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プロローグ 赤レンガ

成実「Caution‼ このページは五十子視点のearly daysよ。男性主人公? 私がさっき沈めておいたわ。それとこのページは1個短編に相当する文字数があるの。1ページで長い文章を読むのが苦手という人は、私と五十子の間を邪魔せず静かにbrowser backを……」

五十子「わーっ! ダメだよ成実ちゃん、読者さんにひどいこと言っちゃ! ええっと、ごめんなさい。このページは前日談なので、飛ばして1話から読んでも楽しめるようになってます。登場人物やストーリーの理解にも支障ありません。成実ちゃんが言った通り少し長いのと、女の子しか出てこないけど、それでも構わないという人はどうか続きを読んでね♪」



 やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ

 話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず

 やっている 姿を感謝で見守って 信頼せねば 人は実らず





 8月。

 帝都の夏は、朝から強い日射しが容赦なく照り付ける。

 この時期は深緑の公園を歩いて森林浴をしながら通勤するのが、山本(やまもと)五十子(いそこ)のささやかな防暑法だった。


「しばしも止まずに槌打つ響き♪ 飛び散る火の花はぁしる湯玉♪」


 濃い木々の切れ目から射し込む僅かな光が作ったまだら模様を避けながら、好きな歌を口ずさんで歩けば暑さも一時遠ざかる。

 園内の噴水から上がる水飛沫が、目に涼しかった。


「ふいごの風さえ息をもつがず♪ 仕事に精だす村のかじ屋♪」


 不意にお腹がぐううと乙女らしからぬ音を立て、五十子の行き足が止まる。


「直ちに糖分補給の要ありと認む……うう、やっぱ朝を抜いたのは失敗だったかぁ」


 幸い、公園の中には遊歩道に沿って小洒落た商店が点在し、丁度うまい具合に五十子の目の前には甘味処があった。

 入ろうとして、五十子はハタと立ち止まった。


「あっ、そうだ。成実ちゃんから外では変装しろって言われたんだっけ」


 ここまで忘れてきて凄い今更感があるし、靴の爪先から頭の帽子まで真っ白な海軍の服はごまかしようがないけれど、顔さえ隠せば少なくとも誰かはわからなくなるはず。

 そう結論付けた五十子はサングラスとマスクを取り出して顔に装着し、まだ誰からも見られていないのにゴホゴホと咳を数回してから、店のドアを押した。ちりんちりんと、軽やかな鈴の音が鳴る。


「いらっしゃいませー」


 店内では中年の女性店主が、団子や大福餅を奥から出して並べているところだった。


「ゴホゴホ……おかみさん、お団子一串」

「まあ、夏風邪ですか? お大事にして下さいね。あん団子でよろしいですか?」

「あ、はい……ええと、5銭で足りるかな」

「いえいえ、そんな。お代は結構ですよ、山本次官」

「ええっ? わたしだってばれてるっ?」


 おかみさんはそれでようやく五十子の振る舞いに合点がいったのか、くすくすと笑って、頭に指を当てる仕草をする。

 何のことかと自分も真似してみた五十子は、帽子からはみ出した赤いリボンの髪飾りに気が付いた。


「あちゃー」


 よりによって、トレードマークを隠せていなかった。大失態である。


「もう、水臭いですよ。この公園の商店は、みんな山本五十子海軍次官のファンなんですからね」

「うう……かたじけないです」


 観念してサングラスとマスクをしまい、素顔でお礼を言う。

 人の良さそうなおかみさんは、あん団子の包みを手渡す時、五十子に何かを言いかけて、しかし思い直したように首を振った。


「?」

「いえいえ、何でも。……色々と辛いと思うけど、どうかお勤め頑張って。応援しています」


 どういうわけか、励ましてもらった。辛いって、この帝都の暑さのことだろうか。

 きょとんとしていた五十子は、おかみさんの後ろの壁の時計を見てぎくっとした。


「あっ、いけない遅刻! おかみさん、ありがとう!」


 おかみさんの「行ってらっしゃい」を背後に聞きながら、五十子は店を飛び出す。

 木々の梢の向こう、赤レンガの海軍省が徐々に見えてくる。

 走りながら貰った包みを開くと、あんのたっぷり乗った団子が三串も入っていた。

 今度はちゃんとお金を払って、仕事帰りに仲間を連れてあんみつでも食べに寄ろう。そう決意しながら、一串を口にくわえる。


「ひゃまい(甘い)っ!」


 食べるのに夢中だった五十子は、横の道から歩いてきた別の海軍乙女と危うくぶつかりかけた。


「ひゃわわっ!」

「おい危ねえぞ……って、五十子先輩じゃねえか」

「ふぁばねちゃん! おばよふ!」

「お、おう。食うか喋るかどっちかにした方がいいぜ」

「んっ、ごくん……(たばね)ちゃん! おはよう!」

「おはよう。今朝も重役出勤だな、まあ実際重役か」


 そう呟いて肩をすくめるのは、宇垣(うがき)(たばね)

 墨を流したような黒髪を名前の通り背中で一本に束ね、切れ長の鋭い目をした少女だ。

 着ているのは五十子と同じ純白の第二種軍装、肩章は太い金線に桜一つで、桜の数は五十子より一つ少ない。けれど肩から胸に吊ったきらびやかに輝く金色の参謀飾緒は、彼女が海軍乙女のトップエリート集団、軍令部の参謀である証だった。


「えへへ、夕べ官舎で成実ちゃんと将棋さしてたら、寝るの遅くなっちゃって」

「海軍次官ともあろう者が、夜更かしの上に寝坊とはだらしねえな」

「うー、そう言う束ちゃんだって遅刻ぎりぎりじゃん!」

「ちげえよ。あたしはな、呉に視察に行った帰りで、夜行列車でさっき帝都に戻ってきたんだよ」


 束はいつもぶっきらぼうで先輩に対しても遠慮が無いが、五十子は全く気にしない。横に並んで、無愛想な束の顔を覗き込む。


「え、じゃあ束ちゃん、駅に着いてそのまま直行してきたってこと? それに昨日は日曜日じゃない。ダメだよ休まなきゃ、身体に良くないよ!」


 いつもに増して束の目つきが悪く見えるのは、そのせいだったのか。


「休めねえよ。みんな国のために、月月火水木金金で必死に働いてるんだぞ。……大体、こんなんであたしが休んだりしてたら、『これだから家のコネで海軍乙女になれた奴は』って思われるに決まってんだろ。甘っちょろいんだよ、五十子先輩は」


 言った直後に束ははっとした顔になって、下を向いてしまう。その束の前に、五十子はあん団子をずいっと差し出した。


「……?」

「わたし知ってるよ、束ちゃんがいつも頑張ってること。これ、ご褒美! 糖分を補給すると元気出るよ!」

「……たく、このご時世で朝から団子とは贅沢だな」


 束は呆れたような顔をしていたが、結局団子を受け取って口をつけた。五十子はにっこり笑って、自分も二串目にかぶりつく。


「ふぁばねちゃん、おいひい?」

「だから、食うか喋るかどっちかにしろって」

「美味しい?」

「うーん……甘いな」

「えへへ、そっかー、良かった! そういえば呉の視察って、建造中の一号艦?」


 五十子が話題を変えると、黙々と団子を咀嚼していた束はむせかけて、慌てて周囲を見回す。


「こ、声がでかい。軍機中の軍機なんだぞ」

「心配し過ぎだよぉ。上奏される艦名候補、何と何になるんだろうね。楽しみだね」

「楽しみって……まあそうだな、噂じゃ一号艦には『飛騨』が挙がってるらしいが、ちょっとな。完成すれば世界最強の戦艦になるんだ、扶桑の時みたくこの国を象徴するような艦名がいいよな」


 五十子の能天気な物言いに最初こそ眉をひそめていた束だが、こと戦艦談義になると彼女は次第に饒舌になる。


「そういや五十子先輩の故郷の旧国名ってなんだっけ?」

「わたしの故郷? 越後だよ」

「越後か。気の毒だが越後は却下だな、強そうっていうより悪そうな印象だ」

「あっ、ひどーい! それ完全に『ふっふっふ、越後屋お主も悪よのぉ』だけで決めつけてるよね!」


 頬を膨らませつつ五十子はふと、帝都から遠く北に離れた、もう長い間帰っていない郷里のことを思い出した。

 今は夏なのに、頭に浮かんでくるのは不思議と冬の景色ばかりだ。

 自分の背丈より高く雪が積もっていく中で、家族や村の人達を手伝って屋根の雪を下ろし、手をあかぎれだらけにして、そりに積んで雪捨て場に運んだ日々。

 辛いことばかりではなかった。除雪は重労働だったけど、終わった後に大人がくれる干し芋や干し柿は、幼い日の自分には世界中のどんなお菓子より甘かった。兄姉と一緒の炬燵に入って、冬の終わりを待った。春の訪れを、無邪気に信じていた。


「五十子先輩?」


 束が訝しげに名を呼び、五十子の意識は現実へ引き戻された。

 やかましいほどの蝉の声。帝都の夏のむわっとした空気。白い革手袋に覆われた、自分の手。


「あはは、ごめん。えーっと、新型戦艦の艦名は水饅頭が良いなって?」

「言ってねえよ! それに艦名の話は終わったよ! 限られた国力で抑止力を維持するには、強い戦艦がもっと必要だって話だ。一号艦二号艦だけじゃ足りねえ。長かった軍縮条約で既存の戦艦は老朽化してる。④計画で決まった3隻目と4隻目の建造も、滞りなく進めてえところだが……」


 戦艦談義は、いつの間にか真面目な軍備計画の議論に色彩を変えていた。五十子は首をひねる。


「そんなに戦艦に予算を割いて大丈夫なのかな? 夕べも成実ちゃんが言ってたよ。これからの海戦は、艦隊主力同士がお互いを視界に入れずに専ら航空兵力で行われるから、戦艦は砲撃戦になる前に沈められてしまうって」

「はん、まーた井上大先生の航空主兵論か。まさか五十子先輩まで、あいつの極論を鵜呑みにしちまってるんじゃねえだろうな?」


 五十子が言った内容より、どちらかというと五十子が出した名前の方に束は反発した。


「井上に四の五の言われるまでもなく、うちら軍令部だって航空戦力の有用性は理解してんだ。だから③計画では一号艦二号艦の建造で予算が苦しい中で、正規空母2隻の建造も認めてやったじゃねえか。大先生は何が不満なんだ?」

「えへへ、違うんだな。そもそも戦艦は要らない、お金の無駄遣いだ! って。どうする束ちゃん?」

「たく、あいつは……。その戦艦無用論が極論だっていうんだよ! 確かに航空機は革新的な兵器だぜ? だが、作戦用兵で一番大事なのは革新性よりも信頼性だ。航空戦力は信頼性において戦艦に劣る。だから補助戦力として敵の漸減に用い、要撃の主力はあくまで戦艦。これは何もうちだけじゃねえ、世界中の海軍乙女の常識だ」


 律儀に挑発に乗ってきた束の表情は、出会い頭とは見違えるほど生き生きしている。五十子は隠れてぺろりと舌を出した。


「いいか五十子先輩。井上の垂れる航空主兵論とやらは穴だらけだ。第一に、航空機は天候に大きく左右される。確かに航空機は戦艦の射程よりはるかかなたを攻撃できるが、日中のそれも雨の降らない時間限定じゃねえか。洋上の天候は不確かなんだから、航空機を決戦の主力に使うのはいわば博打だ。空母なんて、夜戦を仕掛けられたら一巻の終わりだぞ。だが戦艦のプレゼンスは、昼夜や天候の変化に左右されない。だろ?」

「そっか、束ちゃんはギャンブルとか嫌いだもんねー」

「第二に戦艦ってのは、自艦と同等の戦艦の主砲弾に耐えられるように造られるもんだ。艦爆の急降下爆撃じゃ沈まねえ。沈むとすれば高高度からの水平爆撃か艦攻の雷撃だが、高速と大角度転舵で回避運動する艦を相手に、水平爆撃はまず命中しないだろ。魚雷についても呉の技術者に訊いたが、一号艦の予備浮力を喪失させるにはざっと48本の魚雷命中が必要になる計算だ。一号艦一隻を撃沈するのに、航空機だと何百機必要になるかわからねえぞ。『不沈艦』は伊達じゃねえのさ」

「ふうん。じゃあ仮にだけど、戦艦が無警戒で停泊しているところを空襲されたとしたら?」

「そりゃあ……停泊してるところを狙われたら、ひょっとすると沈むかもしれねえなあ。でもそれは、どんな剣豪でも眠ってるところをブスリとやられたらお陀仏なのと一緒さ。今は実戦の話をしてるんだから、その仮定にあまり意味があるとは思えねえな」


 五十子の語調はその一時だけ変化したが、束が気付いた様子は無かった。


「第三に、航空機のペイロードじゃ戦艦の火力投射能力を凌駕するのは無理だ。例えば一号艦が搭載可能な主砲弾の総量は、96式陸攻の爆弾およそ1500機分に匹敵する。『大艦巨砲主義』なんて誤解を招く言い方をする奴がいるが、戦艦を好き好んでデカくしてると思ったら大間違いだ。戦局を左右する決戦兵器には、それだけの規模の仕掛けが必要ってだけだよ」


 さすがは、新規戦艦建造を推し進める軍令部の才媛だ。もっとも彼女の理論武装にもいくつか穴はあるが、五十子は敢えてここでは指摘しない。


「やっぱり束ちゃんは勉強家だね! ねえ、せっかくだから今度、成実ちゃんと兵棋演習やって欲しいな! いつもみたいな喧嘩じゃなくて」

「おう良いぜやってやろうじゃねえか……って、え?」

「あれれ、やりたくない? まあ、成実ちゃんは手強いもんね~」

「やっ、やりたくないなんて言ってねえよ! 仕方ねえなあ、弱い者いじめは性に合わねえが、五十子先輩がどうしてもやれって言うなら」

「よし決まり! わたしギャラリー集めとくから!」

「お、おう。戦艦無用とか寝言ほざいてる評論家気取りを、今度こそマジ泣きさせてやる……」


 二人の目的地である海軍省の赤レンガの建物、その正門前に近付いてきたところで、束は唐突に足を止めた。


「おい……ありゃあなんだ」


 束が指差した先に、五十子も異変を認める。

 海軍省の裏、数年前に竣工したばかりの新国会議事堂がある方角から、カーキ色の戦闘服姿の男達が三列縦隊を組んで通りをこちらに向けて行進してくる。耳を澄ますと公園の蝉の合唱に混じって、沢山の軍靴が歩調を揃えて街路を叩く音が聞こえるようになってきた。


「あれ、陸軍の人達? こんな街中で何を……」


 五十子は、途中で言葉を飲み込んだ。

 一個中隊規模の男達が、海軍省の正門前を覆い尽くすのはあっという間だった。

 海軍省の前庭には、五十子や束と同じ白い服を着た海軍乙女達が何事かと出てきている。


「構え筒!」


 指揮官と思しき男が号令をかけた。同時に、海軍省側から悲鳴が上がる。男達が一斉に、肩にかついでいた小銃を、躊躇いなく少女達と、その背後に建つ海軍省に向けたのだ。


「あ……あいつら!」


 五十子の後ろで、束が瞬時に激昂するのがわかる。


「友軍に銃を向けるとはどういう了見だ!」


 飛び出そうとした束の肩を、五十子が掴んだ。束が反射的に振りほどこうとするが、白い革手袋をした五十子の手は束をがっしりと押さえていて、びくともしない。


「放せよ!」

「裏門に回ろう、束ちゃん」


 五十子は、静かにそう告げた。


「でも、このままじゃみんなが!」

「大丈夫、成実ちゃんがいる。あの子はこんな時、頼りになるよ」

「畜生……」


 束が歯ぎしりする。彼女の怒りが、腕を軋ませ五十子にも伝わってくる。

 正門前ではカーキ色の陸軍が、少女達に銃を突き付けたまま。


「なんでだよ。なんであたし達が、こんなことされなきゃならねえんだよ……!」


 低く押し殺した束の声に滲む、悔しさと、そして戸惑い。

 それら全てを、五十子は無言で受け止めていた。




 時に(こう)(ぶん)14年。

 近代国家の樹立からわずか半世紀で、経済大国と称されるまでの急成長を遂げた帝政ていせい葦原(あしはらの)中津(なかつ)(くに)であったが、突如世界を襲った大恐慌によって深刻な危機に直面していた。

 世界の大半を植民地支配していた欧美(おうび)列強(れっきょう)は、大恐慌から自国の産業を保護するため排他的ブロック経済へと移行。葦原製品は列強が設けた高い関税障壁に排除され、海外への輸出に依存していた葦原の経済は行き詰る。都市部の購買力の低下は地方の農村部を困窮させ、不況の暗い影が国中を覆うのにさして時間はかからなかった。時の政党内閣は、具体的な打開策を提示できないまま首相が短期間で交代を繰り返して迷走。葦原の国際的な発言力は弱まり、国民は政治に失望した。

 閉塞感が漂う中で焦燥を強めたのが、貧しい農村部出身の兵士を部内に数多く抱える陸軍だった。折しも北方では共産主義が台頭し、革命の脅威さえ現実味を帯びる中で、陸軍は欧美列強に関税障壁の撤廃を迫るため、欧州の新興国トメニア、ナパロニと葦原による三国同盟の締結に生存の道を見出そうとする。だがそれは、葦原と太平洋を挟んで向かい合う列強の盟主ヴィンランド合衆国を大いに挑発する行為でもあった。

 大国ヴィンランドと必要とあらば一戦も辞さない覚悟で三国同盟を締結すべきとの声が、葦原国内で日増しに勢いを強めていた。




「Waste of time, 何度来られても同じです。海軍の方針は変わりません。こんな脅しをしても無意味ですよ、辻参謀」


 裏門から入った五十子が束を無理に軍令部に上げてから前庭に出た時には、正門を挟んで一人の少女が他の海軍乙女達を背中に庇い、角張った顔の陸軍士官と対峙していた。


「これはこれは山本次官の片腕、井上軍務局長。脅しとは心外だな。見ての通り、これは公道上での演習である。海軍の敷地に入ったわけでもないのに、文句を言われる筋合いは無い」


 薄笑いを浮かべる陸軍士官の背後では、屈強そうな兵士達が銃を構えて無言の威圧を加えている。

 しかし少女はいささかも怯む様子なく、冷然として立っていた。

 夏の暑さの中で彼女のいる場所だけ、気温が何度か下がっているようにさえ感じられた。


「演習ですか。早朝の官庁街で、一体何の演習です」

「無論、帝都中枢部防衛のための演習である。近頃の帝都は色々と物騒だからな。海軍のお嬢さん方も、自分達の身を案じた方がいいのではないか?」

「Not your business, 余計なお世話です。そもそも物騒なのは誰のせいでしょうね?」

「……現下の政情不安は、全て海軍の責任だっ!」

 

 銃口が自分に向いていることなど歯牙にもかけていないかのような彼女の態度に、余裕の薄笑いが剥がれ落ちた陸軍士官が気色ばむ。


「我々陸軍は世論を代弁しているに過ぎない! 三国同盟を論じて五相会議が開かれること既に72回、閣内不一致で何も決められない政治に対して、国民の不満は頂点に達している! このままでは陸軍部内も統制がとれない、3年前のような惨劇が起きても構わないのかっ!」

「友軍相撃ですか。Do it if you dare. たとえ一戦交えても、私達は陸軍に屈しませんよ」


 言葉の中に時折流暢なブリトン語が混じる変わった喋り方が、彼女の癖だった。これを冷えきった声で淡々と続けるものだから、自然、相手の感情は逆撫でされる。


「そんなにヴィンランドが怖いのか! 腰抜け海軍が戦わないというなら、陸軍だけでも戦う覚悟である!」


 勢いに任せて啖呵を切った陸軍士官に、少女はそっけなく肩をすくめる。


「海に出られない男だけで、ヴィンランドとどうやって戦争をするつもりです? 太平洋は歩いて渡れませんよ」

「……っ!」


 その一言で、男はうっかり熱い物を飲み込んでしまったかのように顔を歪めた。刈り上げた頭を脂汗が伝う。


「話がそれだけならGo home, どうかお引き取り下さい。近所迷惑ですので」


 氷のような声音で言い放つ少女に、陸軍士官はわなわなと震える指をつきつけた。


「貴様っ……何が、何が海軍乙女だっ! 生まれつき海に出られるというだけで、小娘どもが調子に乗りおって……! 葦原男子の精神力は無限である! いつの日か必ずや、貴様らに頼らずとも男だけで海へ出てみせるからなっ!」


 肩を怒らせて少女から背を向けると、ブーツの踵を踏み鳴らし、太陽にじりじりと灼かれながら直立不動で待機する部下達に怒鳴る。


「右向けぇ右! 中隊前へ進めっ!」


 号令を受けて、兵士達は小銃を肩にかつぎ直し、三列縦隊で元きた道を引き返し始めた。陸軍士官は最後に少女を思いきり睨みつけてから去っていった。


「……男だけで海へ出てみせる、ですって? 全く、男の自尊心には際限が無いわね」


 少女がそう呟いたのと同時に、固唾を飲んで成り行きを見守っていた海軍乙女達から口々に安堵の声が上がる。


「Don't relax, 気を緩めないで! 次は本気で攻めてくるかもしれないわ。省内の全職員は小銃と実包を携帯、陸軍の襲撃に備えよ!」


 少女が凛とした声を響かせ、皆も再び表情を引き締めて方々へ駆けていく。

 その少女の後ろから、五十子はそおっと近付いていって耳元に口を寄せた。


(なる)()ちゃん、おはよ!」

「きゃあ! ……い、五十子? 無事だったのね。もう、遅いから心配したわよ」


 悲鳴を上げつつ振り返ったのは、眼鏡をかけて髪をおさげにした、線の細い少女だった。今の今まで武装した大の男達を相手に一歩も退かずに渡り合っていたとは、外見からは想像もできない。

 彼女は井上(いのうえ)(なる)()。海軍省の軍政全般を司る軍務局長であり、階級は海軍少将である。


「成実ちゃんったら、わたしを起こさないで先に行っちゃうんだもん。ひどいよお」

「Sorry……五十子の寝顔を見てたら、起こすのが勿体無くて」

「ちょっと成実ちゃん、それどういうことなの!」


 目を白黒させる五十子に成実は向き直り、ぴしりと敬礼した。


「横須賀鎮守府に待機中の特別陸戦隊二個大隊は、軽巡那珂、木曾でいつでも芝浦埠頭に輸送可能です。紀州和歌浦の長門はじめ連合艦隊主力艦艇にも、帝都への回航を指示しました。省内には既に消火用のホースを巡らし、重要書類は地下へ。籠城に備えた武器弾薬食糧の備蓄に加え、電気を止められた場合に備え自家発電機も用意してあります。残っているのは水道を止められた場合に備えた井戸掘りですが、これも今日中に完了させます」

「よろしい、軍務局長。引き続き警戒の指揮を任せます」


 寝顔を見られた件はひとまず保留にして、五十子もきちんと答礼を返す。


「にしても成実ちゃん手回しが良過ぎない? まるでこういうことが起こるってわかってたみたい」

「ええ……聖上が三浦でご静養中の留守をついて、陸軍が内閣と海軍を倒し戒厳令を敷くという噂が流れているの。確かに陸軍は統制がきかなくなっているし、3年前のようなクーデター騒ぎがいつ起きてもおかしくない情勢よ」


 カーキ色の兵士達が去って平穏を取り戻した門の外に、成実は険しい視線を送った。


「一触即発か……そういえば、さっきの陸軍の人って辻ーんだよね。北方で反共作戦の指揮を執ってるって聞いてたんだけどな。三宅坂上に戻ってたんだね」

「つじーん? ああ、辻参謀ね。Maybe, 向こうが劣勢になってきたから責任を逃れるために戻ったんでしょう。野心に能力が伴わない危険な男よ。この先も何をするかわかったものじゃないわ」

「うーん、成実ちゃんの言うほど残念な人じゃないと思うんだけどな」


 五十子も、成実の横に立って陽炎の立ち上る街路を眺めた。


「辻ーんの起案した陸軍の作戦、読んでみたんだけどね。『敵に対しては兵力の多寡に関わらず周到なる準備のもと速やかに決戦を求め、初動において獲得する極大の戦果によりいち早く敵軍の戦意を封殺破摧することが肝要なり。我が最も得意とする攻勢と機動とによりて機先を制し、敵の戦備いまだ完からざるを撃ち一挙これを潰滅に陥らしむべし』。万一自分より強い敵と戦わなきゃいけなくなった時は守勢に回るんじゃなくて開戦劈頭、立ち直れないぐらいの打撃を与えて敵のやる気を無くさせちゃうしかない。この発想は悪くないっていうか、わたしの考えと似てるかもしれないよ」


 成実が即座に否定しようと息を吸い込むのがわかったので、微笑んで言葉を継ぐ。


「ただひとつ正反対なのは、あの人達は『万が一』じゃなくて望んで戦いたい、戦えば必ず勝てる気でいることかな。……それは、怖いことだなって思う」

「五十子……」


 気がつくと、成実の顔が驚くほど近くにあった。成実は唐突に五十子の細い顎に手をかけ、くいっと引き寄せた。無表情で、なんだか目が怖い。


「え? 成実ちゃん?」

「Don't worry, 五十子。貴女に辛い決断なんてさせない。決して貴女にそんな戦いをさせたりしないから。私が……I am your shield at any times. Otherwise, my life has no meaning.」


 囁くような成実の言葉は、ブリトン語がいつもより多めな上に早口で、特に後半はほとんど聞きとれなかった。


「何? 成実ちゃん今なんて……ん」


 またも唐突だった。成実の指が五十子の唇を塞ぎ、すっと横になぞる。


「よし、とれた」

「えっ?」

「五十子の口、あんこがべっとりついてたわよ」

「ええーっ! 束ちゃん、どうして言ってくれなかったのー!」


 


 海軍省の長、海軍大臣・米内光(よないみつ)(ひめ)大将が登庁してきたのは、海軍省が着々と臨戦態勢を整え正門に土嚢を積み、正午を過ぎようという頃だった。

 いつも通りといえばいつも通り、次官の五十子とは比べ物にならない余裕の重役出勤であったが、陸軍のクーデターに怯える海軍乙女達にとっては、その余裕はむしろ頼もしく映った。

 海軍省では最年長で既に成人している光姫は、長身でグラマラスな大人の風格の持ち主である。頭髪は長くても肩までという海軍乙女の不文律を完全に無視し、腰まで届くのではないかと思えるほど長い髪は、手入れが行き届いて艶やかで、8月の陽光が光の帯となって滑り落ちているかのようだ。左右に道を譲って敬礼する海軍乙女達からは、一様に憧憬の溜め息が漏れる。

 以上の感想は、彼女が黙って笑顔を振り撒いている間は、の話である。


「頭ががんがんするわぁ……いそちゃん、怖いお兄さん達はもう帰ったのかしらぁ?」

「はい、成実ちゃんが見事追い払ってくれました! 成実ちゃんのカッコいいところ、みつ先輩にもお見せしたかったです」

「あらあらぁ。ごめんなさいねぇ、今朝はちょっと気分が……うえっぷ」


 『百戦百勝不如一忍』と揮毫された掛軸のかかる2階大臣室に入り、五十子と成実が扉を閉めるや否や、光姫は詰襟のホックを外して革張りの椅子にもたれかかった。

 見事な脚線美を誇る足を執務机に投げ出して、それきり死んだように動かなくなる。


「酒臭いですね光姫先輩。昨日はどこのホストクラブに行ったんです。新橋(ニューブリッジ)ですか、赤坂(セキハン)ですか」


 氷水の入ったコップを机に置きながら、成実が底冷えのする声で尋ねる。


「さあ……シャンペンタワーをつくってぇ、それを一人で全部飲んでぇ、シャンペンタワーのお代わりをお願いしたところはぼんやりと覚えてるんだけどぉ」

「You are seeing pink elephant! ……駄目だわこの人、早く何とかしないと」


 邦訳不能な悪態が混じるのは、成実が相当怒っている証拠だ。


「まあまあ成実ちゃん。あ、そういえばみつ先輩宛に、お便りが沢山届いてますよ?」


 五十子は何とか話題をそらそうと、机の一角に山積みにされた郵便物を指差した。五十子の声が耳に届いたのか、二日酔いの海軍大臣はしばらく呻いていたが、それでもどうにか身を起こし、よろよろと手を伸ばす。


「全国から私へのファンレターだわぁ、やっぱり海軍乙女はこうでなくっちゃあ……」


 一番上の手紙を開封すると、語尾を伸ばす彼女特有の口調のまま音読を始めた。


「えーっと、最初のお便りはぁ、『斬奸状。国家未曾有の非常時に際し、三国同盟推進は必須緊要の国策なるに関わらずぅ、海軍大臣の地位を盾にとり、頑迷にこれを阻止するはぁ、帝政葦原中津国を破壊せんとする不忠不義の逆賊なりぃ。よって我々はぁ、天に代わりて米内光姫を誅するものなりぃ。聖戦貫徹同盟』、ですってぇ。あらあらぁ」

「残念でした。ファンレターじゃなくて暗殺予告ですよ、それ」


 成実が身も蓋もない指摘をし、五十子が「ご、ごめんなさい!」とあたふたする。当の光姫はアルコールで脳細胞が壊滅してしまったのか、「うふふ、まだまだファンレターがいっぱいよぉ」と次の手紙の開封に取り掛かっている。ちなみに二つ目の手紙の封筒には血の滴るような朱文字で「辞職勧告」と題されていた。呆れ顔の成実は、五十子を振り向いて俄然表情に憂いを帯びる。


「I am afraid for you.……五十子、私の言ったことちゃんと守ってくれてる? 貴女も三国同盟推進派に狙われているのよ。光姫先輩がいつも記者会見をさぼるせいで、マスコミへの露出度は五十子の方が高いんだから」

「変装のこと? 一応言われた通りやってみたけど、まちの人にはすぐばれちゃったよ。えへへ」


 頭の赤いリボンに片手を当てて能天気に舌を出す五十子に対し、成実は両手で頭を抱える。


「三つ目のお便りは……あらぁ、中に何か硬い物が入ってるわねぇ。銃弾かしらぁ?」

「……光姫先輩、遅刻の上に随分と暇そうですね。これから海軍省職員総出で井戸掘りをするので、手伝って下さい。Noble obligation, 率先垂範は帝政葦原海軍の伝統ですよね?」


 どこから取り出したのか、先輩にスコップを押し付けようとする成実。


「井戸掘りですってぇ? 帝都の真ん中で、どうして井戸を掘らなきゃいけないのぉ?」

「陸軍に水道と電気を止められたら最後、省内籠城の3000人がかわやを使えなくなるんですよ」

「こらぁ、成実ちゃん!」


 成実に対し、光姫は初めて咎めるような声を出した。ついに先輩として大臣として威厳を見せてくれるのかと、五十子は身構えた。


かわやなんて言わないのぉ! いいこと? 海軍乙女はトイレなんか行かないの。私達海軍乙女は、女の子の永遠の憧れなんだからぁ……うっぷ」


 ……いつから海軍は、宝塚歌劇団とかと同じ扱いになったんだろう。


「ホストと遊んで、二日酔いでげっぷしてる不潔な人に言われたくありません」


 成実からも、散々な言われようだ。


「ぐすっ、成実ちゃんが冷たいわぁ……いそちゃんのことは心配するのに、私に脅迫状が届いてても少しも心配してくれない……私と成実ちゃんは、光差す横須賀鎮守府の庭で愛を誓い合った仲なのに……私のことは遊びだったのぉ?」

「色々と撤回して頂きたいことはありますが。とりあえず、それらの手紙が脅迫状だと読解できる程度の脳細胞は残っているようで安心しました、先輩」


 大臣室の扉が強めにノックされたのは、その時だった。


「こほん……どうぞぉ」


 光姫がすました声で入室を促す。驚いて五十子が光姫を見ると、まさに一瞬で居住まいを正し、だらしのない酔っ払いはどこかへ消えて、海軍大臣・米内光姫が出現していた。成実はといえば、慣れている様子で肩をすくめている。

 扉が開き、大臣室に入ってきたのは宇垣束を筆頭として、金色に輝く参謀飾緒を胸に飾った、3階の軍令部に籍を置く海軍乙女達だった。


「あらぁ、宇垣さん。他の皆さんも、どうしたのぉ?」


 のほほんとした調子で、光姫が首を傾げてみせる。束の表情は蒼白だった。


「束ちゃん……?」


 五十子のことが目に入らないかのように、束は一直線に光姫の執務机に近付くと、震える手で持っている物を叩きつけるように机に置く。


「米内閣下、これをご覧になりましたか」


 新聞の朝刊だった。


「毎朝新聞の社説です」


 敬語を使う束の声は、今朝五十子が公園でぶつかりそうになった最初の時よりもさらに低かった。


「あらぁごめんなさい、新聞はいつも芸能面しか読んでないのよぉ。えーっとぉ、『大転換必至の葦原外交 バスに乗り遅れるな』?」


 何気に衝撃的な告白をしながら、光姫は爪を短く整えた指でさらさらと紙面をめくり、社説が載っている3面を開いた。五十子も後ろから覗き込んで、長い活字を追った。




『……従来葦原の外交は、()(ぶり)両国、ヴィンランド合衆国並びにブリトン連合王国に重点が注がれていた。しかしブリトンは、ルーシ戦役や欧州大戦では葦原を大いに利用し、ブリトンの国益のため5万を超える葦原人の血を流させておきながら、戦後は卓上から落ちるパン屑さえも葦原の手に落ちるのを拒むようになり、近年における葦原貿易に対する全面的悪性迫害となって顕れたのである。またヴィンランドは、かつて葦原を捕鯨基地にするため黒船をもって我々の父祖を恫喝したのと全く変わらぬ傲岸不遜さで、半世紀以上を経た今日も葦原の生存権を踏み躙り、葦原人を劣等人種と差別するのである。美鰤両国は過去の所業の一切を棚に上げて葦原を侵略者呼ばわりし、持てる力を総動員して国際世論の反葦原化に狂奔し、諸国を誘っていわゆる反葦原包囲網の形成を企てている。しかし今や欧州にあってはトメニア第三帝国並びにナパロニ王国の興隆を前にブリトンの覇権は風前の灯であり、また葦原人を差別し続けてきた尊大なヴィンランドの世界的地位も著しく低下し来った。東亜の安定勢力としての盟主を以て任ずる葦原が、今後の外交を推進するに当ってこれら没落国家群の旧秩序を対象とする訳に行かず、トメニア・ナパロニの新興国家群を対象に世界新秩序を目指さねばならぬことは明瞭であろう……』




「で、海軍のことは最後にちょろっと書いてあるだけじゃない。えーっと、『……毎朝新聞が行った全国世論調査では、三国同盟締結に賛成は5割、どちらかといえば賛成は3割、わからない・どちらでもないが2割、すなわち国民の8割以上が三国同盟締結賛成である。この圧倒的な民意を無視する海軍は、もはや国軍の体をなしていない。速やかに解体し、陸軍主導の新しい統合軍を組織すべきである。そもそも精神的に未成熟な10代の少女のみで構成される海軍に、政治に口を出す資格があるのだろうか』あらあらぁ、20代の少女もここに1人いますよぉだ。いそちゃん、新聞社へ抗議と訂正要求よろしく」

「ええっ、そこですか? 抗議するところそこなんですか?」


 仮に訂正されるとしたら、数日後の紙面の片隅に『先日の社説で「10代の少女のみで構成される海軍」と記載しましたが、実際には20代の少女(?)が1名、現役の海軍乙女として在籍していることがわかりました。訂正しお詫びします』とでも載るんだろうか。嫌過ぎる。

 大臣と次官の平常運転の掛け合いを、ばしんっ! と再び机を叩く音が遮った。束だった。


「発行部数最多の毎朝新聞で、この有様です。他社の朝刊でも三国同盟支持と海軍批判の社説が掲載されていますが、見るに堪えない誹謗中傷ばかりなので持ってきませんでした。海軍のことを腰抜け、税金泥棒、国民の敵、美鰤の犬などと……」


 五十子は今朝、甘味処のおかみさんがあん団子をくれる時に五十子に何を言いかけて止めたのか、遅まきながら理解した。新聞の朝刊を見て、心配してくれていたんだ。


「閣下、こんな酷い侮辱を許しておいていいんですか。海軍省に、偏向報道を断固取り締まるお考えはあるのか。軍令部として、それをお訊ねしたくて参りました」


 怒りを隠しきれない声で束に問われても、光姫は飄々とした態度を崩そうとしない。


「取り締まるって言ったってねぇ……『葦原臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス』って憲法に書いてある通り、この国には言論の自由があるのよぉ」

「閣下は、こんなことを書かれて悔しくないんですか!」


 ついに声を荒げた束に、光姫は優しい微笑みを浮かべて黙っている。

 やがて束は、絞り出すように訥々と言った。


「あたしは、すげえ悔しいです。みんな……みんなこの国の平和のために、休日返上、寝る間も惜しんで一所懸命に頑張ってきたんです。みんな、帝政葦原の海軍乙女であることに誇りを持ってます。それを、今朝みたいに銃を向けられて、新聞にも滅茶苦茶書かれて……これじゃあ、東郷元帥はじめ海軍を育てて下さった先輩方にも、海軍乙女に憧れて海軍に入ってくれた後輩達にも、顔向けできません。国民を守る海軍乙女が、『国民の敵』だなんて……あんまりだ」


 束が執務机に両手をついたまま憔悴したように俯くと、それまで束に代表して喋らせていた軍令部の少女達が、前に出てきて口々に不安を訴え始めた。


「今朝のあれ、脅しだったから良かったけど本当に撃ってきたらどうするんですか! (おか)で戦闘になったら、ボク達が陸軍に敵うわけないですよ!」


 光姫に詰め寄ってそうまくしたてるのは(くさ)鹿()(みね)、軍令部の参謀には珍しい航空機パイロット出身で、きりりとした風貌を持つ短髪のボーイッシュな少女だ。


「みんな不安がってます。郵便受けには怪文書みたいなのを入れられるし、海軍の服を着て街を歩いていたら、知らない人から急に罵られたり物を投げつけられたりして。海軍乙女である以前に、みんな生身の女の子なんです。ショックで寮から出られなくなって泣いている子もいるんですよ!」

「わっ、私、海軍乙女を辞めるように親から言われてしまったんですぅ。実家に戻って、お見合いをしなさいって……でもでも、お父さん以外の男の人は怖くて! 私、どうしたらいいのか……うっ、うええーん!」


 草鹿峰の横で実際に泣き出してしまったおかっぱの少女は、南雲(なぐも)汐里(しおり)。これでも一応、重巡洋艦の艦長や水雷戦隊の司令官を歴任した水雷戦術の第一人者なのだが、


「泣き虫南雲は黙ってろよ。てめえの見合いの話は、今ここでは関係ねえだろうが!」


 束に一喝されて、汐里の目にみるみる涙が溜まる。


「うっ、宇垣さんが怒ったぁ! 怖いですぅ、魚雷発射管に入りたいですぅ、うええええーん!」

「宇垣そんな言い方は無いんじゃないのか! ほら汐里さん泣かないで、ボクがついてる」

「ひっく……峰ちゃん……」


 峰にすがりついてひとしきり嗚咽した後、南雲汐里は真っ赤に腫らした目を大臣机に向けた。


「ぐすっ……あのぅ、米内閣下。どうして三国同盟を結んじゃいけないんですぅ?」

「あ? 何言ってんだてめえ。水雷屋は脳味噌の代わりに魚雷の炸薬でも頭に詰めてんのか?」

「宇垣っ!」


 苛立たしげな束と、汐里を庇う峰とが火花を散らす中、米内光姫は聖母のような慈愛の笑みを浮かべたままゆっくりと口を開いた。


「……南雲さん。トメニア・ナパロニと同盟を結ぶということはね、彼等の掲げる世界新秩序、すなわち美鰤が世界を支配する現状を打破するという目標を、私達葦原も共有するということなの。三国同盟を結んでも美鰤と即敵対するわけではないから大丈夫だとか、反共のために結ぶだけだとか言っている人もいるけれど、少なくとも美鰤側からは、そういう風にみなされるわ。その意味をわかって言ってる?」


 その声から、いつものふざけた感じが消えたことに気付けるのは、普段から一緒にいる五十子と成実ぐらいだろうか。


「……お父さんが言ってたんですぅ。美鰤は葦原人を差別していて、自分達は侵略によって植民地を広げてきたくせに、葦原だけが悪者って決めつけて葦原の正当な権益を認めようとしないって。でも、これからどんどん強くなるトメニアと同盟を結べば、美鰤も葦原のことを少しは見直して、今までみたいな失礼な態度を改めてくれるんじゃないかって」

「汐里さん、待ってくれ。それはボクもちょっとどうかなと……」


 流石に危ういものを感じたのか制止しようとする峰に、汐里は不思議そうな顔をする。


「なんで? 峰ちゃんだって言ってたじゃない、トメニアのオリンピックの映像凄かったって。兵器の技術も他の国をはるかに上回ってて、トメニアの科学力は世界一だって」


 汐里の投じた一石は、他の海軍乙女達に波紋を広げていった。


「トメニアの戦車や飛行機の性能って、確かに群を抜いてるよね。兵士の統率も見事だし、これからは美鰤じゃなくてトメニアの時代だって思う」

「宣伝も上手いよね! 3年前にやったオリンピックの聖火リレーって、あれトメニアが初めて思いついたんでしょ。あの演出は感動したなあ」

「この新聞の社説も、よく読むとそんな間違ったこと書いてなくない? 海軍の悪口が書いてあるのは嫌だけど、最近の美鰤の態度にむかついてるのは、私達だって一緒だし」


 彼女達を率いてきた束も、この展開は予想外だったようだ。


「お、おい待てよ。てめえらまでこんな素人が書いた無責任な記事に煽られてどうすんだ」

「じゃあ、宇垣さんはブリトンを許せるの? 葦原海軍は創設以来ブリトン海軍を模範にしてきたけど、同盟だって一方的に解消されたし、グリニッジへの留学制度だって打ち切られたじゃない!」

「それは……」


 束は反駁しかけて、しかし途中で黙り込んでしまった。


「ブリトンはヴィンランドにそそのかされて、葦原を切り捨てたのよ! 利用するだけ利用しといて要らなくなったら捨てるなんて最低、絶対に許せない!」


 軍令部組のざわめきは収まらない。今の葦原を取り巻く状況にフラストレーションが溜まっていたのは、何も陸軍だけではなかったのだ。光姫は、重厚なウォールナットの大臣机の上で手を組んだまま黙っている。

 なんとかこの場を収めなければと、五十子が口を開きかけた時だった。

 背後の壁にもたれ軍令部組が入室してからずっと沈黙していた成実が、すっと身を起こした。腕組みしていた手を持ち上げ、軍令部の乙女達の一人を無造作に指差す。


「そこの貴女」


 温度の低い成実の声に、ざわめきがぴたりと止んだ。


「さっき、これからはトメニアの時代だって言っていたそこの貴女。じゃあ聞くけど、葦原の輸出入に占めているトメニアの割合は?」

「え、ええと……さあ」


 指された少女は、答えられずに視線をさ迷わせる。成実は容赦無い辛口で、


「トメニアは、ナパロニと合わせても葦原の貿易に占める割合は輸入4.11%、輸出は0.702%に過ぎないわ。軍令部の参謀なのに、こんなことも知らないの?」

「……また始まったわよ、井上さんの美鰤びいきが」


 別の軍令部乙女が小声で揶揄するのも、成実は聞き逃さなかった。


「私の贔屓だというのなら、葦原の輸出入に占めるヴィンランド・ブリトンの割合を言ってみせて」

「え? いや、それは」

「答えは輸入72%、輸出67%。私の好き嫌いなんて関係ない。この国の貿易の7割は美鰤に依存している、これが現実よ。葦原の全輸出額の4割を占めるのは生糸だけど、そのうち85%はヴィンランド向け。一方のヴィンランドにとっては、葦原産の生糸は全輸入量の3割に満たない。In other words, 貿易が止まっても相手はそこまで困らないけど、葦原にとっては死活問題なのよ」


 ディベートモードになった井上成実は、学者顔負けの正確な知識と鋭い舌鋒とで相手を次々に論破していく。こうなると五十子の出る幕は無い。

 成実は、今度は別の軍令部乙女に、


「美鰤の態度がむかつくって言っていた貴女。政府の物資動員計画では、葦原海軍の資材の何割が、美鰤からの輸入でまかなわれることになっているか知ってる?」

「……す、すみません。わかりません」

「8割以上よ。特に、石油、屑鉄、アルミ、ゴムといった戦略物資。石油は90.4%が輸入でうち76.7%を美鰤に頼っている。三国同盟を結べば必然的にこれらを失うのだけれど、その不足を補うための方策が貴女方にはあるのかしら?」

「南方よ! 列強が植民地にしてる南方資源地帯を確保して調達すればいいのよ。貿易だって南方から列強を追い出せば、そこと自由にできるようになるじゃない!」


 先ほど成実を美鰤びいきと揶揄した少女だ。成実は即座に切り捨てた。


「南方資源地帯? Nonsense, 机上の空論ね。まず、輸送船が足りない。葦原の保有船舶は美鰤の9分の1、しかも船齢15年以上の老朽船が過半数で船速も遅く、能率が悪い。載貨量にして輸出の38%、輸入の43%を美鰤の商船に頼っているのが現状なのに。それに南方から葦原までの長い兵站線(シーレーン)を、どうやって維持するの? 護衛艦も潜水艦も航空機も、何もかもが足りないわ」


 成実は、軍令部組をぐるりと見回す。


「海軍の石油の備蓄は約970万キロリットル。これは今日まで光姫先輩と五十子、海軍省の皆が、方々に頭を下げて苦労して貯めてくれた油よ。陸軍120万、民間70万の備蓄と比べればいかに多いかわかるでしょう。けれど、これをどう節約しても、禁輸されてしまえば美鰤に屈服するまでの猶予はせいぜい4カ月。これでも美鰤との敵対覚悟で三国同盟を結んで良いと考えるのなら、その参謀飾緒を外すべきよ」


 軍令部の少女達は、悔しそうな目で成実を睨むだけで、言い返そうとはしなかった。理屈で成実に勝てないことを、思い知らされたからだ。

 彼女達の潜在的な不満に火をつけた南雲汐里は、自分のしたことの重大さをいまいち理解できていないのか、草鹿峰の背中の後ろで不安そうにきょろきょろしている。

 皆が発言しようとしない中で、唯一口を開いたのは束だった。


「……お前の今言ったことは、あたしも正しいと思う。でも、このまま三国同盟を結ぶか結ばねえかで揉め続けて、それでもし内戦になったら。どうしたら良い」

「内戦?」

「そうだ。出口の見えない不況が続けば、3年前のクーデターどころじゃねえ。海軍と陸軍、いや都市部と農村部との内戦がもし起こったら」


 束の口調は、成実に論戦を挑むというより、今の状況に彼女自身も迷っているようで。


「内戦が起きても国は滅びないわ、宇垣さん」


 しかし成実は、いつも通り肩をすくめて冷笑したのだった。


「この国は、幕藩体制から帝政へ国譲りの過程で起きた葦原平定戦争から半世紀しか経ってないけど、これだけ繁栄しているじゃない。あのヴィンランドも建国当初は各州の権限が強過ぎたのが、Civil Warを経験したからこそ今日の強い中央集権国家になれたわ」

「よくそんな評論家みたいな口がきけるな、井上! あたし達の国なんだぞ!」


 束の大声が、部屋の空気をびりびりと震わせた。


「お前、友軍相撃も辞さないとか言って陸軍と戦う準備をしてるらしいじゃねえか! どういうことかわかってるのか? 狂ってるよ、陸軍もお前も! 昔のことなんて関係ねえ、同じ葦原人が敵味方に分かれて殺し合うなんて絶対に間違ってる。そんなことになるくらいなら、いっそ……」


 悲痛な束の叫びを、どこまでも冷淡な成実の声が遮る。


「いっそ、何? いっそみんなで死んだ方がまし?」

「なっ……!」

「貴女はここにいる他の子達より、少しは利口だと思っていたのだけれど。内戦で国は滅びないけど、他国との戦争では国が滅ぶの。美鰤との総力戦になったら、この国は文字通り焦土と化すわよ」


 束が俯いて沈黙する。今度こそ、発言する者は誰もいなくなった。

 しかし皆、感情では納得できていないのが明白だった。

 成実が理屈でねじ伏せただけだ。


「ねえ、みんな聞いて」


 だから五十子は、一歩前へ出る。


「みんなの気持ち、わたしもわかるよ。あのね、みつ先輩も成実ちゃんもわたしも、美鰤が正しいなんてちっとも思ってないよ。わたしだって、美鰤の言っていることはおかしいって思う。自分達のやってきたことは棚に上げて、自分達は正義で、逆らう国は悪だって決めつけてる。それはダブルスタンダードなんじゃないかなって思うよ」


 怒っている目、ふてくされた目、泣きそうな目、じっと耐えている目、一人一人の目をしっかりと見ながら、言葉を紡ぐ。


「間違ったことを言ってきている相手に、変に我慢する必要なんてない。そうでないと、間違っていることが本当のことにすり変わっちゃう。だから主張すべきは、堂々と主張すべきだよ。でもね。もしそこでわたしたちの方から一線を超えて戦争する姿勢を見せちゃったら、相手の思い通りになっちゃうよ。『ほら、やっぱりあいつらは平和を壊す悪者じゃないか』、って。三国同盟を結ぶっていうのは、そういうことなんだよ。わたしたちは絶対に、挑発に乗ってこちら側から平和を壊したりしちゃいけない。陸軍に対してだってそうだよ。今日はあんなことがあったから、安全のために万が一の備えはするけど。でも決して『万が一』が起きないように対話の扉は常に開いて、わたしたちのことを誤解している人がいるのなら、わたしたちの立場を丁寧に説明していこうよ」


 最後の言葉は、俯いたままの束の心にも届くよう願いながら。


「わたし達海軍乙女が日々頑張っているのは、ただ平和を守りたいからだよ。違うかな」


 皆の表情から不満が薄れていくのを感じて、五十子はひとまずほっとした。

 後ろの成実を振り返って、口を挟んでしまったことを目で詫びる。成実は、小さく首を振った。執務机の光姫が、それを見て微笑む。


「私も、いそちゃんと同意見よぉ」


 海軍大臣は短く、だがきっぱりとそう言った。


「……急に押しかけたりして、すみませんでした」


 束が一同を代表して、光姫に頭を下げる。


「あらぁ、構わないわよぉ。またいつでも遊びにいらっしゃい」


 そのやり取りを合図に、軍令部組はぞろぞろと退出していった。

 最後に部屋を出ようとする束の様子が気になって、五十子は声をかけた。


「ねえ、束ちゃん。よかったら仕事の帰りにどこか寄らない? 今朝の話の続きもしたいし……」

「……悪い。忙しいんだ」


 そう答える束の声は、低く、ひび割れていた。

 五十子が次に何か言うより早く、扉は閉じられてしまった。




 数日後。五十子は再び大臣室にいた。


「今から話すことは、他の子達にはまだ内緒よぉ」


 その朝、珍しく遅刻せずに登庁した光姫は、五十子と成実の二人が入室して扉を閉めるなり、改まった表情でそう切り出した。先輩がもったいぶるなんて珍しいなと訝しんでいた五十子は、次の一言で息を呑んだ。


「このたび宮中から、大命降下の内示を賜ったわぁ」

「……光姫先輩が、内閣総理大臣に?」


 普段は冷静沈着な成実も、声に動揺を隠せない。

 確かに、この僅か数日の間に、世界の情勢は大きく変化していた。

 三国同盟推進派が盟邦と頼るトメニアが、葦原にとって美鰤と並ぶ仮想敵である北方の共産国家ルーシ連邦と不可侵条約を結んだのだ。

 反美鰤と同時に反共を掲げ、三国同盟を結べばルーシ連邦をも牽制できると盛んに主張していた推進派にとっては寝耳に水であり、巷では現内閣は近く総辞職するとの噂だった。

 しかし、後任の首相がまさか光姫とは。


「おめでとうございます、みつ先輩!」


 三国同盟に一貫して強く反対してきた光姫に大命が降下したということは、すなわち聖上もまた三国同盟を望んでおられないという、明確な意思表示に他ならない。これで美鰤を相手に戦う心配は無くなったと、五十子は素直に喜んだ。


「何がめでたいのよ、五十子」


 喜ぶ五十子とは反対に、成実は険しい顔をしている。


「あらぁ、どうしたのぉ成実ちゃん?」

「どうしたのぉ、じゃないです光姫先輩。本気でご自分に総理大臣が務まると? 総理官邸の番記者は厳しいですよ。今までみたいに夜遊びや寝坊をしていたら、すぐに新聞に書かれて袋叩きです。それに総理大臣が決裁しないといけない書類の量は、海軍大臣の何倍もあるんですよ。今だって大臣の仕事、ほとんど五十子に丸投げしてるじゃないですか」

「あら、私じゃ役不足かしらぁ」

「その葦原語の使い方からして間違っています。正しくは『力不足』です。帰国子女の私に葦原語の間違いを指摘される時点で、光姫先輩は宰相失格です」

「あらあらぁ」


 どうしたんだろう。成実はいつも光姫に対して厳しいが、それにしても今日はやけに辛口だ。

 成実の横顔を覗いていた五十子は、遅れて気付いた。光姫が首相になったら、少なくともその間は、海軍省(ここ)にはいられない。海軍省トリオといわれたこの3人が、今までのようにこうして一緒に活動することもできなくなる。

 けれど、成実の険しい顔の理由は少し違っていたようで、


「安心して、成実ちゃん。私が首相になるからには、三国同盟は決して結ばせないわぁ」


 察していたのか、光姫はそう言って成実に微笑みかけた。


「だいたい葦原海軍は、美鰤を向こうにまわして戦争するように建造されてはいないの。トメニアの海軍にいたっては海賊に毛の生えた程度よ、お話にならないわ。美鰤との戦力差においても葦原とトメニアの距離的問題においても、同盟を結んで葦原にプラスなんて何も無い。それに物資の面でも成実ちゃんが言っていたように、葦原は美鰤からの輸入に依存しているんですもの。赤ちゃんがお乳をくれる母親に喧嘩を売るようなものよぉ」

「Like a cow……光姫先輩がその例えを使うと、なんだかいやらしく聞こえますね」


 軍装の上からでもたぷんたぷんと揺れるのがわかる光姫の胸を眺めながら、どちらかというと慎ましやかな成実が不機嫌そうに呟く。光姫の微笑に、少し寂しげなものが混じった。


「ふふっ、先輩って呼んでもらえるのもこれが最後ねぇ」

「?」

「私は内閣総理大臣に就任するにあたり、予備役になるつもりよぉ」


 それは、首相就任の話よりも二人には衝撃的な宣告だった。

 予備役とは、すなわち海軍乙女が現役を退くことを意味する。


「みつ先輩……引退しちゃうんですか?」

「どうしてですか。現役の海軍乙女が総理大臣になれないという決まりはないはずです!」


 成実が声を荒げる。光姫は微笑みながら、申し訳なさそうに首を振った。


「……ごめんなさい。でも、これは私なりのけじめなの。わかって」


 そう言った光姫は、口調こそ柔らかかったが、固い決意が感じられた。

 成実が押し黙り、壁際でかたかたと音を立てて回転する扇風機の音と外の蝉の声が、しばらく部屋を支配した。その沈黙を破って、光姫が再び口を開く。


「私が退任するにあたり、人事異動が行われるわ。海軍次官、山本五十子中将」

「は、はい!」


 いきなり官姓名で呼ばれて、五十子は背筋を伸ばす。


「貴女に、連合艦隊司令長官になってもらいます」

「え……ええっ! わたしが連合艦隊の、司令長官ですかっ?」


 五十子は飛び上がりそうになった。


「そうよ。戦わずして敵を威圧し無用な争いを抑止するのが、帝政葦原海軍の不動の信念。その要である連合艦隊の指揮を、いそちゃんに任せたいの」


 光姫は続けて、眉根に深い皺を刻んだままの成実に向き直る。


「軍務局長、井上成実少将。貴女は今年の秋から、北方派遣艦隊の参謀長よ」

「……五十子と私を、中央から遠ざけるのですか」

「今、北方では苦戦する陸軍を空から支援するため、航空戦に詳しい人が求められているの。そっちをしばらく務めてもらったら、今度は航空本部長に就任することが決まっているわ。海軍の中で、航空機の重要性に一番早くから気付いていたのは成実ちゃんよ。海軍の航空戦力拡充を担うのは、貴女をおいて他にいないわ」

「納得できません」


 得意分野を褒められても、成実はにこりともしない。


「国際情勢に変化があったとはいえ、三国同盟推進派はまた何時息を吹き返すかわからないんですよ。光姫先輩が海軍乙女を引退してしまって、五十子も私も中央を離れては、誰が推進派を抑えて海軍を守るんです!」

「さっきも言った通り、私の目の黒いうちは三国同盟も対美鰤開戦も絶対に認めないわ」


 成実の射るような視線を、光姫は正面から受け止めている。五十子は恐る恐る訊ねた。


「あの……ひょっとして、わたしたちが推進派から命を狙われるかもしれないからですか?」


 成実がはっとした様子で口を押さえた。光姫は、表情を緩める。


「別に、中央が危ないから逃げろというわけじゃないの。二人とも、まだ16歳と15歳でしょう。自分達が海軍乙女なのを忘れたの? 綿津見大神(おおわたつみのかみ)のご加護が後4年はあるのに、赤レンガに籠っているのは勿体無いわぁ。私みたいに薬を飲まないと海に出られなくなる前に、存分に潮風に当たってらっしゃい」

「みつ先輩……」


 五十子は、目頭が熱くなった。


「お気持ちは嬉しいです。けど、連合艦隊司令長官なんて、わたしなんかには大役過ぎます。わたし、特技は逆立ちぐらいしかないですし、他にもっと相応しい子が……」

「いそちゃん」


 光姫は身を乗り出すと、いつになく真剣な眼差しを五十子に向けた。


「こんないい加減な私が、大きな失敗もなく大臣をやり終えることができたのはね、いそちゃんが次官として省内をしっかりまとめてくれていたおかげよ」

「そんなことないです。わたし余計なおせっかいばかりで、こないだも束ちゃんに……」

「大丈夫。宇垣さんはあんなことがあって戸惑っているだけよ。それに、みんなに気を遣ったり励ましたりできるのが、いそちゃんの良いところじゃない」

「Stop! 光姫先輩、やめて下さい今生の別れみたいに。五十子も、泣きそうな顔しないで!」


 成実が割って入ってくる。それで五十子は、自分の視界がぼやけていることに気付いた。


「うう……そう言う成実ちゃんだって、泣きそうだよ?」

「……そんなわけ、ないでしょう」


 光姫は微笑んで立ち上がると、手招きをした。


「二人とも、いらっしゃい」


 まず五十子が、遅れて、そっぽを向いたまま成実が。

 二人が大臣机の横までくると、光姫は左右の手を伸ばして、二人の頭に手を置いた。


「ちょっと先輩、子どもじゃないんですから……」


 成実の少し上擦った声は、光姫が成実を抱き寄せると途切れた。


「よしよし」


 光姫は、成実の頭をゆっくり撫でる。


「成実ちゃんには、私が横須賀鎮守府にいた頃から何度も助けられたわね。成実ちゃんは聡明な子。貴女のくれたアドバイスは、いつだって正しかった。なのに、誤解されてるのが勿体無いわ。こないだみたいに理詰めで押さえ付けるだけじゃあ、みんなにわかってもらえないわよ?」

「……気にしません。どうせ私はunfriendlyですから。でも、光姫先輩と五十子は、こんな私を評価してくれました。私は、それだけで十分です」

「うふふ……でもね、成実ちゃん。貴女が持ってる未来を見通す力は、私達には無い宝物よ。その力はいつかきっと海軍を、いいえ、この国を救うわ。だから、もっと自分に自信を持ちなさい」


 光姫の指が、成実のおさげを愛しげになぞった。


「……いそちゃんは、優しい子」


 今度は、五十子が抱き寄せられる。


「優しくて、そして強い。いつも明るくて前向きで、どんな相手でも真っすぐに受け止めて、包み込める子。いそちゃんには、この人のために頑張ろうって、みんなにそう思わせる力があるの」


 五十子の頭を撫でる光姫の手は、いつもより大きく感じられた。


「海の上では、リーダーとして誰かを犠牲にする厳しい決断を下さなければならない時があるかもしれない。けれど、いそちゃんの持ち前の優しい笑顔を、どうか忘れないで」

「……はい」


 最後に髪飾りのリボンをきゅっと結び直して、光姫の手が五十子から離れた。五十子と成実は、ほとんど同時に敬礼していた。一瞬目を丸くした光姫は、嬉しさと寂しさの混じった笑顔で答礼する。三人は、敬礼した手をしばらく下ろそうとしなかった。まるで、約束を交わすかのように。


「貴女達二人の先輩でいられて、私は幸せでした。二人で支え合い、みんなと力を合わせて、内にも外にも屈しない強い海軍をつくって。私は政治の舞台から、貴女達を守ります」

「わかりました」


 五十子も、涙をぬぐって微笑む。


「わたしたちは、海へ行きます。みつ先輩、どうかこの国を、葦原中津国を頼みます」







 ――目を閉じていると、あの遠い夏の日が鮮やかに蘇る。


 外で響いていた蝉の鳴き声も。ひんやりした赤レンガも。三人でいた大臣室の、安心する感じも。

 幼い頃の自分は、待っていれば季節が必ず巡ってくるように、世界は変わらないものだと思っていた。

 でもやがて、そうではないと知ることになる。

 世界は脆くて、理不尽なまでにあっけない。


 ――もし、成実ちゃんやみつ先輩が傍にいたら。


 ――今わたしがしていることに、二人は何を言うだろう。


 ――わたしは、二人に何を言うだろう。




「ト連送を直了しました! 発信時刻3時19分、攻撃隊全機突撃の合図です!」


 閉じた目蓋の向こうで、静寂が破られる。

 押し殺したざわめきが広がる。パイプ椅子が軋む。

 再び、駆け込んでくる靴音。


「トラ・トラ・トラ! ワレ奇襲ニ成功セリ、です!」


 みんなが一斉に立ち上がる。


「いやったぁ!」

「成功です! やりましたね、山本長官!」


 歓声に沸く部屋で、五十子は目を閉じ続ける。

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