第1話 運命の出会い
タクシーを降り、彩香に手を引かれるようにして辿り着いた「月虹」は、繁華街の喧騒から少し離れた、瀟洒なビルの地下にあった。周囲には高級ブティックや隠れ家的なレストランが軒を連ね、洗練された雰囲気が漂うエリアだ。黒御影石で縁取られた階段を下りると、重厚な黒檀の扉が現れる。そこには、控えめに銀色の三日月のモチーフが嵌め込まれており、磨き上げられた真鍮のドアノブが鈍い光を放っていた。一見すると、会員制の高級バーのような落ち着いた佇まいだ。しかし、扉の前に立つ黒服のドアマンたちの鋭い視線は、どこか人間離れした冷徹さを感じさせた。
「わあ、すごい!本当に隠れ家って感じだね!ドキドキするー!」
彩香は無邪気にはしゃいでいるが、私はドアマンたちの視線に射竦められそうになるのを必死で堪えた。彼らの瞳の奥に、まるで闇夜に光る獣のような、冷たく鋭い光が宿っているように見えたのは、気のせいだろうか。
扉が静かに開かれ、一歩足を踏み入れると、私は思わず息を呑んだ。
そこは、外観からは想像もつかないほど広大で、そして異様な空間だった。
天井は高く、ドーム状になっており、そこには本物の夜空と見紛うばかりの星々が投影され、ゆっくりと回転している。天の川や、遠い星雲までもがリアルに描かれ、まるで宇宙空間に浮遊しているかのような錯覚を覚える。そして、その中央には、妖しく青白い光を放つ巨大な三日月が浮かんでいた。フロア全体を包み込むのは、重低音の効いた、どこかトライバルなリズムを刻む音楽。それは心臓の鼓動と共鳴し、否応なく気分を高揚させ、同時に原始的な本能を呼び覚ますような、不思議な力を持っていた。
照明は極端に落とされ、深紅と黒を基調としたベルベットのソファや、獣の毛皮を思わせるような質感の絨毯が、そこかしこに配置されている。テーブルは黒曜石のように滑らかで冷たく、グラスには琥珀色やルビー色の液体が揺れていた。壁には、抽象的な獣の姿を象ったようなオブジェが飾られ、それらが間接照明に照らし出されて、不気味な影を落としていた。
そして、何よりも私を圧倒したのは、そこに漂う濃厚な匂いだった。
甘く熟した果実のような芳香、むせ返るような花の蜜の香り、そして、それらとは明らかに異質な、微かに獣臭い、しかし抗いがたいほど官能的な匂い。それらが複雑に絡み合い、まるで生き物のように空間を満たしている。
(何ここ…まるで、別の世界に迷い込んだみたい…)
客たちは皆、一様に洗練された装いをしていたが、どこか人間離れした雰囲気を纏っていた。しなやかな身のこなし、鋭く光る瞳、時折見せる野獣のような獰猛な表情。
ふと、視線を感じた。
それは、これまで感じたことのないほど強く、鋭く、そして全てを見透かすような視線だった。まるで、魂の奥底まで見抜かれているような、抗うことのできない力を持った視線。
反射的に顔を上げると、フロアの一段高くなったVIPエリアとおぼしき場所に、一人の男が立っていた。
その瞬間、周囲の喧騒が嘘のように遠のき、音楽も、人々の話し声も、何もかもが意味をなさなくなった。私の世界には、ただその男だけが存在しているかのように。
男は、まるで闇そのものを凝縮したかのような黒いロングコートを纏い、長い脚を組んで深紅のベルベットのソファにゆったりと腰かけていた。その姿は、まるで玉座に座る王のようだ。
長く艶やかな銀色の髪が、薄暗い照明の中で妖しい光を放っている。それはまるで、月の光をそのまま髪に宿したかのようだった。彫刻のように整った顔立ちは、人間離れした美しさを湛えていたが、その表情は冷たく、感情の起伏を一切感じさせない。
そして、何よりも印象的だったのは、その瞳だった。
鋭く細められた瞳は、溶けた金のような、あるいは満月の光を宿したかのような、強烈な金色をしていた。その瞳が、真っ直ぐに私を射抜いていた。
それは、獲物を見つけた捕食者の瞳。その視線に捉えられた瞬間、私は全身が金縛りにあったかのように動けなくなった。
恐怖。圧倒的な恐怖。本能が、この男から逃げろと叫んでいる。
しかし、それと同時に、体の奥底から湧き上がるような、抗いがたいほどの強い引力を感じていた。
(誰…?この人…どうして、こんなに…胸が苦しいの…?)
男は、私の視線に気づくと、ゆっくりと口元に微かな笑みを浮かべた。それは、残酷なほど美しい笑みだった。そして、彼はすっくと立ち上がると、迷いのない足取りで、階段を降り、私の方へと向かってきた。
周囲の客たちが、まるでモーゼの前の海が割れるように、彼のために道を開ける。誰も彼に逆らおうとはしない。
私は逃げ出したかった。しかし、足が床に縫い付けられたように動かない。ただ、迫り来る男の姿を、恐怖と期待の入り混じった瞳で見つめることしかできなかった。
男が私の目の前に立った。
見上げるほどの長身。完璧なまでに均整のとれた体躯。そして、先ほどよりもさらに強く感じる、圧倒的な存在感と、むせ返るような濃厚な雄のフェロモン。
「ようやく見つけた…」
男の低い声が、私の鼓膜を震わせた。それは、まるで地底から響いてくるような、深く、そして有無を言わせぬ力強さを秘めた声だった。
「私の花嫁…いや、月巫女よ」
次回、凛は自分が何者なのか、そしてこの男の正体の一端を知ることに…。
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