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白亜のテラスに立つ、ふたり

 その余韻が、白い石の冷たさへ吸い込まれていった。


 青年の唇が、ようやく動く。


「俺は――ヴィル・ブルフォードだ」


 透き通る声が耳へ届いた瞬間、背骨の内側へ冷たいものが走った。


 膝の力が、ひと息で抜ける。わたしは思わず後ずさった。さっき肩を掴まれた場所だけが、まだ布の奥でじんと熱を持っている。名前だけが正しく、目の前にいる姿も声も、わたしの知る彼とはあまりに違いすぎた。


「そんな……嘘でしょう?」


 信じられない、というより、信じたくなかった。


 わたしの知るヴィル・ブルフォードは、四十を越えた屈強の騎士だった。金の髪、無精髭、低く落ちる声。その声の底には雷光のような鋭さがあり、喧噪の中でも、わたしだけをまっすぐ呼び戻してくれる響きがあった。


 けれど、いま目の前にいる青年は、肌に落ちる光の色まで違って見える。銀の髪も、礼服の肩も、透き通りすぎる声も、知らないものばかりだった。


 知らないものばかりなのに、こちらを見る沈黙の癖だけが、どうしても見覚えのある場所へ戻ってくる。


「あなたがヴィルですって……? そんなはずはないわ。どこをどう見たら彼だというのです?」


 取り繕うつもりだったのに、声だけが先に尖った。


 唇を噛んでも、せり上がる混乱は押さえきれない。彼――ヴィルを名乗る青年もまた、苛立ちをのみ込み損ねたように、眉間へ神経質な皺を刻んだ。


「何を言っているんだ……? 俺は間違いなくヴィル・ブルフォードだ! 疑うのもたいがいにしろ」


 高く澄んだ声が、白い空気を細く震わせた。


 わたしの知る低音ではない。けれど、言葉を置く速さや、怒りを押し殺すときの顎の固め方が、どうしようもなく懐かしい。祝祭のざわめきだけが薄布一枚ぶん向こうへ退き、わたしたちの声だけが、白い石に乾いた反響を残した。


「顔も髪も身体つきも、わたしの知っているヴィルとはぜんぜん違うわ。あの人は歳だって四十を過ぎてるし、あなたより少し背が高いし、何よりそんな声じゃなかった……!」


 言葉が尖る。


 彼ははっと息を呑み、自分の体へ視線を落とした。


「あっ……そういえば、そうかもしれん……」


 戸惑いの色が、その端正な顔をよぎる。ぎこちなく首を振ると、声がかすかに掠れた。


「いや、お前の言うとおりだ。俺の声、どこかおかしいな。なぜだ……? どうなってるんだよ!?」


「じゃあ、自分の身体に触れて確かめてみて。ほんとうにヴィル・ブルフォードなら、おかしいって気づくはずよ」


 彼は素直に頬へ手を当てた。


 指先が輪郭をたどり、首筋へ、胸板へと降りていく。まるで初めて与えられた身体を探るような仕草だった。白い礼服の布がわずかに擦れ、その小さな音が、ひどく近く聞こえる。


 見守るうち、不安と恐怖が彼の顔を覆っていった。馴染むはずの肉へ、自分の意識がうまく追いついていないように見えた。


「ああ、たしかにこいつは俺の体じゃない。いや、こうして手を動かしているのは俺自身だ……だが、どうなってるんだ?」


 ふるえの混じる声は、何か大切なものを突然失った人のそれに似ていた。


 喉の奥が詰まり、わたしも言葉を飲む。彼は苦しげに息を吐いた。


「それに、声が……違う。こんなに高くて、透き通った感じじゃなかったはずだ。なのに、確かに話しているのは俺だ……だが、離宮にいたはずなのに、なんでこんなところに。わけがわからんぞ。おい?」


「わけがわからないのはわたしも同じよ」


 自嘲が混じったのは、行き場のない混乱のせいだった。


「まあ……話しぶりは、たしかにヴィルっぽいけど」


 見た目はまるで別人だった。けれど、言葉の端に残る荒さや、苛立ちを噛み殺す間合いが、わたしの知るヴィルの輪郭を勝手に結んでしまう。


 離れているはずのものが、いちばん深いところだけ噛み合ってしまう。その感触が、かえって怖かった。


「間違いなく俺は俺だ。そのはず……なのに身体も声も違うせいで、まるで他人の体を借りてるみたいだ。お前もそうなのか? 見てくれは違うが、中身はミツルなんだよな?」


「ええ、そうよ。誰がなんと言おうと、わたしはミツル。あなたのよく知っているわたしよ」


 頷いたあと、舌の裏に乾きだけが残った。


 正面にいるのは知らない青年のはずなのに、息を継ぐ間や、眉間へ力を入れる癖が、わたしの知る彼を連れてくる。理解するより先に、身体のほうが反応してしまう。


「しかしな……」


「なに?」


「どう見たって大人じゃないか。ミツルはまだ……」


 そのかすれに、胸の奥が静かに疼いた。


 わたし自身も、いつもの自分とは違う身体のかたちを、もう誤魔化せなくなっていた。衣擦れの重さが、肌にびっしりと貼りつく。呼吸のたび、胸もとだけでなく、腰の位置まで知らない身体が静かに主張してくる。


「それも、そうね……」


 小さく頷く。


 ついさっきまで、わたしはヴィルの検査をしていたはずだった。頭の奥を貫いた痛み。白く弾けた光。その先の記憶だけが、唐突に途切れている。


 白い石畳の冷たさが、足裏からじわじわ上がってくる。いま立っているこの場所のほうが、かえって夢じみて思えた。


「わたしも戸惑っているの。自分がどうしてこんな身体になったのか、いつの間に変わってしまったのか、まったく見当もつかない。さっきまで、あなたを検査していたはずなのに……急に頭が痛くなって、光の奔流に呑まれて、気づいたらここにいた……」


 青年は切なげに唇を噛んだ。


 顔立ちは別人なのに、その悔しさと哀愁のにじむ仕草だけが、たしかにヴィルだった。光に包まれた庭園の中で、彼の気配だけが、ふと近くなる。


「信じがたいが、俺の記憶がお前がミツルだって訴えている。ええい、くそっ……」


 小さな囁きに、懸命さが滲む。


 見つめ合う瞳には、同じ痛みと戸惑いが宿っていた。魂だけが先に頷いてしまって、理屈のほうが追いつかない。


「わたしも、あなたが何者なのかは、本当はわからない。けど、心がヴィルだと受け入れてしまっている。それが怖いの……」


 さっき肩に食い込んだ彼の手の熱だけが、まだ布の奥に残っている。


「だって見た目は全然違うのに、こうして話していると、どうしたって……ヴィルと重なる気がするもの」


 浅い息が、ふたりのあいだでほどけた。


 青年は一瞬だけ眉を寄せ、こぼれそうになった何かを押し戻すみたいに口を開く。


「まずは状況確認だ。足元から――」


「状況って……わかるわけがないでしょう?」


「……ちいっ」


 ほとんど同時に、重厚なファンファーレが鳴り渡った。


 祝祭そのものが、ひときわ大きく息を吸ったようだった。わたしははっとして視線を外す。


 テラスの一段下、噴水の周りでは色鮮やかな花びらが舞い、人々の歓声が大きくうねっている。美しい礼装の列が円を描き、中央へ視線を注いでいた。神官めいた人物の衣の白が、陽光を受けてまぶしく浮かぶ。


 あの熱狂のただ中に、わたしたちだけが遅れて放り込まれたようだった。


「……あれはいったい、何が行われようとしているのかしら?」


 押し寄せる不安を振り払うように問う。


 青年――彼は銀の髪を揺らし、中央へ視線を寄せた。


「さあな。何かの儀式か? だが、あんなのは見覚えがない。神官めいた装束を着た人間が中心に立っているが……見たところ、何か重要な局面を迎えようとしている」


 高めの声に、耳の奥がかすかに疼く。


 低く響く声が恋しかった。けれど、斜めに落ちる視線や、周囲の配置を先に見る癖は、紛れもなくヴィルのものだった。目と耳が別々の答えを持ってきて、喉の内側を細く裂いていく。


「行きましょう。ここで立ち止まっているだけじゃ何も変わらないもの。何か手がかりが得られるかもしれないわ」


 思い切って言うと、彼は一瞬だけ戸惑った。


 やがて肩の力を緩め、小さく息を吐く。横顔に、わたしの知るヴィルが濃く灯った。迷っている暇はない――そう言い切るより先に、その顔つきだけが答えを出していた。


 言い終えるより早く、わたしは彼の袖を掴んでいた。


 薄い布越しの体温が、ためらいより先に掌へ来る。自分の指が思っていたより細く、知らない力加減で布を引いていることに、遅れて気づいた。


「お、おい。いきなり引っ張るなって」


 石段を降りるたび、靴底がカツカツと澄んだ音を返す。


 背後の足取りは少し忙しない。見慣れない衣の裾が脚へまとわりつき、歩幅の違いさえ手探りなのに、隣へ寄る気配だけが不思議なほど頼もしかった。


「この強引さとお転婆ぶり、たしかにミツルだな……」


 小さな苦笑。


 その言葉尻に、紛れもないヴィルがいた。懐かしさと痛みが同時に押し寄せて、息が一拍だけ止まる。けれど、足は止まらなかった。


「……ごめんなさい。わたし、気になることがあると、つい前へ突っ走ってしまうの」


「よく知ってるさ」


 短い応酬に、少しだけ温度が戻った。


 彼もまた、この見慣れない身体のまま、前へ出るほかなかったのだと思う。


「いや、むしろそれでいい。俺もこの状況を何とかしたい。むしろ引っ張ってくれて助かる。お前が前に立て。俺はその後ろを守る」


 その言葉は照れ隠しのように聞こえた。


 けれど、騎士としての矜持は少しも隠れていなかった。姿も声も違う。それでも、彼が差し出す役目だけは揺らがない。白い石の冷たさの上へ、静かな熱がひとつ落ちる。


「……そういうことね」


 階段を下り切ったところで、わたしは何とも言えない微笑を浮かべた。


 共に過ごした日々が、眩しさの奥でそっとほどける。切なさと懐かしさが混ざり、胸の深いところを淡く刺した。


 衣の裾を握る指に力を込め、わたしは背筋を伸ばす。


 青年もまた、かすかな苦笑を口もとへ浮かべて、わたしの隣に並んだ。肩と肩のあいだに残るわずかな隙間だけが、いまのわたしたちの確かさだった。


 祝祭のざわめきの向こう、噴水へ向けて重なる足音が、白亜の石へ静かに吸い込まれていく。


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