おれが総理 :約2500文字
ここに来るまで、長かったような、短かったような……。
おれは内閣総理大臣専用車の後部座席に深く身を沈め、鼻からゆっくりと息を吐いた。途端、車内に満ちている独特の匂いが再び鼻腔を満たした。革とワックスと何かよくわからない、たぶん高級な香料が混ざり合った匂いだ。ああ、これが上級の匂いってやつか……。
そう。おれが今乗っているこの車は、“内閣総理大臣専用車”である。
つまり――。
「総理。先方までもう間もなくです」
「ああ……」
そう、おれが総理なのだ。
ある日、アパートの部屋に政府関係者を名乗る男たちが押しかけてきた。
玄関に並んだ黒いスーツの男たちを見た瞬間、滞納している年金の取り立てがついに来たか……! と震え上がったが、話を聞けば、なんとおれに次の選挙に出てほしいというのだ。
父親の知り合いの、そのまた知り合いの議員からの推薦らしい。
はあ、はあ、と相槌を打ちながら、はあ? と疑念が頭をもたげたが、最終的には、『こちとら無職だ、てやんでいばかやろうめい』と持たざる者特有の投げやりな開き直りが見事に発動し、おれはその話を受け入れた。
そこから先は、信じられないほどとんとん拍子に事が運んだ。用意された原稿を読み、笑顔で握手を交わし、ほんのちょっぴり頭を下げる。たったそれだけのことを繰り返しているうちに、気づけばおれは議員になっていた。
さらに総裁選に出馬し、党の代表に選ばれ、いつの間にか国会で過半数の票を獲得し――そして、見事に内閣総理大臣となった。
いやはや、大した実績もないのに親のコネと流れだけでここまで上り詰めるとは、まさに驚き、桃の木、なんとかの木である。
もちろん、おれに対する批判の声がなかったわけではない。
だが不思議なことに、好意的な声のほうが圧倒的に多かった。そしてこの国は、多数派の声を何よりも重んじるのだ。
こうしてスマホでSNSを覗けば、おれを称賛する国民の声が洪水のように押し寄せてくる。画面の向こうにいる無数の人間の顔が、おぼろげながら浮かび上がってくるようだ。
『ようやく真打登場!』
『なんか顔つき変わった!?』
『去年より渋みが増したか』
『泥臭い仕事もこなして一皮むけたのね』
『困ったときのピンチヒッター感ある』
『期待感しかないでしょ』
『この前の野党への切り返し、鋭かったぞ』
『単純にいい人そうなんだよな~』
『むやみに敵を作るタイプじゃない』
『側で見てる人は分かってるんだよ』
『やっぱり仲間がいないと政策は進まないよ』
『奇をてらわず、実直に仕事してくれる人がいい』
「総理。総理? 着きましたよ」
「ん、あ、ああ……」
秘書に声をかけられ、おれはスマホをポケットにしまい、車から降りた。
「先方がお待ちです」
「ああ、もちろんだ」
何が『もちろん』なのかはわからないが、おれはとりあえず総理らしくそう返しておいた。
着いた先は、郊外にひっそりと佇む古びた建物だった。窓はなく、打ちっぱなしのコンクリートの壁は黒ずみ、ところどころに雨垂れの跡が筋のように垂れている。倉庫かシェルターだろうか。重苦しく、どこか陰鬱な気配が漂っていた。
「ところで誰が待っているんだ?」
スライド式の鉄扉が低い唸り声のような音を立てて横に滑った。
その先に続く薄暗い廊下へ足を踏み入れながら、おれは訊ねた。壁も床も無機質な灰色のコンクリートで統一され、照明は足元灯がぽつぽつと並んでいるだけで、上にはない。靴底が床を打つ音がやけに大きく反響し、乾いた音が奥へと吸い込まれていく。
護衛が数名、前後を固めるように歩き、その外側を見知った顔の議員たちが囲んでいる。皆、ただ黙って歩いている。
「異星人です」
少し前を歩く秘書が、振り返らずにそう答えた。
「なるほど」
おれはとりあえずそう返した。しかし、異星人とはどういう意味だ。比喩か? ……ああ。
「大統領か。たしかに、外人は異星人みたいなものだな。だが、異星人ではなく外人だな」
「ですね」
秘書は短く応じた。声の端にかすかな笑いが滲んでいたように感じた。
「こちらです」
やがて秘書が立ち止まり、護衛が扉を押し開けた。
通された先は円形の部屋だった。何もない、がらんとした空間だ。いや、何もないわけではないが、誰もいない。
天井の中央には円形の天窓があり、その向こうには厚く垂れ込めた曇り空が広がっていた。そこから落ちてくる鈍い光が、部屋の中央をぼんやりと照らしている。
そこに、ぽつんと台が置かれていた。手術室で見かける器具台のような、キャスター付きの銀色の台だ。金属の表面が光を反射している。
そして、その台の上にあるのは……。
「タコ……?」
振り返ると、秘書や議員たちは一斉に深く頭を下げた。おれはとりあえず小さく頷いておいた。
再び視線を台の上のそれへ戻す。
アワビのような鈍い色合いに、まだら模様の体表。触手は三本しかなく、その一本一本がやけに太い。中央には目が一つだけあり、こちらをじっと見つめていた。全身がぬめりを帯び、光沢がある。濡れているのかもしれない。
「総理、そちらが先方です。両手で持ち、顔の前へ掲げてください」
「え、これをか?」
おれは思わず顔をしかめた。その瞬間、その生物の目がわずかに細まったように見えた。
まるで不快感を示すかのように。振り返ると、秘書たちが慌てたように深く頭を下げた。
「総理。さあ、早く」
「まあ、そんなに言うなら……。だが、濡れているようだ。それはつまり、触ると手が濡れてしまうということだ」
「いいから早く……!」
秘書たちがさらに促してくる。その声には明らかな焦りが滲んでいた。
おれは小さく肩をすくめ、仕方なく両手を差し出した。
これは……おお……。
持ち上げた瞬間、ずしりとした重みが腕にのしかかった。
予想以上に重く、生温かい。指の隙間に体がぬるりと滑り込み、手全体を包むようにまとわりついてきた。そして、やはり濡れていた。
おれは口を歪めながら、それをゆっくりと顔の前に掲げたああああ、あばばばっばばばばばばばばばば――
「……いかがですか、総理。いや、大使殿」
「ご要望どおり、我が国の総理大臣です。寄生先――いえ、依り代に最適かと」
「約束どおり、我が国への支援のほど、よろしくお願いします。我々がお支えしますので、未来をともに拓いていこうではありませんか」
「この男……」
「大使殿?」
「この男、脳みそスカスカやないかい! こんなん、まともに仕事できへんで!」
「ははは! ご安心ください。我々の指示に従っていただければ問題ありませんから。なあ」
「ええ。すでに“実績”がありますので。ははは!」
「はははは! 狙いどおりだ。ははははは!」




