お日さまのような君と、揺れるブランデー
共振解析による検査から数日後。本格的な治療に入る前の、束の間の午後だった。
冬の光が低く差し、テラスの石を鈍く温めていた。風は乾いて冷たく、裸枝をわずかに鳴らす。吐く息は白くほどけ、湯気と混じって静かに空へ消える。白磁のカップは指に冷えを移し、掌の熱だけがそこに溜まった。
向かいに座るヴィルの上衣は騎士団の濃紺で、胸の飾り綾と金のボタンが冬陽をひそかに返している。肩章の房は動かず、斜めにかかった赤い飾帯だけが、冷えた景色の中で一筋、かすかな温度を帯びて見えた。カップを支える節の張った指には、握剣の癖で硬くなった皮膚の起伏が残り、白磁の曲面に淡い影を落としている。
睫毛の影が頬へ短く差し、剃り跡の青さが残る肌を湯気がかすめては消えていく。喉元で小さな脈が刻まれ、襟の銀糸が呼吸に合わせてごくかすかに揺れた。向こうの庭では、風に撫でられた木洩れ日の斑が、テーブルの上をゆっくり滑っていく。
気づけば、視線は彼にばかり吸い寄せられている。
カップの縁へ指先を置き、陶器の冷たさで息を整える。言葉の置き場所を探しているあいだに、風がひと息ぶんだけ止まり、湯気がまっすぐ立った。
「そういえば、最近ヴィルがお酒を飲むところを見てないんだけど。どうかしたの?」
視線がぶつかる。
「ふふん、そんな馬鹿な話があるか」
彼は一度だけ目を細めて笑い、胸元を軽く叩く癖のあとで、銀のスキットルを取り出した。打ち傷だらけの金属へ冬の光が一粒だけ跳ね、蓋の継ぎ目がきゅ、と乾いた音を立てる。革の匂いが冷気に細く溶けた。
「あらやだ、やっぱりね……」
「この俺が、酒なくして成り立つものかよ」
紅茶の縁に琥珀が一滴だけ落ち、白い息の向こうで波紋が丸くほどける。彼が鼻先を寄せると、ブランデーの香りが冷えた空気をぬるく染め、手首の腱が薄く浮いた。
「リディアには、ばれてない?」
「ま、気づいてはいるだろうがな。特に何か言われたことはない」
「ふーん……」
短い沈黙。風がテーブルクロスの端をめくり、わたしたちの影が木目に浅く揺れる。遠くで枝がひとつ、乾いた音を立てた。
「うむ、いい香りだ……」
低い声が、冷えた午後の底でゆっくりほどける。白いカップが手の中でわずかに回り、湯気は白い息と絡み合って空へ消えた。持ち手を持ち直す指が、陶器の肌をさらりと鳴らす。
「それ、ブランデーなの? だったら、わたしにも少し分けてちょうだい」
いたずらを分け合うみたいに身を乗り出す。肘へ石の冷たさが移り、背筋がひと筋だけ伸びた。彼の口元に、呆れと甘さが同時に灯る。目だけが先に笑い、口角が遅れて追いついた。
「ダメだ。前に『昼間から飲むなんて信じられない』、とか言ってたくせに」
「いいじゃない、少しくらい。けち……」
視線が絡む。彼はかすかに眉間をゆるめ、諦めの笑いを喉の奥で溶かした。
「しょうがない。いいか、一滴だけだぞ」
「うん」
小さくため息。蓋を捻る指に金属の冷えが触れ、銀の縁が骨張った親指をかすめる。手首が傾き、琥珀が一滴、白へ落ちた。音はしないのに、香りだけが確かに立ち、指先の産毛が温度にそっと逆立つ。
湯気と白い息をいっしょに吸い込みながら一口。舌の奥で紅茶の甘さがほどけ、そのさらに奥からくる熱が背骨をゆっくり下りる。カップの縁は冷たいのに、掌だけがじんわり満ちた。
視線を上げると、彼は少しだけ顎を引いてわたしを見ていた。叱るほどでもなく、甘やかすほどでもない、その真ん中の目だった。
「ありがとう」
深く息をつく。白い息が重なり、肋の裏の硬さがほどけていく。思わず漏れた声に、視線がやわらかく重なった。白いクロスの上で、彼の指が二度、無意識にカップを整える。
「ほんと、いい香りね……」
「だろう? 酒とは、酔えばいいってもんじゃない」
小さな秘密を分け合った手触りが、まだ指先に残っていた。冬の光が弱く差し、重なった影はすぐ離れる。その一瞬の温度差だけが、薄く皮膚へ移っていく。
このまま午後がほどけずにいてくれればいいのにと思う。けれど、どこか遠い場所から差し込む薄い不安がある。そのふたつが、まだ言葉にならないまま、テーブルの上で静かに釣り合っていた。
《《やっほー、元気してた? なんだかふたりともいい雰囲気だから、邪魔しないほうがいいかなー、って思ってたんだけど……》》
その声が落ちた瞬間、湯気のほどけ方まで変わった気がした。耳の奥へ触れる響きは明るい。なのに、内側の空気だけがそっと入れ替わる。
「茉凜……!」
呼んだ途端、安堵が先に胸の内を熱くし、そのすぐあとへ別の緊張が追いつく。呼吸が半拍ぶんずれ、指がカップを包み直した。
「ふわーっ……」
ヴィルは背伸びをし、椅子を離れてそのまま庭のほうへと歩いていった。広い背が視界の端からほどけていくのを、ほんの少しだけ惜しいと思う。けれど、何も言わずに離れてくれる不器用さが、かえってありがたかった。
「どうしてずっと黙ってたのよ? 相談したいことがあったのに、昨夜もうんともすんとも言わないんだから。わたし、心配してたのよ……」
《《ごめんごめん。でも、ほら、いろいろ忙しかったの。次はいよいよ本番――治療でしょ? この前の経験を元に、もっと精度を上げたいし、見えたものをちゃんと渡せる形にしておきたくてさ。マウザーグレイルの奥にある記録とか、あの子たちの補助とか、整理しなきゃいけないことが山積みでさ》》
明るさはいつも通りのはずなのに、声の輪郭だけがどこか遠い。金属を何枚も重ねて布で包んだみたいな、鈍い冷たさが鼓膜に残る。
「そ、それはご苦労さま。だけど、それだけ? 何か異常とか問題は無かった?」
《《ぜんぜん、なーんにも。それに美鶴だって強くなってるでしょ? だったら、わたしだって進化しなきゃ。次の展開に向けてパワーアップするっていうのは、いわばお約束ってやつだからね》》
笑いに合わせて、指先がかすかに強ばる。木目が皮膚の下に一本、冷たい筋を引いた。
「茉凜……そんなことしなくても、わたしは今のままのあなたが――」
《《いんや、変わらなきゃダメなんだよ。あなたが変わるなら、わたしも変わらなくちゃ。そうじゃないと、釣り合いが取れないでしょ?》》
釣り合いという響きが、胸骨の裏で鈍く鳴る。視界の端でスプーンがかすかに鳴り、その薄い金属音が氷の欠片みたいに耳の奥へ触れた。
「でも、そんなことをして、茉凜はいまの茉凜のままでいられるの? 侵食されたり、飲み込まれたり……そんなことになったら」
《《大丈夫だって、美鶴。わたしは変わらない。どこにも行かないって。まったく心配性なんだから》》
軽く笑っているはずの声が、今日は妙に遠い。ふだんなら、その一言だけで内側のつかえがほどけるのに、そうならない。やさしいのに冷たく、すぐそばにいるはずなのに、薄い膜を隔てた向こうから話しかけられているみたいだった。
テーブルの端で、ティースプーンがかすかに震えた。こめかみに熱が集まり、肩甲骨のあたりへ細い冷えが落ちる。
あの日、精霊子共振解析の最中に拾った違和が、もう一度、輪郭を帯びた。声から何かが抜け落ちている。いつもなら確かに混じっているはずの、あの小さな揺らぎだけが、どこにもない。
そのとき、声ではない列が、白い刃の奥でひらいた。
共有。認識。接続。検索。照合。解析。推論。
茉凜の言葉の輪郭だけが、その列の向こうへ、薄く沈んでいく。
《《……こんな感じでね。大丈夫、ちゃんと見えてる》》
言葉の角が、急に硬くなる。内側で、目に見えない歯車がかちかち噛み合う幻聴がして、肺が浅く跳ねた。マウザーグレイルの記憶領域へ潜っていく速度だけが、静電気みたいに皮膚の下をざらついていく。
理屈では理解している。わたしを助けるための演算だと、頭ではわかっている。なのに、その精密さの中へ彼女が沈んでいくように感じるたび、胸の奥だけがじわじわ冷えていった。
「でも、本当にあなたが言うような方法でお祖父さまを……救えるかもしれないっていうの?」
《《うん。差し当たっては、温熱療法に近いことなら使えるかもしれない。病変の勢いを弱める手がかりにはなると思う。でも、それで全部が片づくわけじゃないよ。……その先のことは、まだ手がかりがありそうって段階。細胞が病変へ傾く理由、その根っこのほうを、少しだけ覗けた気がするんだ》》
頼もしい響きのはずなのに、鼓膜へ届く温度は淡い。さっきまで立っていた湯気はもうほとんど見えず、香りだけが空へ取り残されている。指先でカップの耳を探ると、白磁の硬さばかりがやけにはっきりして、内側で小さく灯っていたぬくもりが、するりと遠のいた。
根っこ。
その一語だけで、喉の奥がひりついた。治せるかもしれないという希望より先に、別のものを失う予感ばかりが膨らんでいく。あの白い声の向こうに、わたしの知らない深さがひらいている気がして、息を吸うだけでも胸骨の裏がきしんだ。
「でも、茉凜。それって、かつてのデルワーズの……深淵の血族を生み出したような、禁忌に踏み込むってことじゃないの……? それだけはだめよ。危険すぎる。どんなに恐ろしいものが潜んでいるか、わからないんだよ? あなた、取り込まれて、戻れなくなったらどうするの?」
言い切るころには、声が自分でも驚くほど細くなっていた。
風が止み、庭木の葉擦れまで遠のいていた。静まり返った午後のまんなかで、白いカップの縁に置いた指だけが、わずかに震えている。こんなふうに縋るような言い方しかできない自分が情けないのに、それでも止められなかった。茉凜の名を呼ぶたび、胸の内でいちばんやわらかなところが、薄い氷へ触れたみたいに冷えていく。
《《大丈夫だよ、美鶴。事は慎重に進めてるし、サポートしてくれるかわいい「あの子たち」もいるしね》》
また風が止む。音が薄くなる、その一瞬だけ、みぞおちの裏で硬いものが小さく鳴った。気休めみたいにやさしい言い方なのに、そのやさしさが胸へ届く前に、何か別の冷たさだけが沈んでいく。舌の裏へ、言葉にならない塩気がにじんだ。
「嫌だよ? お祖父さまの病気を治せたところで、あなたがあなたでなくなってしまったら……わたし、どうしたらいいの? そんな簡単に大丈夫だなんて言わないで。よく考えてよ……」
《《わたしは消えるつもりなんて、これっぽっちもないよ。だって、美鶴が大好きだもん。それに、もっといろんなところに行って、いろんなものを見て、おいしいものだっていっぱい味わいたいし。あなたも知ってるでしょ? わたしが欲望に忠実だってこと。ほしいものはほしい。ぜんぶほしい。そんな業突く張りのわたしが、消えたりするもんかっての》》
「う、うん……」
うなずくたび、喉の内側が紙片で擦れるみたいに乾いた。返事はしているのに、内側のつかえは少しもゆるまない。
紅茶はもう温く、湯気も消えていた。香りだけが遅れて鼻の奥に残り、そのかすかな甘さが、ここにあったはずのぬくもりまで静かに引いていくのを際立たせる。
彼女の言葉は頼もしく、理屈も整っている。けれど、その合間に落ちる静けさだけが、今日は妙に重い。問いの棘は抜けず、午後だけが少しずつ削れていく。陽は角度を変え、木洩れ日の斑は輪郭を失っていった。
ブランデーの落ちた紅茶をもう一口。薄く残った甘さと熱が、冷えかけた指先へ戻ってくる。目を閉じると、香りの名残だけが鼻先をかすめた。
それでも――彼女の「大丈夫」を、わたしはまだ信じたい。
カップの縁を親指でなぞり、風の合間に小さく息を整える。変わってしまうものと、変わらずにいてほしいもの。その両方を抱えたまま、わたしはもう一度、テラスの光を見上げた。
《《ねえ、美鶴? なんだか複雑そうな顔してるね? むかむかしてない?》》
見透かされたのが、少しだけおかしかった。わたしは口元へ浮きかけたものを、そのまま苦笑いの形で噛み殺す。
「……ちょっとね。やらなくちゃいけないことが山積みだし。考えれば考えるほどざわついて、正直、頭痛がするわ……」
こめかみの奥で脈が細く跳ねる。息を吐くたび、肩の力が一段だけ落ちていった。
《《そっか……。でもね。あんまり深刻に捉えすぎないようにしないと。わたしは、美鶴が笑ってくれないと寂しくなるんだから》》
軽口めいたその声を聞いているうちに、わたしはふと視線を遠くへ落としていた。鼻先をくすぐるのは、まだ肌寒さの残る風の匂い。目を閉じれば、遠い記憶がひとつ、ゆっくりと輪郭を結んでいく。
◇◇◇
前世。まだ、わたしが弟の弓鶴という少年の身体に宿り、亡霊みたいに生きていた頃のこと。解呪に失敗し、自分の身体はとうに失われていた。女であるはずのわたしが、慣れない男の躰で暮らすしかなかった。
低く響く喉。歩幅の重さ。骨ばった掌。そのひとつひとつが、骨の内側へ「わたしじゃない」と冷たく刺さってくる。戸惑いも苛立ちも、「いったいわたしは何者なのだろう」という暗い問いも、いつも息の通り道を細くした。こんな歪なあり方のまま生きていること自体が苦しくて、周囲へは冷たく振る舞うほかなかった。
それでも茉凜は、そんなわたしをごく普通の男の子として見てくれていた。無愛想に突き放しても、まるでこたえない。むしろ面白がるみたいに、好奇心いっぱいの目で覗き込み、話しかけ、引っ張り回した。珍しい物を見つければ「早く行こう!」と背中を押し、季節の花が咲いていると聞けば「見に行こうよ!」と手を取って駆け出す。
冷たく拒絶しても、彼女は悪意のかけらも見せずに笑って、「ほんとは興味あるくせに」と屈託なく言い返す。その笑顔へ、気づけばこちらの視線のほうが先に引き寄せられていた。
わたしは解呪に取り憑かれた、ただの亡霊みたいな存在だった。それなのに、茉凜の差し伸べる手だけは、そんなわたしにもたしかな温かさを教えてくれた。張りつめていたものが少しずつゆるみ、まだ生きているのだと、ようやく思えた。
◇◇◇
記憶の縁へ触れると、胸の裏がひりりと痛む。けれど、その痛みのまわりだけは、いまも少しあたたかい。数えきれないほどの季節が流れ、わたしたちは新しい形で再会を果たした。それでも、自然とまた言葉を交わしている。
《《ねえ、美鶴》》
名を呼ばれた瞬間、紅茶に残った甘い香りがふっと揺れた。
「なに?」
《《実は、あなたが昼間っからお酒を飲むなんて、ちょっと驚いてるんだけど。昔はもっとお堅かった気がするのに、ね?》》
図星を突かれたみたいで、指先がカップの耳を無意味になぞる。白磁の冷たさが、頬の熱だけをかえって目立たせた。
「……それは、こっちに来てからあなたの酒好きに巻き込まれたせいよ。もともとわたしそんなに飲めるわけじゃないし。だいたい一滴くらい、なんだっていうの?」
意地の混じった返事をすると、茉凜はくすくす笑うばかりだった。頬へ残った湯気のぬくもりが、からかわれた恥ずかしさまでそっと撫でる。
《《でもさ、美鶴。お酒に限らず、ヴィルと一緒にいるときって、すっごくいい顔してるんじゃない? ほっぺがゆるゆる》》
「また、そうやってからかって……」
くすぐったさを隠すみたいに、口元だけで笑ってみせる。茉凜のからかいは昔から絶妙で、戸惑いをそのまま差し出す前に、いつも別の色へくるりと変えてしまう。悔しいのに、懐かしくて、少し嬉しい。
《《うふへへ。だって、美鶴ってわかりやすいから、おもしろいんだもん》》
「……でもね」
《《うん? 何?》》
「ヴィルといっしょにいると……悪くないって思うのは本当だよ。うまく説明はできないけど、息苦しくないっていうか、少しだけ安心するの。何だか穏やかな気持ちになれる気がして……」
《《そういうのは、理屈じゃなく感覚ってやつでしょ? あれこれ理由なんて考えなくてもいいんじゃないかな。自然に、なりゆきに任せるのがいちばんだよ》》
その言葉が落ちた途端、胸の奥がじんと熱くなる。素直になってしまいそうな自分が少し怖い。けれど、その怖さごと受け止めてもらえそうな気もして、ほんの少しだけ嬉しかった。あの頃だって、彼女の前ではつい本音をこぼしてしまったのだから。
「……でも、わたしから言わせれば、彼をそんなふうに思ったこと……ないよ」
《《そうなの?》》
「だいたい歳が離れすぎてるし。いくらわたしが『大人だ』なんて言い張ったところで、信じてもらえるわけないし、結局見た目通りの子どもに違いないでしょう? 守るとか助けるとか言ってくれているのも、父さまへの友情があるからで……。弟子とか、せいぜい仲間とか、そんな線引きでしか見てないんだって」
言い切ったあと、指が無意識にカップの耳を探す。ひやりとした縁へ触れた瞬間、喉の奥で小さな音が転がった。
《《うーん……たしかに今はそうかもしれないけれど、それがずっと続くわけじゃないかもよ? 時が経てば、お互いを違う目で見るようになることだってある。それは誰にもわからないことだもの。だから、あまり難しく考えずに、このまま向き合っていけばいいんじゃない?》》
瞼を閉じれば、母さまの穏やかな笑顔が脳裏をよぎった。わたしもいつか、あんなふうに素敵な大人の女性になれるのだろうか。もしそうなったとき、ヴィルはわたしをどう受け止めるだろう。
「……わたし、早く大きくなりたいって思うよ。けど……」
変われば、関係も変わる。そのことが怖くて、それでも少しだけ楽しみでもある。名前のつかない結び目がきゅっと締まり、同時にどこかが静かに緩んだ。
ふたりのあいだを抜ける空気には、まだ霜の名残の匂いが混じっている。鼻先でほどける薄い青さ。陽の届かない枝先を鳴らす風。茉凜と交わす言葉はどこか遠く、それでもたしかに内側の陰へ灯を落としてくれていた。
そのとき、庭のほうから足音が近づいてきた。ヴィルが銀色のスキットルを片手に戻ってくる。わたしたちの様子をひととおり見渡すと、あからさまにからかう調子で口を開いた。
「お前ら、何やら楽しそうだな。――それはいいが、酒の匂いをぷんぷんさせてると、リディアに怪しまれるぞ」
「……ほどほどにするわよ。心配しないで」
冷めかけた紅茶のカップを指先でそっと回す。立ちのぼるブランデーの香りはもう薄く、それでも甘い余韻だけが鼻先に残っていた。こんなふうに、誰かと気軽に笑い合う午後なんて、前は想像もしなかった。スキットルの革が小さく軋み、金属の口が空気を切るかすかな音を立てる。酒精の匂いが、細い糸みたいに指先まで届いた。
《《ねえ、美鶴。グレイさんの治療が一段落したら、また一緒に街に出かけよう。ここのご飯もおいしいけど、やっぱり市場の屋台やスイーツ巡りも捨てがたい。危ないから、護衛をいっぱいつけてもらわないといけないかもだけどさ……》》
脳裏へ落ちる声は、やはり少し遠い。けれど、その奥に沈んだ不安だけは、かえってくっきり伝わってきた。手を伸ばせば届きそうなのに、そのまま風に攫われてしまうかもしれない。そんな危うさが、肋の裏をそっと撫でる。
「……うん、行こう。絶対に約束だよ?」
《《あはは、頼もしいね。じゃあ楽しみにしてるよ》》
軽やかな笑い声が消え、会話はぷつりと途切れた。テラスをかすめるやさしい風の音だけが耳に残り、わたしはひとつ息をつく。
「やれやれ……茉凜にはいつまでたっても手を焼かされるわね」
そう呟いたはずなのに、唇にはいつの間にか安堵の笑みが浮かんでいた。遠く感じるいまでも、ちゃんとつながっている。そのことがわかっただけで、胸の内へぬくもりがじわりと広がる。
「ミツル。ほら、飲み直すなら今のうちだ。リディアが来る前にな」
ヴィルが器用にスキットルを揺らす仕草に合わせ、ちゃぽん、と琥珀が鳴る。革の帯が低く軋み、金具が冬の光を小さく弾いた。
「遠慮なくいただくわ」
わたしは素直にカップを差し出し、もう一滴だけブランデーを足してもらう。
紅茶の表面へ小さな波紋がひろがり、その中心から香りがふわりとほどけた。少し心許ないままでも、約束があれば前へ出られる。そう思えること自体が、もう昔とは違っていた。




