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第10話(7)良い月なの。けど、まだ月を眺める時間じゃないの

 第二航空戦隊・飛龍。


「……赤城からの返事、あるでしょうか」


 二航戦通信参謀の高井真奈少佐は、そう小声で呟いた。双眼鏡を当てた眼は、もうずっと前方の榛名を凝視し続けているせいで、乾ききって痛い。


「あるわけないよ。どうせ意見具申なんて聞いて貰えない。真珠湾もセイロンもそうだった」


 同じく二航戦航空参謀の橋田少佐が、短髪の頭を左右に大きく振って吐き捨てる。


「搭乗員がどんなに優秀でも、決めるのがあの2人じゃ……」


「よしなさい橋田少佐、兵達のいる前で!」


 たしなめたのは二航戦司令部を纏める、先任参謀の藤堂中佐だ。


「申し訳ありません中佐、つい」


「……司令官がどんなお気持ちで待っておられるか、2人とも少しは考えなさいな」


 一同の視線は艦橋の窓辺にニーソックスで立つ、戦隊司令部一背の低い少女に向けられた。

 司令官の楠木多恵少将は、参謀達に背を向け黙って空を見上げている。

 悲壮に見える背中。

 一番お辛いのは司令官なんだ、真奈がそう思った直後、ぐうう、と腹の鳴る音がした。司令官の方から。


「あの月がだんだん、おむすびかお饅頭に見えてきたの」


「……。お腹が空いてらしたんですか」


 藤堂中佐が肩をがっくり落とす。楠木多恵がいつも通りの多恵で、艦橋の空気は少しだけど和らいだ。

 真奈は自分も窓辺に寄って空を見る。

 雲間に覗く蒼天に、弓張の月が浮かんでいた。

 片割れだけが見えているせいか蒼い弦月はいやに鮮明で、目を凝らせば地表のひび割れやクレーターの窪みまではっきりわかりそうだ。


「……確かに、良い月ですね」


 穏やかな横顔でそう言ったのは、多恵と並んで一緒に空を見上げる艦長の加来大佐だった。

 その光景に、真奈は急に不安を覚える。

 どうしてかはわからないが、司令官と艦長がこのまま消えてしまいそうな気がしたからだ。


「榛名より発光信号!」


 見張の兵士が叫び、真奈は我に返る。抜かった。急いで双眼鏡を構え、戦艦榛名の艦橋で瞬くサーチライトに目を凝らす。

 約90キロ離れた赤城から、リレーで送られてきた信号だった。


「意見具申の返事かしら」

「どうせまた待機命令じゃ……」


 藤堂中佐と橋田少佐の声が、途中で途切れる。

 真奈も言葉を失い、モールスの誤送信さえ疑った。しかし榛名のサーチライトは、同じ内容の符丁を繰り返している。


 全空母、第二次攻撃隊の発艦を優先。着艦待ちの第一次攻撃隊は瑞鶴にて収容。なお赤城は敵機多数の襲来を受け、回避運動に専念。以後の一航艦の指揮は――


「……あのお兄ちゃん、なかなか良い仕事をしてくれるの」


 多恵が笑った。ビー玉の髪飾りを付けた、ワンサイドアップを揺らして。


「機動部隊全艦に伝達! 今より航空戦の指揮は、この多恵が執るの!」


 全員の背筋が反り返る。食いしん坊の少女は、もうそこにはいない。


「高井少佐、利根4号機から通報のあった敵艦隊の位置は?」


「はっはい! 本艦隊の北東約200浬です、こちらをご覧下さい」


 真奈は慌てて、海図に書き込まれた座標を見せた。多恵は一瞥すると、首を傾げる。


「えっとね、多恵の鼻だと敵がいそうなのはこの辺なの」


 そう言って無造作に指でつついたのは、通報のあった座標より80浬以上南の海域だ。

 二航戦の参謀として楠木多恵の突拍子も無い発言にある程度慣れているつもりだった真奈も、一分一秒を争う緊急時に出たこの言葉には流石に面食らった。「この辺なの」と言われても、今の座標は利根4号機の通報から正確に鉛筆を入れたもので、全艦隊共通の認識だ。そう、利根4号機の……。

 そこまで思考したところで、真奈の中で何かが引っかかった。まさか。


「索敵線図面を持ってきて下さい! コンパスも!」


 水兵に命じて持ってこさせたのは、第一航空艦隊のそれぞれの艦から作戦開始と同時に飛び立った索敵機の、予定索敵線が書かれた海図だ。

 2枚の海図を照らし合わせた真奈は、息を呑んだ。

 ずれている。

 利根の索敵機が担当する索敵線、その線上で通報のあった時間に利根4号機が飛んでいるはずのポイントから、コンパスで南に約10度。

 そう、丁度、多恵が指差した場所が正しい。


「敵艦隊の位置を修正。全空母に伝えなさい、最優先よ」


 後ろから覗き込んでいた藤堂中佐が、冷静に指示を飛ばす。真奈は全身の血が凍るようだった。


「……申し訳ありません、確認すればすぐにわかったことなのに」


 恐らくは水偵の計器に整備不良があったのだろう。多恵の一言が無ければ、通報内容を鵜呑みにし、敵のいない海域に攻撃隊を送るところだった。通信参謀失格だ。


「確認を怠ったのは高井少佐だけじゃないわ。索敵機が所属する利根の第八戦隊司令部も、赤城の一航艦司令部も。勿論私も。全員、参謀失格ね。本当に恥ずかしい」


 藤堂中佐がそう溜め息をついてから、苦笑混じりに多恵を見た。


「司令官には、いつも驚かされます。また匂いですか?」

「うん! 多恵はね、美味しいものの匂いは絶対逃さないの!」


 それを聞いた艦長の加来大佐が快活に笑った。真奈も、気持ちを切り換えることができた。


「そうなると、彼我の距離も変わってきます。東方約130浬です」


「近い……赤城から要請があったとはいえ、友永大尉の艦攻隊を第一次攻撃に振り向けてしまったのが悔やまれますね」


 航空参謀の橋田少佐が眉根を寄せる。

 現在、二航戦の飛龍・蒼龍に残っているのは艦爆隊だけだ。おかげで艦攻隊を残していた一航戦のような、魚雷か爆弾かを巡る揉め事には巻き込まれずに済んだものの、艦を相手にするならばやはり確実に沈められる魚雷の方が良いに決まっている。


「艦爆隊がいれば十分なの」


 しかし闘将は、そんな教科書通りの懸念を一蹴した。


「江草中佐と小林大尉に、日頃の猛訓練の成果を見せるよう伝えるの」

「はっ!」


 江草、小林は蒼龍と飛龍の艦爆隊指揮官だ。特に蒼龍艦爆隊を率いる江草隊長は、セイロン沖海戦でブリトン軍の重巡2隻に対する急降下爆撃の先頭を切り、後続機も合わせ52発中46発命中、命中率88%での撃沈を成功させている。

 

 最後に多恵は、もう一度空を見上げて小さく首を振った。


「良い月なの。けど、まだ月を眺める時間じゃないの」

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