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悪役令嬢 シリーズ

婚約破棄の記録係をしていたら、悪役令嬢の冤罪を晴らしてしまった 〜背景扱いの書記官、なぜか氷の令嬢にだけ溺愛される〜

作者: 白湯
掲載日:2026/10/13

王太子殿下が婚約者を断罪する夜、俺の仕事は、それを一字も漏らさず書き留めることだった。


王宮書記局、記録官補。ロイ・エルスト、24歳。夜会の壁際で記録板を構える、ただの背景だ。名前を覚えている貴族は1人もいない。それでいい。目立たず、出世せず、静かに定年を迎える。それが俺の人生設計だった。


この夜会の記録は、後日、正式な議事録として王宮の書庫に収められる。誰が、どの順で、何を言ったか。俺のペンが、その唯一の真実になる。……と、書記局では教わった。実際には、誰も読み返さない。


「リディア・クロイツェル。貴様との婚約を、ここに破棄する」


大広間の中央で、アルベルト王太子が声を張り上げる。楽団の演奏が止まり、300人近い招待客が一斉に息を呑んだ。シャンデリアの下、扇を揺らす音すら消える。


名指しされた公爵令嬢は、閉じた扇を握ったまま動かない。深い紺のドレスに、定規を当てたような背筋。22歳。「氷の悪女」と陰で囁かれている女性だ。


「理由をお聞かせいただけますか、殿下」


「とぼけるな。ここにいるミナを、貴様は3週間も陰で虐げてきた」


殿下の腕の中で、桃色の髪の令嬢が肩を震わせている。男爵令嬢ミナ・ペルシュ、20歳。王宮に上がって半年の侍女見習いで、殿下いわく「真実の愛」の相手らしい。


「私物を池に捨て、階段で背を押し、あげく3週間前の水曜の夜には、離宮の庭で突き飛ばして膝に怪我を負わせた。告発状も、証人もある」


侍従が恭しく差し出したのは、署名入りの告発状と、濡れて色褪せた小箱。壇上の玉座では、国王陛下が腕を組み、渋い顔で成り行きを見守っている。止める気はないらしい。


殿下の背後には、宰相の息子と近衛副長の息子が並び、したり顔でうなずいている。取り巻きは、こういうとき仕事が早い。反対側の壁際では、貴族たちが扇で口元を隠し、ひそひそと囁き合っていた。『やはり』『あの氷の令嬢なら』『いつかやると思っていた』。誰ひとり、確かめてなどいない。


俺は淡々とペンを走らせる。


『王太子アルベルト殿下、婚約破棄を宣言。理由、侍女見習いミナ・ペルシュへの虐待。犯行の日時、3週間前の水曜の夜』


そこで、手が止まった。


3週間前の、水曜の夜。


その夜、俺は王宮書庫の当直だった。閲覧簿の頁が、頭の中でめくれていく。


『リディア・クロイツェル。入室18時、退室23時10分』


閲覧席のいちばん奥で、古い治水記録を5時間も読み耽っていた令嬢。ランプの油が切れかけていたので、替えを持っていった。小声で「ありがとう」と言われて、こっちが驚いたから、よく覚えている。


離宮の庭から書庫まで、徒歩で20分。5時間ずっと書庫にいた人間が、同じ時刻に庭で人を突き飛ばせるはずがない。


しかも、その証人は俺だ。


背中を、嫌な汗が伝う。同時に、記録官規定の第7条が脳裏に浮かんだ。


『記録官は、場の発言に介入してはならない。違反者は罷免とする』


罷免。無職。故郷の母への仕送りが止まる。


実家は、北の農村の小さな畑だ。母が1人で守っている。書記局の給金から毎月送る銀貨が、畑の肥料と、母の膝の薬に化けている。俺の首は、俺ひとりのものじゃない。


……いや、待て。落ち着け。俺は背景だ。壁の染みだ。ここで手を挙げて何になる。王太子殿下と、その寵愛を受ける令嬢に逆らって、得をする人間がどこにいる。


そのとき、リディア嬢の視線が、壁際にちらりと流れた。ほんの一瞬。助けを求めるでもなく、責めるでもない。何もかも諦めきった人間の目だった。


……その目は、ずるい。


◇


俺は懐から、白紙の書式を引き抜いた。


書式第12号、訂正申立書。記録に誤りを見つけた記録官が、その場で提出できる、ただひとつの合法的な「口出し」だ。第7条の例外として、第12条にこっそり書いてある。存在を知っている人間は、書記局にも10人といない。


ペンを走らせる。日付、時刻、訂正事項、根拠となる添付書類。40秒で書き上げ、記録板を抱えて、大広間の中央へ歩き出す。足が震える。膝が笑う。それでも書式に不備はない。それだけが救いだ。


「恐れながら、記録官補ロイ・エルスト、書式第12号に基づく訂正申立を行います」


大広間が、凍りついた。


「き、貴様、規定第7条を——」


侍従長が真っ青になって叫ぶ。


「第12条の適法な申立です。読み上げ義務がございます」


紙面を持ち上げ、努めて事務的な声を出す。


「3週間前の水曜の夜、リディア・クロイツェル嬢は、18時から23時10分まで、王宮書庫の閲覧席に在室しておりました。当夜の書庫当直は私です。閲覧簿の原本は書庫にございます。離宮の庭までは徒歩20分。5時間書庫におられた方が、同時刻に庭で人を突き飛ばすことは、できません」


沈黙が落ちる。


「た、ただの書記が何を言う!」殿下の顔が、みるみる赤く染まった。「そんなもの、後から書き足せば——」


「閲覧簿を持て」


国王陛下の声が、大広間を静かに貫く。


近衛が1人駆け出し、5分後に分厚い帳面を抱えて戻ってきた。陛下は自らその頁をめくり、目を細め、しばらく黙り込む。それから、ぱたんと閉じた。


「……間違いない。リディア嬢の署名と退室の刻が、当夜の頁にある。筆圧もインクの乾き方も、後から足したものではない」


「そんなの偽造ですわ!」ミナが甲高い声を上げる。「あの書記が、リディア様に買収されて——」


「では、証人を」


陛下の視線が、告発状に名を連ねた侍女を探す。人垣の中から、若い侍女が押し出されてきた。がたがたと震えている。


「あ、あの……わたくし、その夜は休暇をいただいて、実家に帰っておりました……」


「では、何を見た」


「み、見ておりません。ミナ様が、『こう言ってほしい』と、お金を……」


ミナの顔から、血の気が引いていくのがはっきり見えた。


そこからは、あっという間だ。ミナは泣き崩れ、その勢いのまま叫んだ。


「わたくしは悪くありません! 殿下が、リディア様が邪魔だとおっしゃったから! 婚約さえなくなれば、わたくしが妃になれると!」


大広間が、ざわりと揺れる。


殿下の背後に並んでいた宰相の息子が、そっと1歩、後ろに下がる。近衛副長の息子は、2歩。3歩目で、2人とも人垣に紛れて見えなくなった。取り巻きは、逃げ足も早い。


「ま、待ってください! 証拠なら、他にも——」


「他にも、とは」


陛下の問いに、ミナは口をぱくぱくさせたまま、何も出せない。


殿下は口を開けたまま固まっていた。自分を庇うはずの愛しい令嬢が、自分の口から出た言葉を、300人の前で暴露したのだから当然だ。


見事な自爆。


国王陛下は深い溜息をひとつ吐き、玉座から立ち上がる。


「婚約破棄は受理する。ただし、有責は王太子アルベルトにある。慰謝料として、王家の財からクロイツェル公爵家へ相応の額を支払う。アルベルトは半年の謹慎、王位継承順位は最下位とする。ミナ・ペルシュは、偽証および虚偽告発により王宮より追放。男爵家には罰金を課す」


「ち、父上!」


「黙れ」


一言だった。殿下は糸が切れたように、その場へ座り込む。


衛兵に両脇を抱えられたミナは、退場の間際まで「わたくしは悪くない」と繰り返していた。誰も、振り向かない。


人垣の奥では、白髪交じりの男が青い顔で立ち尽くしていた。クロイツェル公爵。娘を庇うどころか、告発のあいだ目を逸らしていた父親だ。陛下の視線が、そちらへ向く。


「公爵。そなたは、自分の娘の言い分を、一度でも聞いたのか」


「……いえ。その、王家のご意向に、逆らうわけには」


「聞かなかったのだな」


公爵は、それきり何も言えなくなった。


床に座り込んだまま、殿下が這うように手を伸ばす。


「リディア……待て。やり直そう。僕には、君しか——」


「殿下」


静かな声。リディア嬢が、扇を持ち直して一歩前に出ていた。


「婚約破棄は、喜んでお受けいたします。ただ、今後は私の名を、そのようにお呼びにならないでください。……貴様、と」


氷の微笑。会場のあちこちで、令嬢たちが小さく息を漏らす気配がする。悪女なものか。この人は最初から最後まで、ただ真っ直ぐだっただけだ。


「して、記録官補」


陛下の声が、俺に向いた。


「は、はい! 罷免でしょうか!」


「訂正申立書は、書式第12号に則り、添付書類の指定も、読み上げの作法も適切だ。受理する」


陛下の口元が、わずかに緩む。


「……お前、名は」


「ロイ・エルストと申します」


「覚えておこう」


覚えないでほしい。心の底から、そう思った。


侍従長が、ひきつった笑顔でこちらを見ている。さっき「罷免」と叫びかけた口が、ぱくぱくと動いていた。ざまあみろ、とは、さすがに思わない。ちょっとだけ、思う。


……そのとき、上階の観覧席から、視線を感じる。扇で顔の半分を隠した少女が、こちらをじっと見ていた。第二王女、セシリア殿下。目が合うと、扇の陰で、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


◇


夜会は、そのまま散会となる。


記録板を抱えて回廊の隅で息を整えていると、背後から声がかかる。


「エルスト記録官補」


振り向けば、リディア嬢が立っていた。近くで見ると、思っていたより小柄だ。ドレスの裾を握る指先が、かすかに白い。


……名前を、呼ばれた。書記局に入って3年、俺を「おい」以外で呼んだ貴族は、この人が初めてだ。


「先ほどは、助かりました」


「記録が間違っていたので、直しただけです」


「……そう」


彼女は少し黙り、それから、ふっと息を漏らす。笑った、のだと思う。氷の令嬢の笑顔は、想像よりずっと年相応で、心臓に悪い。


「どうして、俺の名前を」


「閲覧簿の当直欄に、書いてあったもの。3週間前の水曜、ランプの油を替えてくださった方でしょう」


覚えていた。あの小さな「ありがとう」の主が、俺の顔も、名前も。


「あの子が本当に困っているのなら、力になるつもりでした。……随分、見誤りましたけれど」


「お人好しですね」


「あなたに言われたくありません。罷免覚悟で手を挙げる書記など、聞いたことがないわ」


「罷免は、されませんでしたが」


「結果論です」


図星なので黙る。


リディア嬢は、扇を胸の前で握り直した。


「実は、困っているの」


聞けば、殿下有責の裁定が下ったとはいえ、父の公爵は「王家と揉めた娘を手元には置けない」と、辺境の修道院へ送る手配を始めているという。


「父は、昔から体面だけの人だから」乾いた声だった。「今夜のことで、それが少しだけ、はっきりしたわ」


「王都に残る手段は、ひとつだけ。私が自分の名義で家を借り、人を雇うこと。……あなたを、私設書記として雇いたいの。書記局との兼務で構わないわ。今の給金の3倍、出します」


「3倍!?」


声が裏返った。3倍。仕送りを増やせる。母さんの膝の薬も、いい物に替えられる。


「それから、もうひとつ」


彼女は視線を逸らし、耳の先を赤くする。


「私は、借りを作ったままにしておくのが、嫌いなの。あなたには、必ず返します。……覚悟しておいて」


覚悟、とは。借りを返される、とはどういう事態なのか。この時点の俺には、まるで想像がつかない。


「あと、名前で呼んでください。『令嬢』は、もう聞き飽きたの」


「リディア、様」


「……様も、要りません」


なんだこの人。かわいいぞ。


◇


翌朝、書記局に出勤すると、廊下の空気が一変していた。


すれ違う同僚が、みな一斉に道を空ける。壁の染みだった俺に、である。


背後で、ひそひそ声がする。


「ほら、昨夜の」「エルバートだろ」「エルストだ」


3年目にして、俺はまだ、間違った名前で呼ばれている。


「エルスト」


呼び止めたのは、上司の記録官長だった。禿げ頭に汗を浮かべ、手には俺の名前が書かれた紙束を持っている。


「昨夜の、あれだ。書式第12号。……あれが何年ぶりの提出か、知っているか」


「存じません」


「28年ぶりだ! 前回の提出者は、私だ!」


初耳だった。目の前の上司が、28年前の当人らしい。


「あのときは、提出した直後に左遷された。北の分室で、10年、羽虫を数えていた」


「……今回は、罷免を免れました」


「陛下がお認めになったからだ。運が良かっただけだと思え。……だが」


記録官長は、声を潜める。


「よくやった。あの場で、書式を間違えなかった。それだけで、お前は私の後輩として誇らしい」


差し出された手を、握る。分厚い掌が、少し湿っている。


「それから、これを」


渡されたのは、兼務の許可証だった。リディアの私設書記との兼務。昨夜のうちに、手配してくれていたらしい。


壁の染みにも、味方はいるものだ。


屋敷の準備が整うまでの3日間で、俺は荷物をまとめた。


◇


3日後。俺は王都の外れにある、小さな別邸の玄関に立っていた。


庭は雑草だらけで、玄関の扉は蝶番が緩み、開けるたびに悲鳴のような音を立てる。前の住人が去って、5年は経つらしい。公爵家が用意した、というより、押しつけたのだろう。


「ようこそ。……散らかっているけれど」


出迎えたリディアは、袖をまくり、髪をひとつに結んでいた。手には雑巾。氷の令嬢が、雑巾である。


「ご自分で、掃除を」


「使用人は、昼間に通いで来る家政婦のマルタだけなの。日が落ちれば、この家には、私とあなたしかいないわ」


さらりと言われて、俺の喉が変な音を立てる。


「あなたの部屋は、2階の東。隣が私の部屋よ」


「近くないですか」


「主人のそばに書記がいるのは、当然でしょう」


理屈は通っている。通っているが、耳の先が赤い。


その晩、リディアは、俺の前に1冊の帳面を置いた。


「返済台帳。あなたが記録して」


「……は?」


「私は、あなたに借りがあります。それを、書き留めなさい。書記でしょう」


表紙には、几帳面な字で『返済台帳』とある。


言われるまま、1行目に書く。『冤罪の解消 未返済』。


「では、返済します。まず、給金。相場の3倍」


「それは、契約上の給金では」


「返済も、兼ねています」


台帳に書く。『給金3倍 返済分に算入』。


翌日、リディアは仕立屋を呼んだ。


「あなたの礼服を作らせるわ。夜会で恥をかかないように」


「書記は、夜会では壁際です」


「では、壁際でいちばん上等な、壁の染みになりなさい」


……上等な染み。書記局3年で、初めて受けた褒め言葉かもしれない。


採寸に来た仕立屋の老人は、巻き尺を俺の肩に当てながら、愛想よく言う。


「では、エルバート様、腕を上げてくださいまし」


「エルストです」


「これは失礼、エルスタード様」


「ロイです。ロイ・エルスト」


「ロイ・エルスタード様」


もう、それでいい。諦めかけた俺の横から、氷点下の声が飛ぶ。


「ロイ・エルスト。エ、ル、ス、ト。次に間違えたら、仕立ては別の店に頼みます」


老人が、ぴしりと背筋を伸ばす。以降、一度も間違えなかった。


3年間、誰にも直してもらえなかった名前を、この人は、一瞬で直してみせる。


台帳に、『礼服1着 返済分に算入』。ペンが、少しだけ震える。


3日目。彼女は、台所の前で腕を組んでいた。


「今夜の夕食は、私が作ります」


「リディア様、包丁は」


「持ったことは、ありません」


堂々と言うことではない。


1時間後。食卓に並んだのは、原型を留めない黒い塊だった。肉のつもりらしい。炭だ。


「……焦げているわね」


「はい」


「捨てましょう」


「いただきます」


俺はフォークを取り、塊を口へ運ぶ。苦い。かなり、苦い。それでも、全部食べる。


「どうして、そこまで」リディアが、呆然と俺を見る。


「出されたものは、食べます。記録官ですから」


「関係ないでしょう、それは」


「関係ありません。言ってみただけです」


彼女は、ぷっと吹き出し、それから慌てて口を押さえた。


残りの夕食は、俺が台所に立って作り直す。実家の畑仕事の合間に、母の代わりに飯を炊いていた男だ。玉ねぎと干し肉のスープに、固いパン。それだけの、質素な一皿。


「……美味しい」


リディアはスープをひと口飲み、小さく呟く。それから、はっとしたように台帳を引き寄せた。


「台帳に、書いて。『夕食、返済』」


「いえ、これは、リディア様の失敗を俺が作り直した分なので、むしろ」


俺は台帳に書く。『夕食 借り増加』。


「……増えているじゃないの!」


「はい。返すたびに増えます。この調子だと、残高は算定不能です」


リディアは、両手で顔を覆った。耳が、真っ赤だ。


その夜のうちに、俺は屋敷内の生活規約を起案した。全3条。


第1条、食事当番は交代制とする。第2条、火の扱いは、当面のあいだ書記が担当する。第3条、他者の私室への無断立ち入りを禁ずる。


「第2条に、異議があります」


「却下します。趣旨は屋敷の安全です」


「……では、第3条に但書を。『主人が許可した場合を除く』」


「それでは、実質的に無効になりますが」


「そのための条文でしょう」


結局、第3条は但書つきで成立した。書記として、これほど敗北感を覚えた起案は初めてだ。


◇


その夜。屋敷の書斎で、俺は慰謝料の目録を整理していた。


王家から届いた財産目録は、3,000枚近い。書類の山は得意分野なので、苦にならない。……のだが、目録の4枚目で、ペンが止まった。


慰謝料の送金先が、『クロイツェル公爵家当主』になっている。リディア個人ではない。つまり、この金はまず、父君の懐を通る。


「……やられた」


公爵は、娘を修道院へ送ったうえで、慰謝料だけを手元に残すつもりだったらしい。娘の名誉を金に換えて、当人は辺境へ。体面だけの人、という評価は、まだ甘かった。


新しい書式を引き寄せる。書式第15号、送付先変更の申立書。宛名を、リディア個人に改める。明日の朝一番で、書記局に出せばいい。


2階で、床板の軋む音がする。リディアの部屋の灯りは、まだ消えていないらしい。


「まだ、起きていたの」


扉が開く。リディアだった。夜着の上にガウンを羽織り、髪を下ろしている。昼間の凛とした令嬢とは、まるで別人のようだ。


事情を話すと、彼女は少しのあいだ黙り込み、それから、薄く笑った。


「父らしいわ。……ありがとう。また、借りが増えたわね」


「はい。台帳に書きます」


「書かないで」


彼女は、ガウンの懐から、折り畳んだ紙を3枚取り出す。


「……これを」


3通の書簡。宛名は、どれも同じ。『ロイ・エルスト様』。


「あの夜のあとに、書いたの。書庫でランプを替えてくださったお礼を。……どれも、出せなかったわ。婚約者のいる身で、殿方に手紙なんて、許されないもの」


紙を受け取ろうとして、手が動かなかった。3通とも、日付が違う。最初のものは、あの夜の翌日。最後のものは、昨日の日付だ。断罪の前日まで、彼女は、出せない礼状を書き続けていた。壁の染みに宛てて。


「婚約は、13歳のときに、父が決めたの。9年間、殿下に好かれようと努力したわ。作法も、教養も、政務の補佐も。……全部、無駄だったけれど」


彼女は、机の上の台帳を開き、最後の行に、自分でペンを走らせる。


『返済方法:未定。利息として、生涯』


「あなたに、見つけてもらえたのが、嬉しかったの。借りを返したいのは、本当。でも、それだけじゃ、ないわ」


「……これは、記録として受理できません」


「なぜ?」


「書式の不備です。『生涯』の期限が、曖昧なので」


「では、書き直します。あなたが、いいと言うまで」


俺は、ペンを置く。


「リディア様。俺は、あなたに雇われている身です」


「知っているわ」


「断れない立場の人間に、手を出したくありません」


「断ってもいいのよ」リディアは、静かに言った。「断っても、給金は変えない。ここに居てもいい。……断らないでほしい、とは、思っているけれど」


ランプの灯りに照らされた頬は、真っ赤だった。氷の令嬢の、精一杯の告白だ。


俺は、記録官らしく、事実だけを口にする。


「断る理由が、見つかりません。探しても、1件も」


「……探したの?」


「探しました。いま」


彼女が、ふっと笑う。それから、目を閉じて、少しだけ顔を上げた。


唇が重なる。柔らかくて、少し震えていて、ほんのり紅茶の香りがする。氷の令嬢が、こんなに熱いなんて、聞いていない。


離れ際、彼女は俺の胸に、こつんと額を預けた。


「……初めてなの。笑わないで」


「笑いません。今のは、可愛かったという事実です」


リディアの耳が、真っ赤に染まる。ガウンが、するりと肩から滑り落ちた。薄い夜着の肩紐が、白い鎖骨の上で頼りなく揺れる。俺の喉が、勝手に鳴る。


彼女は俺の手を取り、自分の腰へ導いた。布越しに伝わる体温が、思考をゆっくり溶かしていく。


「主人が、許可します。……第3条但書」


「それ、そういう使い方ですか」


「条文は、使うためにあるのでしょう」


抱き上げると、驚くほど軽かった。寝室へ続く廊下は暗い。彼女の腕が、俺の首に回る。


「ロイ」


「はい」


「……名前を、呼んで」


「リディア」


呼んだ瞬間、彼女は、ぎゅっと俺にしがみついた。氷なんて、どこにも残っていない。


扉が閉まり、灯りが落ちる。


記録官は、事実しか書かない。だから、この夜のことは、朝まで記録に残らない。


◇


翌朝。


目を覚ますと、右腕がまったく動かなかった。


リディアが、俺の腕を枕にして、穏やかな寝息を立てている。髪が、シーツに散らばっていた。「氷の悪女」などと呼んだ連中に、見せてやりたい。……いや、やっぱり、見せたくない。


「……ロイ」


目を閉じたまま、彼女が呟く。


「起きてたんですか」


「今、起きたわ。……台帳、持ってきて」


枕元の台帳を渡すと、彼女は昨夜の行の横に、ペンで小さく書き足した。


『追記:返済期限、無期限』


「これで、受理できる?」


「……書式に、不備はありません」


俺は、彼女の額に、人差し指をこつんと当てる。


「受理します」


リディアが、枕に顔を埋めた。耳が、真っ赤だ。


彼女は、ふわりと笑う。氷なんて、どこにも残っていない笑顔だ。


そのとき、階下で扉の開く音がした。


「おはようございます、お嬢様。朝食のご用意を——」


家政婦マルタの声が、途中で止まる。階段を上る足音が近づき、寝室の前で止まり、しばらくして、遠ざかっていく。


10分後。食卓には、ティーカップが、ぴったり2つ並んでいた。


……何も言わない人だ。ありがたい。


朝食を終えた頃、玄関の外で、馬車の止まる音がした。


窓から見下ろすと、紋章つきの黒塗りの馬車。降りてきたのは、白髪交じりの男だ。クロイツェル公爵。


「リディア。迎えに来た。修道院への馬車を用意してある」


玄関先で、公爵は娘の顔も見ずに言い放つ。


「行きません」


「王家に恥をかかせた娘を、置いておく家はない」


「恥をかいたのは、殿下です」


リディアは、一歩も引かない。俺は、その斜め後ろで、記録板を構える。


「お父様は、私の言い分を、一度も聞かなかった。陛下のお言葉を、お忘れですか」


「……誰だ、その男は」


公爵の視線が、初めて俺に向いた。


「私の書記です。ロイ・エルスト」


「ただの書記が、口を出すな」


「恐れながら」俺は、努めて事務的に一礼する。「口出しが必要でしたら、書式第12号を、その場で提出できますが」


公爵の顔が、ひきつる。大広間で、その書式が何を引き起こしたか。誰より鮮明に、覚えているはずだ。


「……勝手にしろ」


馬車は、来たときの倍の速さで、走り去っていく。


「使わずに勝ちましたね」


「書式は、抜かない刀ね」


「記録官の、刀ですから」


リディアが、くすりと笑う。その横顔を、俺は、つい目で追ってしまう。


「……ありがとう」


小さな声だった。振り向くと、彼女は、扉の前で、指先をぎゅっと握りしめている。


「父に言い返せたのは、初めて。ひとりだったら、きっと、あの馬車に乗っていたわ」


「ひとりじゃ、ありません」


「ええ」リディアは、握りしめた指を、そっと、俺の袖へ伸ばす。「あなたが、いるもの」


指が、袖をつまむ。それだけの、ささやかな接触。なのに、朝の光の中で、心臓がうるさい。


玄関の呼び鈴が鳴ったのは、そのときだった。


使者が届けたのは、王家の紋章で封じられた、1通の書簡。


『記録官補ロイ・エルスト殿。王太子殿下の謹慎中の記録に、重大な欠落あり。至急、王宮へ。 第二王女 セシリア・レーヴェンス』


差出人の名前に、リディアの視線が、俺の手元へ落ちる。


「……王女殿下が、あなたを名指しで」


声が、少し低くなった。


「行ってきます。書記の仕事ですから」


「必ず、帰ってきて。台帳の残高が、まだ算定不能なのだから」


厄介ごとの匂いがする。それも、俺の手に負えない類の。


だが、壁の染みとして生きるはずだった日々は、もう戻ってこないらしい。悪い気分では、ない。



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