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Unter der Rose ─告解─

作者: 結城 蒼璃



──坊や、ようく御覧。お前は今殆ど奇跡と言って違わないものを前にしているのだよ。ようく、ようく御覧。お前は生涯決して忘れることのない光景を目にしているのだから。




 それはまるで墓だった。

 木造の古い立派な母屋とは不釣合いな小屋が、庭の一角にひっそりと建っていた。白土の外壁に、明かりを取るためだけの小さな窓。額の際を湿らせるほどの日差しの中で、その小屋の周辺だけひんやりとした空気が凝っている。その雰囲気が、幼い私には墓のように思えた。

 あの日私は、父に連れられて葬儀に出席していた。七つか八つの子供には、故人がどういった人なのかも分からない。ただ、加特力の家で育った私の目には、仏教の慣わしの全てが暗澹としているようで、不気味なものとして映っていた。

 だからあの時私が厠へ行きたくなったのも、半分はあの空気から逃れるための方便であったのかもしれない。

 私は一人葬儀を抜け出して、そして道に迷った。

 確かに邸は広かったが、私を迷わせたのはそれ以上に私の幼さの所為であったように思う。裏庭に建てられた別棟の厠で用を済ませた後、座敷へ戻る道すがら、私は全く通った覚えのない庭に出た。いや、それは庭と言うにはあまりに荒れていた。地には雑草が生い茂り、庭の見果ては森のように木々が鬱蒼として暗い影を落としている。

 咽るような新緑の風に乗って、どこからか微かに経の音が聞こえてくるような気がして、私は心に焦りのようなものを覚えながら引返そうとした。だがその矢先、私は陰鬱とした緑陰の中に、墓を見たのだ。

 引きつけられるように、いつの間にか私はその庭に足を踏み入れていた。踏み出すたびに、ちいさな羽虫が足元を舞う。

 小屋の左手にある戸口は開け放たれており、私は頻りに目を凝らしながらその暗い室内を遠巻きに窺っていた。明るい陽光に慣れた目は、なかなか陰を見ようとはしない。私が漸うその小屋に人影を見たのは、大分時が過ぎてのことだった。

 幽暗の中に、青年が立っていた。

 揃えたばかりの項を清々とさせた青年は、黒い三つ揃いの、上着だけを腕にかけた姿で横顔を見せていた。青年は私のことには全く気付かぬ様子でじっと何かを見つめている。そうするうちに、青年は視線の先に手を差し延べた。青年の指の先にあるものは、私が立っていたところからは良く見えなかった。

 私は気配を忍ばせて小屋に近付いた。私が覗きこむように小屋の中を見ると、青年の前には全裸の女が立っていた。陰の中の更なる暗がりが私の視線を柔らかに遮っている。ただ、女は黒い豊かな髪を白い肌へと垂らし、目を伏せたまま微笑んでいるように見えた。その女の頬を青年の指が静かになぞり、体の線をたどっていく。そしてついには徐に跪き、女の足に唇を落とした。私には青年が泣いているように見えた。

 この光景を思い出すとき、私の記憶の中は恐ろしい程の静謐に満たされる。記憶されるべき音が全くなかったというわけではない。音そのものを記憶していないわけでもない。ただ、音の全てが風景と溶け合い、絡み合い、視覚と混在したまま私の記憶の中にある。

 私はその場から逃れることができなかった。杭で打ちつけられたかのように足は重く、私はその場に立ち尽くしていた。その時の私には、それは随分と長い時間に思えたが、実際は大して時間が経っているわけでもなかったのだろう。

 暫くすると青年は立ち上がり、ゆっくりと私の方に顔を向けた。私と視線が合っても驚くでもなく、青年は無表情に私の目を見返していた。私の足はより一層地に貼り付けられたようになり、私はまるでその庭に長いこと放置されている置物のようだった。頭の奥には、先ほど聞いた経の声がこびり付いている。

──おいで。

 青年の唇がそう動いた。途端に私の足は何物かから解放され、気付いた時には青年のいる小屋の中に入り込んでいた。青年に導かれるようにして板の間に上がると、すぐ左手に女が立っている。

 青年が、背後からしなだれかかるように私を抱きすくめ、耳元で囁いた。

──坊や、ようく御覧。お前は今殆ど奇跡と言って違わないものを前にしているのだよ。ようく、ようく御覧。お前は生涯決して忘れることのない光景を目にしているのだから。

 その声が途切れたと同時に私の視界が開けたように感じた。

 それは──。


 それは女ではなく、人形だった。


 一旦闇に慣れた目は、驚くほど鮮明に陰の中のものを映し出す。私はその濡れた睫毛に縁取られた、震えるような瞼を見た途端、頭の芯が熱くなるのを感じた。

 ほっそりとしたその体は、柔らかく匂い立つように朱が差して、熟れた果実の様に瑞々としている。無造作に揃えられた、赤く透き通るような細い指先は、それだけで言葉を語るようだった。唯一の小さな窓から入る薄明かりの中で、その人形は息づいていた。

 それは決して人ではなく、いや、この世に存在する全てのものと異なっていたが、絶対的なものであるのは間違いなかった。

 私が思わずその肌に触れようとすると、青年は私の手を静かに制止した。

──触れてはいけない。触れてしまったら、もうお前はきっと元の世界には戻れないよ。私にだって良心と云うものがある。一生を狂わせてしまうには、あまりにお前は幼すぎる。

 青年のその言葉がもたらした一瞬が、私に自分の罪を悟らせた。

 洗礼を受けた身でありながら、私は目の前に立つその人形に、間違いなく神性を見出していた。それに気付いた時、私は自ら犯した罪の大きさにおののく一方で、それが価値ある罪のようにも思えていた。しかしそのことが、私の中の罪悪感をさらに増幅させる。

 青年の言った通り、これから私がどう足掻いても生涯この人形を忘れることが出来ないだろうことを、その時私は確かに感じていた。



             *+*



──かく覚えたる罪と覚えざる罪とをことごとく痛悔し、これが赦しと償いの恩典を請い求め奉る。

 告解室でその言葉を耳にするたび、あの日の忌まわしくも凄艶な記憶が脳裏をよぎる。

 あれから私は、自らの罪を悔い改めるように、自らの不信心を否定するように、信仰に没頭し、いつしか聖職者になるための道を歩んでいた。だが、どうしてもあの日のことを告解することは出来ずにいた。時が経ち、私の信仰が深まれば深まるほど、背教の罪が重く圧し掛かり、私の口を重くしていく。そして、私は私の最大の罪を告解することなく叙階を受けた。

──霊父の御名によりて汝の罪を赦さん。

 告解者にそう告げる私の胸には、未だ秘めたままの罪がある。日の光の遮られた告解室では特にあの日の小屋の記憶と重なり、一層私の中の罪悪感が浮き彫りになった。

 それまで衝立の向こうにいた少年が去り、新たに人の入ってくる気配があった。

 私は今、司祭としての役目をもこなせてはいない、少年の立ち去る音を聞いて私は即座にそう思った。しかし何故今そんなことを思ったのか、自分にも分からなかった。

「我罪を犯せしによりて……」

 新たに入り来たその人物の告解が始まる。

 先程の少年と言い、この人物と言い、あまりこの教会に出入りしていない人の来訪が今日は多いようだった。それでも私は、今この部屋にいる男のその気配と口調に何故か胸の奥がうずくような懐かしさを覚えていた。

「霊父のご祝福を請い願う──だったか」

 狭く薄暗い告解室の中に響くその声は、たどたどしく、どこか恥ずかしげだった。

「何しろ告解も九年ぶりだから──」

 その言葉を聞いた途端、私は告解室を飛び出した。確かにこの声には聞き覚えがある。私は信者の部屋の扉を勢い込んで開けた。

「わざわざ告解者の顔を見にくる神父がどこにいる」

 暗みで苦笑している男の顔が目に入った。椅子に座らずに立ったままの姿が、彼が告解をしに来たのではないことを如実に表していた。

「告解をする気もないくせに苛めないでくれ」

 男が暗がりの中から差し出した大きな手を私は握り返し、告解室の外に連れ出した。

「久しぶりだな」

「ああ、本当に」

 男は和装に黒いインバネスといった出で立ちで、中折れ帽と黒い手袋を手にしている。

 高等学校の卒業式以来だった。

 寮が同室だったこの男とは、卒業してからも連絡を取り合うような親密さはなかったが、寝食を共にする関係としては理想的だったように思う。 

「良くここが分かったね」

「ブン屋の情報収集能力を侮ってはいけない」

 記者になったと言うことは風の噂に聞いていたが、それは学生時代の記憶しかない私にとって直感的には理解し難かった。だが、今目の前にしているこの男からは堂々とした風格が滲み出て、記者として人として確かな経験を積み重ねてきたのであろうことを窺わせた。とても自然に馴染んだ口髭が、それを良く表している。

 その口髭の端が、突然くっと歪んだ。

「まあ、三木に聞いただけだがな」

「父と見知っていたようだから、彼なら知っているだろうね」

 私もつられて笑いながら、学生時代に思いを馳せる。けれどもそれは、どこか薄ぼけたものでしかなかった。

「画廊は」

「とうに買い取られたよ。継ぐ人間がいないからね。父は天国でさぞ悔しがっているだろうけれど」

「いいじゃないか、息子が司祭になるなんて基督教徒としては名誉なことだろう」

──多分、父がクリスチャンだったのは、西洋への執着のようなものだったと思うよ。

 そう言おうとして、言葉を呑んだ。

 そして、「ああ、」と曖昧に呟く。


「まだうなされることがあるか」

 思いもよらなかった言葉に、私は薬缶を手にしたまま振り向いた。

 聖堂の奥にある私の私室は、達磨ストーブに熱せられた空気と冷気がまだ馴染んでおらず、気持ちが悪い。

「人形がどうのって」

 切り出した木材をそのまま組んだような無骨な卓に肘を置き、男は卓上を見つめている。

 学生の頃、真夜中にうなされている私をこの男は幾度か揺り起こしてくれた。 一度や二度ならその原因を黙っていることもできただろうが、それが幾度も続けば話さぬ訳にはいかなかった。

──夢に人形が出てくるんだ。

 私は彼にあの人形の話をした。考えてみれば、あの人形のことを話したことがあるのは、後にも先にもこの男にだけだった。ただ、私はあの光景を鮮明に思い返し、それを忠実に語りはしたが、私の胸の内に巣食う負の部分だけは決して口に出さなかった。

──そんなに美しいものを見て、何故うなされる。

──中てられたんだよ。

 彼はその後「それほどに艶かしい人形なら俺も見てみたい」などと言っていたが、私は笑ってやり過ごした。

「あれはまるで凍死体の様だったよ」

「え?」

「あんな人形、初めて見た」

「人形」

 私は火にかけた薬缶を凝視したまま、無意識に呟いた。

「明治期に活躍した稀代の人形師の作だそうだ。宮原……春宵といったか」

 無意識に私は窓の外の薔薇の木に目をやった。いくら世話をしても花一つつけない憎らしいその木は、今は雪に降られて痛々しい。

 私は──宮原春宵という名に聞き覚えがあった。

「彼の死後、彼の最高傑作といわれているものだけ行方不明になっていたらしいのだが、先週、麻布にあるさるお屋敷の"開かずの間"から、その人形が見つかった」

「取材で」

「ああ。大学の同窓の男がその家の主の従兄弟で、口を利いてもらって間近に見せてもらったが──」

 声が途切れる。我に返ると、ストーブの上で薬缶が白い湯気を出して音を立てていた。私は薬缶を下ろして急須に湯を注ぐ。

「妹の市松人形やら仏蘭西人形とはまるで違う、心臓を鷲掴みにされるくらいの壮絶な美しさがあったが、同じだけ、禍々しさがあった」

 私は無言で入れた茶を差し出し、友人の前に腰を掛けた。

「あの人形を見たら、すぐお前のことを思い出してな。もしお前が見た人形もあんなだったとしたら、うなされるのも頷ける」

「うなされるのか」

「さすがにこの歳になってうなされるもないがな」

 男の目が微かに和らいだ。

 恐れを含みながらも、堂々と何の臆面もなく語られる彼の言葉が、とても私には重かった。私は彼のように自分の恥部を言葉に出すことが、とても恐ろしい。私にはこんな風には語れない。

「私はうなされるよ。夢も見る」

 私は辛くもそれだけの言葉を放ち、湯呑みに口をつけた。

 彼の言う禍々しさに心の底から囚われている自分が惨めに思えた。


 庭の薔薇が徐々に雪に埋もれていく。もう何日雪が降り続いているのか。

 私はかつての友人が帰った後、椅子に座ったまま記憶をたどっていた。最早二十年も前のことになるあの日のことは、瞼の裏にくっきりと焼きついているというのに、たかだか十年前のことが思い出せない。

 薔薇の木が雪の重さに耐えかねて、ばさりと雪を振り落とした。薔薇の枝がゆらゆらと揺れている。

 あれも高等学校の頃のことだ。

 いつぞや読んだ小説には「桜の樹の下には屍体が埋まっている」などと書かれていたが、西洋で死体と縁深いと言えば薔薇なのだという。授業の最中、独逸から赴任してきていた先生が思い出したように言った。

──薔薇の木の下に屍体を埋めると、決して見つからない。

 この言い伝えと共に「unter der Rose」と云う言葉も教わった。

 「薔薇の木の下に」と言って「秘密」と云う意味を持つ言葉、そして見つからない屍体。薔薇と云う一つの美しい楔を介した、なんと淫靡な符合だろう。薔薇と屍体と秘密。背教的でありながら、私はその罪悪の甘い痛みに否応なく惹きつけられ、聖書を暗唱したその口で「unter der Rose」と呟く、その倒錯に酔ったりもした。それはあの人形に対しての感情と似て、時が過ぎれば当然のように罪悪感へと変わった。

 二年前にこの教会に着任してからというもの、駆り立てられるようにこの薔薇の世話をしていたのは、自らの罪を償いでもするつもりだったのかと、私は初めて自分の本心に思い当たった気がした。

 そして私は、以前そんなことを人に尋ねられたことがあったと、はたと思い出した。



              *+*



「今日も薔薇の世話をしていらっしゃるのですか」

 長く降り続く雪もまだ降り始めてはいない師走の初めの頃のことだった。

 突然の声に私の手が止まる。どこから聞こえてきたのか分からず辺りを見回した。その私の戸惑いを鋭く感じ取ったのか、その声の主は「ここです」と言いながら薔薇の木の背面に立つ壁をほとほとと叩いた。壁の向こうは中学校の裏庭で、恐らくはそこの学生なのだろう。

「何故分かるのですか」

 壁は混凝土製で私の背丈よりも高く、私の方から彼を見ることは出来ない。なのに彼にはこちらのことが分かる様子なのが不思議で、そう尋ねた。

「いつも窓から見えるのです」

「窓」

「三階の教室の窓」

「ああ、」

 見上げると確かに、校舎の窓が夕日を反射させていた。

「いつも薔薇の世話をしていらっしゃるでしょう。ここを通りかかったら物音がするから、今日も甲斐甲斐しく世話をされているのかと」

「甲斐甲斐しくしている割にはつれない相手ですが」

 壁の向こうで少年が小さく笑う。

「去年も今年も鳴かず飛ばず。ただただ薔薇への知識が増えるばかり。これだけ世話をしていても、私はこの木がどんな色の花をつけるのかさえ知らないのですから、寂しいものです」

 私は雑草をむしりながら恨めしく薔薇の木を見上げた。

「神父様のいらっしゃる前からその薔薇は花をつけませんでしたから。前の神父様は薔薇に執着がなかったようですし」

 少年の声が、ふと翳ったように思えた。

「植え替えてやれるといいんだろうけれどそんな大仕事はなかなかできませんしね。せめて動物性の肥料でもやれれば違うのでしょうが」

 大分日も傾いて手元が冷えて来た。私は泥だらけの手に息をかけ、指を温めるように軽く握りこんだ。

「今日はこれで終わりにしようと思いますが、どうですか、こちらへいらっしゃいませんか」

「教会へですか」

「私の部屋に。お茶でよければご馳走しますよ。そちらも寒いでしょう」

「いいえ、今日は帰ります。母が死んでからもう随分長いこと教会へは行っていません。それなのに、お茶だけ頂きに行くのは虫が良すぎますから」

「それでは今度一度教会の方にいらっしゃい。それからお茶を頂きましょう」

 そう声をかけると少年は小さく礼の言葉を述べて、一瞬何かを考え込むように黙り込んだ。

「何故そんなに熱心に薔薇の世話をなさるのですか」

 私は薔薇の根元に向けていた顔を、上げた。無論私の目の先には壁があり、少年の顔を見ることは出来なかった。

 私は少年の問に心の内をにわかにざわつかせながらも、その時は自分がこれほどまでに薔薇に執着する理由が全く分からなかった。

「薔薇は咲かなければ薔薇たる所以がありません」

 私はただ漠然とそう答えた。

 壁の向こうの声は私の言葉には何も答えず「咲くといいですね」と言いながら遠ざかっていった。

 私は少年のその言葉に、この薔薇のつける花をひどく見てみたい気分になった。

 しかし一度も薔薇は花を付けず、そして私は一日とてあの人形を忘れることなどできず、そして私は結局、夕方までかかっても今日訪れた彼の名を思い出すことはできなかった。


 まるで夜のような薄闇の昼から、狭間もわからぬほど静かに本当の夜はやってきた。

 降誕祭が近いこともあり、聖堂では大分遅くまで子供たちが聖歌の練習をしていたが、その子供たちも帰っていった。けれども、少年たちの透き通った声は、硝子の破片の様に数片私の胸を貫いたまま残っていた。

 聖堂には、弓形にたわむ高天井を支えるように彩色硝子が嵌められ、そのすぐ下に磔刑像が掲げられている。私は祭壇の前に立ち、ゆっくりとそれらを見上げた。子供たちの歌う聖歌の残響を聞きながら、私は跪き夜の祈りを捧げる。そして、右手の白い聖母像に向かい十字を切ろうとした瞬間、聖母像の微笑が記憶の中のあの人形の口元や目元を呼び起こした。

 私は逃げるように私室に帰り、短白衣を脱ぎ捨てた。

 その時私は、激しい自己嫌悪に陥る傍ら、狂おしいほどの劣情に駆られている自らの存在にも気付いていた。この二十年、二度と見ることは叶わなかったあの人形を私は毎夜うなされるほどに夢見続けてきたのだ。昼間私にもたらされた話が私の感情を突き動かさぬわけがなかった。

 私は灯りもつけず寝台に腰をおろした。

 画家になりたくて、仏蘭西への渡航を計画したものの結局資金の都合が付かずに頓挫し、けれども仏蘭西への未練は断ちがたく、その未練のためだけに洗礼を受けた父。そんな父を私は心のどこかで蔑んでいた。けれども、自分の信仰を試すように神父にまでなってしまった私の方が、よほど罪深い。

 突然大きな音を立てて、雪と共に冷たい風が吹き込んできた。鍵をかけ忘れた窓がキィキィと音を立てて揺れている。

 窓を閉めようと私が静かに立ち上がると、異様なものが私の目に飛び込んできた。無彩色のはずの窓の外で、暗闇の中に赤いものがちらちらとしている。私は、一瞬何が起こったのか分からなかった。

 そよとする風に、薔薇がその花弁を散らしていた。

 白い粉雪が舞う中で、薔薇が、花をつけている。雪の白さに深紅の大輪が良く映えた。どんなに世話をしても咲かせることのなかった花を、念願の花を、私は目の前にしている。それは美しくも、恐ろしい光景だった。

 私は夢でも見ているのではないかと外に飛び出した。けれども確かに私の頬は冷たい風を感じ、首筋を撫でる雪の冷たさに身は震えた。

 私の耳の奥では耳を塞ぎたくなるほど、子供たちの歌う聖歌が響いている。私は、その声を振り切るように一歩一歩雪を踏みしめながら薔薇の木に歩み寄った。

 ついに私が薔薇の木の前に行きつくと、薔薇の木の下に──。

──薔薇と、

 そっくり雪に埋もれたままその御手だけを夜に晒し──。

──屍体と、

 ある一つの確信を持って、私は、夢中で雪を──。

──秘密。

 私の薔薇の木の下には、ああ──。


 人形。


 幼い日に見たあの人形が私の目の前にあった。

 いや、あの人形ではない。私の腕の中にあったのは、少年の形をしていたのだから。けれども、けれどもそれはやはり、あの人形だった。

 その白い喉をのけぞらせ、今にも声を発しそうなほどに緩く開かれた唇からは、歯列が──いや、それどころか舌先さえも覗かせて、なによりもその血の通うかのように艶かしい肌は、幼き日の私に初めて罪の恍惚と恐怖とを同時に知らせしめたそれそのものだった。ただ違うことといえば、滑らかにさらさらと流れるはずの髪が、若干の湿り気をおびて額や頬にかかっているということ、そしてそれに私の指が触れているということだった。

 これ以上、私は私を欺くことは出来なかった。

 身の内から沸き起こる抗いがたい衝動に駆られ、私は──。


 私はその日から夜な夜なその人形との逢瀬を重ねるようになった。

 人を忍ぶように黒い円套を身につけ、教会の彩色硝子の落とす影を背に受けながら、毎夜毎夜花の散り落ちた雪を掻き分ける。

私はもう夢を見なかった。

 しかし、それから何日もしないうちに、雪は止んだ。

 降誕祭の前日、私室で夜の弥撒(ミサ)に備えていた私の目に、夕暮れの赤い光が射し込んできた。窓の外に目をやると、昼過ぎまではちらついていた雪がもうすっかり上がっていた。

 私が裏庭に出ると、薔薇の花が臙脂色の空気に掻き消され、降り積もった雪は見る間に融けていく。頭に血が満ちて私はぼんやりとただそこに立っていた。

 見上げれば中学校の窓が橙に染まっている。まだ雪が降っていなかったあの日と同じだった。

 私はふと、あの少年があの窓から何故あんなにも長い間薔薇を観察し得たのかと云う疑問に行き着いた。私がこの教会に着任してからもう二年が経つ。それ以前のことも彼は知っている様子だった。

 一目、後姿さえ見たことのない彼の、同年代の少年にしては大人びた声──あの声を、私はどこかで聞いたことはなかったか。

──このような体ではどれだけ生きてもどうにもならないのです。

 たちまちの内に響く少年の声。

 告解室に響く、少年の声。

 私はそれ以上何も考えられず、融けかけた雪に手を差し入れた。指先に触れる、雪とは違う冷たさ。

 私は淡々と雪を掻き分けていった。

 だが、私の人形は最早どこにも見つけることは出来なかった。

 私の手の甲を、完全に融けた雪が流れ落ちていく。

 その時私は、あの日やってきた友人の名を漸く思い出したような気がした。


 薔薇の木の根元には、散らばった赤い花弁を血の様にして、屍体が横たわっていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 大正時代のニヒルで甘美な印象を受けました。雰囲気がとても綺麗で、物語の世界に引き込まれます。近代の文学作品のような文体と風格が、とても素敵でした。
[一言] モノクロな情景。薔薇の花だけが赤く浮かび上がっている。そんな雰囲気を感じました。
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