帰国
層一は、日本チームが手配してくれた羽田行きの航空券を手に、朝一番でストックホルムの空港へ向かった。街にはまだ冬の冷気が残り、朝日が凍てつくアスファルトに静かに反射している。タクシーを降りた層一は、深呼吸を一つして、スマートフォンを取り出し、日本代表の深井留美子総監督に連絡を入れた。
「……層一? 今、ストックホルムの空港にいるの?」
「はい。無事に到着しました」
受話器越しの声に、わずかな安堵と、強く押し殺した不安が滲んでいた。
「よかった……本当に、よかった。羽田から旭川までの航空券はちゃんと持ってるわよね? 乗り継ぎのとき、また連絡してちょうだい。心配で……」
「大丈夫です、ちゃんと持ってます。羽田に着いたらまたご連絡します」
「ええ……ありがとう。でもね、層一……今はもう、あなたの体が何より大事なの。オリンピックも大切だけれど、あなたが生きていてくれなきゃ何にもならないのよ」
「……はい」
電話の向こう、深井は静かに息を整えた。
「どうか、無事に戻ってきて。旭川の病院に入院して、落ち着いたら、ご両親と一緒にこれからのことを話し合いましょう。私もできる限り支えるから」
「ありがとうございます」
「……それから、絶対に病魔に負けないって、約束してちょうだい。あなたの努力が、夢が、未来が……こんなことで終わるなんて、私は絶対に許せない」
「……ありがとうございます。絶対に、負けません」
そうやり取りを終えると、層一はふっと空を見上げ、飛行機へと乗り込んだ。
ストックホルムの空は晴れ渡り、滑走路にはまだ雪がところどころ残っていた。飛行機は静かに離陸し、北欧の冬景色を背に日本へと向かう。
機長のアナウンスが流れ、続いてCAからの案内が終わると、機内には静かな時間が流れ始めた。層一は窓の外に見える雪を頂いた山々をぼんやりと眺めながら、頭の中で様々な想いが交錯していた。
(雪のナレーション)
──このとき、そうちゃんの胸の中には、どれだけの思いが渦巻いてたんだべか。
スキーのこと、うちらの約束のこと、それから家族のこと……。
「もし病気じゃなかったら」って、きっと何度も考えてたんだろうな。
でも、そうちゃんは前を向いて、ちゃんと戦う決意をしてたんだわ……
──あの人らしいよね、本当に。
約14時間のフライトを経て、羽田空港に到着。乗り継ぎのための搭乗口で、再び深井監督に電話を入れた。
「監督、今羽田に着きました。これから国内線の搭乗口へ向かいます」
「そう……本当にお疲れさま。遠征の疲れもあるだろうに、よく頑張ったわね。旭川に着いたら、すぐにスタッフが病院に案内してくれるから、そこでゆっくり治療に専念して」
「ありがとうございます。ご心配かけて……すみません」
「いいの。謝らなくていいから。あなたが元気でいてくれるだけで、どれだけ周りの人が救われるか……私もその一人よ」
「……はい」
「無理しないでね、層一。もう、強がらなくていいのよ」
「……ありがとうございます。これから、ちゃんと向き合います」
「ええ……しっかりね」
旭川空港に着いた層一を迎えたのは、両親と祖父母、そして雪だった。
「そうちゃん! おかえりぃ。なが旅、おつかれさん」
「……ただいま。迎えに来てくれて、ありがと」
「体、だいじょうぶかい?」
「うーん……頭痛はずっと続いでるし、雪の顔もな、二重に見えたりすんだわ」
「そったらか……でも、だいじょぶだって。病院でちゃんと手術してもらったら、きっと良ぐなるから! そったらに頑張ってたそうちゃんが、病気になんて負げるわげないべさ」
「んだな。ありがとう、雪。おれ、ぜってぇに脳腫瘍と戦って、勝ってくるから」
「そうちゃん、ほんとにおつかれさん。転戦ずっと続いでたんだし、今は神様が『ちょっと休め』って言ってくれてるんだべさ。オリンピック目指すんだったら、今こそ体、ちゃんと治さなきゃなんないっしょ」
「んだんだ。ここでへこむわげにはいがねぇからな」
「そうそう、その気合い、大事だべさ!」
「ほいじゃ、そろそろ行ぐわ。スタッフが病院で待ってるって連絡あったし、旭川中央病院に入院すんの決まってるから」
「うん。そうちゃん、頑張れよ」
層一は親指を立て、笑顔で家族と雪に応え、車に乗り込んだ。
空港から病院までは約30分。受付で名前を告げると、脳外科に案内された。ストックホルムで撮影された各種画像データ、血液検査の結果と照らし合わせながら医師が診断を下した。
それは、原発性の悪性脳腫瘍。しかも進行が速く、脳内圧が上がっていた。手術による組織診断が必要とされ、即日入院となった。
手術は3月8日、小雪の舞う寒い朝に決まった。術前説明のあと、病室に戻った層一は、窓の外を見やった。
高架線路の上を、白く染まった特急「大雪」が静かに滑るように発車していく。行き先は網走。途中、雪が住む上川町にも停まる。
(雪のナレーション)
──あのとき、そうちゃんは何を思ってたんだべ。
遠ざかる列車を見ながら、あたしの顔……浮かべてくれてたのかな。
オリンピックだの夢だの、全部がいったん遠くに見えてしまう病気だったけど……
それでもそうちゃんは、前を向いてた。
「ぜってぇ治す」って……あたし、知ってた。
だって、そうちゃんは……そうちゃんだもん。
だが、層一の患った脳腫瘍が、外科手術では取り切れない場所にあると判明するのは、2週間後のことだった――。