9 推しの幸せとは
「私の夢は、誰かに幸せにしてもらうことじゃないわ。私は自分で幸せになれるのよ」
「どういうこと?」
レイリーディアは少し黙ってから、まっすぐ私を見た。瞳には迷いがなかった。
「私、本当は歌が好きなの。幼い頃お父様に連れられてオペラを見に行ったとき、雷が落ちたようだった。私もあんな風に舞台で歌いたいと、ずっと思っていたわ」
「そうだったんだ」
ユナも言っていた。初めてアイドルのステージを見たとき、雷が落ちたみたいに「アイドルになりたい」と思ったって。
「だけどずっと言えなかった。反対されると思っていたから」
そう。ユナも同じだった。厳しい両親に反対されて、何度も泣いていたと聞いた。
「だけどね」
レイリーディアは少し笑って、続けた。
「あなたが絵を描いている姿を見て、気づいたの。描いて、描いて、疲れ切ってキャンバスの前で寝ているあなたを見て…ああ、好きなことに打ち込むって、こんなにきれいなんだって」
ちょい待ち、キャンバスの前で寝ている私!?
「ちょ、待って!キャンバスの前で寝てた私にブランケットかけてくれたの、レイリーディア!?」
「そうよ」
「うそっ!?」
「ブランケットをかけながら思っていたの。あなたがきれいだって。好きなことに真剣な人って、本当に幸せそうだって」
レイリーディアは私の手をとった。濡れて冷たいはずのその手から、不思議な熱が伝わってくる。
「私も、好きなことをやって生きたい。応援…してくれる?」
「もちろん…もちろんだよ!」
それが推しの幸せだというのならば。
レイリーディアが歌えば、きっとたくさんの人が幸せになる。
そしてレイリーディアはみんなからの愛でもっと輝く。
ここが乙女ゲームの世界でもそうじゃなくても、「恋愛しなきゃ幸せになれない」なんてことはないよね?
ーーー
レイリーディアは「まだお兄様には話せない」と言い、クラウスに内緒で音楽教室に通い始めた。
アリバイ担当はセドリックとレオン。
セドリックがモデルを頼んでいることにしたり、レオンとデートしていることにしたりしてくれている。
レイリーディアは「嘘に巻き込めない」と躊躇したけど、二人は快く手を貸してくれた。
セドリックは自由人で「芸術仲間ができる」とむしろ乗り気だし、レオンは彼女のためなら煮え湯でも飲むタイプだ。
そしてレイリーディアは、「リディア」と名乗り、地味なワンピースに眼鏡姿で教室へ通う。身分を隠して「厳しく指導してほしい」と頼むストイックさ、尊すぎる。
「ちゃんと声楽を習うのは初めて?じゃあまず素の発声を見せて」
最初の一音は、小さくて震えていた。
(頑張れ、レイリーディア…!)
先生がそっとレイリーディアのお腹を押すと、震えが消え、もう一度。
三音目で教室の空気が変わった。
どこまでも澄んでいながら、力強くて、歌う喜びに溢れた声。
(涙が出そう)
と思った瞬間、涙が溢れていた。身体が感情より早く反応してる。
(だめだ、今は泣くな。推しの尊い姿を記憶して、キャンバスに表現せねば)
そうやって、レイリーディアは声楽の才能を磨き、私は歌う彼女を描き続けた。
夢に向かう若者の充実した生活が、続いていくはずだった。
ーーー
「なんだ、これは!」
私の部屋にクラウスの怒声が響く。
「レイリーディアが、歌っているだと…!?」
「これは想像で描いた絵で…」
「嘘をつくな!調べればすぐにわかるんだぞ!!」
(詰む…)
あまりの剣幕に、私は正直に話すしかない。
「公爵令嬢が市井の音楽教室で声楽を習っているだと…!?俺に内緒で…セドリックとレオンまで巻き込んで…」
「でもレイリーディアは本当に真剣で幸せそうで…だからあの二人も応援してくれたの。クラウスも応援してあげるべきじゃないの?なんでそんなに、最初から拒否…」
「うるさい!」
クラウスは私を一喝して出て行った。
クラウスは悪役令息で恐怖の処刑係だけど、あんなに感情的に怒るのは珍しい。
(レイリーディアになにかするんじゃ…!?)
私は急いでクラウスを追ってレイリーディアの部屋に向かい、ドアにぴたっと耳をつける。
「レイリーディア、歌はやめなさい」
よかった。意外に冷静だ。さすがシスコン。
「お兄様、私は…」
「聞き分けなさい。歌だけはだめだ」
「お願いです、私の話を聞いてください」
「あの歌手が私たちに何をもたらしたのか、忘れたわけじゃないだろう!」
あの歌手?
よく聞こうと耳を強く押し付けた瞬間、ドアが開いた。
「ぎゃっ!」
私は派手に転がり込む。
推しの部屋。聖地。聖域。サンクチュアリ。いい匂い…
ではなくて、今は…
「盗み聞きか」
「どうにもこうにも心配で…”あの歌手”って、誰?」
クラウスとレイリーディアは顔を見合わせ、静かに話し始めた。
二人の父は、妻と子がありながらオペラ歌手に熱を上げた。
家に帰らず、公務を放棄し、やがてその歌手との痴話げんかの末に命を落とした。
(お父さん…!それはひどすぎる…!!)
クラウスが歌手に拒否反応を示すのも、わからないではない。だけど…
「その歌手とレイリーディアは違うでしょ。同じ職業だからって、同じ生き方をするわけじゃない」
「…」
「同じ公爵でも、お父さんは家族を捨てた。でもあなたは家族と公爵家を守って…ついでに言うと不審者の私まで守ってくれてるじゃない」
「しかし…」
クラウスの表情がわずかに揺れた。
レイリーディアが一歩、前に出る。顎を上げて。
「許していただけないなら、私はここを出て行きます。歌手として大成できなくても、貧しさの中で死んでも、構いません」
雷が落ちたように、クラウスは凍りついた。
いつも従順でしとやかだった妹が、初めて自分の意志で言葉を放っていた。
「お兄様に叱られても嫌われても…それでも歌いたいのです。歌えば歌うほど、自分にとって歌がどれほど幸せなものかわかるのです」
「レイリーディア…!」
「もちろん、お兄様が応援してくださったら、もっと幸せよ…?」
クラウスは静かに彼女を抱きしめた。
「応援するよ、レイリーディア」
レイリーディアの手がクラウスの背中に回されて、私の頬を涙が伝った。




