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第1話(2)それが私達、海軍乙女

 大和の前檣楼は中甲板を基盤として13階建て、閉鎖式の二重円筒構造だ。

 円筒の内部を通っているエレベーターは意外に小さくて、山本五十子と三人組、それに洋平の五人が乗り込むと満員になった。

 最上階の第一艦橋の1フロア下で、五十子達はエレベーターを下りる。案内されたのは、大和の作戦室だ。

 入室してまず始めに、洋平は舷窓に近寄った。窓の外には、五十子の言った通り瀬戸内海の島々が一望できた。新緑が染み入るように鮮やかだ。一見のどかな島々だが、目を凝らすと対空砲台が設けられ、要塞化されているのがわかった。


「呉軍港を擁する広島湾は、大小無数の島々に守られた天然の要害です。柱島泊地はその外縁部にあって、北の柱島をはじめ十以上の島に囲まれています」


 ヤスちゃんと呼ばれているカチューシャの少女の解説を洋平は最後まで聞くことができなかった。


「これ……全部、本物の戦艦!」


 女子グループの中に1人でいる居心地の悪さも忘れ、思わず子どものように窓に顔を押し当ててしまう。

 連合艦隊の誇る戦艦群が、眼下に錨を下ろしていた。

 甲板にいた時には、大和が大き過ぎて周りの艦に気付かなかった。

 大和の東隣のブイには、共に連合艦隊司令長官直率の第一戦隊を構成する戦艦長門・陸奥の姉妹艦が並んで繋留されている。

 その他にも第一艦隊第二戦隊の伊勢・日向、それに扶桑・山城の(やぐら)のような前檣楼が連なって見える。扶桑型戦艦の高い前檣楼は、まるで失敗したテトリスのように不安定に曲がりくねりマニアの間での評判は悪いが、独特の味があって洋平は好きだった。

 洋平は小学生の頃、小遣いをつぎ込んで、700分の1ウォーターラインシリーズのプラモデルでここにいる戦艦を全て買って組み立てたのだ。それが中学に上がって勉強が忙しくなった頃、押し入れに保管してあった艦隊をゴミと勘違いした母親に残らず捨てられてしまった。

 プラモデルのような現物は親に捨てられるリスクがあるという手痛い教訓を得た洋平は、以後、ゲーム『提督たちの決断』のようなバーチャルの世界に傾倒するようになった。だが今、あの時捨てられた艦隊が、自分の眼前にある。しかも、700分の1プラモデルではなく1分の1の本物だ。正に、夢のような光景だった。


「ふっ、壮観だろ? 金剛型は4隻とも外洋で作戦行動中だが、それ以外の戦艦は全てここ柱島泊地に温存している。きたる艦隊決戦に備えてな」


 洋平が夢中で舷窓に張り付いていると、宇垣参謀長と呼ばれているポニーテールの少女が何故か嬉しそうな顔をして、訊いてもいないのに自慢げに説明してくれた。

 あれ、この人さっき軍機がどうとか言ってなかったっけ?


「……金剛型以外は足が遅いし油を食うし、使い道が無いからここで遊ばせているだけ」


 亀ちゃんと呼ばれている寝癖ショートヘアの少女が、ぼそっと身も蓋もない発言をする。


「てめえ黒島ぁ! 今の発言を撤回しろ! 戦艦の侮辱はあたしが許さねえぞ!」

「事実を述べただけ。速力が25ノットにも満たない鈍足戦艦を、どう使えというのか」


 恐らく、最大速力24・5ノットの扶桑型のことを言っているのだろう。

 ちなみに洋平は、扶桑型でも頑張れば26ノット出せたという話をどこかで読んだことがある。扶桑型に限らずどの艦も、実際に測ってみるとカタログスペックを上回る速度が出ていたという記録や証言は珍しくない。

 ただそのためには機関を過負荷運転させないといけないし、そもそも艦の速度は物資の搭載量や、海水温の高低による水の粘性の変化、さらには艦底のフジツボなどによって1ノット以上変わるという。スペックの速力は、あくまで目安でしかない。


「足が遅くて悪かったなあ、古いんだから仕方ねえだろ! 大体、軍令部の方針通り漸減要撃してれば、25ノット未満でも何の問題も無かったんだよ! それをっ……」


 そこまでまくし立てた参謀長は、はっとしたように五十子を見て、そっぽを向いて黙り込んでしまった。

 五十子は柔らかく微笑むと、場の空気を切り換えるようにぽんぽん、と手を叩く。


「みんな。今は洋平君とお話しないと、だよ」


 展望台に登った子どものようだった洋平も、名残惜しいが窓から離れた。

 作戦室には大きな長方形の机があった。ここに海図を広げて作戦会議をするのだろうが、今は使い込まれた将棋盤が置かれているだけだ。そこに、黄色カチューシャの子がお茶を持ってきてくれる。意外にも紅茶で、英国式の可愛らしいティーセットだった。


「司令部メンバーの紹介がまだだったね。お茶を淹れてくれてるのがヤスちゃんこと、戦務参謀の渡辺(わたなべ)寿子(やすこ)中佐」

「よろしくお願いしますね、未来人さん」


 五十子に紹介されて、黄色カチューシャの子が洋平にぺこりとお辞儀をする。


「しっかり者で、事務や連絡をこなしてくれるから大助かりだよ! 海軍ってこう見えてお役所で、書類の決裁や他所との協議みたいな仕事がすっごく多いんだ。わたしを含めてそういうのみんな苦手だから、ヤスちゃんがいないと連合艦隊は回らないよ」

「もう、おだてたって押してもらう判子は減らないですよお」


 続いて五十子は、寝癖ショートの少女の肩に手を置いた。


「この子は先任参謀の黒島(くろしま)亀子(かめこ)大佐(だいさ)(かめ)ちゃん。亀ちゃんが立ててくれる作戦は、精妙にして巧緻、大胆にして細心。よく思いつくなあって、いつも感心してるんだ。正に連合艦隊の頭脳だよ!」


 紹介されても褒められても、感情の起伏が読めない表情は全く変わらない。頭がわずかに動いたのは、会釈と受け取っていいのだろうか。心なしか、眠たそうに見える。


「それで、こちらが連合艦隊参謀長の宇垣(うがき)(たばね)少将」

「……おう」


 トリを飾るのは不良っぽいポニーテールの参謀長だ。先ほどのことをまだ引きずっているのかわからないが五十子に紹介されても目を合わせようとしない。への字口にくわえた竹串もそのままだ。


「束ちゃんはね、わたしたちと違って軍令部にいた経験のある、ベテランの参謀さんなんだ」

「……」


 五十子の笑顔は変わらないが、紹介の仕方が前の2人の時と比べて若干気を遣っているように思える。ひょっとしてこの2人、あまり上手くいってないのだろうか?


「束ちゃんと一緒にいると、勉強になることばかりだよ! 戦艦のことも詳しいし……あ」


 宇垣束の肩が、ぴくりと震えた。寿子がひそひそ声で「長官、今はまずいですよその話題!」と囁いているのが丸聞こえで、一層気まずい雰囲気になる。


「い、以上、連合艦隊司令部のメンバー紹介終わりっ! 本当はもっと大勢いたんだけど人事異動とか色々あって、今はわたし達4人だけ。暇な時はこの部屋か下の長官公室に集まって、お茶を飲んだりゲームをしたりしてるんだ」


 まるで、学校で入部希望者に部室を案内する部長みたいだった。

 お茶を飲んだりゲームをしたりする部屋の壁に『常在戦場』と揮毫された書の額縁がかかっているのが異様だが、今の洋平にそれを突っ込む勇気は無い。しかし、長官も含めて4人だけとは少ない。洋平の知っている連合艦隊だと、司令部幕僚は10人以上いたはずだ。


「さあ、座って座って」


 五十子に勧められるまま、洋平は『常在戦場』の額縁のある上座に座った。五十子は、洋平の対面にやってくる。この部屋に入るまでは革靴だったのが、今は女の子っぽいふかふかのスリッパをはいている。一方、白い革手袋は室内でも外さないままだった。

 亀子と寿子が迷わず五十子の両隣に腰を下ろし、しばらく経って束が、五十子から離れた机の端に着席した。


「まずは、非礼をお詫びします」


 全員が席について開口一番、山本五十子は洋平に謝った。


「目が覚めたらいきなりこんなところにいて、びっくりしたよね? それなのに、わたし達のせいで怖い思いをさせちゃったみたいで。本当に、ごめんなさい」

「えっ……いや、そんな、僕は別に」


 机に頭がつきそうなくらい深々と頭を下げる連合艦隊司令長官に、洋平の方が恐縮してしまう。確かに目覚めた時の3人組の言動は、ちょっとというかかなり怖かったけど。

 その3人組の一人、寿子がガタンと立ち上がる。


「ちょっとお、どうして山本長官が謝ってるんですかあ! 山本長官は海に飛び込んで未来人さんを助けたんですよお! 未来人さんを竜宮城の海底人とか決めつけて解剖しようとしたのは、黒島先任参謀です。あ、私はちゃんと止めましたからね? 黒島参謀、未来人さんに謝って下さい!」

「しゅぴー……しゅぴー……」

「って、寝ないで下さいよお!」


 寿子に糾弾されている黒島亀子は、座ってからものの数秒で机に突っ伏して、規則正しい寝息を立てていた。やはり先ほどのあれは会釈ではなく、眠くて頭が揺れていただけだったようだ。


「あはは……亀ちゃん、生活が完全に昼夜逆転しちゃってるからね」


 五十子が苦笑いする。隅っこで机に頬杖をついている束が、舌打ちとともに口を開いた。


「……笑いごとじゃねえよ。黒島の生活態度は目に余る。長官から一度厳しく言った方がいいぜ、こいつは長官のいうことしか聞きゃしねえんだから」

「まあまあ、亀ちゃんはそのくらい全身全霊で、作戦に打ち込んでくれてるんだよ」

「むにゃ……陽動……飛行場の攻略と、敵空母誘出……しゅぴー」


 亀子が怪しい寝言を呟いている。まさか、夢の中で作戦を練っているのだろうか。


「たく……長官は甘過ぎなんだよ」


 参謀長は低い声でそう呟くと、再び明後日の方角を向いてしまった。

 困ったように笑う五十子に、洋平は思い切って話しかけた。


「あの……山本長官」


 赤いリボンがびくんとはねる。


「あっ、ごめん洋平君! あのね、亀ちゃんが洋平君を海底人だなんて言ったのは、どんな奇想天外なアイデアでも馬鹿にしないで真剣に研究しなさいって、わたしがいつも亀ちゃんに命令してるからなんだ。だからわたしのせいなんだよ。どうか、亀ちゃんのことを許してあげてくれないかな」


 そう言ってもう一度頭を下げようとする五十子を、洋平は止める。


「山本長官、僕はもう気にしてないです。海で溺れているのを助けて下さったそうですし、こちらこそお礼が言えなくてすみませんでした。ありがとうございます」


 甲板ではタメ口で喋ってしまったが、連合艦隊の威容を目の当たりにしてしまった後だと敬意を払わずにいられない。

 けれど、五十子は洋平の言葉に顔を綻ばせながらも首を横に振ってみせた。


「洋平君、遠慮しないで普通に喋って。後、わたしのことは五十子(いそこ)でいいよ」

「え、でも……」

「じゃないと、紛らわしいんじゃないのかな? 洋平君の知っている、別の世界の『山本長官』と」


 間を置かず告げられた五十子の二の句に、洋平は、言葉を失った。

 甲板からここまで来る途中、洋平は五十子達の質問に答える形で、自分のことを簡単に説明していた。

 といってもあまり多くを話す時間は無かった。

 洋平が21世紀から来たということ。ただし洋平の知る歴史では『山本連合艦隊司令長官』は五十子ではなく、五十六(いそろく)という年配の男性だったこと。そもそも洋平の世界の海軍は古今東西、男ばかりの組織であること。

 まだそのくらいしか話せていないが、洋平の話に五十子も他の3人も真剣に耳を傾けてくれたのが意外だった。


「ふふ、どうしてそんな簡単に信じるのかって顔をしてるね、洋平君」


 五十子の目には、逆立ちで大和一周に成功した直後の、あのいたずらっぽい輝きが戻っている。


「空想科学小説では、時間旅行や並行世界の移動をした主人公が言うことを、最初誰も信じないのがセオリーですからねえ。あ、お茶冷めちゃう前にどうぞ」


 寿子に勧められて、洋平は出された紅茶に口をつけた。ストレートで飲んだのは、特にこだわりがあったわけではない。だがカップを傾けた瞬間、薔薇の花のような甘い香りが洋平の鼻をくすぐり、飲むと爽快な渋味がまるで草原の風のように口の中を吹き抜けていった。


「……美味しい」


 感想が口をついて出た。紅茶というものがこんなに美味しいものだとは知らなかった。ファミレスに行くとドリンクバーにティーバッグが置いてあるが、お湯に色と人工的な匂いがつく印象しかない。まさか、70年前の世界で紅茶の美味しさを知ることになるとは。


「おっ、同志発見!」


 洋平の反応を見守っていた寿子が、ずいっと身を乗り出してくる。


「これはですねえ、セイロンのウバ茶ですよ。特に味と香りが良い7月から9月に摘まれた葉を、最適温度の98度で開かせてるんです。水も、紅茶に適した硬水を取り寄せてるんですよお」

「……あの、今って戦時中だよね?」

「連合艦隊司令部には紅茶の良さをわかってくれる人が誰もいなくて、寂しかったんです。ウェルカム未来人さん!」


 連合艦隊司令部って、さっきの説明だとここにいる4人のことじゃないか。

 見回してみると……。


「しゅぴー……真珠湾を……むにゃ、二式大艇で偵察……しゅぴー……」


 亀子は、夢の中で忙しそうだ。あ、口からよだれ垂れてる。


「また紅茶かよ。色が赤くて共産主義っぽいんだよな……あー、ほうじ茶が飲みてえ」

 

束が行儀悪く音を立てて啜りながら、ぶつぶつ文句を言っている。滅茶苦茶な言いがかりだ。赤が駄目なら、五十子の頭のリボンはどうするんだろう。


「ヤスちゃん、これ、お砂糖入れていい?」


 その赤リボンの持ち主は、疑問形なのに返答を待つことなくティーカップに角砂糖を落とし始めた。落とし方がまるで駆逐艦の爆雷投下だ。角砂糖が10を超えた辺りで洋平は数えるのを止めた。


「うーん、甘いっ! ヤスちゃんの淹れるお茶、いつも美味しいね!」


 残念ながら、その液体はもはやお茶ではない気がする。

 砂糖の飽和水溶液を旨そうに飲みながら、五十子は改めて思案顔をした。


「さて、一息ついたところで。洋平君にどうやって話したものかな?」


 洋平は姿勢を正す。いよいよ、この世界のことが聞けるのか。


「……私が説明する」


 眠っていた亀子が、唐突にむくりと起き上がった。頭の寝癖がさらにひどくなった先任参謀は、洋平にずびしっと指を付き付ける。


「源葉洋平。あなたは人間ではない」

「人間否定宣言された!」


 ひょっとして、また海底人扱いされるのだろうか。そして解剖されてしまうのか。

 しかし、亀子は続けてこう言った。


「もし人間であるなら、あなたはこの世界又はこの時代の人間ではない」

「……え?」

「男であるあなたが海の中で生存できた時点で、この点に争いの余地は無い。故に私は海底人、宇垣参謀長は宇宙人、渡辺参謀は未来人と予想した。正直、私の立てた仮説が真相から一番遠いというのは納得がいかない。未来や別の惑星からの来訪者より、深海からの来訪者の方がはるかに現実的。できれば、あなたを解剖して検証したい」

「ひいっ!」


 無表情な顔で迫られて、洋平が本気で命の危険を感じ始めたところで五十子の手が伸びた。


「亀ちゃん、口によだれついてるよ~」


 亀子の口元を、優しくハンカチで拭いてあげている。亀子は少し頬を赤らめながら、


「……しかし、あなたの説明は辻褄が合っている」


 助かった。どうやら、解剖は諦めてくれたみたいだ。


「でも、ちょっと待って。僕がこの世界やこの時代の人間じゃないのは、争う余地が無いって……どうしてそう言い切れるの?」

「もしある日、太陽が西から昇ったら、その現象の異常性を誰も争わない」


 急に関係なさそうな例え話をされて、洋平は戸惑う。そういえば、確かそんな歌が昔あったな。


「あなたは、西から昇った太陽。海に愛された男」


 亀子の言葉を聞いて、洋平は先ほど甲板で五十子から言われたことを思い出した。

――君は、海に愛されているんだね。


「……まさかこの世界って、男が海を泳げないの? だから海軍に、女性しかいないの?」


 恐る恐る、洋平は訊ねた。机の端で頬杖をついた束が、ふんと鼻を鳴らした。


「この国の創世神話ではな、混沌とした原初の世界で陸の男神と海の女神とが結婚してばらばらだった陸と海を繋げたんだが、出産のために海中にある綿津見大神の国へ里帰りした女神を心配になった男神が覗きに行って、サメの姿をした正体を見られた女神は怒って陸の男が海に入れないようにした、ってなってんだ。そういや、覗きならてめえもやったよなあ?」


 意地悪そうな目で睨まれる。


「いや、あれは不可抗力で!」


 ここで、その話を蒸し返すのか。申し訳ないことに、覗かれた被害者が助け舟を出してくれた。


「まあまあ、さっきのはわたしが悪かったんだよ。あ、そういえば伴天連(ばてれん)(きょう)でも、旧約聖書の創世記は人間の海からの追放だね。禁断の『知恵の貝』を食べちゃったから。アダムが先に貝を食べてイヴに勧めたから、男の人の方がより重い罪になったんだって。貝といえば、瀬戸内海は牡蠣が美味しいよね! わたしは内陸の出だから、瀬戸内育ちのみんなが羨ましいよ~」

「ちなみに、山本長官は牡蠣にも砂糖をかけるんですよお」

「ちょっとヤスちゃん、わたしが変わってるって言いたいの? お砂糖は命の源なんだよ! 洋平君も、牡蠣にお砂糖かけるの普通だと思うよね?」


 話が脱線しそうになるのを、亀子が小さく咳をして止めてくれた。洋平としても、今回ばかりは五十子に同調したくなかったのでありがたい。


「……科学が未発達だった時代は、ヒトが海から拒絶されるのは神の怒りだと考えられてきた。今日では原因がはっきりしている。ラ・メール症状」

「ラ・メール症状?」

「ヒトが海に近付く、潮風を吸い込む、海水に触れるなどした場合に起きる症状。具体的には、三半規管が正常に働かなくなって平衡感覚が失われ、目眩、耳鳴り、頭痛、吐き気などに襲われて、身体をコントロールできなくなる」


 亀子の説明してくれた症状は、洋平の世界における船酔いに似ていた。ただし、内容ははるかに深刻だった。


「男性の場合、5分で内耳内リンパが破裂。無理に泳ごうとした者は溺死し、海辺や船上にいる場合でも心室細動、激しい嘔吐による脱水症状や呼吸困難などで死に至る。医学の進歩により薬の服用で症状をある程度抑えられるようになり、造船技術も発達して嵐でも船が容易には沈まなくなった19世紀まで、男は海を忌避し陸に閉じ籠ってきた」


 それは、当然閉じ籠るだろう。現代には部屋から出ても死ぬわけじゃないのに、部屋に閉じ籠ってる男だっているんだぞ。


「一方の女性は三半規管が比較的強く、症状に苦しめられても死ぬことは少ない。必然的に、海上で役務に従事できるのは女に限られた。特に未成年の少女に限っては、海に接しても三半規管に全く影響を受けない者が一定の割合で存在する」

「あっ、それで艦に乗ってるのが10代の子ばかりなのか」


 言ってから失礼だったかと思ったが、亀子は特に気を悪くした様子もなく頷く。


「そう。海戦では、瞬時の判断と行動が生死を分ける。ラ・メール症状を抑える薬は、副作用として眠気を伴う。従って海軍の第一線に立てるのは、海の上でも思考・行動に制約の無い10代の少女だけ。それが私達、海軍(かいぐん)乙女(おとめ)


 亀子は、淡々とした説明をそう締めくくった。

 同時に五十子、束、寿子――純白の第二種軍装を纏った少女達が、揃って頷く。

 海軍乙女。人生で初めて耳にするその単語は、とても鮮烈な響きで、洋平は思わず身を引き締めた。


「ま、要するにこの星じゃ有史以来、海は女のテリトリーってことだ。てめえも地球に来たからには、地球の常識を覚えるんだぞ。わかったな宇宙人!」


 束が、相変わらずの不良口調で混ぜっ返す。寿子が唇を尖らせる。


「だから宇宙人じゃなくて、もう未来人さんで決まりですよお。あーあ、私も山本長官がいつもやってるみたいに、何か賭けておけばよかったなあ」


 残念ながら、正確には未来人よりも「異世界未来人」や「並行世界未来人」の方が近い気がする。

 洋平にとって、この世界は馴染み深い『提督たちの決断』の題材となった歴史上の世界とよく似ているが、暦の名前は違うし、何より男が海を泳げず、代わりに海軍乙女なるものが存在している。そして、山本五十子。洋平が知る歴史上の人物を、置き換えたかのような少女。

 ふと、洋平の背筋を悪寒が走った。もし……もしこの世界が、洋平の知っている歴史のように進むとしたら?


「とにかく、いつまでも呼び方がばらばらだと変ですから統一しましょう!」


 寿子のあげた大きな声で、洋平は我にかえる。

 洋平をどう呼ぶかでまだ揉めているようだ。


「よし、エイリアン対プレデターで決めようぜ」

「なんでその二択なんですかあ? それ多分どっちも宇宙人ですよねえ!」

「……半魚人」

「黒島参謀はいい加減そっちの発想から離れて下さいよお」

「ちっ、仕方ねえなあ。じゃあ間をとってグレイってことで」

「参謀長はどう間をとったんですかあ?」

「……海坊主」

「どんどん未来人さんから遠ざかっていきますよお!」

「あの~、みんな、普通に洋平君って呼べばいいんじゃないかな?」

「あ、それは長官の特権ってことで」


 その後しばらく、作戦室では参謀達の喧々諤々の論争が続いたのだった。実態は単なる馬鹿騒ぎである。仮にも戦争をしている最中なのに、連合艦隊司令部がこんな緩々で大丈夫なのだろうか。半ば呆れて眺めていた洋平は、ふと司令長官の様子が気になった。


「……ネッシー」

「あはは、亀ちゃん、ネッシーはもうヒト型ですらないよ! ネッシーって……ぷふっ!」


 ……馬鹿騒ぎに参加していた。楽しそうに手を叩いて笑って、笑い過ぎて目尻に涙が溜まっている。

 五十子と目が合った。これで良いんだよ、というように五十子が頷く。洋平はいつの間にか、目覚めたばかりの時の緊張や怖れが、どこかへ消えている自分に気付いた。


「よおし、明日はみんなで洋平君に大和の艦内を案内してあげようよ!」

「さすが長官、ナイスアイデアですねえ!」

「いいや駄目だろ常識的に考えて。いいか、大和は存在自体が軍機であって」

「ネッシーを住まわせるなら、厠の問題が未解決。艦内には人間用の厠しかない」

「こら、いけないよ亀ちゃん、海軍乙女が厠なんて言ったら! お化粧室と言うように! これは長官命令だよ。えっとね洋平君、お化粧室は甲板ごとに前部、中部、後部にあるから行きたくなったらわたし達に声をかけてね!」

「いや、僕としてはトイレの呼称よりネッシーの方を何とかして欲しいんだけど……」


 変な渾名を定着させてたまるかと思いそう言ってから、洋平は自分に驚いた。

 突っ込みを入れている、自然に会話の輪に入っている。

 異常な目に遭って、記憶の一部は欠けたまま、元の世界に戻る方法も、そもそも戻れるのかもわからない状態で、何より苦手なはずの女子達を相手に。不思議な気持ちだった。


 こうして、この過去とも異世界ともわからぬ現実を、ひとまず洋平は受け入れたのだ。

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