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守護者の誓いとわたしの答え

 リーディス王国の先代国王――その名が落ちた瞬間、窓の光がさらに薄い紙のように見えた。椅子の脚に沿って床の影が伸び、わたしの指先から熱を奪っていく。


「そうだ」


 ヴィルの声は低く、どこまでも静かだった。抑揚のない響きが鼓膜へ沈み込み、嘘や誤魔化しの余地を一切残さない。だからこそ、頭の奥で別の音が軋む。納得ではなく、衝突の音だ。


「……母さまの、父親……」


 言葉にした途端、息が喉の手前で引っかかった。カップの縁を押さえていないと、指がほどけて落としそうだった。


「ということは……わたしにとっては、祖父にあたる。そういうことよね?」


 自分の音声にして初めて、現実が輪郭を持ってのしかかってくる。白いカップの縁が、指の下でやけに冷たくなった。


 ヴィルは答えない。ただ、そこに立っている。肩の線が硬いまま、呼吸だけが遅い。


 ふと、カテリーナが示した資料の文が脳裏をよぎる。


『先代の王は柔軟な方針を持つ賢君で、その治世は穏やかであった』


 けれどその賢君は、母が訴えた厄災の接近を受け入れなかった。西部戦線という地獄と、甚大な被害を招いたのは誰なのか。資料の白い紙面に、読んだはずの文字とは別の影が滲んでいく。


「お祖父様、か……」


 口の中で転がすたび、言葉の硬さが歯の裏へ残る。熱と重さが混ざり、吐き出す場所を失っていく。


 わたしは一度だけ、カップをソーサーへ戻した。陶器が触れ合う音が硬く響き、部屋の静けさに細い傷が入る。


「……それにしても、そんな重要なことを、なぜもっと早く教えてくれなかったの?」


 声は細くなった。問いの先がどこへ落ちるのか、自分でも掴めないまま。


「ねぇ、どうして……?」


 宛先の曖昧な言葉が、窓辺の空気に溶ける。それでも響きは残り、室内に薄い波を広げた。


 沈黙が満ちる。それを静かに破ったのはローベルトだった。


「長きに渡り、先王陛下はメイレア王女の消息を案じておられた」


「そうですか」


 わたしの口から、まるで他人事のような言葉が漏れた。


「半年以上前、北方からの情報で黒髪のグロンダイル――すなわち君の存在が確認された。私は先王陛下の意向により、個人的に委託した冒険者たちの情報網を通じて、君の動向を把握していた。加えて言うならば、エレダンのハンターギルドや魔石公社など、あらゆる方面から情報を拾い上げた」


 言葉が淡々としているぶん、背の内側がじわりと冷える。椅子の座面の硬さが、急に現実味を増した。


「……そんなの、わたし気づきませんでした。ヴィルは?」


 問いに、ヴィルは無言で首を横に振る。顎の角度だけがほんの少し、苦い。


 ローベルトは小さく頷きつつ、続きを押し出すように言葉を継いだ。


「雷光は、目も鼻も利くことで有名だ。迂闊な真似はできない。そこはあくまで遠巻きに、断片的な情報を精査し、おおよその所在のみを追うと決めていた。そして、君たちがリーディスに向かっていることが判明した」


 窓の向こうで、枯れ枝がひとつ揺れた。その細さが、遠くから伸びてきた見えない糸のように思えた。


「それは王宮側にも伝わっていたの?」


 ヴィルが、言葉の端を掬うみたいに低く割り込んだ。


「ああ、ごく一部はな。俺たちの情報はローベルトに流れるよう仕組まれてた。だが完全じゃない。……それで三ヶ月以上前に、聖剣の公開と選定の予告が出た」


「わかるわ。どんなに押さえようとしたって、漏れるものは漏れる。それで王宮は聖剣という名の餌をちらつかせて、わたしを誘き寄せた……そういうわけね」


「いかにも。先王陛下はその動きを憂慮し、王都の憲兵隊に極秘の通達を発せられた。憲兵隊には平民上がりも多い。先王の治世に恩義を抱いている者が少なくない」


「……そういえば」


 言いかけた音が唇の内側で崩れ、水気のない空気だけがそこに残った。


 視界の端に、あの日の白い石畳が差し戻される。潮の匂いと、甲冑の金具が打ち鳴る硬い音。市場での喧嘩の間に割って入って、路地へ滑り込んだとき――背後の、


『待てー!』


 あれは本気の怒声だったのに、続く足音だけが妙に遠かった。角を折れた先で隊列は整い直し、わたしが潜む入口を覗き込みもしなかった。


 壁の陰で息を殺したとき、隊長格らしい男の手元に、封蝋の欠けた紙片が揺れていた。赤い蝋の割れ目から、走り書きの端が覗く。


「――憲兵隊に追われたことがあるの。……追われた、って言うのも変ね。声だけは大げさなのに、距離を詰めてこなかった」


 言葉にした途端、記憶の中の石畳が白く光った。膝の上で指を組み替え、ほどけないように押さえる。


「隊長が……赤い封蝋の欠けた紙を持っていて。そこに、『ローベ』って……途中まで見えたの」


 ローベルトの目が、微かに細められる。手袋の革がきゅっと鳴り、息が一拍だけ遅れる。瞬きの間に、重い何かが沈むように。


「それが、通達だ」


 声は淡々としているのに、室内の温度が一段だけ落ちた。


「『緑髪の少女の捕縛を禁ず。接触も禁ず。追跡は形式のみ。必要とあらば壁となれ』――そう命じた。君を守るためでもあり、騒ぎを大きくしないためでもある」


 言い切られるより先に、頭の奥で小さな鈴が鳴った。澄んだ音なのに、背筋に冷たい筋が走る。


「……守る?」


 自分の声が、思ったより薄い。


 ヴィルが短く息を吐いた。金属の匂いが混じるような低い呼吸。


「お前が派手にやっても、あいつらは踏み込まない。踏み込めないって寸法だ」


 顔を上げる。ヴィルの横顔はいつも通り無骨な輪郭のままなのに、顎が少しだけ固い。からかいでも慰めでもない、剣を握るときの沈黙だった。


「……じゃあ。わたしは、ずっと監視されていたってこと?」


 問いが部屋に落ちる。落ちた音が遅く転がり、回収されない。


 ローベルトは否定も肯定も急がず、手袋越しの指先で膝を軽く叩いた。軍服の生地が微かに擦れる音が鼓膜に残る。


「何も見張るためではない。王宮側に君の正体が割れれば必ず動く。君を道具として囲うためにな。先王陛下はそれだけは避けたかった。……そして君が、君自身の足でここへ来られるようにと望んだ。そして、君は自分の意志でそれを選んだ。真実へと近づくためにな」


 優しい言葉の形をしているのに、どこか硬い。自由のために敷かれた道、その両脇に見えない柵が立っている感覚が、口の中に残った。


 王宮。現王。先王。ローベルト将軍。どれも同じ分厚い石壁の内側にあるのに、落とす影の色が違う。


 わたしは笑えなかった。代わりに、異国食堂でヴィルが語った『上に伝わっている』という一言が遅れて刺さる。


「まさか、国境を越えたときも……?」


 声を出すと、椅子の背もたれがやけに遠く感じられた。


 ヴィルが、ゆっくりと顎を引く。言葉を持たず、己の不甲斐なさを噛み殺す人間の仕草だった。短い息をひとつ落とし、目を伏せる。


「俺たちの動きの報は先に走っていた。ローベルトがそこまで手を回していたとはな……さすがに気づけなかった。俺の落ち度だ」


 その「落ち度」という言い方が、逆に肘掛けを掴む指へ力を込めさせた。誰かの失策で片づく話じゃない。網は最初から張られていて、わたしたちはその上を歩かされていた。


 ローベルトは、わたしを正面から受け止めた。逃げないからこそ、落ちてくる言葉が重い。


「姑息な真似をしたと不快に思うのは当然だ。だが――王宮側に君の存在を悟られぬためには、それしかなかった。もっとも、君が緑髪に偽装してくれていたことが幸いしたのは確かだ」


 封蝋の欠けた硬さが、指先の記憶を呼び戻す。あの赤。あの紙片。あれが偶然ではなく命令だったのだと、今さらのように身体の奥へ沈んでいく。


「そうでしょうか? 思うにあの髪の色ですけど、むしろ目立ちすぎてリスクしかないかと」


 自分でも驚くほど、声が淡々としていた。行き場を失った熱が、言葉の端から水気を失っていく。


「王宮にも噂は伝わっていたな。伝説のメービス王女に似た髪をした、変わり者の女の子が王都で活躍していると。だが、その正体が、まさか黒髪のグロンダイルだとは思いもしなかったようだ」


「ずいぶんいい加減な気がしますけど、そんなものなのですか? なんだか信じられません」


 ローベルトは、口角だけをわずかに動かした。笑みとも皮肉ともつかない、紙一枚ぶんの揺れ。


「お尋ね者の名を冠した者であるならば、外見を変えるにしても、普通は目立つような行動は取らんだろう?」


 それでも、納得はし難い。


「常識的には、です……」


 言い終えた直後、ヴィルが短く息を吐いた。上着の金具が擦れる音が、わずかに遅れて耳を打つ。


「その常識とやらの逆手を取ったわけだ。カテリーナが言わなかったか?」


『あんたは、まずこの街を楽しむことだね。せっかくリーディスに来たんだもの、見どころも美味しい食べ物もたくさんあるし、味わわないなんて損だよ』


 あの軽さの奥に、こちらを動かす意図が混じっていたのかもしれない。夕食の卓でわたしが騒ぎを話すたび、ヴィルは呆れた顔で相槌を打ち、カテリーナは杯の縁を撫でて目だけで笑った。


 わたしは返事ができず、ただ息を吸った。冷えた空気が気道をひりつかせ、言葉の輪郭を鈍らせる。


 王宮の耳に届く市井の噂は、形のある証拠ではなく、分類のための札に近い。


 目立つほどに本物ではないと決めつけられ、笑い話の棚に押し込まれる。けれど札が札のままでは済まない日がある。選定の儀――あの庭園の熱は、噂を噂のまま終わらせなかった。


 香辛料の匂いと甲冑のきしみが渦を巻き、群衆の息が石畳に落ちていた。剣の沈黙に耐えかねた空気が、ひとつの合図を待っていた。フードが外れた瞬間に走ったさざめき。続いて「やめろ」と跳ね上がった声。誰かが「ミツルちゃん」と呼んだ途端、その名がひとつの輪になって広がった。


 あれは好奇心じゃない。誰かが誰かを守ると決めた音だ。名もない手が勝手に盾になる。その記憶は、王宮があとから札を貼り替えようとしても、簡単には剥がれない。


「そうか……わたし、何も知らないまま笑ってたけど、ちゃんと意味があったんだ」


 言葉にしたあとも、ソーサーの縁に触れた指先は冷えたままだった。


 笑って、噂になって、追われて、逃げて。その全部の裏で、封蝋の欠けた紙が陰ながらわたしを守っていた。同時に、わたしの足が前へ出るための道筋を、ひそかに整えていた。


 それを知ったからといって、あの日々の軽さがそのまま救いへ変わるわけではない。知らないまま笑っていたわたしの輪郭だけが、薄い紙みたいに遅れて透けた。


 それを見守っていた先王。賢君と呼ばれながら、厄災を受け入れず、それでも娘の消息を案じ続けた人。その名の重みが、さっきより近い距離で肌に触れてくる。柔らかい手ではない。けれど、押し返すこともできない。


 わたしは指先に力を込めた。折れそうな芯を、なんとか繋ぎ止めるために。


「そして……先王陛下は――選定の儀式における君の勇気ある振る舞いを耳にして、ついに面会をご決断なされたのだ」


 ローベルトの声は低く、静かだった。一語ごとに内側へ沈み込み、足元の床が音もなく傾くような眩暈を呼ぶ。


「……仮にも先王ともあろう方がですか? 大罪人の娘とされるわたしに、いまさら何を望まれるというのですか?」


 勢いが自分の喉を叩き、息が乱れる。言葉が出た後で、ようやく指が震えているのに気づいた。


「母の言葉を退け、家族としての絆さえ切り捨てた方なのでしょう?」


 続けようとして、言葉が途切れた。椅子の肘掛けを掴むと、磨かれた木の硬さが掌に残った。


 その隙間を埋めるように、ヴィルが一歩、前に出た。靴音が重く響く。逃げずに向き合うための踏み込みだった。


「俺が直接先王と会ったのは、選定の儀式の後だ。ローベルトの手引でな」


 ヴィルの声は落ち着いていた。低い響きが、石壁へゆっくり広がっていく。


「驚きもなく、静かに受け止めていた。そして、会いたいと。連れてきてほしいと頼まれた」


 事実を告げるだけの言い方。そこに迷いも誤魔化しもない。だから、かえって息の幅が狭くなる。


「それにいったい何の意味があるというの?」


 言った瞬間、奥歯のあたりが苦い。


「血が繋がっているからって、いまさらじゃない」


 言葉が立つたび、呼吸が浅くなる。


「父さまを大罪人に仕立て上げて、母さまを王家の恥さらし扱いにして、二十年以上も、ほったらかしにしていたのよ」


 声が熱を帯び、止まらない。


「孫だからって? 会いたいですって? ご丁寧に道筋まで用意して? 馬鹿にするのもたいがいにしてよ」


 最後の一言だけが鋭く落ちた。掌の下で木の肘掛けが軋む。怒りの形が整う前に、別のものが混ざってくるのが悔しい。


「ただの興味本位なら御免被るわ」


 吐き出した後、肋の内側がきしんだ。息が熱を含み、声が自分の足元まで揺らすのが分かる。問い詰めながら、どこかで彼に否定してほしいと縋りつく浅ましさが、いちばん苦い。


 ヴィルはそれを受け止めた。目を伏せ、短く息を吸い直す。拳を握り込み、ほどいてから、ようやく口を開く。


「落ち着け、ミツル」


 その声は深く低く、張り詰めた空気の上に重さを置いた。


「お前が怒るのは当然だ」


 言い切りが無骨で、逃げがない。


「だが、先王は本気でお前を案じていた。そこは嘘じゃない」


 信じたいのに、信じきれない。窓の影が、床の上でわずかにずれた。


「それに――」


 ヴィルは言葉を探すみたいに一拍置いた。視線を逸らし、すぐ戻す。その不器用さが、逆に刺さる。


「過去に何があったのか、お前は知りたくないのか」


「真実……ですって?」


 問い返した声は、裏返りそうになるのを必死に押さえた。


「そうだ」


 ヴィルはゆっくり頷く。


「お前が探している答えだ」


「……お前が抱えているものを、正面からぶつけられるのは、先王だけだ。だから俺は、この判断をした。裏切り者と罵られても構わない」


 短い言葉が、深く沈んだ。


「……あなたは、どうしてそこまでしてくれるの……」


 思わず口をついて出た問い。自分が答えを欲しがっていることが、情けない。


 ヴィルは瞼を伏せ、唇を引き結んだ。迷っているのではない。言い方が分からないだけだ。


「俺は……お前を守ると決めた」


 短く言い切る。


「それだけだ。それだけは、変わらん。絶対にだ……」


 胸の奥が、ふっと温まった。救いの熱がそこに灯るのに、祖父という名の硬さは消えない。温かさが来るほど、棘がくっきりする。


 わたしは俯いた。指を絡ませ、ほどけないように押さえる。言葉を返そうにも、粘膜が熱く塞がったようで、すぐには声が出なかった。


 ヴィルはわたしの沈黙に、しばらく何も言わずに立っていた。やがて、低く言う。


「ミツル、今すぐ俺を殴れ」


 わたしの手が肘掛けから浮きかけて、宙で止まった。


「え……あなた、なにを言っているの?」


「どんな言い訳をしても、罪は罪だ。俺はお前の信頼を裏切った。けじめとして、罰は受けるべきだ」


 真っ直ぐな言い切り。逃げ道がない。だから腹が立つ。だから、ほどけてしまう。


「……そんな簡単に殴れだなんて、無責任なこと言わないでよ」


 声が揺れた。情けなくて、それでも言うしかなかった。言葉の端に滲む微かな笑みは、矛盾を無理やり抱きとめるせいだったのかもしれない。


 ヴィルは何も言わず、ただそこに立つ。許すでも裁くでもない。受け止めるだけの姿勢が、わたしの息の行き場を奪う。


 庭木を揺らす風の音が遠くから届いた。わたしの息とヴィルの息のあいだに、冷えた葉擦れが一枚だけ挟まる。窓の外は鉛色のままなのに、二人の間を流れる時間だけが、硬さを失いきれずに揺れている。


「もう……わたしがそんなことをするわけがないでしょ」


 言い終えた途端、胸の奥が小さく攣れた。吐いた息の端が震えて、唇の内側に渋みだけが残る。


「あなたに助けられたのは、事実なんだから。それこそいまさらじゃない……」


 それは許したい言葉でも、赦した言葉でもない。たぶん、言い訳だ。


 ヴィルはいつだってそうやって、わたしに何も告げずに、誤解されることすら覚悟して守ろうとしてくれていた。だから今さら怒りの形だけを振り回しても、わたしの手のひらは空を切る。恨みのふりをして殴れるほど、わたしは彼を軽く扱えない。


 本当は別の言葉を言いたい。けれどそれを出したら、いまのわたしの輪郭がほどけてしまう気がして、唇の裏で押し殺した。指先が膝の上で組み替わり、離れ場を探して迷う。


「そうか」


 ヴィルが小さく息を吐く。金具がかすかに鳴って、その音だけが、慰めの代わりに残った。


「ありがとうな、ミツル」


 その一言がずるい。ずるいのに、拒めない。頬の熱が一瞬だけ上がり、すぐに引いていく。


 ヴィルの声は、あたたかな布のように肩へ落ちた。けれど、その下にはまだ、先王という名の硬い石が残っている。触れれば冷たく、目を逸らしても重さだけは消えない。


 わたしは息を整え、言葉を選んだ。言い切ると決めたぶん、怖さも増す。


「……わかった」


 肩の奥の強張りが、ふっと緩んだ気がした。


 顔を上げる。ヴィルの姿がぼんやり滲むのは、熱を持った瞬きのせいだろう。


「……わたし、先王陛下に会うわ」


 静かに告げた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


 けれど決めた途端、足裏に床の冷えが戻った。母の声を退けた男に会いに行く。その事実だけが、硬いまま残る。


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