空の寝台の朝のまえに
その日も、ついに返書は来なかった。
夕刻の光が窓辺から少しずつ退いていくにつれ、机の上の紙ばかりが、やけに白く浮き立って見えた。書簡の控えを指先でなぞる。ざらりとした手触りだけはたしかなのに、そこへ載せた願いだけが、どこにも届いていない。
――埒が明かない。やはり、こちらから動くしかないのだろうか。
そう思った途端、きゅっと唇を結んだ。今日は動かない。せめて一日は待つ。そう決めたはずだった。
けれど、窓の外の明るさがじわじわと痩せていくにつれて、その決意は、爪先で触れただけでも破れてしまいそうな薄い膜へ変わっていく。正面から願い出た。形式も守った。それでも、扉は閉ざされたままだった。明日になれば、また別の理由が並ぶのだろう。総長のご都合。侍医司の手順。離宮の目。そうして、正しい順番に自分を縛っているあいだにも、お祖父さまの時間だけが、音もなく削れていく。
それが、たまらなくいやだった。
昼は動けない。仮にも離宮預かりの養女がひとりで侍医司へ向かえば、それだけで話になる。門番の目。侍女たちの出入り。お祖父さまの耳に届けば、あの方はきっと、何でもないように笑って、また全部を笑みの裏へしまいこんでしまう。
――だったら、夜しかない。
そこまで思い詰めた自分に、目を閉じたまま細く息を吐いた。喉の奥が、冷えた糸でそっと絞られているみたいに狭かった。
◇◇◇
夕食は、自室でいつもより少しだけ早く済ませた。
リディアが運んでくれた皿には、柔らかく煮た根菜と白身魚の蒸し焼きが並んでいる。やさしい湯気の匂いが鼻先をかすめても、胃の底の重さは少しもほどけず、匙はなかなか進まなかった。温かいはずの汁ものさえ、口の中ではどこか遠い。
「お嬢さま、お加減でも?」
皿の縁へ匙を置く音が、妙に大きく部屋へひびいた。
「いいえ。ここのところ夜ふかしが過ぎて、少し疲れが溜まっているのかもしれません」
パンを小さくちぎって口へ運ぶ。噛んでいるのに、味がうまく入ってこない。リディアはそれ以上訊かなかったけれど、下げた皿の量はきっと見ている。あの子は、そういうところを黙って覚えている人だった。
茶器の蓋を戻す小さな音がして、部屋の空気がまたひっそりと静まる。その静けさの上へ、自分の声だけが少し乾いて落ちた。
「リディアさん。今夜は早めに休みますので、いつもの夜食は結構です」
「承知いたしました。お湯をお持ちしましょうか」
「お気遣いありがとうございます。でも、それも要りません。そのまま灯りを落としていただけますか?」
リディアの手が、一拍だけ止まった。壁の小さな魔道ランプへ触れ、明度を落とすための金具が、乾いた小さな音を立てる。それから彼女は、いつもの丁寧な手つきで、夜用の淡い灯りだけを残していった。
「では、おやすみなさいませ、お嬢さま。何かございましたら、いつでもお声がけを」
「ええ。おやすみなさい」
扉が閉まる。足音が廊下を遠ざかっていく。規則正しく、けれど決して急がない歩幅。あの子の歩き方は、いつだってそうだ。
静かになった部屋で、わたしは掛け布の下へ潜りこんだ。目を閉じる。けれど、閉じたまぶたの裏には、リディアの手が止まったあのほんの一拍が残っている。気づいていたのだろうか。食が細いことも、声の端にひびが入っていたことも。
――わたしは、これから彼女を欺く。
その自覚に、掛け布を握る指だけが動かなくなった。
離宮の夜は、順に深くなっていく。まず廊下の足音が減る。それから階下の厨房の音が止む。夜番の灯だけが遠くにひとつ残り、石壁のあいだを風が低く抜けるようになるころには、もう起きている者はほとんどいない。
そこまで待たなければならなかった。
掛け布の下で指を握る。爪が掌へ食い込む。痛みがあるうちは、まだ引き返せる気がした。
《《……美鶴。まさかだけど、あなた……》》
茉凜の声が、暗い寝室の底へそっと落ちてきた。問いの形にすらなっていない。こちらの心拍が変わったことを、もう向こうで拾っているのだろう。
「……動くのは得策じゃないってことくらい、わかってるつもりよ」
《《わかってるだけでしょ、それ》》
掛け布の下で、握った指にまた力がこもる。
「……まぁね」
認めてしまうと、かえって声は静かだった。
「返事がないってことは、事実上の門前払いよ。こうなるだろうとは思ってた。ぽっと出の養女だから軽んじられたとは、思いたくもないけどね」
《《くわしくないけど、王族の健康情報なんてトップシークレットっぽいもんね》》
「そういうこと。それに、これ以上リディアに背負わせるわけにもいかないでしょ。正しい手順を踏むべきなんだって、頭ではわかってるのだけどね……」
《《うん》》
「でも、たぶん明日もまた同じ。あさっても、その先も……」
そこで息が止まりそうになる。喉の奥が細く詰まり、続きの言葉はすぐには出てこなかった。
「……そういうものでしょ。思うだけじゃ、どうにもならないこともある」
《《そんなことない……とは言い切れないか》》
慰めるでもなく、否定するでもなく、ただほんの少しだけこちらの痛みに触れる声だった。そのやわらかさが、かえって苦しい。
《《で、どうするの?》》
わたしは掛け布の端を指先でたぐり寄せた。冷えた布が、薄く汗ばんだ指腹へぴたりと貼りつく。
「直接、書籍侍医に会いに行く」
暗闇の中で、その名だけが妙にはっきりと響いた。首席侍医そのものには届かなくても、記録の所在を知る者はいるはずだった。
《《……夜に? いまから?》》
「そりゃ、昼間は無理でしょ。門番や侍女の目がある。お祖父さまの耳に届いたらどうなることやら。だからいまなの」
《《また、何でもないってふうに……わたしは心配だよ》》
その一言だけで、掛け布の端が指の中で深く皺になった。
「……いけないことだってことは、わかってる。だから、夜しかないの」
茉凜はしばらく黙っていた。否定も肯定もしない、あの間だった。こっちが自分で言い切るのを待つ間だ。
《《でもさ、こういうことって、ヴィルに黙っててもいいの?》》
その名が出た瞬間、喉の奥へ小さな棘が刺さったみたいに息が浅くなる。
「……今さら呼べないわよ」
《《なんで?》》
「なんでって……」
暗がりの中で、天蓋の縁がぼんやり揺れていた。言い訳を探している自分が、もうみっともないほどよくわかる。
「彼、一日中走り回って疲れてるはずよ。今ごろはカテリーナの家で休んでるでしょ。大好きなお酒でも飲んで、ゆっくりしてもらいたいし。だいたい、わざわざこんな理由で付き合わせるなんて……」
言葉の終わりで、声が少しかすれた。唇の内側をそっと噛む。
「……悪いじゃない」
《《それだけ?》》
やっぱり、そこを突く。
掛け布の端を握りしめた指先が、うすく汗ばんでいた。
「それに、知られたら、たぶん止められるだけよ」
喉の奥へ引っかかっていたものが、その一言でようやく落ちた気がした。
「止められたら、わたし……引くに引けなくなると思う。最悪、彼を突き飛ばしてでも、なんてことに……だから、言わない」
《《そっか……そうなっちゃうよね》》
「隠し事なんて、よくない。まず相談、それくらいわかってる。独断専行がよくないことも。彼が怒るだろうってことも。でもね……」
そこで言葉が細く途切れた。怒っているのではない。ただ、見抜かれたことの気まずさが、声の端にかすかに滲んだだけだった。
階下の厨房から、最後の鍋を下ろす音がした。しばらくして、それも消える。廊下を行く夜番の足音が、遠くで一度だけ鳴り、石壁の向こうへ吸い込まれていった。
静けさが、最後の一枚まで降りてくる。
わたしはゆっくり身を起こした。
寝衣の上に濃い色の外套を重ね、黒髪をまとめ、深くフードをかぶる。壁に立てかけてあったマウザーグレイルを手に取ると、鞘の冷たさが指先へ細く沁みた。
《《……ほんとに行くんだ》》
「止めても無駄よ」
《《どのみち、わたしには止められないし?》》
「ごめんね……」
《《いいのいいの。美鶴がこれと決めたなら、わたしはどこまでだって付き合うさ。それが相棒ってもんでしょ?》》
茉凜の声は、もう止めようとはしていなかった。こちらの脈の速さを、黙って測っている気配だけがある。
扉に手をかける。そっと開け、廊下を覗く。夜番の灯は、突き当たりでかすかに揺れていた。あの灯が向こうへ回りこめば、こちらの廊下は数分だけ暗くなる。
息を殺す。灯りが、ゆっくりと角の向こうへ消えた。
靴底を石床へそっと置く。自分の足音が、こんなに大きいと思ったことはなかった。耳の奥で脈が跳ねている。茉凜にも、この鼓動はきっと全部伝わっているのだろう。何も言わないことが、かえって重かった。
離宮の裏手の庭園門は、深夜は内側から掛金だけで留まっている。持ち上げる。かちり、と小さな音がした。冷えた鉄の感触が、手袋越しにも伝わってくる。
外へ出た瞬間、夜気が頬を薄い刃みたいに撫でた。吐いた息が白くほどける。月は雲に半ば呑まれ、石壁の影だけが濃く沈んでいる。
振り返ると、離宮の窓はどれも暗かった。誰も気づいていない。そのことに安堵するより早く、閉めてきた扉の向こうの寝台が、頭の中で白く浮かんだ。
リディアが明日の朝、空の寝台を見たとき、どんな顔をするだろう。
考えてはいけない。考えてしまえば、いま戻ってしまう。




