第4話(3)やあ、釣れてるかな?
さすがに先ほどよりは少ないものの、数百人の少女達が舷側に並んで釣り竿を垂らしているのは驚異的な光景だった。
釣り具は竹の竿と、曲げた釘を釣針に使った簡素なセットだが、よくこれだけの人数分揃えられたものだ。餌には、驚いたことにマグロの切り身が使われている。洋平の価値観では高級魚であるマグロが昔は下魚扱いだったというのは、どうやら本当のようだ。
「……そういえば僕、海釣りは初めてかも」
この世界の男性のように海に近寄れないわけではなかったが、元の世界では幼い頃に、鯉の釣り堀に連れて行かれた記憶しかない。
「大丈夫! わたしが教えてあげる。初心者でも簡単に釣れるスポットがあるんだよ。廃棄物投棄孔の辺りは、残飯とか狙って魚がいっぱい集まってるから」
「生ゴミを食った魚があたし達の口に入るわけか」
「束ちゃん、そういうこと言わないで~」
「あっでも長官、人気スポットはもう兵でいっぱいですよお。そうだ、上官命令でどかしちゃいましょうか」
「駄目だよヤスちゃん、釣りの時は無礼講なんだから! ほら、あそこが空いてるよ」
五十子が指差した先、右舷二番副砲塔の横に空きがあった。ちなみにこの15・5センチ副砲、元は軍縮条約中に軽巡扱いで建造された最上型の主砲で条約失効後、重巡クラスの20・3センチ砲と取り換えて不要になったものである。天下の戦艦大和が巡洋艦のお下がりを使っているのは格好がつかない……からかは知らないが、評論家やマニアの間ではあまり評判がよろしくない。
「あっ、てめえ今、流用品だせえって目で副砲を見やがったな。副砲に謝れ!」
戦艦大好きな束に絡まれてしまった。ちらっとしか見ていないのに、怖いくらい敏感だ。
「いや、僕は別にそんなつもりじゃ」
「いいか源葉、艦隊決戦において主砲が戦艦同士で撃ち合う中、肉薄してくる敵小型艦艇を迎撃するという大切な任務がこの副砲にはあってだな!」
なお史実ではそんな見せ場もないまま対空兵装に換えられてしまった。
機銃で埋め尽くされた最終形態の方に慣れている洋平からすると、副砲以外に遮るものが無い甲板はとても広く感じられる。
「参謀長、戦艦トークはもういいですから、自分の釣り竿は自分で持って下さいよお」
ありがたいタイミングで、寿子が割り込んでくる。
「おい、なんであたしの分まで釣り具があんだよ。あたしは見てるだけで良いって言ったろ」
「あれ、束さん釣りが苦手なんですか?」
「ちげえよ! 魚が食いつくのを待つっていう消極的なやり方が好きじゃねえんだ。やっぱあたしは猟銃だ、こっちから狙った獲物を撃つ方が性に合ってる」
そういえば初めて会った時、ライフルを持っていたな。
「鉄砲屋ですからねえ、参謀長は……。でも、それはそれ、これはこれです。長官がやろうって言ってるんですから、ほら」
寿子に押し付けられ、渋々釣り竿を受け取っている。ちなみに鉄砲屋というのは、海軍士官の中で砲術畑を歩んだ人間の呼び名である。
「やあ、釣れてるかな?」
空きスペースに歩いて行った五十子が、隣でキャンバスを広げているグループに声をかけた。
「あ、長官……!」
五十子の声に振り向いた少女達が、洋平を見て固まった。忘れもしない、軍楽隊ご一行だ。微妙な空気が漂う。気まずいのは、洋平とて同じだ。なんで隣がよりにもよって男性アンチの急先鋒、軍楽隊メンバーなんだ。釣り大会の参加者は何百人もいるのに。
「ちっ、またこいつらかよ」
「あれえ? どうしたんです軍楽長、いつもは遊んでる暇があったら演奏の練習だーって、こういうイベントあっても絶対来ないのに」
束が鬱陶しそうに舌打ちし、寿子が不思議そうに首をひねる。五十子が種明かしをした。
「えへへ、実はわたしが誘ったんだよ」
「……長官とご一緒できて光栄です」
前髪一直線の硬派な軍楽長、岩田雫が伏し目がちに挨拶する。これって、もしや。
「じゃあ、始めよっか。洋平君はわたしの右隣に並んで。釣り竿の握り方からやってみせるから、よく見て覚えてね」
促されるまま、舷側に向き合う。五十子の見よう見まねで釣り竿を握ってから、自分の立たされた場所が軍楽隊スペースとの境界線であることに気付いた。
もう間違いない。恐らくこれは五十子の仕込みだ。今朝の集会での出来事に気付いてなかったなんて、とんでもない。
「……」
洋平のさらに右隣では雫が硬い表情で、釣り糸を垂らした海面を凝視している。
今朝は束の介入であんな幕引きとなったが、男が乗艦していることに彼女達が納得したとは思えない。恐らく五十子はそれで、和解のためにこのような場をセッティングしたのだろうが……。
「なかなか釣れないね。洋平君は何が釣りたい?」
どのくらい経っただろうか、沈黙を破って五十子が話を振ってくる。
「ヴィンランド機動部隊」
「魚の話だよ!」
しまった。長いこと無言で釣り糸を垂らしていたので、頭の中が次第にミッドウェー作戦とか他の考えごとにシフトしていた。これでは亀子の寝言を笑えない。
「ごめん、魚だと……アジとか」
適当にそう答えると、反対側の雫がぴくりと反応する。
「……アジですって? 全く、これだから男は」
あれ? 何かまずいことを言ってしまっただろうか。
「アジなんて、簡単に釣れる安い魚じゃないですか。私は軍楽一筋なので釣りなんて興味ないですけど、それでもやるからにはタイとかカワハギとか、難易度の高い目標を目指します。それが、海軍乙女魂というものです」
志が低いということで怒られてしまった。単にアジのたたきが好物なだけなんだけど。
「よっ、それでこそ私達の軍楽長!」「目指せ! 日比谷公会堂!」
リーダーのきりっとした台詞に喝采を送り盛り上がる軍楽隊メンバー。どうでもいいが日比谷公会堂というのは、洋平の世界でいう武道館ライブみたいなものなんだろうか。リアクションに困っていると、五十子がにゅっと身を乗り出してきた。
「ん? 今アジなんて簡単に釣れるって言ったよね。じゃあ賭けようか」
「……また賭けですか?」
雫が渋い顔をする。
「そう、軍楽隊チームと司令部チームでアジの釣果を競うの。それで司令部チームが勝ったら、洋平君を仲間として認めるというのはどうかな?」
雫が息を呑むのがわかった。
「そ、それはご命令ですか。先日の逆立ちの時は突然のことで考えが至りませんでしたが、本来、賭けというものは……」
「うん、そっちが勝った時の条件も付けないとだよね。その時は、洋平君を大和から降ろそう」
「ええーっ!」
軍楽兵達があっけにとられている。予想斜め上の展開だが、束と寿子は慣れているのかノーリアクションだ。まあ、五十子は釣りがかなり得意みたいだし、勝算があるから言ってるんじゃ……。
「あ、それとわたしは今回戦力外だよ。生まれも育ちも農村だから、実は釣り下手なんだ。えへへ」
洋平は危うく、竿を海に落とすところだった。さっきの上級者っぽい前振りは一体何だったんだ!
「大丈夫だよ、代わりに強力な助っ人を呼ぶから。ヤスちゃん、ちょっと……ごにょごにょ」
「ふむふむ……了解しましたあ」
五十子に耳打ちされて、寿子が艦橋へ走っていく。数分後。寝癖頭の少女がばたばたと全力疾走してきた。言わずとしれた黒島亀子だ。頬には乾いたよだれと机の跡がくっきり残っている。
「長官! トメニアが太平洋に、ムー文明の財宝を探すための海底基地を建設したって本当っ?」
一緒に戻ってきた寿子が後ろでにやけている。これは先任参謀に同情を禁じ得ない。
「亀ちゃん、ごめんっ!」
事情を聞かされ憮然として帰ろうとする亀子を、五十子が拝み倒して引き留めた。
「黒島に釣りは無理なんじゃねえか? すぐに寝るし、腕力ねえし」
束が投げやりにそう呟く。この人もこの人で、さっきから全然やる気が無い。
「いいや、亀ちゃんは海のことよく知ってるからね。頼りになるよ」
海のことよく知ってるってそれ、魚釣りとまるで関係ない分野の海じゃないのか。深海とか海底人とか海底文明とか。
「賭け事は好みませんが……わかりました。長官がそこまでおっしゃるなら、受けて立ちます!」
雫が受けて立ってしまい、かくして洋平を賭けた唐突な釣りバトルが始まった。
ルールは単純、アジを多く釣ったチームの勝ち。制限時間は2時間。
「山本長官と渡辺参謀はこの場所で待機を。宇垣参謀長と源葉参謀は、私についてきて」
驚いたことに、司令部チームを仕切るのは亀子だ。面倒臭がる束を引っ張り、五十子達を残して移動を開始する。一方の軍楽隊は、兵力を分散させず一箇所に集中させる戦術の定石でいくようだ。
「主計科の子の情報では、以前この場所でアジがよく釣れたそうよ。全員がここで釣っていれば、無駄に移動するより効率よく釣れるはずよ」
「軍楽長さっすがー!」「参謀の素質ありますよ!」「そういえば、この勝負って何のためだっけ?」「みんな、いつもみたく円陣組もう!」「軍楽隊ファイトーッ、オーッ!」
向こうでノリの良い軍楽兵達が気勢を上げている。
「……素人の集まり。可哀想」
洋平の耳は、去り際に亀子がぼそっと毒を吐くのを聞き逃さなかった。
「亀子さん、二手に分かれたのは何か策があるの?」
「安心して。私は海洋生物の生態のスペシャリスト。絶対に負けない」
「そ、そうだんだ。で……どこまで行くの? 釣る場所を変えるなら、残飯を捨てるスカッパーの近くが良いんじゃ」
洋平の言を無視して、亀子は艦尾の方へずんずん進んでいく。後部三番主砲塔を通り過ぎた辺りでようやく立ち止まった。木甲板はそこで終わってセメント・コーティング張りになっている。この先は水上機用のカタパルトがある航空甲板だ。洋平達以外には誰もいない。
「アジは潮の流れに乗って回遊する。今の大和周囲の潮流なら、一番の釣り場はここ」
そう言いながら、亀子自身は釣りを始める様子を見せない。というか釣り竿を持っていない。
「私はあなた達の頭脳。私の言う通りに手を動かせば必ず釣れる」
「マジかよ……」
束が嫌そうな顔をしつつも釣り竿を構えるのは、洋平がいなくなると嫌だと一応は思ってくれているのだろうか。
亀子は甲板に腰を下ろすと、二人に矢継ぎ早に指示を出す。
「アジは深度4・5メートルの変温層の下にいる、深度5メートルを狙って釣針を投下」
「へいへい」
「かかった時の注意事項。引っ張る時は魚との位置関係が真っ直ぐ上下になるように。左右に引くと隣の仕掛けに絡まる」
「へいへい」
束はやる気の無い生返事だ。なんだかゲーセンのUFOキャッチャー前でよく見かける、自分はやらずに後ろで評論してる人とレバーを動かしながらだんだん不機嫌になっていく人のコンビを彷彿とさせるんだけど、大丈夫なんだろうかこのメンバー。
「びくっ、は軽くつついただけ。びくびくっ、で食いついた。びくびくびくんっ、は餌を食べ尽くされてる。びくびくっ、で合わせて。……聞いてるの参謀長?」
「いや、わけわかんねえし。合わせるって何をだよ」
「針を魚に食い込ますこと。参謀長は瀬戸内出身なのに、こんなことも知らないなんて可哀想」
「うるせえ。あたしは家が厳しくて、釣りなんてやらせてもらえなかったんだよ!」
思わず言ってしまった様子で、舌打ちをして黙り込んだ。束って、もしかして良いとこのお嬢様なんだろうか。今の姿からはちょっと想像できないが。
「そういえば、亀子さんも実家はこの辺りなんだっけ」
五十子が言っていたのを思い出して訊ねると、亀子はこくりと頷いた。
「生まれは呉」
「やっぱり。道理で詳しいと思った。小さい頃、親御さんに海釣りを教わったとか?」
「両親は顔も覚えていない。父親は私が生まれてすぐ死んで、母は私を捨てた。私を育ててくれたのは、呉鎮守府が運営する身寄りのない子どものための施設」
「え? ごっ、ごめん!」
特大の地雷を思い切り踏んづけてしまった。隣の束は表情を変えずに黙ったままだ。知っていたなら止めてくれればいいのに。
「構わない。嫌な思い出ばかりじゃない」
亀子は目を閉じる。そのまま眠り出さないか不安になったが、回想モードに入ったようだ。
「あれは4歳の時。江田島から兵学校の生徒達が施設に慰問に来た。私は皆の輪から離れて、部屋の隅にいた。壁と床の間から、アリが侵入していた。私はアリを一匹ずつ指で潰していた」
「へえ、それは良い話……じゃねえよ! 何さらっと虫殺してんだ! てめえは幼児の頃から既に歪んでたのか!」
これは初めて聞く話らしく、束が振り返って叫んでいる。亀子は無視して続けた。
「兵学校生徒の中で一人だけ、私に近付いてきた人がいた。頭に赤いリボンをつけて、大きな目をきらきらさせた人。傍にしゃがんで、その人は言った。『どうしてアリを殺すの?』と。他の人と違って、私のことを気味悪がらなかった。理由を訊いてくれた」
赤いリボンをつけた兵学校生徒? それって……。
「私は答えた。このアリ達は斥候。見逃せば建物の中に食料を見つけ、巣に帰って報告する。そうすれば何百匹もの本隊がやってきて、施設の大人達に見つかる。本隊も、外にあるアリの巣も駆除されてしまう。でも、私がここで斥候を殺せば、それだけの犠牲で済むかもしれない。そうしたら、その人はこう言った。『君ユニークだね、気に入ったよ。先でわたしが司令官になったら、君を参謀にしてあげる。待ってるからね』」
なんだか強引に良い話になった。
黒島亀子(幼女)にぷちぷち潰されたアリ達も、草葉の陰で感動しているといいのだが。「リボン頭の誰かさんは、昔から他人に甘かったんだな」と、束が呟いた。
「7年後、連合艦隊司令長官になったその人は、私を先任参謀にするよう人事局に頼んでくれた。あの時の約束を、忘れていなかった。軍令部に勤務経験のない者を先任参謀にするのは前例がなかったから、通すのは大変だったはず。……山本長官に、恩を返したい」
亀子が目を開ける。
同時に、束の釣り竿が大きくしなった。少し遅れて、洋平の釣り竿も。
「やべえ、来た、なんか来た、びくびくいってるぞ! どうすりゃいい黒島!」
「一気に引き上げて! 源葉参謀もはやくっ!」
言われるまま、釣り竿を握る手に力を込める。
前のめりになりそうな身体を真っ直ぐにして、釣り糸を海面から引っこ抜くように。
飛沫とともに、背中に黄色みを帯びた銀色の魚が2匹宙を舞った。
甲板に落ちて、残像が見えるほどの高速でびちびちと振動するのを、亀子が日頃の彼女からは想像できない素早さで掴んでバケツに放り込む。
「はあ……はあ……凄い、アジだ、本当に釣れた……海釣りも初めてだけど、こうやって自分でちゃんと魚を釣れたのも初めてだよ」
「源葉もか! あたしもこれが人生初釣りだ」
お互い感無量で戦利品を一目見ようと近付いた洋平と束を、亀子は手で制した。
「浸ってないで、釣針に次の餌を装着。さっきと同じ水深に下ろして」
「ああ? 2匹も釣れたんだし少しくらい休ませろよ」
「駄目。アジの群れは短時間で移動する。釣れる時は釣れる、釣れない時は全く釣れなくなるのがアジ。今を逃さないで」
亀子の厳しい口調に洋平と束は渋々持ち場に戻ったが、やがて亀子の言葉の正しさを知ることになった。最初の釣果の後も順調にかかっていたアジが、ある時を境にぴたりと釣れなくなったのだ。
「やべえな、このままだと源葉参謀のクビも現実味を帯びてくるぜ。長官は賭け事で取り決めたことは、相手がどんだけ下っ端だろうときっちり守るからな」
「……ど、どうしよう」
五十子が何のつもりであんな約束をしたかは知らないが、こうしていると不安が増してくる。本当にここを追い出されたら、この世界で洋平に行くところなんてない。どんよりと暗くなる洋平を見て、意地悪く煽っていた束は目をぱちくりさせた。
「っておいそんな顔すんなよ、調子狂うな。いいか、長官は負けた場合てめえを『大和から降ろす』としか約束してねえだろ。長官はいざとなったら連合艦隊の旗艦を長門辺りに移して、司令部ごと大和を降りるっていう算段だと思うぜ。引越すのは面倒臭えけど、長門だって良い艦だしな」
「その発想は無かった! いや、五十子さんに限ってそんな卑怯なことしないと思うけど」
と言いつつ洋平が、戦艦長門も悪くないなと考え始める中、亀子はアジで重くなったバケツを持っておもむろに立ち上がった。
「その必要はない。アジの群れが乗った潮流の先は、山本長官と渡辺参謀が待機する本陣。軍楽隊も隣にいるけど、先に沢山釣れたこちらの釣果を足せば私達の勝利。アジの群れが本陣に向かわなかった場合は、軍楽隊も釣れないので私達の勝利。全て私の計画通り」
「「それを先に言えよ!」」
しかし本陣に戻る途中、洋平達は釣り具を担いでうろつく寿子に出くわすことになる。
「渡辺参謀、あなたには本陣で待機を命じたはず!」
「え~、でもあそこ全然釣れないですしい、場所を変えて釣った方がいいんじゃないかと思ったんですよお。あ、皆さんの貴重品とかは長官に預けてありますから安心して……」
「今すぐ持ち場に戻って!」
珍しく亀子が声を荒げている。しかし、何で怒られているかわからない寿子はきょとんとするばかりだ。無理もない。残してくる時、亀子は寿子達に何の説明もしなかった。
「え? どうしたんです黒島参謀、あそこで待つ理由って何かあったんですかあ?」
「寿子さん、実は……」
洋平が割って入って亀子の作戦について話そうとした時、二番副砲の方から歓声が聞こえた。
今のは軍楽兵達の声だ。
洋平は咄嗟に駆け出した。
「大漁じゃん大漁!」「初めちっとも釣れなかったのが嘘みたい! この場所で粘ってた甲斐があったね!」「うわあ、こんなアジばっか食べられないよ!」
最初に釣りをしていた場所に戻った時、洋平の目に飛び込んできたのは整然と3列横隊を組んだ軍楽隊だった。
緩い私語とは裏腹に、呼吸の合った動きで代わる代わる海に釣針を投下していく。まるで戦列歩兵、長篠の戦いの三段撃ちだ。
軍楽長は、後方で盛んに指揮棒を振っている。
「釣れても失敗しても速やかに後ろに下がって、餌を再装着した兵と交代! 初心者なんだから上手に釣ろうと思わないで、とにかく絶え間なく餌を垂らし続けるの! そこ、もうすぐ餌のストックが無くなるわよ、烹炊所に行ってもらってきて!」
雫の足元に置かれたバケツには、洋平達が後甲板で獲ってきたのを上回る量の戦利品がびちびち跳ねている。亀子の読み通り、アジの群れがこっちへ移動してきたのだ。
しかし、一方の司令部チームといえば、留守番の五十子が一人釣り糸を垂らしているものの、バケツは空っぽだった。
「あっ、お帰りみんな~。わたしやっぱり全然ダメだよ、何度か引きがあったんだけど、餌食べられて逃げられちゃった」
屈託なく笑う五十子の横に洋平は無言で並んだ。横顔を、五十子がちらりと覗く。
「……洋平君、怒ってる?」
洋平は溜め息をついた。後ろで束が「精鋭のあたし達が、数が多いだけの素人どもに負けるわけがねえ!」と息巻いている。精鋭って、今日が初釣りの人が言うことじゃないだろう。
「こんな賭け無茶苦茶だよ五十子さん。後、今朝の集まりで束さんが僕を海に落とすところ、本当は気付いてたのに止めなかったよね」
つい、恨みがましい言い方になってしまった。
「あれは……その、ごめん」
引きがあったので釣り上げるが、アジではなくメバルだった。海にリリースする。
早いもので、制限時間の2時間が経つまでもうあまり無い。
「あのね……洋平君がもういっぺん海に落ちたら、ひょっとしたら、この世界にやって来た時の記憶が戻るんじゃないかって、そう思って」
彼女のいたずらっぽさと表裏一体のお人好しぶりはこの数日間で身に染みてはいたが、それでも驚かされる答えだった。
洋平自身がこの世界のことで頭がいっぱいになっているのに、彼女はまだ洋平を元の世界に戻すことを諦めていないのだ。
「残念だけど海に落ちても、何も思い出せなかったよ」
「そっか……ごめんね」
「どうして五十子さんが謝るのさ」
束と寿子が舷側に並んで、亀子の指揮で次々と釣り上げ始める。
寿子は中級者クラスの腕前らしいし、束も精鋭ではないにせよコツを掴むのが早い。猛烈な追い上げで、みるみる軍楽隊のリードを縮めていく。甲板の後ろには勝負の話を聞きつけて、見物の人垣ができていた。
「ご自分の進退がかかった勝負の最中にお喋りだなんて随分と余裕ですね、源葉洋平さん」
いつの間にか、右隣に雫が立っていた。餌を取りに行かせた部下の帰りが遅いので、自らローテーションに入ったようだ。
「そちらは見事なチームワークだね。軍楽長さんの日頃の指導の賜物かな」
洋平は素直に褒めたつもりだったが、軍楽長は表情を一層険しくした。
「源葉さんに恨みはありませんが、受けた以上は勝たせて頂きます」
「……やっぱり、男の人は嫌い?」
そう訊ねたのは五十子だ。また食い逃げされたらしく、革手袋をはめたままの手で器用に餌を釣針に刺していた。
「はい。男は私達から大切なものを奪ってしまいますから」
大切なもの? まさかいきなりアダルティーな話を始めるつもりか。だが雫はあくまで硬派だった。
「団結です。源葉さんが先ほど軍楽隊の団結力を褒めて下さいましたが、団結できるのは女だけの組織だからです。もし男が混じったら、嫉妬とか三角関係とかそういう破廉恥なしがらみに囚われる兵が出るに決まってます。きっと今のままではいられません」
「軍楽長はまだまだ浅いですねえ! 同性同士だって嫉妬も三角関係もあるんですよお!」
遠くで寿子が何か喚いているのはさておき、雫の言い分も一理あると洋平は思う。
元の世界の学校でリア充とそれを中心に輪形陣を組んだキョロ充共が男女関係を巡って繰り広げる醜い人間模様は、見聞きさせられるたび生理的嫌悪感を催したものだ。もしも学校が共学でさえなければ。
「私達が私達でいられる場所は、海軍しかないんです。だから」
雫の言葉が途中で途切れた。彼女の釣り竿が激しくしなる。ほとんど同タイミングで、洋平の握る竿にもびくっと感触があった。
「おっ、軍楽長もしかして初釣果?」「軍楽長がんばってー!」「男に負けるなー!」
観衆から声援が送られる。雫の顔が紅潮していく。見ると、釣り竿の握り方が少しおかしい。洋平は今更ながら、彼女もまた釣り初心者だったのを思い出した。
「きゃっ……」
バランスを崩し、雫の身体が斜めになった。彼女の釣り糸は魚に引かれるまま、左に流される。
「危ないっ!」
五十子が叫ぶ。洋平が自分の釣り竿を引き上げるより早く、雫の肩がどん! とぶつかってきた。
「つつ……大丈夫?」
「ごめんなさい……ああっ!」
小さく悲鳴を上げた雫の視線を目で追う。
洋平と彼女の釣り糸が絡まってしまっている。確か釣り用語で「おまつり」というやつだ。
二人の釣り糸は、それぞれまだピンと張っているが、すぐに食い逃げされるだろう。
時間が無い。
洋平は、後ろを振り向いて叫んだ。
「誰か、何か切るものを! 軍刀でもなんでもいいから!」
「おい、源葉てめえまさか……」
「ソーイングセットならあるよ!」
五十子が裁縫鋏を差し出す。洋平は掴み取ると、躊躇なく自分の釣り糸を切断した。
「軍楽長さん、引いて! 急いで!」
反射的に、雫が彼女の釣り竿を引き上げた。これまで見てきたより一回り大きいアジが甲板に落着し、ギャラリーが沸く。同時に、制限時間終了。
両チームの釣果は偶然というか皮肉というか、一匹差で軍楽隊に軍配が上がった。
「訓練とはいえ、利敵行為だ。てめえは軍人失格だ」
束が怒っている。訓練だったのか、これ?
「とにかく、山本長官が約束したんだから仕方ねえよな。こいつを(足に重りを付けて)大和から(海に)降ろすってことで全員異存はねえな?」
「参謀長、それもうただの処刑になっちゃってますよお」
「待って。彼を大和から降ろす(とみせかけて解剖)なら私に任せて欲しい」
「黒島参謀は少し黙ってて下さいよお!」
参謀達が言い争っているところに、勝者代表の雫が進み出た。
「……お待ち下さい。最後に釣れた一匹は、源葉中佐との協同釣果です。ですので、当方の勝利という判定には納得できません」
軍楽隊はじめ甲板上の少女達がざわざわする。驚いたのは洋平とて同じだ。
「軍楽長さん、どうして……」
「逆にお訊ねします。どうして私に勝ちを譲るようなことを?」
遅れて気付いた。雫の声が微かに震えている。怒っているのだ、それも束の比ではなく。
「美鰤人が言うレディーファーストとやらですか? ああして情けをかけてやれば、女なんてちょろいと? 酷い侮辱だわ。そんな勝利は、こちらから願い下げです!」
ああ……戦列歩兵みたいな釣り方を見た時に感じたものの正体がわかった。この勝負は雫にとって魚釣りではなく、彼女にとって大切な「男子禁制の海軍」を守るための戦争だったんだ。
「……僕は、そういうつもりじゃなかった」
「じゃあ、どういうつもりで!」
「その……軍楽長さんも、魚釣るの初めてなんだなって思って。僕もさっき初めて釣りに成功して、楽しかったし嬉しかったんだ。だから、同じ楽しさや達成感を軍楽長さんにも味わって欲しかった。ただそれだけだよ。軍楽長さんを馬鹿にしたと言われれば、返す言葉もない。すまなかった」
正直に話しただけのつもりだった。雫は怒りの表情のまま、数秒間固まってしまった。
「えっ……あ、貴方、一体何を……え?」
混乱する雫にそーっと忍び寄った寿子が、背後から抱きつく。
「ひゃあっ! わ、渡辺中佐? 渡辺中佐は、海軍に男がいても構わないんですか? 乙女共栄圏の理想は……」
「いいですかあ軍楽長、未来人さんは海軍の運命、この戦争の趨勢を左右する特別な人なんです。それに未来人さんは、私達海軍乙女に死んで欲しくない、自分の身はどうなっても構わないから海軍のために尽くしたい、そう山本長官に願い出たんですよお。ね、長官?」
いやそこまで言ってない、盛り過ぎだろと思ったが、五十子はにっこり頷いてしまった。軍楽隊はじめその場の少女達にまじまじと見つめられ、訂正するタイミングを逃す。
「そんな……私達のためにそこまで」「もういいんじゃないですか軍楽長。良い人ぽいですよ」「男は男でも陸軍みたいに偉そうじゃないし」「海を泳げるって意味では男より女に近いし」
今度は雫に視線が集まる。口をぱくぱくさせていた雫は、どうにか凛々しさを取り戻して寿子を引き剥がすと、こほんと咳払いした。
「し……仕方ないわね。皆がそこまで言うのなら。か、勘違いしないで下さい源葉さん、貴方を認めたわけじゃありませんから。渡辺中佐の持ってる本に出てくるような、は、破廉恥な行為を誰かにしたら、私、絶対に許さないですから! わかりましたか!」
「ああ、うん。寿子さんの業がいかに深いかよくわかったよ……」
「ところで、賭けの決着はどうしよう?」
五十子が「うーん」と悩むポーズをとった。束が大きく息を吐き出す。
「……面倒臭えから引き分けで終わり、でいいんじゃねえか。そもそも言っちゃあなんだが、仲間として認めるかどうかなんてのは個人の気持ちの問題だ。賭ける対象じゃねえ」
「うん、言われてみれば。束ちゃんの言う通りだね!」
自分の誤りを指摘されたのに五十子は満足げだった。
後で聞いた話によれば、大和一の男嫌いで知られる軍楽長が折れたことで連合艦隊の中で洋平がいることに公然と異を唱える者はいなくなったらしく、4月13日は海軍史上のある意味でのターニングポイントとして記録されることになる。




