、続けてくれGM」
無表情なその男がサブローの事務所に現れたのは、シンジとアキが〈Fate〉を訪れた日の翌朝であった。
「人を捜してほしいのです。名前も、顔もわからないのですが」
「ほう、なかなか面白い案件だな」
ソファーにふんぞり返り、サブローは言った。
「ほかの探偵事務所へ行くも断られ、『ムカイ探偵事務所ならなんとかしてくれる』と言われて、ここに来たんだな」
「いえ、街を車で走っていたら、一番はじめに目についただけです」
顔を引きつらせながら、サブローは男の言葉を聞き流した。
「そ、それで、捜し人についてわかっていることは?」
「人を殺している可能性があります」
サブローは灰皿に煙草を置き、「失礼だが、あんたの名前を訊いていなかった」と言った。
男はサブローの前で軽く手を振った。なにもない空間がかすかに歪み、画像が現れた。空中投影ディスプレイ……「ホログラム」と呼ばれる技術だ。
ホログラムには男の顔と、「ジェイムズ・グロウ──〈ブラッドハウンド〉第一級捜査官」という肩書きが映っていた。
サブローは手を振って画像をかき消した。
「ほかをあたれ。〈ブラッドハウンド〉ともあろうお方が私立探偵を頼るとは、恥を知らんのか」
「この街を守るためなら、私は犬畜生とでも手を組みます」
犬はてめえだろうが……サブローは口の端を歪めた。
〈ブラッドハウンド〉の捜査は〈トーキョーNEO〉の存在そのものに直結するため、ありとあらゆる法・権利に優先される。〈ブラッドハウンド〉に調査を邪魔され、痛い目を見た探偵は数知れない。同じ「探偵(ブラッドハウンド)」の名を持つことが火に油を注ぎ、探偵と捜査官は犬猿の仲をこえ、殺しあい一歩手前であった。
「……殺されたのは誰だ」
「引き受けていただけますか」
「お前らに恩を売っておくのも悪くない」
「では、これくらいで」
やめろ、とサブローは制止した。
「金の話はあとでいい。詳細を早く教えろ」
冴えない男の顔が空中に映しだされた。
「被害者はユウヤ・タナカ。二日前、下町で殺されました。発見したのはススム・タギツ。〈Fate〉というバーのマスターです」
そこまで言って、ジェイムズは黙りこんだ。
「おい、情報はこれだけなのか」
「調べるのが探偵の仕事でしょう?」
「てめえ」
サブローは身を乗りだし、ジェイムズをにらみつけた。そのとき、能面のように無表情だったジェイムズは、はじめて感情らしいものを見せた。
嘲笑である。
「依頼人にすべてお膳立てをしてもらわないと動けないのですか。これはたいした名探偵だ」
「……」
サブローの手が……いや、豪三郎の手が震えていた。
「ご、豪三郎?」
宗一が心配そうに言った。豪三郎はテーブルに置いた手を震わせ、うつむいている。三郎さん、向井さん、とみなが声をかけると、豪三郎はおもむろに立ちあがった。
「……トイレ、借りる」
そう言って診察室側のドアを開けて出ていった。
「いくらなんでもあおりすぎじゃない?」
慎二は宗一に言った。
「いや、いつもあんな感じなんだよ。あいつはハードボイルド的なキャラクターが好きで、〈ブラッドハウンド〉が出てくると、絡む演技をやりたがるんだ」
「気分でも悪くなったのかな」
豪三郎がビールを飲んでいたことを伝えると、さすがに心配になったのか「様子を見てくる」と宗一も席を立った。
ねえ、と明子が言った。
「向井さんてちょっと変わった人だよね」
「テンションがおかしいんだよ。まあ、お酒のせいだと思うけど」
「そうじゃなくて、二面性があるっていうか」
「二面性?」
「先生や飯島君たちみんなと話してるときは凄くハイテンションなのに、私と二人でキャラクターを作ってたときは、もの凄く静かだったの。説明もていねいだったし」
「ゲームに没頭してただけなんじゃないかな」
そうかなあ、と明子は首を傾げ、
「思うんだけど、向井さんて、見た目とかテンションとかにごまかされそうになるけど、実は凄く生真面目な人なんじゃないかな」
──生真面目? 三郎さんが? 仕事を早退して、一升瓶かかえて病院まで来るような人が?
「……ないわー」
宗一が戻ってきた。すまない、と開口一番謝り、
「今日のセッションはここまでにしよう。豪三郎が体調を崩したみたいなんだ」
〈三〉
豪三郎は待合室のソファーに座りこみ、うつむいていた。
三郎さん、と声をかけると、豪三郎はかすかにうなずいた。見てのとおりだと宗一は言った。
「時間的にもギリギリだから、今日はもうお開きにしよう」
壁の時計を見ると、もう六時半だった。外はまだかろうじて明るい。明子が安全に帰るためには、まさにギリギリだった。
明子はスマートフォンで通話をしている。家にかけているのだろう。慎二はメモも残さずにここへ来たこと、もう夕食の時間だということに気づき、まずい、と思った。
通話を終えた明子と目が合った。困っていることが伝わったのか、「使う?」と明子はスマートフォンをさしだした。
診察室に行けば電話がある。しかしあわてていたため、慎二はスマートフォン──アキのバイクと同じ、赤いカバーをつけている──を借りてしまった。
母の携帯番号はおぼえていない。家の固定電話にかけると、ややあって母が出た。
『慎二? 今、学校?』
「ううん、おじさんのところ」
そう、と母は残念そうに言った。部活に出たと思ったのだろう。
「これから帰るから、もう少し待──」
言いかけて、宗一にスマートフォンを取りあげられた。「すいません、飯島さん」と母に話しかける。
「慎二君にはちょっと寄ってもらいたいところがありますので、帰りはもう少しだけおそく……はい、申しわけありません。それほど遠いところへは行かせませんので」
スマートフォンを明子に返すと、宗一は「城田さんを送ってあげてほしい」と頼んだ。
「本当は車で送るつもりだったんだが、豪三郎の面倒をみてやらないといけなくなった。まだ明るいから、早く送ってあげてくれないかな」
「いや、そんな勝手に」
文句を言おうとしたとき、飯島君、と呼ばれた。
「その……送ってもらっても、いいかな?」
──は?
慎二はぽかんと口を開けた。明子は申しわけなさそうにうつむき、
「勝手なことを言ってごめんなさい。でも、お願いします」
「そういうことだ。頼む、慎二」
宗一に肩を叩かれたが、慎二の内心は複雑だった。
男の子から見たとき、女の子はたまにひどく不条理でわがままなことを言うことがある。それが女の子の特権なのだと母は言っていたが、慎二には納得できなかった。明子もそういう女の子と同じなのかと思い、少し失望した。
それでも、いっしょに帰れることはうれしかった。
「早く行きなさい。夏とはいえ、もうすぐ暗くなる」
宗一が追いだすように二人の背中を押した。
「向井さん、お大事に」
「またね、三郎さん」
ドアが閉まる直前、豪三郎の右手が力なくあがっているのが見えた。
カツ、カツ、と杖が道路を叩く音が響く。
明子の右側をキープしながら、坂道をくだる。明子の家はY字路からさらにくだったところにあるらしい。
「ごめんなさい」
明子が言った。送ってもらっていることをわびているのかと思ったが、そうではなかった。
「飯島君に送ってもらうのが嫌なわけじゃなかったの。不愉快な思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
それが、最初に送ると言ったときのことを指しているのだと気づき、慎二は胸にあたたかいものが広がるのを感じた。
「飯島君がゲームに誘ってくれたときは、うれしかった。だって、あのまま嫌な雰囲気でお別れしたくなかったから」
「お、俺もそう考えてた! だから、城田さんを誘ったんです!」
夕日が二人を照らす。明子はくすりと笑い、「飯島君の顔、アキのバイクと同じ色」と言った。
明子は慎二の真意をきちんとくみとっていた。わがままだと、失望したなどと少しでも思ったことを申しわけなく感じた。
「本当にこわかったんですね、通り魔の話。だからあんなに……」
うん、と明子は恥ずかしそうにうなずいた。
「でも大丈夫です。俺がついてますから」
二人はY字路まで戻り、左手のゆるいくだり坂を進んでいった。
「飯島君は剣道部なんだよね。向井さんが言ってたけど、結構強いの?」
「まあ、強いですよ。今、休んでますけど」
「けがが原因?」
慎二は曖昧な表情でうなずいた。たしかにけがが原因にはちがいない。問題は、自分のけがではないことだ。
「城田さんがやってる演劇っていうのは、部活のですか?」
「うん、清水高校の」
うえ、と慎二はうめいた。清水高校といえば、このあたりではトップクラスの進学校だ。
容姿端麗なだけではなく、勉強もできる。それに明るくて優しい。神は二物も三物も与えるらしい。
コンビニのある角を左に折れようとして、慎二は足をとめた。視線の先に整形外科があった。
「なんであそこに行かないんですか。こんなに近いのに」
明子と会ったときにいだいた疑問を、慎二はもう一度口にした。
「最初にみてもらったのが、飯島先生だったのよ」
「だからって、その足であの坂をのぼらなくても」
「でも、最初にみてもらった先生に最後までみてもらいたいじゃない」
そういうものだろうか。俺なら、足が悪かったらあんな坂のぼりたくないなと慎二は思った。
「俺が言うのもなんですけど、おじさんってヤブだと思う。部活でどんなけがしても、いつも同じ薬出すし。若い看護師さんとはしょっちゅうイチャイチャしてるし」
「でも診察はていねいよ」
「あと、あいつムッツリスケベだよ」
「じゃあ変なことされたら助けてね。だって用心棒なんだから」
日はほとんど落ち、夜が濃さを増している。左手に小さな公園が見えた。中央に大きな街灯が一本、地面に突き刺さるように立っている。
すっ、と明子の身体が前に流れた。急に歩みが速くなる。カツカツと杖がせわしない音を立てた。
「危ない!」
急ぎすぎたのだろう、バランスを崩し前のめりになった明子をあわてて支えた。彼女のやわらかな胸に手が触れたが、それどころではなかった。
ひどく汗をかいている。今日は風があり、日陰に入ると涼しい。これほどの汗をかく状況ではない。
慎二はあたりを見まわした。ここってまさか……
「早く行こう」
明子は、支える慎二の腕を強く引っ張った。
公園を通りすぎるあいだ、慎二は何度も振り返った。
中央の街灯がまたたきはじめていた。
あそこが私の家、と明子は言った。真新しい一戸建てだ。
「ありがとう。もうここでいいよ」
「城田さん」
──通り魔に襲われたのは、城田さんなんですか。
言いよどむ。いくら友達になったとはいえ、こんなことを訊いていいとは思えなかった。
あの公園はたしか犯行現場のすぐ近くだ。もし明子が被害者なら、あの場所をおそれてもおかしくはない。
別の言葉が、慎二の口をついた。
「セッション中に、城田さんが俺のキャラクター……シンジになんて言ったか、おぼえてます?」
「ん?」
「『アキはシンジに守られたことがあるかもしれない』って言ったんです」
「うん。あの設定、嫌だった?」
「ちがう。俺も守りたいと思う。過去形じゃなくて現在形で」
真剣にそう言った。
守りたい。アキも、明子も。おびえる明子の姿を見たくはなかった。
いきなりゲームの話など唐突だったかもしれない。しかしおびえる彼女のために、どうしてもなにか言葉をかけてあげたかった。たとえ馬鹿みたいな言葉だとしても。
引かれただろうかと明子を見ると、彼女は目をパチクリさせ、
「うん。じゃあ守ってね、用心棒さん。いっしょに事件解決しましょ」
明子が家に入るまで見送り、慎二はほっと息をついた。うかつなことを言ったような気がするが、かんぐられなくてよかった。
来た道を戻り、公園の前で足をとめた。ここで明子は通り魔に襲われたのだろうか。
──もしそうだとしたら、許せない。
手に力がこもる。
いてもたってもいられなくなり、慎二は駆けだした。怒りのあまり、叫びだしそうだった。