深夜の発端 2
それが起きたのは今日の午後九時。時間にして五時間前の出来事だという。
なにげなく自分の部屋にいたとき不思議な低い音が聞こえてきたらしい。
「初めは耳鳴りかと思ってたんだけど、何度も聞こえるからこれは違うんだって気付いた」
音は繰り返し聞こえてきた。次第にはっきりと、大きく鮮明に。
あるとき気付いた。それは単なる音ではなく声だったのだ。それも誰かに呼びかけるような声だった。
「夏休み前半最後ってことで夕練が特別にキツかったからね。ベッドでぐったりしてて、そういうこともあるのかなーって気にしなかったんだけど」
東海も遥も今は夏休み期間中であるが、部活はある。部によって異なるが、遥の陸上部は主に使うグラウンドが日が照っていると火が付くほど暑い。なので日が落ちて涼しくなる夕方から日没までが夕練の時間となる。
その陸上部も盆休みに入って一時休止となった。たった二週間だが、遥にとってはようやく訪れた短い夏休みだ。そのことでハイテンションになってこんな夜中まで起きているのであれば戒めねばならないと東海は思った。
「ついには普通に聞こえるぐらいになった声はなんと驚き、わたしを呼んでたの!」
「なんて言ってたんだ?」
「えっ? えっとね……ハルちゃんって」
「ふむ」
その後、幽霊とのファーストコンタクトに成功した遥はすぐに幽霊の悩みを聞き始めたという。
だが、意思疎通はなかなか上手く行かず、幽霊の彼女が伝えたいことを理解するのにこんな深夜までかかった。
「それで俺のことを好きだと?」
「だよだよー。その子は伝えるの明日でも良いって言ってたけど、恋バナだしね。いつ言うのさ、今でしょ! って思ってさ」
「こんな真夜中に相談を持ちかけた理由がお前のわがままだというのはよく分かった」
「ぎゃあ!」
「ふう……なるほどな」
遥の話は起こった出来事を思い出しながらだったので時折考え込んだり、妙にたどたどしい口調だったりと怪しい部分が多かった。とはいえ、もとが突拍子もない話なのだ。あらゆることを飲み込んで、とりあえず納得することにした。
「信じたわけじゃないけど事情は理解したよ。それで、何をして欲しいんだ?」
「えっ?」
遥は目を丸くする。
「だから、そんな話が本題じゃないだろ。俺には幽霊だという女の子の姿どころか声も聞こえないんだぜ」
「う、うぅ……」
当然の意見だったが、遥は言葉に詰まる。
「もしかして何も考えていなかったのか?」
「そんなことは、ないんだけど、さ……」
呆れ混じりの追及を受けて遥は歯切れ悪く呟く。
東海が真っ直ぐ視線を合わせようとすると遥は慌てて目を逸らした。それを見て東海は長年の感覚から推察する。これは何かまずいことに気が付いたか、あるいは何も考えていなかったときの反応だ。
さすがに我が妹の頭が空っぽであるという事態は考えたくないので前者を採用する。そうなると遥の行動は余計に分からなくなるのだが。
東海はそれとなく助け舟を出して様子を見ることにした。
「一般論だけど普通は仲人のやることといったらお見合いとか、デートのセッティングとかをするものだろう」
ただ幽霊に対して一般論が通用するならな、と付け加える。
「うーん、そういうんじゃないんだよねー。なんていうか、兄さんに動いてほしいというか……」
「曖昧だな」
案の定というか遥の反応はいまいちだった。段取りの悩みではないのかもしれない。
「ちょっと待って、考えるから」
「……分かった」
むむむ、と頭を悩ませる遥をぼんやり見つめながら東海も幽霊について考えようとした。だが、すぐ取り留めのない思考になったので止める。
幽霊。霊魂。死せる魂――目に見えはしないが、なぜか付きまとうものたち。
東海にとって幽霊は存在しないものだ。かつてそういう結論を出した。今更になって覆すわけにはいかない。
(恋する幽霊か)
遥が可哀想に思って応援するのは分かるが、所詮は報われない恋だ。なにせそもそもが一方通行で、相手役たる当の自分がこんなにも乾いた人間なのだから。幽かな彼女が本当にいるとしても、やはり意味のないものだ。