ひとしずく
ひとしずく
──あの日、水をくれたのは君だった。
■ 第一章:呼び水
大学の夏休みを使って、僕は四年ぶりに「篁島」を訪れた。
その島は瀬戸内海の外れにある、今では過疎化が進んだ小さな離島だ。コンビニも信号もなく、フェリーは一日に三便だけ。民宿を営む親戚がいるとはいえ、大学生の僕がここに来る理由は、他に一つしかない。
──君が、いたからだ。
高校の途中で本土から島へ転校してきた少女、神原澪。透き通るように白い肌、長い黒髪、そして水を含んだような瞳。
彼女がこの島で暮らしたのは、ほんの一年足らずだった。原因不明の病に倒れ、三年前──夏の終わりに、亡くなった。
葬式には出られなかった。どうしても行くことができなかった。
それが、ずっと胸の中に引っかかっていた。
「せめて、線香だけでもあげたいんです」
僕は親戚の叔母にそう言って、島に行く口実を作った。
フェリーを降りると、潮風とともに、あの夏の匂いが鼻をかすめる。港の待合所には誰もいない。バスもない。静かだ。
港から坂道を登りきると、白壁の小さな民宿が見えた。
叔母に挨拶を済ませると、僕はリュックだけ部屋に置いて、すぐに出かけた。向かった先は、島の外れにある共同墓地だった。
雑草に覆われた細い道を抜けて、小高い丘を登ると、ぽつぽつと古い墓石が並んでいる。
澪の墓は、その一番端にぽつんと立っていた。
名前と、生没年。それだけが刻まれた、簡素な墓。
僕は線香に火をつけ、しゃがみ込んだ。
「……澪。久しぶり」
風が一瞬、止まった。背筋が冷たくなる。
「会いに来たよ。……ずっと、謝りたかった。あのとき、君のメール、返せなくて……」
返せなかったメール。それが彼女から届いた、最後の言葉だった。
──「ひとくち、水が欲しい」──
意味がわからなかった。でも、怖かった。
澪が死んだと聞いたのは、その三日後だった。
墓の前に小さな花瓶があった。中の水は、もう乾いていた。
僕は持ってきた水筒から水を注いだ。
そのときだった。
……カタン。
背後で、音がした。振り返ると、誰もいない。
風もなく、虫の声も止んでいる。
それなのに、耳元で確かに──女の子の声がした。
「……ありがとう」
■ 第二章:波の音がしない
「……ありがとう」
たしかに、耳元で声がした。囁くように、静かに、どこか懐かしい調子で。
僕は思わず周囲を見回した。だが、誰もいない。風も音も、止まっていた。
錯覚かもしれない。そう思い込もうとした。だが、胸の奥に残ったざわつきが、それを許さない。
「……まさかね」
墓前に手を合わせ、僕はその場を離れた。山道を下っていくと、見覚えのある木造の分校跡が現れる。そこは僕と澪が通っていた高校の旧校舎だった。島に高校生は少なく、教室はたったの一つ。今は廃校となり、校庭には雑草が生い茂っている。
ふと、校舎の一角に視線が止まった。
旧校舎の裏、井戸がある場所。あの日、彼女と一緒に水を飲んだ、あの場所だ。
──「この井戸の水、冷たくて甘いんだよ」
澪はそう言って、僕に水を手渡してくれた。
──「はい、これ。最初の一杯は、あなたにあげる」
あの一杯の水。
唇に触れた瞬間、冷たさが体中に広がった。まるで、記憶ごと染み込んでくるような味だった。
僕は気づくと、井戸の前に立っていた。
木製の蓋は外されていて、中は真っ暗だ。手元にあった小石を落としてみる。
……ぽちゃん。
水の音は、深く、重い。そして、すぐに──
「……ひとくち、ちょうだい……」
また、聞こえた。今度は確かに、井戸の中から。
「だれ……だ」
口をついて出た言葉が震えていた。
「水……飲ませて……」
その声は、あのとき澪が送ってきた最後のメッセージと、同じ響きだった。
懐かしくて、怖い。
温かくて、冷たい。
僕は一歩下がった。
だが足元の地面がぬかるんでいて、バランスを崩した。
「うわっ──!」
左足が井戸の縁に当たった。重心が傾く。
その瞬間、誰かの手が僕の腕を掴んだ。
冷たい、水に濡れた小さな手。
「……見つけた」
視界が、真っ暗になった。
■ 第三章:水の底の記憶
気がつくと、僕は水の中にいた。
上下の感覚がなく、耳には何も聞こえない。ただ、目の前にぼんやりと光が差している。その光の中に、誰かが立っていた。
長い黒髪、白いワンピース。水の中でも髪は揺れず、まるで静止画のように彼女はそこにいた。
澪。
呼ぶ声が喉に引っかかった。声にならない。
彼女は微笑んでいた。
けれど、その目はどこか虚ろで、遠くを見ている。
──ねえ、覚えてる?
声が、頭の中に響く。
──あのとき、私、もう水が飲めなかったの。喉が焼けて、声も出せなくて……。でもあなたがくれた、一杯の水が……生きてるって感じた最後だった。
あの井戸の水だ。
あの日、澪が僕にくれた冷たい水。それを、最後に彼女に返したのは、僕だった。
──あの水が、私をここに縛ったの。
澪が、手を伸ばす。
触れたら、いけない。そんな直感が働いた。
だが僕の体は動かない。まるで水に絡め取られたように、力が入らない。
──ねえ、お願い。もう一度、飲ませて……
──あなたの口から、ひとしずく……
そのとき。
背中に熱い何かが触れた。視界が一気に白く弾け、僕の身体は水の中から引き戻されるように、急浮上した。
「──っは!」
息を吸った。肺に空気が一気に入り、咳き込む。
目を開けると、僕は井戸の脇で倒れていた。濡れている。全身びしょ濡れだ。けれど、井戸に落ちた形跡はない。
あれは……夢? 幻覚?
「夢じゃ……ないよ」
声が、耳元で囁いた。
辺りを見回しても、誰もいない。
けれど、地面には濡れた足跡が残っていた。僕の足とは違う、小さな裸足の跡。
墓場で聞いた「ありがとう」、井戸で聞いた「水ちょうだい」、そしてあの水中の幻。
バラバラだった出来事が、少しずつ一つの線につながり始める。
澪は、ここにいる。
そして──何かを伝えたがっている。
■ 第四章:濡れた記憶
民宿に戻ると、叔母が驚いた顔で僕を迎えた。
「どうしたの、そのびしょ濡れ……海でも落ちたの?」
「いや……ちょっと、井戸のほうで……」
「井戸……? まさか、旧校舎の裏のかい?」
頷くと、叔母は急に顔色を変え、唇を引き結んだ。
「……あの井戸には、近づいちゃいけないよ」
「なんで?」
叔母は迷ったように口をつぐみ、それでも覚悟を決めたように、静かに語り始めた。
「あれはね、澪ちゃんが倒れる直前の話よ。彼女、あの井戸の水を毎日飲みに行ってたの」
「え?」
「不思議な子だった。真夏の炎天下でも、日傘も差さずに、毎日。しかも、自分で言ってたのよ。“この水は、死んでも手放せない”って」
背筋が凍った。
「死んでも……?」
「そう。まるで、その水に取り憑かれているみたいに」
叔母は一拍置き、静かに呟いた。
「──水神さまの祟りだって、昔から噂されてたのよ。井戸の中には“死者の水”があるって」
僕はそのまま、部屋に戻った。
床についたものの、眠れなかった。まぶたを閉じるたびに、澪の濡れた瞳が浮かぶ。
あの水。
あの日、僕が受け取った一杯の水。
それは澪の思いを、魂を、受け継いだものだったのか。
……いや、違う。
彼女は、ただ水が欲しかったんじゃない。
僕に、何かを伝えたかった。
僕はスマホを取り出し、保存されていた澪からの最後のメッセージを開いた。
──「ひとくち、水が欲しい」──
でも、そのメッセージには続きがあった。気づかなかった。震える指でスクロールする。
──「……忘れないで。私がいたことを。」──
胸が締めつけられた。
彼女は、忘れられることを恐れていた。
翌朝、僕は再び墓地へ向かった。今度は、あの水筒を手に。
墓前に座り込み、ゆっくりと水を注ぐ。
「君の水……君の時間……ちゃんと覚えてるよ」
風が吹いた。水面が震えた。
そのとき、澪がいた気がした。すぐそばに、座っているような。目を閉じると、彼女の声が聞こえた。
──ありがとう。それで、ようやく……。
■ 第五章:ひとしずく
風が止み、空気が澄んでゆく。
墓の前で僕は静かに目を開けた。
水筒の水が、澪の花瓶に満たされている。
太陽の光を受けて、水がきらめいていた。
その一瞬、空気が震えたように感じた。
水面に映る影──それは、僕の隣に座る少女の姿。
澪だった。
あの日と同じ、白いワンピース。長い黒髪。けれど、その顔は穏やかだった。もう、あの井戸のような冷たさはない。
「ずっと待ってたの。あなたに、来てもらうのを」
「……僕も、ずっと来たかった。謝りたかった」
「謝ることなんて、ないよ」
澪は微笑んだ。少しだけ、寂しそうに。
「ただ……忘れられるのが、怖かっただけ。島に来て、友達もいなくて、病気で……でも、あなたが水をくれた。あの一杯で、生きてるって思えたの」
「僕は、何もできなかった……!」
叫ぶと、澪は首を振った。
「十分だったの。たった一杯の水でも、私には宝物だった」
風が、澪の髪をふわりと揺らす。
その姿は、少しずつ薄れていった。
「ありがとう、来てくれて。もう、ここに縛られなくてすむ」
「……どこに行くの?」
「次の水を、探しに。誰かの喉を潤すために」
そう言って、澪は最後に微笑み、風とともに消えた。
それから三日後、島を離れる朝。
フェリーの中で、僕は井戸のことを思い出していた。
あの井戸は、もう使われていない。けれど今朝、島の子どもたちが「水が甘くなってる」と騒いでいたと聞いた。
あれは澪の名残なのか。
それとも、水神が目を覚ましたのか──
僕は鞄から水筒を取り出し、一口、口に含む。
あのときと同じ。冷たくて、やさしい味。
澪のひとしずくは、きっと今も、どこかで誰かの命をつないでいる。
だから、僕は忘れない。
たとえ時が過ぎても──
一杯の水が、心を繋いだことを。
(完)