沈む音
夏休みの終わりに蜩野村は水底に沈む。ダムの堤体はもう完成が近く、谷の向こうに白いコンクリートの壁がそびえている。夜になるとその壁に投光器の光が当たり、まるで巨大な墓標のように谷全体を睥睨した。
村に残っているのはもう仁科光と相楽翔の二人だけだ。他はみな、山向こうの造成地へ移り住んでいた。二人も期限がくれば共に村を去る予定だった。
光は叔父が営んでいた『仁科電機商会』の店先で、古いトランジスタラジオの基板にはんだごてを当てていた。開け放した戸口から蜩の声が幾重にも折り重なって聞こえてくる。幼い頃に父から教わったヒグラシという名前の由来を思い出した。日が暮れる少し前、いちばん光が斜めになる時間に鳴くから、蜩。
この村は日暮れには山の影になって息を潜めてしまう。そうして蜩の名が冠されたという。
「光、これ見ろよ」
幼馴染の翔が古いカセットテープを一本掲げて入ってきた。翔の家は村でいちばん古い家柄だ。蔵に残されたものを確認していた時に出てきたのだという。ラベルには色褪せた文字で「昭和四十二年、盆」とだけ書かれてある。
「前に祖母ちゃんの遺品整理してたらさ、他にもこういうのが山ほど出てきたんだ。ほとんどが法事の録音とか、婦人会の集まりの記録なんだけど……これだけなんか、違うんだ」
「違うってどういう意味?」
「うーん」
言葉に困っているような翔の様子を見て光は手を止めた。店の隅にあるラジカセにテープを入れる。ノイズの向こうから掠れた男の声が聞こえてくる。宗教的な抑揚を持つ、演説めいた口調だった。途中いくらか何を言っているのか判然としない箇所が続いたあと、不意に明瞭な一節が挟まった。
《ヒカル。汝、迷うことなかれ。天は必ず応える》
再生が終わると店の中には蜩の声が奇妙なほど大きく響いていた。
「な、変だろ?」
「まあ……うん」
カルト教団じみていると思ったとは言えなかった。それに自分の名前を呼ばれたようで光は少し寒気を覚える。ヒカルという名は珍しくない。しかし、この村で「ヒカル」という名をつけられた住民はここ数十年を遡っても仁科光しかいなかった。
***
二人は自転車で村の図書室――といっても公民館の一室に本棚を並べただけの、村が消える前に取り壊しが決まっている場所だが――へ向かった。翔は昔からこういう調べ物になると目の色を変える。好奇心旺盛な少年の心が戻ってきたようだった。古い郷土資料の中に『光の福音教団』という名前を見つけたのも翔だった。
昭和五十年代、蜩野村の裏山に本部を置いていた新興宗教団体。教祖の鷺沢徹という男は山頂に建てた無線塔から“天の声”を受信していると称して信者を集めた。しかし平成に入り、その天の声の正体が発覚する。鷺沢は信者たちが村の共同アマチュア無線を使って収集した私的な会話、たとえば病気の子の平癒を願う声や、出征した息子を案じる声、失われた恋人を悼む声などをひそかに録音し、それを繋ぎ合わせ、あたかも天が個々の信者の悩みに答えているかのように聞かせていたのだ。
翔が新聞のコピーの一文を指差した。
「教団は解散したが、無線塔だけは村に払い下げられて気象観測用の中継塔として使われ続けた。管理人は代々の村の技術者だったって書いてある」
光は思わず息を呑んだ。光の父である仁科晃は電力会社に勤める技術者で、光が五歳の時に突然村からいなくなるまでは気象通信の保守作業をしていたと聞かされていた。
捜索願が出されたものの手がかりは何も見つからず、母は光が中学に上がる頃にはもう父の話をしなくなった。村の人々は、口には出さないが「拓也は外に女を作って逃げたのだろう」というような目で母を見ていた。おそらくは母も、心のどこかでそう考えていたのかもしれない。
光は父の顔も朧気にしか覚えていない。どんな声をしていたかも忘れてしまった。
翔は違うことを考えているようだった。
「うちにあったテープ、この教団関係か。アマチュア無線なんて祖母ちゃんがやるもんじゃなさそうだけど」
「その頃は祖母ちゃんではなかったんじゃない?」
「そりゃそうか。……光の福音教団って、ヒカルじゃなくて『ヒカリ』だよなあ」
先程のテープの声は、明らかに人の名を呼んでいる響きだったと光も思った。
「無線塔ってまだ動いてんのかな。光、聞いたことないか? 盆になるとあそこから死んだ人の声が聞こえるって話」
「聞いたことない。けど、ありがちな怪談だよ」
「確かめに行ってみようぜ、“ヒカル”の謎も気になるだろ」
「僕はべつに。宗教ではありがちな文句でしょ」
光は翔の横顔を見た。あまりにも真剣で切実な表情だった。翔の兄、渉は五年前の夏、増水した川で溺れて死んでしまった。遺体は何キロも離れた下流で見つかった。翔は当時この村を離れていて、遺体と対面できなかった。
無線塔が天の声を受信していたわけではないのに。真実そこから聞こえてきてほしい声があるのだろうか。
その夜、二人は堤防の上に座って投光器に照らされたダムの壁を見ていた。翔が持ってきた缶ジュースの縁取りがコンクリートに染みている。
「もし、あの塔が本当に天の声を聞かせてくれるんなら、渉の声も聞けるのかな」
光は何も言わなかった。翔の声には、答えを求める響きよりも答えなど存在しないことをすでに知っている諦めのニュアンスが濃かった。
「光は? 親父さんに聞きたいこととかないのか?」
「へー。うちの父さんが天にいることは確定なんだ」
「あっ! いや、ごめん、そういう意味じゃなかったんだけど」
「……なんで黙って行ったのか、なんて、聞いても意味ないよ」
翔がこちらを見て、何か言おうとして飲み込んだ。二人の間にはいつもそういう、逡巡と沈黙の繰り返しがあった。
夏休みがきて村が沈んだら――その先の言葉も互いに口には出せずにいる。
***
無線塔への道はもう何年も人が入っていない様子で、蔦と夏草にすっかり埋もれていた。掻き分けながら進む二人の腕にうっすらと傷が走る。
管理小屋の鍵は相楽の蔵から見つかった。翔は「お前んちにあるんじゃないんだな」と言ったが、光は「うちには父さんの持ち物なんて一つも残ってない」と素っ気なく答えた。蜩野は狭い村だ。教団の流れをくむ相楽が塔の管理を仁科に任せていたのだろう。
小屋の中には古い受信機と、それに接続された得体の知れない機材があった。ラベルの貼られたカセットとメモリーカードが棚に整然と並べられている。日付は光の父が失踪したとされる日のあとも途切れることなく続いていた。
「これ……昨日のもあるぞ。もう村には俺たちしかいないのに。自動で録音され続けてるってことか?」
困惑した様子の翔をよそに、光はログノートを開いた。几帳面な字で日々の受信内容が記録されている。村のアマチュア無線や防災無線に入り込む村民たちの雑談。他愛ない世間話、愚痴、誰かへの伝言。それらを誰かが長年拾い集め、蓄積し続けていたのだ。かつて鷺沢がやったのと同じ手法で。ただし、言葉として組み立てる意図があったであろう鷺沢の手と違い、この記録にはもっと無作為で用途のない自然な音の気配があった。
盆の頃には蜩野村は地図から消えている。二人は無線塔に登った。最上部の送信室には、古い真空管とその奥に組み込まれた、明らかに後年増設されたと分かる電子基板があった。翔が躊躇いがちに笑ってみせる。
「光、放送してみる?」
「なんで僕が。怖いならやめればいいだろ」
「怖いわけじゃねえよ」
装置は声紋を拾って起動する仕組みらしかった。翔がマイクへ向かい、震える声で兄の名を呼んだ。
しばらくの沈黙のあと、スピーカーから声が流れた。それは光の耳にも明らかに渉本人の声ではなく、すでに山向こうに立ち退いた幾人もの村人の言葉の断片を編み直したような合成音声だ。「大丈夫だ」「お前のせいじゃない」「元気でいてくれればそれでいい」――優しい言葉だったが、誰が誰に宛てたとも分からない。ましてや渉の言葉ではなかった。
翔の唇から乾いた笑い声が漏れた。
「ま、そう都合いいことはないよな。ほんとに渉の声が聞こえたら……それって怪談だし」
「誰もここに来てないのに記録が続いてる時点で結構な怪談だけど」
「言うなよ! 考えないようにしてるんだからさあ」
二人の声に反応したのか、再びスピーカーから継ぎはぎの録音音声が再生される。
《本物の福音などない。嘘でもいい。然れども天の声は遍くもたらされる。それを紡いだ時間は真実だ。……ル、夏休みが終わるよ》
録音はそこで途切れた。
***
――その年の秋。蜩野村は水底に沈み、進入路はきっちりと封鎖されている。光と翔は対岸の高台から水面を眺めていた。無線塔の影が暗く映り込んでいる。
「結局あれって、誰が集めて管理してたんだろうな」
「さあ。人の執着とか、そういう何か?」
「光って怖ぇことあっさり言うよな……」
翔の言葉に渉が応えることはなく、光の父がどうなったのかは分からない。噓が本物の代わりになることはない。しかし噓を組み立てるために費やされた時間や手間は残される。
今も蜩野を見下ろしている無線塔は、沈んだ村の音を集め続けているかもしれない。
帰りのバスの中で光は荷物からトランジスタラジオを取り出し、隣に座った翔にイヤホンを渡した。流れていたのは何のことはない流行のポップソングだ。片方だけの音楽は水の中で半端に聞こえる言葉のように不完全で物足りなかった。




