深夜の発端 1
「ねえ兄さん、その、相談したいことがあるの」
部屋にやってきて妹の遥は開口一番にそう言った。
暑苦しい熱帯夜だった。
扇風機の首が左右にせわしなく動いて懸命に空気を撹拌している。手元を照らすスタンドライトがじりじりと室温を上げ、額にはじんわりと汗が滲む。脇にはすっかり氷が溶けて薄くなった麦茶のコップ。そして頭から剥がして久しいジェルの冷却シートが放置してある。
「相談って、こんな時間からか。明日でいいだろ」
その兄、東海は時計を見て、げんなりする。
現在時刻は深夜を回って午後二時ジャスト。最後に時計を確認したのが、夕飯を食べた八時を少し過ぎたところで、それからずっと机に向かって勉強をしていた。その間、六時間を脇目もふらずに参考書とのにらめっこに費やしていたことになる。疲れきった体は一刻も早い休息を欲しており、東海もそのつもりでいた。
制止したのは妹の言葉だ。遥は強い口調で告げる。
「ダメなの、ううん。この時間じゃないとダメかも。昼間だと、信じてもらえないと思うから……」
声には切迫した気配があった。
今からぐっすり眠ろうかというところなのに、東海は思わぬ厄介事の到来を感じてしまう。
「信じる必要があるような内容なのか」
「うん。信じてもらえないと、始まらないから」
「相談には乗ってやりたいが」
「お願い、兄さん」
話を切り上げようとしたが、遥は応じようとしない。
珍しいことだった。
二つ歳が離れている妹とは話すことはあまりなく、東海達は仲の良い兄妹とは言えない関係だった。遥が兄に相談を持ちかけることも、そしてここまで頑なな姿勢を示すことも普段ではあり得ない。
何かがあった――それは人心に疎い東海にも察せられるほどだ。
瞳には決意の色。なんとしても話を聞いてもらおうという強い意志がありありと伝わってくる。
仕方がないか。
「わかった、聞くだけ聞くよ。力になれるかは分からないけどな」
「ありがとう。長い話になるかも……」
どうやら寝かせてはもらえないようだった。
=
東海達はリビングに移動した。
風がよく通るおかげか東海の部屋とは違ってかなり涼しい。そもそも東海の部屋は空調を入れていなければ外の気温に影響されて夜中でもぐんぐん暑くなっていく悪環境なのだ。
ついでに水分補給をしていると後ろを付いてきた遥が話を切り出した。
「恋している人がいるんだ」
「あ、ああ……そうなのか」
驚いて、水が鼻に逆流する。鼻の奥がツーンと痛むが、今の言葉を追うほうが先だ。
「なあ、相談って恋愛相談?」
「……まあ」
遥の控えめな首肯に出鼻をくじかれた気分になる。
「そ、そうか……努力はしよう。だが、そういった方面は力になれるかどうか」
そういった情緒的な分野は苦手な部分だった。好いた惚れたについては東海も経験があるが、どうにも持て余してしまった苦い記憶でしかない。
「なれるよ、きっとなれる! だって兄さんだもの」
「いや、俺だぞ?」
「大丈夫、大丈夫。肝心なとこは絶対に外さない、わたしの自慢の兄さんじゃない。もっと自信持って!」
「そう言われてもな」
妹の誉めそやしに困惑するが、そこまで言われると逆に自分にしか解決できない類の悩みなのかもしれないと当たりをつける。
あるいは、自分と同じような堅物が相手か。
「それで、どんなやつを好きなんだ?」
改めて遥を見る。
母に似た柔らかな面差しに、ほっそりと引き締まった体付き。しっとりとした髪は色々な髪型を作れるセミロングの長さ。
中学から高校一年の今まで一貫して陸上部に所属しているためかさっぱりとした性格だ。意外と細やかなことに気がまわる。悪戯好きな一面もある。
兄として言いたいことは色々あるが、贔屓目を抜いても美人だろうし、親しみやすい人格だ。
気の回らない兄貴が気付くまでもなく、恋人のひとりぐらいいてもおかしくはないだろう。
だが、東海の言葉に遥は首を傾げる。
そして合点がいったように手を合わせて言う。
「あ、違うのよ? わたしが恋してるんじゃなくて、恋している人を応援してるの」
「それを先に言え」
目の前にあった額に軽くデコピンをお見舞いする。
「あたっ、ごめんなさい」
額をこすりながら、てへへと笑う。
男子が見れば庇護欲を誘う可愛らしい姿。遥はそれをおそらく無意識でやっている。よくそれで女子の友達から嫌われないものだと思う。
「しかし、当事者じゃないっていうならかなり気が楽になる」
「それがそうでもないのよ。えっと、恋をしている相手がね、……兄さんだから」
「む」
油断していたところにガツンと来た。突然の指名に東海は押し黙るしかない。
話だけの色恋沙汰に直接巻き込まれる可能性が急浮上してくるとは思っても見なかった。背中を妙な汗が伝う。
だが、一方で疑問も出てくる。なぜ告白相手である自分に相談するのか。妹を通じた体育館裏への呼び出しなら内容まで言ってはいけないものだろうに。
顔を見て東海の疑問を遥も察したようで、その答えをなぜか回りくどく告げる。
「相談したいのは、そのことなのよ。彼女は、その、告白するのが難しい感じでね」
「どういうことだ?」
「うん、それがね」
遥はとても言いづらそうに呟く。
「その、…………幽霊なの」
「――――」
ドクン、と心臓が跳ねる。
なんで、それを――
虚を突いた言葉にいつでも持っている不安が引き出される。もう頭の中はパニック寸前だった。
「兄さん……?」
愕然とした様子の東海を見て、遥は心配そうに声を掛ける。
「なあ、遥……幽霊なのか?」
どうしてその名前を出すのか。聞き間違いではないか。
情けなくも震えを隠し切れない声で聞き返す。
「あっ、えと、幽霊っていうか、まあ幽霊なんだけどそういうのじゃなくて。えーと、ザンリュウシネン? みたいな? あは、あはは……」
遥はそんな兄に何を勘違いしたのかよく分からない弁解をした。
(落ち着け、取り乱すなよ、俺――)
いつも通り脳天気な妹を見て、なんとか落ち着きを取り戻す。
考えすぎだ。まさか、遥があの話をするはずがないのだから。
「大丈夫だ。しかし、幽霊ね。前置きをした意味が分かったよ。……とりあえず話を続けてくれ。ただし――俺はそうそう信じる人間じゃないぞ」
釘を差しておくことは忘れない。
どうやら遥は幽霊について東海がどう反応するか承知の上で相談に来ているらしい。
力強いうなずきを返して遥は自身の発端を話し始めた。
「分かった。まずね――」