3時間目
五組も他クラスと同じように、それぞれ昼食を取るためのマイ憩いのスペースへと歩き出していました。それは例の美男美女カップル、隆也くんとみちるちゃんの二人も例に違わず、まさに今食堂へと向かうため五組のドアを開けようとしています。
「今日は何食べるかなー」
ドアを開けた隆也の後ろでみちるが呟きました。
「俺はもう決まってるよ、もちろんみ・ち・」
「はいはいはい」
人指し指を横に振りながらみちるに向き直った隆也を、みちるが両手で押しながら二人は廊下に出ました。その時です。
「わー!ちょっとどいてー!」
「ん?」「ん?」
どすん――ちらほら人がいる廊下に鈍い音が響き渡りました。
「痛ってぇ……まるで俺らの出会いみたいな衝撃」
「ははは、確かにな」
「あ、二人は恋人同士なんだね?」
「へ……?」
自分の背中から聞こえた声がみちるではなかった隆也は、間抜けな声を出して背中に覆いかぶさっている先程の声の主を振り向きました。それにつられて、すぐ近くで尻もちをついているみちるも彼の方を振り向きます。
「ああ、君は」
「いっただきー!」
その瞬間ピカッと眩しいフラッシュが光りました。
「うっひょーい!イケメン在寺院隆也と噂の転校生六神伶の禁断スキャンダルもらったー!」
そう叫んで、二眼レフのカメラを持ったちびっこが嵐のように廊下を駆け抜けていきました。
「……なんだありゃ」
隆也が目をしょぼしょぼさせながら言いました。
「ってゆうか、そろそろ降りてくれないかな」
「あっ、ごめん!」
真っ赤な顔をした伶が、地べたで大の字になっている隆也の背中をぴょこっと降りました。隆也も立ち上がって、ズボンをはたいています。
「きみきみ、廊下を走ってはいけないよ。ほらここにも書いてあるだろ」
隆也は何もない窓ばかりの壁をとんとんと人差し指で叩きます。
「いや、何も書いてないし、あんたも毎朝嵐のように廊下を走ってくるでしょ」
そう言いながらみちるもお尻をはたいて立ち上がりました。
「ぶつかってすみません……慌てて走ってきたもので」
伶は小さく頭を下げながら謝りました。
「いや、別にどってこたないよ。それより、桃はもう教室にはいてへんで」
伶の目の前に教科書を差し出しながらみちるが言いました。
「あっ、ありがとう」
伶は優しく桃の教科書を撫でます。
「なんか朝から調子悪くってさ、今日はもう早退するらしい。とりあえずかおるが保健室に連れてったけど」
「あぁ、そうなんだ……。じゃあボク保健室まで届けに行ってくるよ。ありがとう」
伶は二人に微笑んで、また軽い足取りで廊下を走って行きました。
「ふーん。優しそうなヤツやん」
みちるが流し目で伶の走っていく姿を見ながら言いました。
「あ!いーけないんだぁいけないんだぁ先生に言うたぁろー、浮気はいけないよみちるちゃん」
隆也は八重歯を見せながらにこっと微笑みました。
「いや、全然六神に似てないし。ってかきもいし。ってか先生に言うことちゃうし」
「いよっ!三段つっこみ!」
そんなことを言いながら、二人は食堂へと歩いて行きました。
「大丈夫か、桃」
「うぅ……うぅ……」
かおるは桃の額に新しく水に浸したタオルを当てました。
「恋煩いって、本当にあるんだな」
桃は壁際の真っ白なベッドに横たわり、薄手のシーツにくるまっています。その傍らに、洗面器の置いてある背の低い机にもたれる、かおるの姿がありました。
「静かな昼下がりだ」
白を基調とした清潔感溢れる部屋をかおるは眺めました。少し向こうの窓際に、きれいに整頓されている小さな机があります。部屋はゆったりしていて、桃が寝ているベッドの右側に、壁伝いにあと四つの寝台が並んでいました。
「こういう日は読書に限るな」
「ねぇ神ノ崎さ~ん」
かおるは持ってきた本を取りました。
「次回作の新しいアイデアさえ思いつきそうだ」
「ねぇ神ノ崎さんったら~」
かおるは本に目を落とします。
「本当に静かな昼下がりだ」
「神ノ崎さん体温計持ってきて~」
かおるはぱんっと本を閉じて、立ち上がりました。
「あなたは本当に保健室の先生なんですか」
隣の寝台に向かうと、そこには一人のスレンダーな女性がこちらを向いて横たわっていました。
「神ノ崎さんお粥作って~」
「嫌です。体調が優れないなら今日は帰宅したらどうですか」
「む~神ノ崎さんのいじわる~」
保健室担当の美人先生、紋夏澄は長い黒髪の毛先を両手で振りながらばたばた暴れています。
「もう子供じゃないんですから、早く大人のエスカレーター登ってください」
「わあ!さすが作家さんね、言い回しがステキ~!だから雑炊作って~」
ちょっと豪華になってるじゃないですか!――かおるがそう言った時、隣で何かが落ちる音がしました。
「ん?桃?」
桃の寝台へ駆けつけると、下に少量の水と洗面器が落ちていました。
「あ、ごめんかおる。自分でタオル濡らそうとしたら落としちゃった」
かおるはちらっと左の寝台を見て、大丈夫、寝てていいよと桃にシーツをかけてやりました。
「この健気さを誰かさんに見習ってもらいたいものです」
かおるは洗面所へと歩を進めて言いました。
「あっ神ノ崎さん材料ならそこの冷蔵庫にたくさん入ってるからね~」
後ろからする声を聞いて、かおるは難しい顔をしながら蛇口をひねりました。
「すみません、入ってもいいですか?」
お、誰かが保健室の戸をノックしています。
「神ノ崎さんお客さんよ~出て~」
「……はいはい、分かりましたよ奥様」
かおるは一瞬ムスッとしましたが、もう長いものには巻かれることにしました。洗面器を桃の隣に戻して、どうぞと声をかけます。
「失礼します。黒崎桃さんはいますか?」
「うお」
「魚がどうかしたの神ノ崎さん?」
「そのウオじゃありません」
下駄箱の横で、伶が首を傾げています。胸の前で、一冊の教科書を抱えていました。
「先生、私黒崎さんの荷物を取りに行ってきます。また来ますね」
「神ノ崎さん?」
小さく名前を呼んだ紋先生をちらっと見て、かおるはすたすたと保健室を出て行きました。
「ふーん、邪魔するなってことからし?じゃなくってかしら?」
「黒崎さん?調子はどう?」
「へ?」
朦朧とする意識の中で目にしたものは、今の桃にはあまりにも刺激的すぎる人物でした。
「り…り…六神くん!?」
「そうだよ。君の教科書を秋蘭から預かってきたんだ。ここに置いておくね」
伶は穏やかに笑い掛けて、教科書を洗面器の隣に置きました。
「り…り…り…り…り…」
「え、えぇ?黒崎さん、だ……大丈夫?」
額に乗っけたタオルから湯気が出ている桃を見て、伶はあたふたします。
「と思ったらそれはこれの湯気でした~」
「あ、あなたは」
二人の前には、熱々のちゃんこ鍋をピンクのミトンで持った、黒髪に薄ピンクの白衣を着たスレンダーな女性が立っていました。
「さ、二人ともお昼まだでしょ?みんなでつつく鍋はとっても美味しいわよ」
「あ、はあ……いただきます……?」
「さっ、黒崎さんも上体起こして!今机持ってくるからね」
紋先生は窓辺にあった机を震度1くらいの揺れを起こしながら、桃のベッドの右隣まで引きずってきました。
「さっ、みんな箸を持って。ほら六神君、黒崎さんの隣に来ないと鍋に手が届かないわよ」
「で……でも先生、ベッドの上で食べていいんですか?」
「いいのいいの、後で洗うから、はい、じゃあいただきま~す」
三人が鍋をつつき始めた頃。
「あの先生絶対元気」
保健室からの廊下を歩きながらかおるが呟きました。