束の間の退院
「それじゃあ、今日から抗がん剤治療始めます。体の調子はいかがですか?」
「うん、特にしんどいとこはねぇよ」
「じゃあ、投与始めます。気分悪くなったり吐き気が強くなったら、遠慮せずに言ってくださいね」
「わかりました」
ついに抗がん剤治療が始まった。体力には自信があった。世界中を転戦して、何試合もこなしてきたからな。でも、時間が経つにつれて吐き気が襲ってきた。ナースコールを押して、吐きそうだって伝えると、看護師がトイレまで連れて行ってくれた。便器に顔を向けると、堪えていたものが一気に逆流し、吐いた。この吐き気は言葉にし難いほど強烈だった。
「これから何回もこんな目に遭うのか…」
そう思うと気が滅入った。吐き終わって少し楽になると、看護師が雪から預かってた洗濯物を持ってきた。その中に手紙があった。
「そうちゃん、今日から抗がん剤治療始まったね。これから大変だと思うし、体力的にも辛くなることあると思う。私にできることあったら言ってね。早く良くなりますように」
丁寧な字で、雪らしい綺麗な文字だった。
「雪、ありがとうな」
手紙のイラストには2022の数字、五輪マーク、ジャンプ台から飛び立つそうちゃんが描かれていた。
抗がん剤と放射線治療が続いて、腫瘍が小さくなってから開頭手術を受けた。長時間の手術が終わり、そうちゃんが意識を取り戻したのはゴールデンウィーク真っ只中の5月3日。誕生日の5月2日は過ぎてしまっていた。
今年は雪と誕生日を迎えられなかったのが悔しくて、そうちゃんは雪に言った。
「今年は雪と誕生日過ごせなくてごめんな。雪の誕生日には絶対退院して一緒にお祝いするからな」
「そうちゃん、無事に意識戻ってくれて良かった〜。私の誕生日まではまだ3ヶ月あるから、それまでゆっくり治療に専念してね。早くそうちゃんに会いたいな」
そうやり取りして夜が来た。頭痛は良くなり、ものが二重に見える症状も治まった。手術の効果かもしれないと感じていた。
世間はゴールデンウィークで賑わい、旭山動物園も家族連れでにぎやかだった。雪もいつもならスキーシーズン終わりのこの時期、そうちゃんと出かけていたが、今年はそんな気になれずカフェに没頭していた。
「雪、たまには仕事休んでリフレッシュしてこいよ」
「そんな気になれねぇんだわ。そうちゃんが懸命に病気と戦ってるのに、私だけ出かけて楽しむのが申し訳なくて」
「でもよ、若ぇもんがずっと仕事だと心折れるぞ。時には休まなきゃ」
「今は仕事してないと気が滅入るんだわ。仕事してる間は気がそっちに向くからまぎれるんだよ。来年はそうちゃんと夫婦になっていっぱい楽しむんだ」
「そうか。でも無理すんなよ。雪まで倒れたら困るからな。しんどい時は休めよ」
「うん、ありがとう」
仕事終わりにベッドに潜り込んで、そうちゃんにLINEした。
「そうちゃん、もう寝たかな?今日ね、喜多見さん来たよ。体力戻ったらまた飲みに行こうって。私もその時は一緒に行きたいな」
「ごめん、うとうとしてた。海斗来たんだって?元気にしとったか?久しぶりに飲みに行きたいな。雪ももう二十歳過ぎたし、アルコールOKだべな。高校卒業したばっかの気がするけどな」
「私を子供扱いしないでよ。もういい大人だべさ」
「ごめんごめん。早く退院できるといいな」
そうやってLINE交わして眠りについた。
あれから1ヶ月ほど経ち、腫瘍がかなり小さくなって一時帰宅の許可が出た。
「雪、明日から三日間一時帰宅の許可出た。午前中に迎えに来てくれんか?」
「ほんと?やったー。あんま遠くはいけないけど、そうちゃんの家でちょっとしたお祝いするの?」
「俺は雪とゆっくり過ごせればそれでいいわ」
「そうちゃんの両親には伝えた?」
「ああ、後で伝えとくわ」
電話切った。
帰宅の日、雪が上川町から車を運転して迎えに来た。
そうちゃんに包みを渡す。
「そうちゃん、これ。気に入ってくれたらいいんだけど」
「なんだべ?」
包みを開けると、ウィッグと帽子が入っていた。
「抗がん剤で辛いと思うし、これから投与続けたら髪の毛抜けるって聞いたから、これかぶってほしいんだ」
「雪、ありがとうな。大事に使うわ。これで髪抜けても気軽に外出できる」
「そうちゃんに会えてよかった…会いたかった…」
「俺も雪に会いたかった…やっと会えた。心配かけてすまねぇな」
「めっちゃ心配したんだからな。早く良くならんと応援やめるぞ」
「そりゃ困るな(笑)。じゃ、帰ろっか」
「うん。そうちゃんの家に向かってしゅっぱーつ」
「頼んだわ」
1時間ほどで宗一の実家に着いた。
「おお、層一帰ってきたか」
「ただいま。なんか懐かしい感じがするなぁ」
「お帰り、層一。一時帰宅はいつまで家にいられるん?」
「明後日までだわ。明後日の昼過ぎには病院戻らなきゃいけねぇ」
「そうか。じゃあ明日はゆっくりできるな?」
「うん。家でのんびり過ごすわ」
その時、車を停めてた雪が家に入ってきた。
「ただいま帰りました」
「雪さん、お疲れ様。一息つこう」
「はい。そうちゃん帰ってきたときに皆で食べようと思って、マドレーヌ買ってきました」
「雪ありがとう。この店のマドレーヌうめぇんだわ」
「おーい、コーヒー淹れたぞ」
「お父さん、ありがとうございます。じゃ、いただきます」
そうして久々に層一が帰ってきて、上川家は賑やかになった。