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第11話(7)聴こえるよ、きみの音

 甘い物は嫌いだ。


 今も鮮明に思い出せる、アナポリスの学食。

 長テーブルの隅にぽつんと座り、彼女は自分のコーヒーカップに延々と角砂糖を落とし続けていた。

 周りを歩く生徒達の間から、くすくすと嫌な笑いが漏れる。


「ねえ見てあれ。砂糖をあんなに」

「葦原海軍の留学生でしょう? やっぱりサルは野蛮ね」

「学校も何を考えているのかしら。劣等人種にアナポリスの敷居をまたがせるだなんて」

「行きましょう、ニミッツさん」


「……皆さんは先に食べていて下さい」


 驚くクラスメート達をよそに、セシリアは彼女のテーブルに足を運んだ。

 近付くとまず、卓上に置かれた縦横9マスのゲーム盤に目が留まる。

 葦原のショウギだ。チェスではとった駒は殺されるのに対して、ショウギでは敵の駒を自分の味方にできるという。

 いかにも内戦しか起こらない島国で発達しそうなゲームだと、セシリアは批判的な感想を抱いた。

 それにしても。


「……貴女、コーヒーに砂糖を入れ過ぎでは?」


 後で聞いた話では、彼女に話しかけたのは自分が最初だったらしい。

 葦原の留学生は、リボンの髪飾りのついた頭をゆっくり持ち上げた。セシリアと目を合わせる。


「仮想敵国の物資を、少しでも使ってやろうと思ってね」


 流暢なブリトン語だった。

 その言葉よりも彼女の瞳に宿る力に気圧されて、セシリアは気付いたら1歩後退っていた。

 だが、彼女はすぐに相好を崩した。


「えへへ、なーんちゃって。冗談だよ」

「……」

「凄い国だね~、ヴィンランドって! お砂糖もお塩も、わたしの国では貴重品なのにこの国ではタダ同然。正直、ヴィンランドだけは敵に回したくないなあ」


 何と答えたらいいのか、返事に困っていると。彼女は本当に邪気の無い笑顔で、手を差し伸べてきたのだ。


「わたしは山本五十子! あなたの名前は?」


「私は――」





「ニミッツ提督。最新の敵情報告がまとまりました」


 情報参謀のミリーナ・レイトンが入室してきた。

 セシリアは顔を上げる。


「敵の正規空母は5隻以上、加えて北方より空母2隻。また敵戦艦はヤマトの他に最低10隻。葦原海軍はこの海域に全戦力を投入しています」

「こちらの損害は」

「我が軍は空母ヨークタウン、ホーネット、重巡ポートランドが沈没。……なおホーネットのミッチャー少将は、戦死されたとのことです」

「そう」


 セシリアは何事も無かったかのように、チェス盤に目を落とした。


「エンタープライズのレナ・スプルアンスに、残存艦隊をまとめて引き上げるよう命じなさい」

「提督。第1任務部隊より、夜戦を敢行し空母の弔い合戦がしたいと……」


 その時、暗号解読班長のタリサ・ロシュフォートが駆け込んでくる。


「ヤマト発の新たな無線を傍受しました! 撃沈したヴィンランド艦の乗組員を救助せよと、全部隊に通達しています!」


「……第1任務部隊も撤収させなさい。ミッドウェーでの勝敗は決しました」


 2人は一礼して退室した。

 セシリアは、チェス盤に並んだ駒を指でなぞる。

 ヨークタウンが沈むのは想定していた。既に大西洋艦隊からワスプを引き抜く根回しが済んでいる。これにエンタープライズと修理の済んだサラトガで正規空母3隻。ハワイを守るにはまだ余りある戦力がある。

 ヴィンソン・プランに基づく新型正規空母の量産が軌道にのるまで、もてばいい。

 もっとも。仮にこのハワイを落とせたとして、それで戦争が終わるとでも思っているのか。


 ――イソコ、貴女には見せたくなかった。

 貴女達の絆も友情も団結も、すべてこちらの物量が押し潰す……そんな醜い戦いが始まる前に、美しい思い出だけを抱いて死んで欲しかったのに。


 セシリアはチェス盤の横に手を伸ばし、置かれたドーナツを一かじりする。


「……やっぱり私には甘過ぎます、イソコ」







 先頭の敵重巡が轟沈し、空に真っ黒な塵芥を噴き上げた。

 長門率いる戦艦部隊は、残る重巡1隻との砲撃戦に移行する。

 成実は手信号で戦闘機隊を集合させ、敵駆逐艦に向かっていく。沈めることはできなくても、機銃掃射で魚雷発射管の破壊を試みるつもりだろう。


「ははっ、どうだい! これが帝政葦原海軍の真の力さ!」


 操縦席の草鹿峰は誇らしげだ。


「さあ、ボク達も行こうじゃないか」

「待って下さい!」


 草鹿が十三試艦爆の機首を敵艦隊に向けようとするのを、洋平は止めた。

 振り返った彼女の理由を問い質す目に、いつものように即答できない。

 

 ――五十子から離れたくない。

 

 この状況で洋平の胸に宿ったのは、何故だかそんな感情だった。

 急降下爆撃の際に見張員を退避させたのか、大和の防空指揮所に立っているのは五十子一人だ。

 早く五十子の身が安全にならないと、心が落ち着かない。


「……空に、ちぎれ雲が出始めました。敵の攻撃隊の生き残りが、まだどこかにいるかも……」


 後付けの理由を説明しようとした、その時だった。

 視界の隅、白い断雲の1つに、洋平は不穏な影を認める。

 振り向いた瞬間、雲を突き抜け敵機が現れた。

 ドーントレス!


「草鹿さん、割り込んでっっっ!」





「姉御の仇ぃぃぃ!」


 ロディーが投下した爆弾は、第二主砲の天蓋に命中した。引き起こさず、そのまま巨大な戦艦の艦橋へ照準を合わせる。

 刹那、目の前を葦原新型機のプロペラが踊った。

 衝突ぎりぎりの超至近距離。

 後席の搭乗員が機銃をロディーに旋回させ、血走った目を見開いていた。

 マズルフラッシュ。激しい被弾にドーントレスが震え――1発の7・7ミリ弾が、ロディーの心臓を貫く。

 だがロディーの手は、既に引き金を引いていた。


 ロディー機の前部機銃弾が十三試艦爆と、大和の艦橋に降り注ぐ。測距儀はレンズを割られ、照準指揮装置のラッタルが吹き飛ぶ。

 機銃掃射は、防空指揮所にも無数の弾痕を穿った。

 一瞬の出来事だった。

 ロディー機は黒煙を吐きながら海面に激突し、砕け散った。





 五十子が倒れるのが見えた。頭の周りに、赤いものが拡がっていた。


「油圧低下! 脱出するぞ!」


 どこか遠くで草鹿が叫んでいる。だが、洋平の頭には届かない。

 一瞬だった。虫は知らせていたのに。あまりにも急過ぎた。


「急げ! 機体が海に墜ちる!」


 十三試艦爆が高度を落としていく。

 草鹿が落下傘を背に、「先に行くぞ!」と飛び降りる。

 草鹿は生き延びることに懸命だ。当然だ、彼女には、帰って守りたいひとがいる。

 洋平には、もういない。

 五十子が死んだ。

 守れなかった。救えなかった。それどころか、史実より1年も早く死なせてしまった。洋平のせいで。

 機体が海面に触れ、大きくバウンドする。翼がしなったと思うと、ばらばらになる。残った胴体も、急速に海中へ没していく。

 今度こそ、本当に死ぬ。それで良いと思った。

 思えば自分は、元の世界でも大切なものを何一つ守れなかった。この世界でも同じだっただけだ。

 海水と一緒に、あの憂鬱でどうしようもない感覚が洋平を浸していく。

 早く溺れたい。そう思いながら洋平は、海中から空を見上げた。

 口から大量の気泡が吐き出され、海面の太陽へ上がっていく。


 その太陽が、大きく揺らめいた。


 ――人の影?


 上から伸ばされた手に、腕を掴まれる。

 唇に柔らかな感触。新鮮な空気が送り込まれてくる。

 身体が力強く海面へと引き上げられる。

 これは……


「何度だって助けるよ!」


 この声は。


「……五十子……さん……?」


 きらきらと輝く大きな瞳。

 人懐っこい笑顔。

 五十子だ。他の誰でもない、山本五十子だ。

 でも五十子は、確かにさっき。


「……五十子さん……僕達は、死んだの……?」


 混乱した思考の末に、洋平はそんな言葉を呟く。

 五十子は首を横に振る。水滴が光を弾いた。


「生きてるよ。だって、ほら」


 五十子は、洋平を抱き締める。


「聴こえるよ、洋平君の音。どくんどくん、って」


 胸に寄せられた、五十子の頭。

 海水を吸ってぐっしょり濡れた、赤いリボンの髪飾り。

 そうか、あの赤はリボンだったのか。色、元に戻してたんだ。


「……洋平君も、聴いてみて」

「え……」


 今度は洋平の頭が、五十子の胸に押し当てられる。

 不思議だった。

 戦闘は終わっていない。遠くではまだ砲声と爆音が轟いているのに、今この場所は、こんなにも静かで。

 揺れる波の音。海面を吹く風の音。そしてゆったりと優しい、五十子の鼓動。


「……ああ、聴こえる。五十子さんの音」


 五十子が生きている。


「洋平君……泣いてるの?」


 五十子の姿が滲んだ。

 海水とは違う塩辛いものが溢れ、止まらなかった。

 大和から内火艇が近付いてくる。




 この数時間後、ミッドウェー基地守備隊は葦原軍に降伏した。

 ミッドウェー海戦は、幕を閉じた。

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